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2014年2月25日火曜日

「一戸広臣さん」

一戸広臣さん





縄文人来たる。
二月二十一日(金)午後五時過ぎだった。

身長は180センチを超える。体重は85キロ位だろうか。
顔は見事な髭を誇っている。赤の薄手のコートの上にもう一枚ダークグレーのコートを着ていた。二枚のコートを脱ぐと、珍しい柄のジャケットを着ていた。

お洒落である。
何十何百の糸の柄がまるで畳の目の様に織られている。
その人の名は青森で活躍する「しきろ庵」の主である陶芸作家、「一戸広臣」さんだ。

珍しい柄の服は「裂織(さきおり)」であった。直ぐに調べてもらった。
木綿生地の古着を割いて横糸に織り込むリサイクル布地。先駆的な循環技術なのだ。
綿花の栽培が出来なかった北国では木綿は貴重品だった。
保湿性が高く着心地のよい木綿は憧れだった。
江戸時代になると余った古着や古布が売られる商売が始まった。
麻と木綿などの強い糸を縦糸に、古着を割いて紐状にした布を横糸代わりに使って織物にするのだ。

保湿性がよく、布地の目が詰まり丈夫で、風雨を防ぐ作業着としても適している。
バッグやタペストリー、帯などにも使われ人気を得ている、青森の織物と書いてあった。

一枚の上着には、一家の歴史が織られている。
おじいちゃんの使っていた物から、おばあちゃんの使っていた物、古くはひいじいちゃん、ひいばあちゃんの使っていた物から一本一本糸が選ばれ、抜き出され、組み合わされ、鮮やかに落ち着き、また複雑で繊細な柄を紡ぎ出す。

実にいい柄だ。
アイヌの織物もいいが、青森の裂織も日本の風土が生んだ逸品だ。
で、友人の縄文人は、縄文の文様を独特の手法で陶芸作品とする。
広大な青森の田畑の側に、ご夫婦の住居があり、窯と工房とショールームがある。
そして外には縄文時代の住居、竪穴住居がそっくりそのまま作られていて、そこで魚を焼き、奥さんがお料理を出してくれる。一戸さんがお酒をたっぷり持って来てくれる。

縄文時代は人と人が実に仲良くて、戦争なんてなかったんだよね、と一戸さんは言う。
縄文人たちが竪穴住居を作って定住をしたのは隣同士が争いをしなかったからなのだろう。縄文人は質素を旨として平和に生き続けた。

青森の裂織には大雪や猛吹雪、極寒から身を守るために、変色してしまった一枚の布切れも、先祖代々着古して来た衣服の一本一本の糸も決して粗雑に扱う事が許されなかった。一着の衣服に無数の色が点描の様に見える。

縄文時代の集落のリーダーの様な一戸広臣さんのガッシリした顔にある、二つのクリクリした目は実にやさしい目だ。争いをしていない人の目だ。
一戸さんは一週間奈良に行って来た帰りに寄ってくれた。
神社仏閣を回り、国宝の仏像や名も無き仏像を見て来たそうだ。
大好物の奈良漬けを頂き、更に写真葉書を二セット十六枚も頂いてしまった。

青森の大地の中にポツンとある工房にいると情報に飢えてしまうのだと言った。
うんざりする程の情報の中にいる私とは真逆なのだ。
生きている奈良の大仏さんの様な一戸広臣さんは現代人が失ってしまった大切なものを教えてくれる。

私の下手な絵と一戸さんの縄文焼きを是非一緒に展覧会にしませんかと言ったら、大きな体、大きな顔、大きな目を輝かせた。裂織のジャケットがユサユサと揺れた。
立派な髭が笑った。

家に帰り国宝法隆寺のハガキ入れを見ると、そこには「法隆寺の茶店に憩ひて」「柿食へば鐘がなる法隆寺 子規」と書いてあった。その夜の酒のおつまみが仏像たちと、絶品の奈良漬けであったのは言うまでもない。

ちなみに100万円位出すと何でも作れる広大な畑が買えるらしい。
竪穴住居の作り方は、一戸広臣さんご夫婦が教えてくれる筈だ。

ある調査によると、一家の主の収入(お金)が法定外あるいは予想外に増殖すると、一族の妬みを買い、夫婦愛に支障をきたし、親と子の関係にヒビが入り、兄弟関係は他人同様となり、仲よき友達は離れ始めるという。
逆に近づいて来るのはヨイショ人間と相場は決まっている。
無いより有る位が丁度いいなと思う人がいちばん幸せになる。


