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2015年5月15日金曜日

「幸せなら」




●我慢に我慢をしていたオシッコを無事済ませた時
●玄関で靴を脱いだ時、腕時計を外した時
●靴下を脱いだ時
●洗面所で手を洗い顔を洗い石鹸の臭いを感じた時
●腰痛バンドを外した時
●ブラジャーを外した時
●パンストを脱いだ時
●パンツを脱いだ時
●冷たい水をコップ一杯飲んだ時
●シャワーを浴びた時、風呂にザボンと入った時
●風呂上がりにキンキンに冷えたビールを一気に飲んだ時
●おならを一発二発と出した時
●首飾、耳飾り、指輪を外した時
●犬がトコトコ迎えに出てくれた時
●猫を抱いて肉球に触った時
●つけまつ毛を外した時
●カツラを外した時
●ネクタイを外した時
●重いジーンズを脱いだ時
●パチンパチンのスパッツを脱いだ時

等々、などなど、ナドナド、人はそれぞれ仕事に疲れた我と我が身に、あ〜帰って来たぞ、あ〜やっとこさ帰って来たわを実感することがある。


本人から聞いた話と想像上の話である。
私もこの中の一つで実感をする。

ある芸能人が髪を束ねていた物を外し、シャワーを浴び、厚化粧を全部洗い流し、スッポンポンになった自分を見ると、あらアタシ男だったんだと確認する。
その後、そのままソファーに座り足を大きく開いてバカヤローといってワンカップ大関を一気に飲み干す。
この瞬間がたまんねんだよなとひとり言をいうらしい、と昨夜知人に教えてもらった。

さて、あなたはどんな時に自分の帰って来たぞの開放感を感じますか。
何!家に帰りたくないだと、玄関に女房が出て来て顔を合わせた時、ゴハン食べて来たでしょと言われ、どっと疲れが出てしまう、寝ていてくれればと願っていたのに。
何!いつも定時に帰って来ている亭主がニタッと笑っている、手にはフライパンかなんか持っていて遅かったね、ゴハン作ってんだと嫌味ぽいのにもう我慢が出来ない。
あ〜嫌だ嫌だと。

♪〜幸せなら手を叩こう 幸せなら手を叩こう 幸せならみんなで叩こうよ ほらみんなで手を叩こう…こんな歌を口ずさんでしっかり手を叩いて下さい。
間違っても顔を叩かないで下さい。

2015年5月14日木曜日

「デカの目」




メロンパンはおいしい?と私はいった。
八十歳を過ぎたであろう老人は、ん、おいしいよといった。


五月十日(日)の午後浜昼顔が咲いている辻堂海岸の側のベンチに私は座った。
先に座っていた老人は大きなメロンパンを食べていた。口の周りに白い砂糖がついていた。

四人くらい座れる木のベンチには私と老人だけが座っていた。
後にはサイクリングロードを走る人、歩く人が次々と通過する。
その後にはバーベキューをする場所があり若者たちがジュージューと肉を焼き、ソーセージを焼き、野菜を焼いたり焼きそばをつくっている。当然ビールやウィスキーや焼酎や日本酒やワインを飲んでいる。上半身ハダカの若者が多い。

若い女の子がキャーキャーと騒いでいる。
夏になるともっともっとバーベキュー大会となる。老人がぽつんと言葉を発した。
お兄さんとはずい分むかしに会ったことがあるねえと。
私もすでに老人だがジーンズにアロハシャツだから“町の兄ちゃん”に見えたのだろう。

えっ、どこで会ったっけと私はいった。
辻堂駅前の横浜銀行のところでと老人はいった。全然おぼえていないな、よくおぼえているね、どんな風に会ったっけといった。あの頃駅前の違反自転車を見張っていた。

お兄さんが自転車を停めて階段を登っていった時、ダメダヨここに停めて置いていってはと注意したら、お兄さんはおじさん元刑事か警察官だろといったんだよ、目がデカの目だと。

へぇーそんなことあったっけ、あの頃は四、五人で見張っていたもんね、何回か自転車の墓場みたいなところに運ばれていった自転車を探しに行ったもんなと私はいった。
お兄さんはあの時もアロハシャツだったからよくおぼえているんだ、それに警察官を辞めたあとで確かに目がデカみたいな感じだったからな、といって老人はオホ、オホ、オホホと笑った。左手に持っていたメロンパンを右手で千切って口の中に入れた。
おじいさんは今やさしいいい目をしているよ、元気でねといって私は自転車に乗り江ノ島の方に向かった。

