2010年1月11日月曜日
人間市場 馬と鹿市篇
しかし猫死だとか、鳥死だとか、魚死だとかは聞いた事がない。
しいて挙げると豚死という言葉がある。犬死は美学が見えるが豚死は馬鹿に見える。この馬鹿にしているという言葉も、何故馬と鹿を選んだのか説明してくれた先生や博学の徒もいない。馬の後を鹿が追いかけたという説が幅を効かせている。
拙者、殿への忠心ため腹を切る。待て、早まるな。今お主が腹を切れば相手の思うつぼ、犬死に。これが、待て、早まるな。今腹を切ればお主は豚死だ、となると甚だ緊張感に欠ける。犬は忠心の証しであったのだろう。
犬千代はいても、猫千代、豚千代、鳥千代はいない。猫といえば鍋島藩の猫騒動、猫屋敷、化け猫、猫なで声。不義、不忠、裏切りの証しである。あいつは猫みたいに良い奴だとは言わない。
愛犬家というと海辺を散歩する姿は何かいい感じに見えるが、愛猫家というと少し恐い。犬は化けて出ないが猫は化けて出る。よく犬は人になつき、猫は家になつくという。人間を単純に犬科か猫科で分類すると付き合い方も上手くいく。
ああこの人は猫なで声だな、腹の中できっと舌をベロッと出してるなと判る。犬科の人は正義感が強いが、敵に吠えるその口で味方にも噛みつき困らせるのがいる。忠犬でも悪い例えで言われる事がある。曰く、あいつはまるであの人の飼い犬だ。お手もするし何でも尻尾を振って付いて行く。やだねぇああいうの、ああまでして出世したいかね。こんな風である。逆もある。あいつは偉いね、落ちぶれたけど最後まで恩人に付いて行って自分の人生を犠牲にした、忠犬物語だなとかである。一度自分の回りの人を犬科か猫科に分類してみるといいかもしれない。いや、下らんことかもしれない。
さて、馬鹿は何故馬と鹿か。いずれも悠々たる生き物である。名馬の誉れは数多い、馬は武士の魂であった。鹿といえば優美この上なく都には欠かせぬ生き物である。その角は気高く、誇りに満ちている。馬が武の象徴なら、鹿は雅の象徴である。白馬、白鹿、見事である。それが馬鹿と書かれると途端に切なくも悲しく、淋しいものになってしまう。それに怒ると馬鹿野郎である。こうなるともう、武の象徴、雅の象徴でもない。いつ、いかなる時にいかなる理由で馬鹿という言葉が生まれたか歴史の大きな謎である。博学の友に聞く事としてここは終わる。
あっ、猫が又魚を持って行った。
「コラァー」
あっ、犬が買ったばかりのソファーに又穴を開けた。
「馬鹿め、何してんだ。あ〜あ」
「猫だって犬だっってストレス溜まってんのよ、しょうがないじゃない、絶対ぶったりしないでよ」
愚妻が言った。
「猫は恐いわよ、ず〜っと恨まれるからね。犬だって昔は狼だったんだからガバッと噛むわよ」
お〜よしよし、猫なで声を出し、お〜よしよし、猫を手なづけるのであった。猫は転勤になった義姉の家に仮住まいしている時、義姉が帰ってくるまでお願いねと置いていっていたのだ。お互いに腹の擦り合いが長く続いた。馬鹿という生き物にはまだ会った事はない。何処のペットショップにも売っていない。何か一番仲良くなれそうな気がする。
2010年1月10日日曜日
人間市場 天才市篇
100mを9秒台で走る。100mを46秒台で泳ぐ。鉄の球を90m以上飛ばす。
一本の棒で5m以上もの高さを超える。走る、泳ぐ、投げる、飛ぶ。
より高く、より速く、より遠く。オリンピックの選手は皆凄い、超人である。
プロ野球、プロテニス、プロレス、プロゴルフ、プロバスケット、プロフットボール、プロサッカー、プロは皆天才である。
しかし恐縮ながら、この人達は人生の相手にして恐いかというと首を傾げたくなる。叱られるのを承知で言えば、一歩間違うと馬鹿みたいなのである。
例えばサッカー馬鹿、野球馬鹿、ゴルフ馬鹿、テニス馬鹿、格闘技馬鹿というように、とめどなく馬鹿がついて回る。お前それしか出来ないのかとか、お前他に話題はないのかと馬鹿にされる。その道にのめり込んだ為に、他の道を知らない。その道しか知らない為に人生の迷子になってしまう。