お金はあるのに心が満たされていないと思っている人は、是非青森の一戸広臣さんの処に行って、竪穴住居を経験するといい。
一匹の焼いた魚の旨い事、一杯の酒の旨い事といったらこの上なしだ。

2014年2月24日月曜日

「反省」




金メダルって何だろうか。
オリンピックを見る度思ってきた。

一番強い(?)一番速い(?)一番高い(?)一番遠い(?)一番失点が少ない(?)一番得点が多い(?)一番技術が凄い(?)一番正確(?)一番強靭(?)、うーん何もかもそのとおりだが、何もかも(?)(?)(?)だなと思う。

金メダルという競争のために余りに多くのものを失っているからだ。
栄光の影に泣いた者、栄光の影で消えた者、栄光の影で全てを奪われた者。

期待に応えられず、すみませんと涙を流す十七歳の少女を見て残酷だなと思った。
少女がジャンプするその体に重い雪の固まりの様な、国民の期待というか重圧がずっしり乗っていた。

金メダルを逸した少女にやさしい言葉を書き残した文章も、期待をかけすぎた反省の言葉も殆ど無きに等しい。今はその名すら口にしない。

愛する母親を失い、傷つき傷んだ心で鬱々とした日々を過ごした、二十三歳の女性スケーターに金メダルという強引な期待をかけた。
その結果ショートプログラム16位であった。
人々はその日、その失敗をあらん限りの言葉で攻め立てた。
そして、もうフリーは期待出来ないと。

次の日、失うものを無くしたと開き直った二十三歳のスケーターは、解き放たれた鳥の様に自由自在に氷の上を飛び自己最高点をあげた。こみ上げる涙と共に歯を食いしばった。口を真一文字にした顔には鬼気が迫っていた。

その日、その次の日、国民は手のひら返す。
そして今、金メダル以上の感動だ。
世界も泣いたと、あらん限りの称賛の言葉をこれでもかという程洪水させている

気がつけば私もその一員であった様で恥じ入る次第だ。
勝負は結果が全てというが本当にそうであろうか。
あーやっとこれで自由になれると思ったスケーターは次のオリンピックに向かう事になるのだろうか。ステキな男性と氷も溶ける様な熱い恋をして、これからひと儲けを企んでいる者共に別れを告げて欲しいと願う。

一人の金メダリストを生むためには邪悪な心を持つ人間が存在する。
オリンピックは人間という生き物がいかに素晴らしく、メダルの色というものがいかに残酷かを教えてくれる。

オリンピック中、何紙もの記事を読んだ。
ニュースで何人もの人間や、キャスターやスポーツ関係者のコメントを聞いた。
残念ながら一人も感動的、教訓的な言葉を残したものに出会えなかった。
誰も彼も、何処もかしこもワンパターンであった。
栄光の持つ残酷さ、非常な影について語る者はいなかった。

パラリンピックが始まる、ハンディキャップと戦う選手たちも、メダルの色をつける日が続く。スポーツを出来る様になったその姿はみんな金メダルなのだ。

二月二十四日午前十二時四十九分五十一秒、少し濃い目のスイスキーハイボールをグラスの中に作る。クールダウンだ。そして私なりの反省をする。

2014年2月21日金曜日

「デコポン」

イメージです


「戦争と平和」、軍隊と警察に厳重に守られた中で行われているロシアのソチ・オリンピック、これは一応平和の祭典といわれている。

その近くの国ウクライナの首都キエフではまるで戦争状態となっている。
現大統領がロシアの舎弟分になる方向を示したからだ。
反大統領派はEUを兄弟分にと思っていたから両者の対立となった。
ロシアにとってウクライナは重要な国なのだ。

狡賢い国の代表といっていい国がロシアだ。
日本には日露戦争で負けているので、ノモンハンでは徹底的に日本を打ち負かした。
太平洋戦争の最終場面で一気に参戦し、戦勝国の仲間入りをした。


米国とは表面上手を握っているが、永遠に相入れない両国である。
米国にとって、親露、親中に向かう日本政府はことごとく潰しきた。
右へ、右へ、右へと進む安倍晋三総理は米国にとって許しがたき存在となってきた。

驕る平家は久しからず、盛者必衰の理をあらわす。
欠けない満月はなく、桂馬は高転ぶ。
強大な権力がいとも簡単に滅びて行くのは、蟻の一穴からと歴史は教える。
靖国参拝、特定秘密保護法、慰安婦問題、尖閣問題、普天間問題、TPP交渉、国家権力の教育現場への介入、公共放送NHKの人事におけるお粗末な現状、首相補佐官たちの無知を極める発言の数々、恩師であり政治の師匠でもある小泉純一郎との決定的対立。
原発、復興問題。官高党低による不満のマグマ。