2015年5月13日水曜日

「ダルマになった記者」



前々回のブログで朝日新聞のエース記者「深代惇郎」のことを書いた。
となると読売新聞のエース記者の「本田靖春」のことを書かねばならない。

二人が互いに認め合う記者であり、衆目一致した二大エース記者だったからだ。
龍と虎であり、大鵬と柏戸であり、長嶋と王の様であった。

本田靖春は深代惇郎より四歳下であった。
その凄絶な最後は今も新聞記者の間で語り継がれている。

本田靖春は社会部記者として遺したものに「黄色い血」追放キャンペーンがある。
それは日本の献血制度確立に多大な貢献をした。
また「疵—花形敬とその時代」で愚連隊安藤組全盛時代の大スターの生涯を書いた。
先輩記者、立松和博の挫折を描いた「不当逮捕」、更に「誘拐」「村が消えた」など多くの名著を遺した。「我、拗ね者として生涯を閉ず」は580頁の分厚い本である。

このブログを書くにあたり調べた所、私は2005年、53日に読了とあった。
深代惇郎が深遠なる静的知性なら、本田靖春は永遠なる動的知性といえる。
二人の共通点は「超一流のプロの記者魂」である。

本田靖春は糖尿病がもたらす壊疽でまず右足を切断、その半年後に左足を。
足なんかかまわない、文章を書くには頭と手さえあれば文句ないといった。
その間に大量下血、大腸癌の切除手術をする。
幻覚と幻聴に襲われる中、更に肝癌、右眼失明、更に心筋梗塞、脳梗塞を起こした。

足切断の手術に耐えれるかという中で手術は行われた。
全身麻酔が途中で切れてしまうという麻酔医のミスがあった。
本田靖春は激痛の中で「それでもプロか、俺の命なんかどうでもいい、こんなことをしていたら毎日のように事故が起きるぞ」と苦悶しながら叫んだという。

それから三年後大腸癌再発、右手指四本が壊疽に襲われる。
本田靖春の肝癌はドヤ街に取材に入り、自ら売血の現場で注射針の使い回しを体験したからといわれている。人間の体がダルマのようになってこの世を去った(享年七十一歳)。

通夜・葬儀は一切行わず、戒名も位牌もなし。
遺骨は冨士霊園の「文學者の墓」に納められた。個有の墓はない。
文学者の名が連なる墓碑の一隅に「本田靖春・不当逮捕」と刻まれているだけである。
本田靖春が信じていたものは、人間の「善意と無限の可能性」である。

本田靖春に怒鳴られ、叱られ、批判され、反省を迫られながら若き記者たちは育てられたのだろう。「我、拗ね者として生涯を閉ず」電報文でいえば「ワレスネモノトシテショウガイヲトズ」20052月講談社から緊急出版された。
プロフェッショナルとは仕事に命を懸ける者のことをいう。
本田靖春なら昨今の大学病院における医療ミスの数々を何と書くだろうか。

2015年5月12日火曜日

「しみじみ、しじみ」




仕事柄一日の始まりは、まず朝刊の死亡欄を見る。
お世話になった方や、恩人や知人の不幸な知らせを確認する。
嫌な習慣なのだが万が一にも義理を欠く事は許されないからだ。

と同時に、えっあの人がとか、えっしばらく見なかったが、いい建築家だったとか、いい画家だったとか、いい陶芸家だったなとかを知る。
死亡欄には人の歴史、社会の歴史が見えて来る。
私も歳をたらふく食って来たので同年輩の人にはその都度お疲れさんでしたと声をかける。

五月十日(日)の朝刊に二人の死亡を知らせる記事があった。
一人は「滝田裕介」さん八十四歳であった。
もう一人は「柳生真吾」さん四十七歳であった。

滝田裕介さんというとテレビの人気番組の「事件記者」と「ベン・ケーシー」の吹き替えの声を思い出す。俳優座出身のいい役者さんであった。
柳生真吾さんは清里の自然をこよなく愛する役者さん「柳生博」さんの息子さんだ。
ずっと以前に、一度仕事をご一緒させてもらった。とても爽やかな人であった。
息子さんの柳生真吾さんは園芸家で有り、かつてNHK「趣味の園芸」の司会をしていた。未だ四十七歳、柳生博さんの無念さが伝わって来る。
清里の森、清里の生き物、清里の人々も泣いて、泣いて、泣いているだろう。