故に、まさかあのスポーツマンがという人ほど間違いを犯す(Tウッズもそうでした)。過ぎたるは及ばざる如しである。何も道を極めたるを侮辱する気は更々しない。見上げてごらん夜の星をである。私が声を大にして言いたいのは、色んな人と出会い色んな遊びをしなさい(手錠をかけられる遊びではなく)という事である。
世にも恐い人がいる、底光する様な人がいる。総じて、目立たない、どこにいるか判らない、何を考えているのか判らない、吹けば飛ぶ様な感じである。昔から「あの馬鹿が」等と言われたりする。どっこい、こういう人が一番手強い。凄い、えらい、恐い。
プロスポーツの人の様に、凄い事が凄い数字とか記録で判れば、凄いですねと言えるけど、ものすごい人は判断不能なんです。
記録では表されないんです。
吹けば飛ぶ様な将棋の駒の様な人、部屋の片隅で黙々と答えのない答えを探している人、公園なんかでボーッと空を見ている人、湖面に向かって石ころを投げ続けている人、会いたいですね。
オーラを頂きたいです。皆さん、皆さんが小馬鹿にしている人の中にいるんですよ。凄い人、恐い人、天才が。あのアホがと思っている人、是非ご紹介下さい。
2010年1月9日土曜日
人間市場 凄い人市篇
ここに紹介する人は、ウルトラ級に凄い健筆家である。大江戸八百八丁に生きる人々の世界を題材に、もの凄いピッチで本を出版し続ける。
かつては広告界の大巨匠であった人である、ソニーが初めてトリントロンカラーを世に出した時、「僕タコの赤ちゃん、今生まれたばかり」のコマーシャルで国内外を問わず世界中の賞を総ナメした。
プロデューサー、コピーライター、クリエイティブディレクター、作詞家。
まだ新人だった真野響子さんをカティサークのコマーシャルに起用、わずか3000ケースだったカティーサークを一気に30数万ケースにまでした。記憶が正しければ、一位ホワイトホース、二位ブラック&ホワイト、三位J&B(?)。どん尻だったカティーサーク36万ケースは一気に二位になった。
が、巨匠はある日全ての栄光を捨てて一からスタートした。小説家へ転身したのである。
名は、望田市郎から本庄慧一郎へ変わった。
鮮やかな行動であった。全てを捨てて新たにデビューする。言うが容易いがこれは大変な事なのです。生死をさまよった大病を克服し、鮮やかな転身をした。愛妻が巨匠を支えたのだ。御年○×歳、数字は伏せる。ぜひアクセスして欲しい。人生のギアチェンジに年齢は関係ない事が判るはずです。時代小説、官能小説、歴史小説、ジャンルはデパートの食堂の様になんでもござれ。次から次へ筆は走りまくる。
私の大尊敬する人、見本とすべきご夫婦である。石神井公園辺りで刀は差していないが、万年筆を胸に忍ばせ、短髪、少々丸めの体、鋭い目、身長160センチメートル位の柔らかな殺気を放つ人がいたら、その隣にしっかりと寄り添う品格あるご婦人がいたら、本庄慧一郎さんだ。男の人なら切られない様、女の人なら一度も味わった事のない官能の世界に呼んでもらって下さい。
あいさつはただ一つ「愛読者です」この一言で、鋭い目はウサギの様に優しくなり、家にいらっしゃい、コーヒーか紅茶か緑茶でも、となるはずです。ケーキとか和菓子なんか出るかもしれません。スコッチが一杯出るとしたら勿論かティーサークのはずです。
追記、ある倦怠期を迎えていた中年夫婦が一冊の本を代わる代わる読んだ。その夜夫婦は青春時代の様に激しく求め合った。疲れていた夫婦は疲れを知らぬ夫婦となり、口論する事も亡くなったという。本庄慧一郎の官能小説のとりこ、エロスのとりこになってしまっていたのだ。
ハーレクインロマンを読んでいたマンネリ夫婦はそれを全て茶袋に入れ、ガムテープを貼り粗大ゴミの日に出した。
2010年1月8日金曜日
人間市場 車内市篇
少し小太りの運転手さんだった。深夜、東京から家まで速ければ一時間程である。
「別に、どうして」
「たいがいの人は暗い中で小さな文字を読んでると、気持ち悪くなるっていいます」
「あ、そう、こうやって車の中で読むのは昔からの習慣でね、また楽しみなんだよ」