官房長官の仕事は今や毎日失言、放言、暴言、迷言の火消しである。
これほど火消しをする官房長官は珍しい。何もかもお友達人事のツケといえる。
株価だけで持っている支持率だから、官邸にあるスクリーンで株価に一喜一憂するという。それ故言葉だけは勇ましくならざるを得ない。
このまま後三年近く持つ事はあり得ない。

一国を授かる真のリーダーはどーんと構えていないと国が治まらない。
私が、私が、私がというたびに、人が、人が、人が離れていく。

「空樽の音は高い」という(私の事)。
戦争か平和かなどという言葉が気がつくと身近になってきた。
富国強兵などという死語が息を吹き返してきた。
愛国心という教育が押し付けられようとしてきた。

消費税を二年にわたってUPするという。
その先にある恐怖が人間を強気にしているにすぎない。
四月にオバマ大統領が来る時、日本国は完全に経済政策で屈服する。
今はみんなで頭を抱えて国民に対する言い訳を考えているのだろう。

米国の通商代表フロマンは名うてのタフネゴシエーター、日本代表たちとでは大人と子どもほどの差がある。病で体力を弱めている人間には余りに過酷な役といえるだろう。
やはりお友達人事で内閣法制局のトップに起用した人物は長期入院しているのだが、病院から引きずり出されるやもしれない。

官房長官菅義偉がプッツンした瞬間に安倍政権は音を立てて崩れて行く。
蟻の一穴どころではなく、そこいら中穴だらけとなった。

今週末は政治に少し目を向けてみよう。
大マスコミはすっかり翼賛体制に組み込まれてしまっている。
今や正しい情報は夕刊紙の日刊ゲンダイにしかない(?)。

ヒトゴトではない事がゴトゴトと、ファナティックなヒトたちによって起きている。
コラァー!オレに関係ない、ワタシに関係ない、なんてデコポンばかっかり食べてんじゃいの。安倍晋三さんは気さくでいい人なんだよ、取り巻きがイケナイんだよと知人は言う。頂き物の長崎産のデコポンは実にうまい!(敬称略)

2014年2月20日木曜日

「特攻服とトライアスロン」


山本良介選手



それでも僕は走り続ける。
濃紺のカッターシャツ、グレーのベスト、黒いウェリントン型の眼鏡、手入れの行き届いた長い髪、清々しい顔、穏やかな語り口。
ひと目見た人はきっとIT関係の若き経営者か、大学の新進教授みたいだと思うだろう。

山本良介(34)日本のトライアスロンの五輪代表選手だ。
といっても二月二十日(木)午前十二時過ぎに初めて知った名前だ。

私が長い間お世話になっている会社に一人の女性がいる。
ずっと仕事させて頂いていたのだが、その女性がトライアスロンをやっている事を最近知った(えーあの女性が、とそれを聞いた時絶句した)。
スリムな体は鍛え抜いた肉体だったのだ。どうりで会社まで自転車で通っている訳だ。
以前骨折したのもトライアスロンだったのだ。

トライアスロンは全く縁の遠いスポーツだった。
余りに過酷だから私には出来る訳がない。水泳1.5km、自転車40kmそしてマラソンを一気にやるのだから。テレビ東京で「will」という番組をやっていたのだ。
ソチ・オリンピック一色なので何か他の番組はないかとテレビ欄を見てトライアスロンの文字が目に入ったのだ。

山本良介選手は、京都の暴走族の総長であった。
幼い頃両親が離婚、母親一人に育てられた。子どもの頃水泳教室に通っていた。
が、中学・高校生となった頃から喧嘩に明け暮れ、やがて暴走族となり特攻服が制服となっていった。母親は警察に相談に行った。

何をしていいか分からなかった若者は暴走しながらも水泳をしに行っていた。
片親だからグレてしまったと思われるのが辛かったと母親は語るが、その顔は苦悩から開放されたアスリートの母親、五輪代表選手の母親の顔だった。暴走族をやめて母親へ恩返しをしたいと決意したのだろう、子どもの頃から敗けず嫌いだった性格に火が付いたのだ。

それからは厳しい、激しい、途方も無い練習の日が続く。
鍛え抜く体は一日休んだら肉体はヤワになってしまう。泳ぎ、走り、ペダルを漕ぐ。
一心不乱という言葉がピッタリの姿だ。トライアスロンは五輪のスポーツの中で一番過酷といっても過言ではないだろう。
そしてジュニア選手権優勝、五輪選考会優勝とその名を高めていった。