新聞記者は私の憧れの職業だった。
松本清張原作の松竹映画「風の視線」という映画がある。
その中に若き日の滝田裕介さんが報道写真家として出演していた。岩下志麻が眩しく美しい。佐田啓二が渋くてイイ、この人ほどアスコットタイの似合う役者はいない。
この映画に故松本清張が特別出演している。ある人に聞いた話だが、かつて銀座に何軒かあった文壇BARで、いちばんモテたのが「故吉行淳之介」、いちばんモテなかったのが松本清張だったと、札束をテーブルにバンと置いて、これで今夜“ヤラセロ”というのが定番だったとか。「風の視線」には青森の十三潟(十三湖)が出て来る。

今は亡き親友とその十三湖でとれる有名な「大和しじみ」のことを調べに行く機会があった。そのために十三湖がらみの映画や映像を集めた。
「風の視線」は松本清張の好きな題材、不義、不倫、殺意と愛情が交差する人間ドラマだ。人間とは欠点だらけなのだ、松本清張はそれをいいたかったのだろう。
特にブルジョワは秘密ばかりなのだと。話がすっかり横に逸れてしまった。

「滝田裕介」さんと「柳生真吾」さんに合掌する。
亡き友と行った青森の十三湖はまるで日本海のようであった。
風が強く吹き、波が荒立ち、しじみを売る出店の旗が千切れんばかりにバタバタと音を立てて震えていた。

2015年5月11日月曜日

「連休は善い人ばかり」



♪空が泣いたら雨になる 山が泣いたら水が出る 俺が泣いても何にも出ない…泣いてたまるか、泣いてたまるかヨォ〜を…

 

渥美清の歌声で始まるテレビドラマは「泣いてたまるか」一話45分である。

40話を見ると1800分だ。

一枚のDVD2話入っている、TSUTAYAにそれがズラリと並んでいた。ヨシ連休中全部見てやろうと決め五枚ずつ借りて時間のある限り見た。

結局十二枚24話を見たところで連休は終わった。

 

と、同時に小津安二郎の「彼岸花」「麦秋」「東京物語」も見た。

勉強のために何度か見ている。何故「泣いてたまるか」と小津作品を見たかといえば、善人に会いたかったからだ。渥美清の「泣いてたまるか」は徹底的に貧乏であり落語の世界のようである。

後年巨匠になっていく監督や脚本家やカメラマンが活き活きとして貧乏を演じる渥美清を自由奔放に描き出す。

タクシーの運転手、飯場の土方、ラッパ吹き、おもちゃ屋の社長、野球の審判、将棋好きの刑事などなど市井の中に生きる善人たちをカメラは上から下から、左から右から、斜めから好き勝手に撮る。

 

今は亡き左幸子と、東野英治郎、藤山寛美、笠置シヅ子、左ト全、バーブ佐竹、殿山泰司、西村晃などが一話ずつ共演する。ヤキトリ20円、串カツ50円、魚フライ50円、オムレツ70円、ラーメン40円、山かけ60円の時代だ。

一人として悪人や嫌な奴は出ない。若き日の市原悦子、緑魔子、栗原小巻、三原葉子たちが好ましい。タクシー初乗り(大型)100円の頃は人間が人間らしく生きていた。

 

大巨匠小津安二郎の作品にも悪人は決して出ない。善い人間ばかりだ。

但しこちらはみんなお金持ちばかり、美人ばかり、原節子、山本富士子、有馬稲子、田中絹代、桑野みゆき(大ファンであったがカレーと肉まんの中村屋の若旦那と結婚して芸能界からすっぱり引退した)など当時のスターが小津安二郎の言われる通りに芝居をする。今は亡き佐分利信、中村伸郎、佐田啓二、高橋貞二、笠智衆など小津作品の常連がみんなまるでロボットのような芝居をする。