「運転手さん、もしかして青森の人」
「判ります。いや、つい先日青森にあるお城に行ったんですよ」
「あ、弘前城」
「そう、その時立ち寄った弘前城の側のおそば屋さんの女将さんと同じ訛りだったので」
「あのそば屋はちょっと高いでしょ」
「まぁ場所がいいし、中々風情があったよ。弘前城は綺麗だね。お城も綺麗だけど手入れが抜群だね。日本一じゃないかな。どの城も行ってみると観光客のゴミだらけだもんね。弘前城はゴミひとつ落ちてない感じだったなぁ」
「みんな一生懸命城を守っているからね。ねぷたと同じ、青森の二つの命だね」
「そうかもしれないね。春、桜の季節にもう一度行って絵葉書のような風景を見てみたいよ」
「春は綺麗だよ」
「そうだろうね。運転手さん何で東京に出てきたの?青森の方がいいじゃない。東京はよくないよ、何もかも、今読んでいる記事にも信じられない事件が沢山載っているよ」
「幾つに見える」
「同じ位ですかね」
「まあそんなところだよ」
「体の隅から隅まで、心の端から端まですっかり汚れちまったよ。何のお仕事です?こんな深夜に遠くまで。有り難いことですが」
「まあ、ヤクザな仕事ですよ」
車は戸塚を過ぎ、家まで後二十分程である。渋滞もなくスムーズだった。
車はもう十分ほどのところまで来た。車内灯を消した。
「あ、運転手さん、これ沖縄の焼酎友達から貰ったんだけどプレゼントするよ、娘さんきっと見つかるから、連絡だけは取れるようにしておいた方がいいよ。親子の情は切っても切れないから。お酒だから、めっからない様にしなよ」
2010年1月7日木曜日
人間市場 先輩市篇
私に大好きな先輩がいました。今は秋田に帰って余生を送っています。この人が酒を飲むと一大事、二大事、特大事となります。デザインの天才と酒癖の悪い天才が同居しているのです。何回も警察にもらい下げに行きました。
一、 無銭飲食
一、 不法侵入
一、 下着ドロ
一、 暴力行為
一、 公務執行妨害
つまりは金が無いのに飲んで人の家の庭に入り、そこにかかっていた洗濯物をポケットに入れて出てきた家の人に手を出し、駆け付けた警察官を殴り付ける。それでご留置となる訳です。
次の日は全く青菜に塩、何にもオボエテネエーンダー、イヤ~マイッタマイッタなんて言うのです。でも天才的に器用な人でした。
一度電話が入り、ちょっと来てケロ、どこにいるの?築地の「江戸銀」っていう寿司屋知ってる?ちょっと腹減ってカウンターで寿司食ったらえらい高いんだ。金ねえんだ来てけれ。で「江戸銀」へ。一番奥のカウンターという事は一番いいネタ一番高いとこ、本人はケロッと側の小さな川の流れに泳ぐ金魚なんか見ている。
マイッタマイッタ、東京の寿司はなんて高いの。ウニ四貫、イクラ二貫、トロ二貫、赤身二貫等々、あろう事か伊勢海老の味噌汁も。もう飲んで食べて大ゴキゲン。スマン、スマン、ウマカッタ!幾ら持ってると聞くと小さな財布に四つ折にした千円札が二枚だけ。
ここは高い店なの、この場所は特に高いの、知らねえ~もん、スマンスマンいつもスマン、さっ帰ろうと連れてお支払い。な、なんと2万3200円、これだもんね、さあ帰ろうとお店を出たのが午後一時四十分位。先輩ヨレヨレ。この人には二冊も三冊も小説が書ける位の尻拭いをし続けたのです。いい人なんです、大好きなんです。
ある日電話が入りました。ちょっとある所に来てというかなりヤバイ感じ。千鳥ヶ淵側のホテルのロビー、恐いお兄さんが二人先輩をサンドイッチにしています。俗にいう切り取り屋。銀座のクラブのつけの取立てです。
銀座でも有名でとんでもなく高いクラブ。帰りは大和のハイヤー呼び放題。
溜まったツケが約300万、さあどうするとなったのです。とてもそんな金はない。
そこで私はある提案をお兄さんにしました。毎晩先輩をお店に出します、そして先輩の友人、知人に私がこの状況を詳しく説明してお店に飲みに来る様にします。三ヶ月位で必ずツメます(払う)だから今日はこれまでにしてねと、本当かというから名刺を出し何かあったらここへいつでもと。