だがしかし世界の壁はとてつもなく高く厚い。超人的なアスリートが何十人もいる。
山本良介選手は挫折を繰り返しながら次の五輪を目指す。
トライアスロン普及の為に指導をする姿は心打たれる。

私も母に育てられた、片親と言われた。
横道に走って行ったが母の愛は私を正してくれた。十九歳で横道とオサラバした。
山本良介選手も同じ様であった。母親の愛ほど人生のコーチはいないと私は思う。


今、目の前にグレたり、ヨタったり、親不孝を重ねる若者がいたら決して諦めずに見守ってあげよう。何かのキッカケできっと正しい道を歩き出し、走り出す。

トライアスロン人口は35万人を超え、今大きなブームを呼んでいる。
ビジネスマンや若い経営者たちが増えているとか。一度会ってみたいアスリートだ。
母親への愛を固く誓った人間のオーラを浴びてみたい、何かきっと教えてくれる筈だ。
必ず会いに行く、そしてずっと応援する。
日々修行する若者ほど美しいものはないからだ。

























2014年2月19日水曜日

「一茶を目指す」


イメージです


この世でいちばん残酷な凶器とは何であろうか。
結論を急げばそれは「時間」だ。人間は生きている限り過去には帰れない。

黒々とした髪は灰色となり、白髪となる。
人によっては、日々毛は抜け落ちやがて無毛地帯となる。
若々しかった肉体は見るも無惨に変わり果てる。
二段、三段跳びで駆け上がった階段も一段一段注意深く上がる。
一撃で相手を倒したパンチは空を切り、しからば足蹴りをと足を出せば肉離れを起こすやもしれない。

チクショウこうなればと自慢の頭突きをと思えばいともたやすくかわされるだろう。
逃げる相手を追う走力も予想を超えて遅い筈だ。

時間という凶器は一日一日人間の誇りと、尊敬を切り刻み、人間の心の奥までその刃を好き勝手に突き立てる。

 ならばと思い私は、手の拳だけで人の命を奪える術を、正しくは人の命を守る体術を極めんとする。五本の指を自在に操り相手に対せる様に。
時間という凶器に勝った者は人類史上一人もいない。人は生きそして必ず死ぬ。
この絶対的掟からは逃げられない。出来る事をやる。
愛するものを守るために、日々出来る事をやるしかない。

感性の翼を閉じてはいけない。五感を鍛えれば頭の中まで凶器は及ばない筈だ。
そのためには過去を捨て、目の前の出来事に感性を働かそう。

画家の奥村土牛、片岡球子、小倉遊亀。
百歳に近づく程、殺気と情念と繊細を極めていた。

大雪の中にも春は来ている。梅の木にポツポツと花が咲き。
千両万両の赤い味を食べに緑色の小鳥たちが集まり、牡丹の木にはしたたかに花の蕾が育っている。森羅万象等しく時間という凶器と戦っているのだ。
何かを捨てる勇気を持てば、何かを得る為の勇気が生まれる。
人間がずっと人間でいられる術は、絵を描く事か、言葉を綴る事、何かを作る事だと私は思っている。

ある学校の教師であったある人は、体操の授業中に事故に遭い全身麻痺となった。
絶望の中で知ったのは、口が動く事だった。想像を絶する時間と闘った。
そしていつか絵筆を口にくわえ、水彩の極致を極めるまでになった。
懸命に精進する人間のみ時間は味方になってくれる事がある。

キリスト七つの大罪の一つに「怠惰」がある。
何もしない、何にも感動しない。怒りを忘れてしまった人間に時間はいつか鉄槌を下すだろう。

さあ、工具箱を開けよう。
一本の鉛筆を、一本のフィルムを、一本の絵の具を手にしよう。
一行の言葉を書き続けよう。時間が味方してくれる様に。

オリンピックの時間は残酷だ。
懸命の努力の果てに、0.001秒差でメダルを逃す選手もいる。
ヤバイ、気がつけば一番自分が「怠惰」ではないか。
明日のために今日何かやらねばならない。

そうだ!先ずはグラスに氷を入れてウィスキーを注ごう。
そしてじっくり考える事にしよう。
バレンタインデーでもらったチョコレートやクッキーを楽しみながら。
「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」この境地になりたいものだ。