小津作品といえばカメラは動かずローアングルと決まっている。

特徴的なのは玄関の扉、ガラス戸、襖、障子がいちばん芝居をする。

モンドリアンの構図のように。そして全て一点透視画法(パースペクティブ)である。

都会はビュフェの絵のようだ。お金持ちだが善い人、いい奴ばかりなのだ。

 

「泣いてたまるか」と共通しているのはドラマの主軸に茶の間があることだ。

一方は狭く、一方は立派で広い。

茶の間に家族は集まり、茶の間に会話があり、家族に秘密らしきものはない。

子どもは茶の間を通って親にきちんとあいさつをする。

 

私は小津安二郎の作品は実は苦手なのだ。監督の言うとおりの芝居、脚本に忠実なカメラワークが大人の学芸会みたいで気恥ずかしくなるのだ。どの作品も美男美女ばかりが気に入らない。お金持ちの善人を作り過ぎ、リアリティを感じない。

きっと大人の寓話なのだろう。小津安二郎は悪人が嫌いなのだ。

脚本の名コンビ野田高梧も。

 

貧乏人たちがてんでんバラバラに逞しく生きる方が私は幸せを感じる。

ともあれ連休中は悪い人には一人も会わなかった。

 日本国憲法が悪い人たちの悪知恵で、悪い方向に進んでいる。

 

連休中に「天人」というノンフィクションを読んだ。

昭和4850年代、朝日新聞の天声人語を書いた新聞界史上最高のコラムニストで名文家といわれた「深代惇郎」のことを「後藤正治」が敬愛を持って一冊の本にした。

深代惇郎は私の最も憧れつづけているジャーナリストだ。もう一人は本田靖春。

深代惇郎は四十六才の時、急性骨髄性白血病であっという間に死んでしまった。

 

今の天声人語は深代惇郎に比べたらただの「へ」みたいなものだ。

この国からジャーナリストは消えてしまった。「そして誰もいなくなった」そんな映画があったはずだ。この国から気骨ある人間が消えてしまった。

「現在を見誤るのは、過去に無知だから」という、無知の人がハシャギ回るこの国の明日を亡き深代惇郎はあの世でどう書いているだろうか。(文中敬称略)

2015年4月27日月曜日

「少年と風」



茅ヶ崎リトルリーグのグラウンドは、寒川神社に近い広い広い畑の中にある。
孫(13)たちは朝5時半に家を出る。自転車で5060分かかる。
試合開始は午前9時だ。

私も朝起きてといってもずっと起きていた。
熱いシャワーを浴び朝刊に目を通して球場に向かう。
鮭のおにぎり二つとウィンナーソーセージと共に。

リトルリーグは軟式と違って硬式なので少年たちはユニホームの下心臓の部分にプロテクターをつけている。球場にはまさかの時のためにAEDが用意されている

13歳は未だ上のクラスのシニアではない。
鯉のぼりが気持よく泳いでいる家もある。
グラウンドのセンター方面の外では大きい凧が4つ空に舞い上がっている。
絶好の野球日和だ。

聞けば相手のチームは東京の昭島市からはるばる遠征をして来ていた。
ダブルヘッダーであった。第一戦は45で敗け、孫は二塁を守り九番であった。
小学校では二番か三番であったがさすがにリトルはレベルが高い好選手が揃っている。

結局ライト線二塁打、シュート強襲安打、四球、三打数二安打打点一、得点一、前日の試合で久々に安打が打てて気を良くしていた。第二試合は719で敗け、コールドゲームはなしであった。試合時間は一試合一時間半と決まっている。
本来ならコールドゲームなのだが監督同士が練習試合なので時間までやりましょうとなった。
投手は球数が70球までと決まっている。肩や肘を壊さないために。


孫は第一打席安打、次はエラーで出塁、三打席目は四球であった。
ボールは五つ飛んで来たがしっかり守った。少年たちは声を掛け合い、励まし合い。
投げ、打ち、走り、守った。相手の投手四人は凄い速い球を投げていた。
一枚も二枚も上手の強いチームだった。少年たちはキラキラと輝いていた。
何しろ礼儀正しい。監督やコーチから厳しく礼儀を教え込まれていた。
監督たちも実に礼儀正しく気持ちよかった。