次の日から夜になると先輩は二軒掛け持ち、私といえばありとあらゆるルートにハイ出し(出て来い)をかけました。
お店は大繁盛、ボトルキープは来ない内から割当を決めて入れておく。(先輩はそれほど人気者だったのです)オーナービックリ、マスタービックリ、兄さんビックリ、ホステスビックリ大会です。なんと一ヶ月と少しで完済です。
実はこれからの方が大変な事になたのです。ず~っと、ず~っと、ず~っと尻拭いをし続けたのです。でも大好きな人なのです。
2010年1月6日水曜日
人間市場 元気市篇
杉浦嘉昌さん七十歳。この人には心から敬意を表す。
小さい、細い、でも凄い。右手がなんとも細い。生まれついての体であるという。なんでもポリオの影響であったと、底抜けに明るく、前向きの人。中央大学法学部出身、ご当地のマラソン大会の時は目の不自由な人と紐で繋がり併走する。杉浦さんはいつも首から紐を輪にしているその中に右手を入れている。
その杉浦さんに江ノ島バナナボーイズというチームの選手たちを紹介してもらった。
この人たちは、みなさん体がご不自由な人たち。車椅子を自分で操作して体育館に集ってくる。ローリングバレーというスポーツをするためだ。下半身が不自由な為、みんな床に座り、転がる、体中の使える所を思い切り使う。手足の関節にはサポーター、ネットの上にはボールが上げれない為、ネットの下をボールシュートするのだ。
四、五人ずつが左、右に分かれて試合をする。全国大会を目指し練習する。コーチは健常者の若者二人。声にならない声を出し、叫びにならない叫びを出す。
杉浦さんの解説によると、ああやって怒っているのは、もっと自分の使える所は使えと言っているのですよ。
写真を撮っていいですかねと言うと、全然OKですよと言った。みんなたっぷりと汗をかいている。若者から中年、老人まで。杉浦さんは言う、この人たちは決して自分たちを見て同情をしなくて。逆に自分たちを見て元気になって欲しいと言ってるんです。練習が終わったらみんなでビールを飲むんですよ。ハンデがあるからって家の中に引き込んでいない様に、そう言いました。
五体満足の私は元気を沢山もらいました。反省もさせてもらいました。みんなちゃんと仕事をしているとの事。元気を出せ五体満足の人よ。
2010年1月5日火曜日
人間市場 笑い顔市篇
日本画壇の最高峰であった、小磯良平。
現在の東京芸術大学在学中23歳の時、日展の特選に入選、開校以来の秀才と言われた。
晩年ある事業家に肖像画を頼まれた。その出来栄えを見て実業家は気に入らなかったと言う。それから数年後その実業家が死んだ。
棺に入ったその顔を見て人々は息をのんだと言う。小磯良平が描いた肖像画にそっくりであったのだ。
小磯良平は好んで人の顔を描いた。その対象である人間の深部をその先の顔を見ていたのだろう、恐るべしである。
先日亡くなった関西大学教授の木村洋二(61歳)は笑い顔を計る発明家であった。30歳の時、山で採ったキノコを食べてその毒にあたった。笑いキノコであった。三時間笑い転げたという。笑いが納まった時、不思議なすがすがしさを感じたと共に何かを悟ったのだ。笑いはコンピューターの再起動みたいなもの。フリーズした時、つまり苦しい時、悲しい時も笑い飛ばせば新しい世界が現れる、と。以後「人間にとっての笑い」が学問上のライフワークとなる。
そして、「笑い測定器」なる物を開発する。計測単位を「AH・アッハ」と名付けた。最高の爆笑は一秒当たり5アッハが目安という。愛想笑いなどには反応しない。
アッハが世界を救うよと、アッハハハハとアッハ5で笑っていたとも伝えられる。この頃、この国の民は爆笑しない。笑わない民となってしまった。
ある友人の友人の話である。