2014年2月18日火曜日

「似て非なるもの」

闇金ウシジマくん


私は天邪鬼だから人々が興奮するほど冷静(?)になる。
それでも日本人なのかと言われる言葉を発してはヒンシュクを買ってしまう。

冬の五輪大会(オリンピック)なんて変てこだぜ、だって南米大陸とかアフリカ大陸の国なんて全くと言っていいか、殆ど参加してないではないか。
ジャマイカがボブスレーに参加(映画クールランニングには感動した)。

そもそも冬のスポーツをする習慣なんてないのだから。
ユーラシア大陸からは少し参加していたかもしれない(?)
つまり五輪ではなく「三輪大会」なのだ。

冬のスポーツといえば、スキー、スケート、スノボー、ボブスレー、スキージャンプ、アイスホッケー、カーリングなどだが、これはみんなお金持ちのスポーツだ。
いい方を変えればお金のかかるスポーツだった(子どもの頃スキー教室にお金が無くて行けなかった)。

冬のスポーツで貧乏人が出来るのは雪合戦位だった。
体育館かなんかの床掃除みたいな事をしながら、沢庵石に取っ手を付けてギャーギャーやっている。オハジキみたいのなんてスポーツなのかゲームなのかよく分からない。

夏のスポーツは私の様な貧乏人の子どもでも出来た。
原っぱや路地での野球、校庭にあった鉄棒、サッカーにバレーボールやバスケット、走るだけでいい短・長距離走。
太い棒きれや竹竿で出来た棒高跳び、砂場に走って踏んだ走り幅跳びや三段跳び。
海や川で泳いだ水泳など、みんな日頃の遊びの延長だった。

最も北の国の人々にとっては大違いかもしれない。
スキーやスケートは生活の手段や数少ない遊びだったのだから。
まあ、冬のスポーツが全く出来ない私のたわ言と思って頂きたい。
痛いのなんの、大雪の日何回も滑って転んだ(そのせいもあるかも)。

 男子のフィギュアで紅顔の美少年が金メダル、スバラシイオメデトウ、きっと新宿2丁目のゲイボーイやニューハーフが大喚声をあげて大喜びだろうなと言ったら、何言ってんの、信じられないという顔をされてしまった。

愚妻は午前四時過ぎまで起きて応援していたとか。
四十一歳葛西紀明選手銀メダル、オメデトウ凄い執念の男だ。

オリンピックを見ずに、深夜「闇金ウシジマ君」を見ながらグラスを握った。
山田孝之はハマリ役だなと思った。いい役者になってきた。
金メダルと金貸し業、あまり関係はないと思うが、明日は金メダルを取らねばならないという重圧と、明日は金を返さねばならないという重圧は似ているかもしれない。
ともあれガンバレニッポン!   

2014年2月17日月曜日

「酔えない酒」




「伊勢屋」さんは皆いい人だった。
二月十四日(金)バレンタインデーの夜、私は辻堂駅南口改札口から徒歩五分(普通)の居酒屋兼料理屋的和風レストランに居た。


天気予報がズバリ当たって大雪となった。
打ち合わせを早めに切り上げてそれぞれ帰宅する事にした。
新橋駅五時三十七分の電車に乗った。雪が激しく何処行きかを見ずに乗った。
列車は普通車、グリーン車共ぎっしり満員、仕方なくグリーン車の外の出入口に立った。

やっぱり早めに切り上げて大正解だなと思った。
キオスクも早終いであった。いつも読む夕刊紙も、夕刊もない。
本を持つ習慣は無い。外は見えない、窓には雪がバシバシ音を立てて振り続ける。

辻堂駅までが酷く長く感じる。
側に立っているオジサンが日経新聞の夕刊を広げて読んでいたのでそれをもらい読みするが、新聞をよくたたむので気が散って読めない(嫌がらせぽかった?)。
列車は少しずつ徐行したりしながらも、六時五十分位に着いた。

風雪強烈、駅の階段を降りると人の列、列、列、その数三十人から四十人位がタクシーを待っている、またはバスを待っている。
普段なら車でお迎えに来てくれる筈の人が来れないのだ。外は猛吹雪、こんな時は携帯があればいいのだろうと思ったのだが公衆電話のボックスに入り、それも役に立たない事を知った。
どこのタクシー会社も電話に出ないのだから。
出ても配車が出来ないのでそうしたと後日タクシー会社に聞いた。

二月十四日は確かシカゴのギャング、「アルカポネ」が聖バレンタインデーの虐殺をした日だな、などと思いつつ電話ボックスを出るとドバーッとアンデルセンというパン屋さんの屋根辺りから雪が落ちて来た。
これを持って行ってと優しい会社の人間に借りた傘は全く広げて歩けない。