私もかつては野球少年だったが、14歳の秋から野球よりこっちの方が面白いやと横道を進み始めていた。あのまま野球少年であったらどうなっていただろうかと思った。
おにぎりは格別に旨かった。ノザキのコンビーフも持ってくればよかったなと思った。

午後二時半ごろグラウンドを後にした。ドッドットネムクなった。
少年たちはそのまま練習、練習だ。熱心に指導する監督やコーチの人たちにはつくづく感心する。心底少年と野球が好きなのだろう。


私のブログは今日から511日までお休みです。
みなさんゴールデンウィークは少年少女に戻って下さい。
友だちや初恋の人などを思い出して下さい。運動会や遠足や学芸会を思い出して下さい。あの頃はみんな純粋だったはずです。私もしばし少年に戻ってみたいと思っております。
幸い天気は五月晴れのようです。少年と風が吹くでしょう。

東京銀座に出る機会があったらぜひ、キラリトギンザ3階oluha(オルハ)ショップに寄って下さい。県立福島高校出身の野球少年國井修店長がお待ちしております。
そよ風のように爽やかな人です。


※訂正 前回のブログで総理大臣のワシントンでの演説を26日と書きましたが29日の誤りです。

2015年4月24日金曜日

「たった一機に」




浦賀に黒船が来てからずっと日本国はアメリカから開国を迫られている。
日本にとってアメリカ国はタチの悪いヒモみたいなものだ。

一度は別れたいと思い宣戦布告なしに真珠湾を攻撃した。
目的は資源が必要だから。アメリカに資源を断られ追い詰められた。
それから先は軍部の大暴走となり、そこいら中の国に侵略をしていった。
マトモな軍人はハナから勝てないことを知っていた。

その上あろうことかよその国に新しい国をつくってしまった。
満州国である。俗に満州サンスケといわれる三人がいた。
一人は岸信介(後の総理大臣)、一人は鮎川義介(日産自動車をつくった)、一人は松岡洋右(国際連盟を脱退宣言した)。
 この三人と軍部など(東條英機とか)がくんずほぐれつ利権を追っていった。
また里見甫という阿片王が上海の麻薬利権を一手に握っていった。

満州と上海は闇の中の闇であった。
里見は戦犯となり極東裁判で「あなたは何をしてましたか」などと質問され、阿片を取り扱ってましたと応えた。上海の麻薬は里見を抜きには動かせなかった。
上海の軍部や里見たちは情報を一元化すべく整理整頓をした。

その結果、外信は時事通信、国内は共同通信となった。
 新聞、雑誌などの宣伝広報をやれといわれて出来たのが現在の電通という代理店である。電通の大株主は、時事通信と共同通信なのはそこから生じている。
早い話三者は兄弟分なのだ。

さて、アメリカという性悪のヒモは民主主義という旗を立てて正義を語るが、インディアン等の原住民は殆ど虐殺された。
アメリカ人のいちばんの欠点は、自分たちだけがいちばん正しいと思うことだという。
第七騎兵隊気分が染み込んでいるのだ。

ペリー提督の替わりに来ていたのがフロマン通商代表だ。
民主党きってのタフネゴシエーターといわれている。
外交交渉は事務レベルで長い時間下交渉しているから、フロマンと甘利明はクサイ芝居を繰り返ししているのだ。

アメリカの上下院で演説したい総理大臣がそれが叶うということは話が出来上がったということである。TPPは何もかもアメリカのいう通りにされる。
タチの悪いヒモは、文句もいわず黙々と店に出て働き、嫌なお客の相手をしてでも稼ぎ貢ぐ女に、時にやさしく、時に泣きを入れ、時に脅し、脅迫し、また時にやさしくを繰り返す。

浦賀にペリーが来てからずっと日本の歴史は大きく変わっていない。
一度逆らって広島、長崎に原爆を落とされた。沖縄は永遠に基地として提供しますと誓ってしまった。四月二十六日総理大臣がワシントンで演説をする。
そのスピーチ原稿はすでに何度もアメリカにチェックされ朱を入れられているのだろう。

日本は資源のない国、中国に陸と海のシルクロードを押さえられたらアウトになる。
ドローン一機に官邸はアタフタしている。SPたちは上を見て警護する訓練はしていなかった。その落とし前として誰かが責任を取らされるだろう。
たった一機に夜も眠れずなのだ。(文中敬称略)