その人は生まれながらの笑い顔であった。眉が八の字、頬は緩み口はいつも開いていた(鼻が悪かった)。眼がクリクリと大きくビックリした時の目であり、目尻が下がっていた。人から見ると笑って見えるのである。入園式の時、笑ってはいけませんと叱られ、入学式の時笑ってるなと叱られ、中学生の時授業中に笑うんじゃないと叱られ、高校生の時に笑いながら走るなと叱られ、大学生の時教授から笑ってる場合かと叱られ、会社の面接の時何笑ってるんだと怒鳴られた。父親が死んだ時お通夜の席で笑っている気が知れないと親戚の人からビールをかけられた。笑っている場合じゃないと思っても顔は笑っているのである。笑っている場合じゃないのにマッハ5クラスなのです。
でもなと、友人に言いました。怒っている顔よりかいいんではないかと。一年中怒った顔はしんどいぜ、俺知ってるんだそういう顔の人。そんな話をしていたら友人の友人がお店に入って来ました。お待たせお待たせみたいな感じではなく、静かに紳士然としてバリッとスーツを着こなして、でも本当に顔が笑っていました。いい笑顔でした。でも相談された話の内容はすこぶる深刻、すこぶるデンジャラス、すこぶる打つ手無し。でも笑ってました。
小磯良平の画集を久々に見ていたら思い出したのです。友人の友人はきっと、どんな苦境の中にいても笑ってくれている筈です。
※写真は読売新聞より。
2009年12月29日火曜日
人間市場 取り巻き市篇
のりがいいんです。
ここに一つのりの悪い巻きがあります。
取り巻きです。これに巻き付かれるとたいがいの金持ち有名人もスッテンテンに巻かれてしまいます。一度見栄を張ったら終わるまで張り続けなければなりません。取り巻きを作る人間は孤独に耐えられない人、寂しがり屋、ずっとビンボーだった人、コンプレックスがある人、悲しい人、切ない人、酒がないと生きられない人。一人程楽しい事はない。孤独程心が落ち着く事はない。
取り巻きは蛭の様な者、美味しい血がある限り吸い尽くす。一匹二匹取り巻きは増殖する。
教授の取り巻き、親分の取り巻き、社長の取り巻き、スターの取り巻き、先生の取り巻き、ネジ巻きで巻いた猿がシンバルを叩く様にバンバンヨイショする。ゴルフへ行って、百円のティーも自分の金を使わない者。缶ビール一缶、清酒一瓶、イカの薫製一袋だって自分の金を使わない者。特技ヨイショ、趣味ヨイショ、仕事ヨイショ、そういう者がこの社会意外にも出世している。
血を吸い尽くされた人間は破滅するのみ。
過日、ある有名人であった人を訪ねた。かつて豪邸に住み、三台の車のうち一台はマセラッティ、一台はベントレー、一台はローバー。油壺にはヨットとクルーザー、三人の子は外国へ留学。海の見える家の一階からはモーターボートが出て行く。365日、取り巻きに囲まれていた。誰か金の使い方を教えてよ、なんて言っていた。金が金を生んでいた。
職業は言えない、直ぐ判ってしまうから。刑務所の塀の上を歩いている様な人生。
朝から晩まで取り巻きに囲まれていた。金、女、SEX、薬が取り巻いて、会社はあえなく倒産。
取り巻きは誰も来ない。
正しくは取り巻けない、医療刑務所の中だから。
シャブ中の治療中、太い鉄格子の中、部屋は狭い。ここに来るまで、主食コカイン、デザートコカインの生活だった銀座から消えたのは四年前だ。
年老いた母親がパジャマやガウンやスエットを丁寧に片付けている。老母は言う。取り巻きが重かったんだよ。あの子は気が弱くて、寂しがりやで、小児喘息だったんだ。
体だって小さくて細くて、運動だって何をやらせても苦手だった。ただ数学だけは飛び抜けてよく出来た。結局はそれが仇になったんだ。株や相場は恐く取り巻きはもっと恐い、そう思った。最近は幻覚が酷い様でしてね、いずれは狂うでしょう、馬鹿な子です。医療刑務所の少し斜め前のお店で渋茶を飲みながら老母と話した。
取り巻きだった人たちは一人もいない。あれだけたかりにたかったのに、血の一滴も出なくなった相手にはもう取り巻く価値がないのだろう。万が一病が治れば法を犯した事による刑罰が待っている。飲めや、歌えや、どんちゃん騒ぎはもう出来ない。
忘年会の季節となった。夜の街はそれぞれフトコロと相談して盛り上げてはいるが、あの頃の勢いはない。ただ取り巻きたちは次の美味しい血の味を求めて、あんたが社長、あんたが大将、あんたがあんたが、とヨイショ大会をしている。