どこか店に入るかと思った時、頭の中でパッと伊勢屋の名が浮かんだ。
店は殆ど早終い。「なか卯」というカウンターだけの店と、一度も入った事のない小さな居酒屋(お客はいない)と横浜系ラーメン屋(三人お客がいた)が営業していた。
カウンターだけだしな、タクシーを何とかするには知ってる店の方がいいしなと思ったのだ。


で、傘をたたんで猛吹雪の中いざ伊勢屋へ向かう。
営業している事を信じて。一歩一歩滑らない様に歩く事約二十分、伊勢屋に辿り着く。
 無事営業中、電気で点灯するタイマツも雪でボンヤリしていた。
但し九時閉店とか。

中にはテーブル席に老夫婦一組、若いカップル二組、座敷には若者たち十人位(彼等は大盛り上がり)、満員なら七、八十人は入る店だ。私は楕円形のテーブルに座った。

いや〜、マイッタマイッタと言って、とりあえず日本酒一本(1.5合)をヌルカンで頼む(酔う訳には行かないので)次に〆鯖とブリの刺身を一皿で頼む。
これだけじゃタクシーを呼んでもらうには少なすぎるかと思い、少し時間を置いてカキフライ四個とお新香とご飯半分と浅利の味噌汁を頼む。
さて、頃合いを見て、オバサンタクシー会社に電話してもらえると頼む、とオバサンはお兄さんに電話してあげてとなり、やがてお兄さんからオジサンに私の頼みはリレーされる。だが全て電話は通じないという、外を見に行って見ると信じられない猛吹雪だ。

で、オジサンはお兄さんに電話してあげてとなり、お兄さんはやる事が出来たらしく、オバサンに頼む事となった。そんなこんなの繰り返しの中、〆鯖も寒ブリも美味しいのだが時間は九時の閉店まで後四十五分しかない。
カキフライとご飯と浅利汁も美味しかったが、後二十五分しかない。

さて私はどうやって帰宅したでしょうか。ちゃんと帰れたのでしょうか。
伊勢屋から自宅まで猛吹雪の中歩いて一時間半か二時間はかかる筈なのです。

ロンドンは大洪水、ニューヨークは大寒波、北京は人類が住む環境でないとか。
日本ではダイオウイカが何匹も。東京は47年振りの大雪、山梨県は120年振りの大雪。
地球は相当に怒っている。

2014年2月14日金曜日

「あなたならどうする」




巨大なコロシアムの中で野獣が檻から放たれる。
大観衆はその野獣と戦わされる剣闘士がそれに食いちぎられる姿を見て大喚声をあげて叫ぶ。闘牛場では牛を殺しそこねた剣闘士が、角で刺され飛ばされ踏みにじられる姿を見て大観衆は熱狂する。

四角いリングの上で何百発もパンチを浴びた血染めのボクサーがいる、決して倒れないそのボクサーに対し、観衆は倒せ、倒せと大合唱する。

観衆は自分に何ら被害がないと確信した時、加害者の一員となる。
他人言だからだ。

人間はアフリカの大地で誕生してから食料を求めて長い旅へと出た。
欧米人になった人間、中東人になった人間、極東人になった人間、その中に日本人はいる。ルーツは皆同じなのだ。
旅の果てに人間の肌の色は変わり、言葉も変わり、国境が生まれ、生活習慣も変わっていた。食料を求めて人間と人間は争いを繰り返して来た。
他者の痛みは自分の痛みでなく、他者の飢えは自分の飢えではない。

山田洋次監督の「フーテンの寅」シリーズの中に、こんな寅さんの言葉がある。
隣で小さな工場を営み、資金繰りに苦労するタコ社長に向かってこう言う。
「オイ、タコ、お前のケツからオレのオナラが出るかい」と(逆かも?)。

山田洋次監督はこのひと言に「他者」とは何か、隣人愛とは何か、人間と人間の関係とは何かを問い正したのだろうと思う。競争社会は格差を生み出した。
お前の貧乏はお前のせい、俺の富は俺の物。
それを分け与える様な人間は奇異な人と見られてしまう。


自分は満たされていない、自分は不幸だと思っている人間は、自分より不幸な人間を目の前にした時、心の何処かでその人間の不幸を手を叩いて喜ぶ。

ナザレのイエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかけられた時、民衆は罵倒を浴びせ、石を投げつけ、傷だらけの流血の体に向かって、異教徒、ペテン師、魔術師、偽りの王、疫病神と言ってその刑死を望んだ。

