そういえば、あの年のあの日の事が。
「愚者は今を見、賢者は歴史に学ぶ」というから、月日が経ちこの国の宿命である大地震が起き、再び大津波が街を、村を飲み込み、人々を根こそぎさらっていってしまう事が起きる。
日本中にある54基の内いくつかが再稼働されており、その中の一つ二つが大爆発を起こし、3.11の地獄絵を再び見る。そして息を飲み、言葉を失う。
放射能は拡散し、海は汚染水でその生態系を失う。
それは起きないという確率より、起きるという確率の方がはるかに高く、寸前に迫っているとも科学者は言う。
そういえば二〇一四年二月八日の猛吹雪の中、新宿駅前の選挙カーの上で、二人の元総理大臣が「脱原発」をテーマに掲げて熱叫と絶叫をした。
一人は七十六歳、一人は七十二歳。既に人生の最終章を迎えた二人、一人は文化人三昧、一人はオペラ三昧だったのに。
老人たちは生涯の名誉も富も社会的地位も約束されていたのに何故、全身ホッカイロで身を温め、防寒服でぬいぐるみの様になり、寒さで目から涙を流し、鼻の先をトナカイの様に赤くし、それでも我はゆかんと、ドン・キホーテを演じたのか。
永田町や霞ヶ関の人間たちは、遂に気が狂ったとか、ご乱心とか、ご隠居さんの戯言とか、これでお終いとか、あらん限りの悪口雑言を浴びせた。
私はこの二人のとった行動というか実行したという事実は共感せずにはいられない。
歴史は時間をかけて為政者の行った悪政の愚かさを正して来た。
何事にも、そういえばあの年の、あの日の事が蘇る。
世界中のありとあらゆる所で内戦が起きている。宗教戦争は地球がある限り終わる事はない。二月八日の猛吹雪の中、二人の老人はここが死に場所と決めたのだろう。
もし(歴史にもしは無いのだが)選挙カーの上でどちらか一人がマイクを握ったまま倒れ、あの世に逝ってしまっていたら、日本人はその行動と実行に一票を投じずには居られなかっただろう(同情は大好きだから)。
かつて大平正芳総理が突然死んで敗北必至といわれていた選挙に大勝した。
一銭を笑う者は、一銭に泣くという。老人を笑う者は、老人に泣く事となる。
それが歴史なのだ。
二十代、三十代の若者が軍人(自衛隊)に六十数万票を投じた事は欧米社会も驚かした。益々日本の右傾化に注意をせよとなった。
増長慢となった政府首脳たち、自民党幹部たちは更に暴走を加速させるだろう。
だがしかし、吉田茂首相が憲法九条を維持したまま日米安保を締結する道を選んだ。
サンフランシスコ講和条約。土台にあるのは「侵略戦争」への反省であった。
これが戦後レジームであり、それを否定する戦後レジームから脱却は、再び世界を敵に回す事になる。
自民党の中にもリベラルの旗を掲げている良識ある人々は多い。
やがてこの人々たちの不安と不信と、不満と不見識へのマグマが大きな一つの流れとなるだろう。
子どもが出演する、ご仏壇の「ハセガワ」のCMはこうだ。
「お手てと、お手てを合わせて、しあわせ」都知事選に勝った舛添要一は、国会内自民党、公明党室を訪れ、お手てを合わせ、ひたすら御礼、御礼をペコペコ、ヘコヘコと繰り返していた。
その顔は野心と卑屈が同居していた。
自民党の面々は野卑な人間を見下ろし、冷笑を連ねていた。
世の七十歳を過ぎた老人たちよ、風雪の中で声を枯らした二人の老人の姿を馬鹿にしてはいけない。子どもたち、孫たちの時代を守るために何かをせよ、実行せよといいたい。
思想は自由、別々でもいい。自らの信じる事を行けばいいのだ。
選挙の結果が判明した日、小泉進次郎は横須賀の実家で父と食事をしたという。
その時、敗れて益々盛ん「落胆ゼロ」これからも脱原発を言い続けると元気よく語っていた様な事をインタビューで語った。
その顔は敬愛する父が受けた屈辱への対抗心をメラメラと燃やしていた。
自民党はそう遠くない内に割れ始める。
何故ならミシンの針が確実に入ってしまった。
そこには糸がない、あるのは小さな穴の列だ。それを左、右に引っ張ると、強いと思っていた布も簡単に破れてしまうのだ。老人を大切にしない為政者は、歴史的に老人によって命を断たれた。好き嫌いとか、支持するとかしないとかではなく。
久々に老人の戦う姿に素直に感動した。
雪をかぶった白い殿様と、雪を吹き飛ばす白いライオン宰相が、二月八日、猛吹雪の中選挙カーの上に、一緒に立っている姿を誰も想像していなかっただろう。
明日何が起きるかは誰も知らない。
だが明日には必ず何かが起きる。
神奈川県民の私には投票する権利がなかった。
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