たまたま一人バーのカウンターで飲んでいたら、医療刑務所で廃人へ向かっている男に取り巻いていた連中が入って来た。ボックスに座って直ぐ私に気がついた。
あっ、どうもどうも、お久しぶり、いや〜すごいですね、すごいですねと寄って来る。
何も凄くはねぇや、阿呆俺には寄ってくるなと思った。見てみるとある会社の二代目社長がバリバリに取り巻かれているではないか。スポン、スポンとシャンパンが空いた。今どき流行らねえ奴等だ。
2009年12月28日月曜日
人間市場 悪タレ市篇
長崎に行った時その店ですいません、チャランポラン下さいと言ったら恐い顔をされた。正しくはチャンポンですね。
名古屋に行った時ヒマツブシを下さいとオーダーしたら凄い顔された。次の日他の店でミソッカツを下さいと注文したらもっと凄い顔をされた。正しくは、ヒツマブシ、ミソカツですね。
ジョークのつもりだったのです。ほんの冗談だったのです。私の悪い所なんです、つい思った事を口に出してしまうのです。(反省してますが、もっと言えという人もいます)私が聞いた中で飛び切りのジョークをご紹介します。
ある会社に新人が入って来たそうです。すこぶる出っ歯で歯茎が出ていたそうです。新人が出社して一週間目、上司が出張から帰って来たのです。新人を見るや、オイお前凄い歯茎だな、日に焼けるから気を付けろ、と言ったそうです。これはもうジョークを飛び越えた人種問題ですよね。
その後、新人と上司がどうなったかはご想像にお任せします。毒舌と悪タレと口が悪いの境界線は何処ら辺なのでしょうか。人生長くやっている割にはとんと疎いのです。
オバサンが割り込んで来たからオバサンちゃんと並びなと言ったら、失礼ねと言われました。酷く太った人が避けないからブーデー、少し避けろと言ったら目を吊り上げました。
あんまり美人じゃない女性が三人車内でギャーギャー喋ってうるさいから、不美人たち静かにしなさいと言ったら、お前こそ顔を見ろなんて怒鳴られました。
その三人に対してその後私が何て言ったかはご想像にお任せします。
どうも私は社会秩序に欠けているのでしょうか。反省している様でしていません。
写実的なんです、見たまま感じたままを言ってしまうのです。
先日私がいつものコンビニに夕刊紙を買いに行きました。そこの路地にひっそりと一台のパトカーが隠れていました、ネズミ捕りです。だから三人のお巡りさんに向かって、そんな処でネズミ捕りしてるんじゃないのと言ったら、一人のお巡りさんは思わずピストルの部分に手を付けました(弾は入っていません)その後どうなったかはご想像にお任せします。
駅で違法駐輪を見配っている目つきの悪いおじさんがいます。一度、オイ元お巡りだろうと声をかけたら思わずそうだとおじさんは答えました。その後どうなったかはご想像にお任せします。
一度映画館で恐いヤクザ風の人がいい女風と私の前の席に座りました。ペチャクチャ食べながらうるさく喋るので、後ろからそっとウルサイから静かにしてくれると耳元に言ったら、オウ判った判ったと言いました。映画は「ジョーズ」でした。ドヒャッとジョーズが大きな口を開けて初めて画面に飛び出たら、その男が腰を浮かしました、きっと優しい男だったのです。いい女風は目を両手で隠していました。明るくなってよく見たら大した事なかったのです。
.ある会社の社長に連れられて和食屋さんに行きました。ここの親爺はあの道場六三郎の兄弟分で同じ処で修行したんだ、何でも旨いテレビで道場さんも来ていたんだ。見た?見てません。何でも注文してというから、茄子の煮物と、肉じゃが、戻り鰹の刺身と鮪のヌタ、小ぶりのカレイの煮つけを順次頼みました。まずビール(もちろんキリン)菊正宗を常温で一合、芋焼酎のロックと続いて行きました。全て食べ終わってさあクラブへ行こうかとなりました。主人がどうもと挨拶へ、今後もよろしくと名刺を出して来ました。