♪〜あなたならどうする、あなたならどうする…石田あゆみにそんな歌があったと思う。
さて、あなたならどうする。一人ひとりは良き人も、ひとたび付和雷同する群衆となった時、凶悪な者に変わる。
吊るせ、磔よ、嬲り殺せとなる(男と男の間に女を挟んだ文字)。

「嬲る」は見ただけでオドロシイ。
きっと群衆の姿からか、あるいは男と女の三角関係から生まれた文字なのだろうか。

このところ頭の中がコチン、カチンになったので、西部劇やフランスのギャング物や、イタリアの風刺物、キリスト物やシェークスピア劇を題材にした時代劇、西鶴一代女や近松門左衛門などをずーっと観た。 
10日深夜から建国記念日の二日間で約23時間(私の大事な頭の体操)。
そこには全て人間という観客の業があった。

すっかりスタミナを失ったので、湘南工科大学前のとんかつの「大関」に家族みんなで行った。気合を入れて「ロースカツ定食」を頼んだ。
ここのとんかつは大関より横綱だ。長い長い付き合いの店だ。親父さんは大のお相撲好き、久々に相撲談義をした。
「遠藤」はきっと三年後に横綱になっているはずだ。
その時は観客の一人となって応援に行きたい。

2014年2月13日木曜日

「走る愛」


イメージです


神が宿ったのか、底抜けに美しい笑声、美しい歯並びの真っ白い歯、ピンクと白の帽子、ピンクのマラソンウェア、サングラスの女性が走る。
早い、どこから見てもスポーツランナーだ。

女性の名は「道下美里」さん37歳。
彼女には男性の伴走者がいる。伴走者とは50cmの赤いロープで結ばれている。
目が見えないからだ。小学生の頃に症状が出た。
一万人に一人という後天性の目の病だ。

今はうっすらぼんやりと輪郭がわかる、結婚しており料理もちゃんと作る、明るいとかえって見えにくいので灯りを暗くし手探りで料理をする。
バイト先で知り合った男性と結婚した。

山口県下関の実家は祖父の代からの書店であったが店を閉めた。
父と母と姉が涙を流しながら売れ残った本を整理する。

道下美里さんは視覚障害者のフルマラソンの記録を持っている。
ブラインドランナーは伴走者への指示と共に走る、少し右へ、少し左へ、給水所はもう少し、ほら◯△の花、◯□の木の香りがして来たでしょ、などと声をかけてもらって走り続ける。

白い歯が笑う。汗がこぼれる。
早い、力強い、なんて美しいランナーなのだろう。

毎月エステに行って、高価な化粧品を身につけて、どんな高価なファッションを身にまとっても、道下美里さんの美しい姿にはかなわない。
女性の真の美しさは心の美しさである。伴走者の男の人には二人の子どもがいる。
長男と次女、その長男は知的障害を持っている。
いつしかボランティア精神が芽生えマラソンランナーであった経験からブラインドランナーの伴走者となり、道下美里さんと共に新記録達成を目指す。

ホラ、ツバキの香りがして来たでしょ、といいながら二人は走る。
青い空、白い雲、行き交う樹々も二人を応援する。
ガンバレ、ガンバレ、50cmの赤いロープは一万人に一人という後天性の目の障害を持つ女性と、先天性の知的障害の子を持つ親とをしっかり結んでゴールした。

自ら持っていた記録3時間955秒を短縮し、新記録は3時間632秒。
健常者のマラソンランナーと殆ど変わらない。結びを外し猛然と走りだした。
道下美里さんは家族の待つ中に飛び込んで行った。伴走者が追いかけ抱き込んで止めた。道下美里は伴走者の男性に心からの感謝の言葉を何度も何度も言った。

十万に一人の人、百万に一人の人、何百万に一人の人という難しい病気を抱えている人々は決して諦めない。ところが五体満足の人ほど諦めが早い。
何故かと考えるとやはり「愛」があるか無いかではないだろうか。
人間は決して一人では生きられない。

ゴールの先に「金(カネ)」を求めて走っていると大切なものが見えなくなってしまう。「金」は決して金メダルではない。あなたの側にきっと50cmのロープで伴走を求めている人がいるはずだ。あなたを必要としている人がいるはずだ。
「目指せよ愛を」(あるドキュメントを見て)

2014年2月12日水曜日

「ミシンの縫い目」




そういえば、あの年のあの日の事が。
「愚者は今を見、賢者は歴史に学ぶ」というから、月日が経ちこの国の宿命である大地震が起き、再び大津波が街を、村を飲み込み、人々を根こそぎさらっていってしまう事が起きる。

日本中にある54基の内いくつかが再稼働されており、その中の一つ二つが大爆発を起こし、3.11の地獄絵を再び見る。そして息を飲み、言葉を失う。
放射能は拡散し、海は汚染水でその生態系を失う。
それは起きないという確率より、起きるという確率の方がはるかに高く、寸前に迫っているとも科学者は言う。

そういえば二〇一四年二月八日の猛吹雪の中、新宿駅前の選挙カーの上で、二人の元総理大臣が「脱原発」をテーマに掲げて熱叫と絶叫をした。
一人は七十六歳、一人は七十二歳。既に人生の最終章を迎えた二人、一人は文化人三昧、一人はオペラ三昧だったのに。

老人たちは生涯の名誉も富も社会的地位も約束されていたのに何故、全身ホッカイロで身を温め、防寒服でぬいぐるみの様になり、寒さで目から涙を流し、鼻の先をトナカイの様に赤くし、それでも我はゆかんと、ドン・キホーテを演じたのか。
永田町や霞ヶ関の人間たちは、遂に気が狂ったとか、ご乱心とか、ご隠居さんの戯言とか、これでお終いとか、あらん限りの悪口雑言を浴びせた。

私はこの二人のとった行動というか実行したという事実は共感せずにはいられない。
歴史は時間をかけて為政者の行った悪政の愚かさを正して来た。


何事にも、そういえばあの年の、あの日の事が蘇る。
世界中のありとあらゆる所で内戦が起きている。宗教戦争は地球がある限り終わる事はない。二月八日の猛吹雪の中、二人の老人はここが死に場所と決めたのだろう。
もし(歴史にもしは無いのだが)選挙カーの上でどちらか一人がマイクを握ったまま倒れ、あの世に逝ってしまっていたら、日本人はその行動と実行に一票を投じずには居られなかっただろう(同情は大好きだから)。

かつて大平正芳総理が突然死んで敗北必至といわれていた選挙に大勝した。
一銭を笑う者は、一銭に泣くという。老人を笑う者は、老人に泣く事となる。
それが歴史なのだ。


二十代、三十代の若者が軍人(自衛隊)に六十数万票を投じた事は欧米社会も驚かした。益々日本の右傾化に注意をせよとなった。
増長慢となった政府首脳たち、自民党幹部たちは更に暴走を加速させるだろう。
だがしかし、吉田茂首相が憲法九条を維持したまま日米安保を締結する道を選んだ。
サンフランシスコ講和条約。土台にあるのは「侵略戦争」への反省であった。
これが戦後レジームであり、それを否定する戦後レジームから脱却は、再び世界を敵に回す事になる。

自民党の中にもリベラルの旗を掲げている良識ある人々は多い。
やがてこの人々たちの不安と不信と、不満と不見識へのマグマが大きな一つの流れとなるだろう。

子どもが出演する、ご仏壇の「ハセガワ」のCMはこうだ。
「お手てと、お手てを合わせて、しあわせ」都知事選に勝った舛添要一は、国会内自民党、公明党室を訪れ、お手てを合わせ、ひたすら御礼、御礼をペコペコ、ヘコヘコと繰り返していた。
その顔は野心と卑屈が同居していた。
自民党の面々は野卑な人間を見下ろし、冷笑を連ねていた。

世の七十歳を過ぎた老人たちよ、風雪の中で声を枯らした二人の老人の姿を馬鹿にしてはいけない。子どもたち、孫たちの時代を守るために何かをせよ、実行せよといいたい。
思想は自由、別々でもいい。自らの信じる事を行けばいいのだ。

選挙の結果が判明した日、小泉進次郎は横須賀の実家で父と食事をしたという。
その時、敗れて益々盛ん「落胆ゼロ」これからも脱原発を言い続けると元気よく語っていた様な事をインタビューで語った。
その顔は敬愛する父が受けた屈辱への対抗心をメラメラと燃やしていた。

自民党はそう遠くない内に割れ始める。
何故ならミシンの針が確実に入ってしまった。
そこには糸がない、あるのは小さな穴の列だ。それを左、右に引っ張ると、強いと思っていた布も簡単に破れてしまうのだ。老人を大切にしない為政者は、歴史的に老人によって命を断たれた。好き嫌いとか、支持するとかしないとかではなく。

久々に老人の戦う姿に素直に感動した。
雪をかぶった白い殿様と、雪を吹き飛ばす白いライオン宰相が、二月八日、猛吹雪の中選挙カーの上に、一緒に立っている姿を誰も想像していなかっただろう。

明日何が起きるかは誰も知らない。
だが明日には必ず何かが起きる。
神奈川県民の私には投票する権利がなかった。