連れの人が旨かっただろうと言うから、不味かったと正直に答えました。他のお客も皆一瞬フリーズ状態、連れの人も固まってしまいました。駄目だよ、全然と言い出しました。その後何を言ったかはご想像にお任せします。
二度と行ってません未だやっています。勘定は私がキチンと払いました。今年又、何を言うかは判りません。でも中には私が何を言うのか息を潜めて期待を込めて待っている人もいるのです。
これはジョークでしょうか、親友の葬儀がありました。
高名なお寺、若い二人の坊さんがお経をあげています。見ると坊主が坊主でない(その宗教はいいそうです)髪が長い、戒名を書いた書体が酷い下手くそ、お経も下手くそで読経が終わった坊主が煙草コーナーでプカプカしてたので言いました。しっかり修行しろ、髪の毛切って坊主頭にするぞと、お寺は中野の宝仙寺です。
その後どうなったかはいつかの機会に。
2009年12月27日日曜日
人間市場 ヘンダ市篇
「パンクブーブー」ツッコミ黒瀬純(34)ボケ佐藤哲夫(33)スピード感ある話芸、いいネタ話は将来有望、賞金一千万は見た事もないので判りません。何しろ毎月13万位でカツカツの生活をしていたのでという。
人を何とか笑わせたいと頑張って来て、遂に笑っている場合じゃない事となりました。
4329組からのグランプリ、審査員全員から支持を取りました。過去8年で準優勝5回でした。
ちなみに第二位が「笑い飯」、第三位が「NON STYLE」でした。地方回りで力を付けていたのです。いいですねこういう話、若者二人がメジャーになる日を目指して苦節を重ねたのです。
小島よしおのパンツ姿も見なくなりました。ゲッツ坂野のゲッツも見なくなりました。グーグーと指を出していたのは誰だっけ、革のベストと短パンの大男どうしたんでしょう。悲しいですね、それを考えると夜も眠れません。
今から十年前、私の主催であるパーティを行いました。今は無くなった銀座東急ホテルです。
400人位招待しました。皮切りは「松鶴家千とせ」師匠に最後のシメは「南州太郎」師匠にお願いしました。イエ~イ、ワカルカナ、ワカンネエダロウナで始まって、オジャマシマスで終わらせたかったのです。
和田弘とマヒナスターズを計画したのですが暇がないとやんわり断られました。稼ぎ時のシーズンだったのです。
一度は飛ぶ鳥を見ただけで落とす程大人気、眠る暇無く立って眠っていたという千とせ師匠、出演をお願いに高島平(?)の団地に行くとあの独特のアフロヘアーもさっぱりと、イエーイ何の事なんて調子で、昔俺がスターだった頃あいつはヘターでただイターだけだった、ワカルカナァなんて感じで気持ちよくお受け下さいました。仕事あんましねえんだよ、芸人は芸者と同じ売れている内が花だもんねと。南州師匠は私でない人が交渉、喜んでオジャマしますと言ってくれたとか。
ある打ち上げをホテルオークラで、やはり私の主催でやりました。皮切りに誰か欲しいなと思い知人のマネージャーに相談しました。そこには当時小林旭とか天童よしみ等大物が所属していました。女性マネージャーがどんなタレントがいいんですかと聞きますから、ヘンなのがいいんだ、ヘンなのがと答えました。
いますよ一人、誰?山本ヘンダです。
山本リンダじゃないの?いえ山本ヘンダです、そっくりですよ、一発OKです。当日礼を尽くし着替えやメイクの為にスイートルームをホテルに用意させました(ただ同然で)。来ましたヘンダさん、全然ヘンでなくすこぶる美人。マネージャー、付き人(?)ヘアメイクの人たち。お腹空いたら何か食べていいよ、ルームサービスでと言って退室、そしてパーティー開始。
すっかり山本リンダに変身してました。ソックリです、ウララ、ウララウラウラデと熱唱数曲もう最高でした。
パーティーも無事終わり支払いの明細が来ました、何これと見るとルームサービスで食べてくれた事、まるで室内バイキング状態です。仕方なし、後悔無し、食べ残し有り。一発芸で一生食べて行く人尊敬します。苦節を重ねた若い芸人たち応援します。
私の人生も一発芸みたいなものですから、ただ食べていけるかどうかは判りません。大した芸を身につけませんでしたから。