2015年4月23日木曜日

「学生は社会人ではないのか(?)」




新橋から乗車した通勤快速小田原行は、八時四十五分位に茅ヶ崎駅に着いた。
なんだよまた雨かよと外は雨だった。

階段を降りるとその先に二人の市議会議員候補者が、白い太い帯をたすき掛けにして(名前が入っている、投票前なので名は伏す)

お仕事お疲れさまです。雨が降っております足元にご注意下さい。 
52歳です、全力で茅ヶ崎をいい街にします。52歳です、茅ヶ崎出身です。
お仕事お疲れさまでした。と頭を直角に下げる。頭の中心に髪はない。

もう一人は、52歳以上と思われる。
お疲れさまです。お疲れさまです。お疲れさまです。茅ヶ崎市政を改革します。
お疲れさまです。私の政治姿勢はまっすぐです。まっすぐです。◯◯△□です(顔は四角い)よろしくご支援をお願いします、まっすぐの◯◯△□です。
とチラシを配るが手にしてもらえない。

バス乗り場、タクシー乗り場に仕事に疲れた人たちが黙々と向かい並ぶ。
無投票で選ばれた各地の市長たちがバンザイ、バンザーイ!とやっている風景をテレビで見ると、バカバカしくなる。定員割れで無投票で議員になるのが史上最多、就職活動をしないで議員に就職出来、かなりの給料や手当がもらえるのだ。 
18歳から投票権を持てる日は近い。

ふと気になる言葉がある。
大学を卒業した若者が、これから「社会人」になるのでがんばります。
すでに二十歳を過ぎている学生は社会人ではないのかと思う。
若者は正しくは「会社人」になりますとか、より責任を果たすべく社会の発展に尽くす人間になりますというべきだと思う。学生だって社会の中に生きる社会人なのだ。

私の家の斜め前に市議会議員選挙の候補者のポスターがビッシリと貼られている。
不気味な作り笑い、修整が上手くいかなかった女性の顔、そんなに恐い顔をしないでよという顔、ほぼ正方形のポスターに人格、人柄、野心、苦心、偽善が見える。

何人かはよく知っている人たちだ。
何いってやがると思う人もいる。未だやるのという人もいる。
わずか一週間の選挙選だ。
それにしても市議会議員が多すぎる。半分で充分だ。

新橋駅で切符を買っていたら、歓送迎会でイッキ、イッキをやったのか、黒いスーツの元大学生、現社会人十数人が酔っ払って奇声を発し合っていた。

あるドキュメント映画を思い出した。
東大を出た男がある市議会議員選挙(補欠)に出て、夫婦で悪戦苦闘する作品だ。
題名はズバリ「選挙」。

2015年4月22日水曜日

「ハヤシライス」






「もしもし」
「ハイハイ」
「もしもし鈴木商店さんですか」
「ハイそうです」
「少し声が変わりましたね鈴木さん(?)」
「社長は今、外に出てます」
「あっそう、頼みたいことがあるんだけど」
「何ですか」
「いろいろ捨てたいんだけど」
「どんなものですか」
「古い洋服や、古い家具や敷物、本やらなんだけど」
「軽トラで大丈夫ですかね」
「うん大丈夫だと思うけど」


それじゃ軽トラで行きますということであった。
折角来てくれるんだからと、古いゴルフクラブセット、古い靴など次々と増えていった。
家の中にはいらない物がいっぱいあるものなのです。
私も持っていってもらっていいんだと思いました。

日曜日筋肉モリモリの二人の男が来てくれました。
手際のいいこと早いこと、ハイヨ、アラヨと軽トラに積み込んでハイおしまい。
いや〜助かったよ、ありがとう、でいくらといったらハイ5000円。
いいね便利第一鈴木商店は、一度なんかすごく重い石を動かしてもらうことがあり、頼んだらブットイ鎖とゴッツイジャッキを持って来て三人でグイグイ動かしてくれた。
頼む内容に応じて変幻自在にチーム編成が変わるのだ。

三年ぶりに小庭に牡丹が咲いた、よろこんでいたら熱烈な雨のヤローのせいでヘタヘタとなってしまった。情緒のない雨が近頃多い。

尊敬してやまない天才中野裕之監督から電話があった。
仕事の合間を縫いながら一年がかりで作っていた新作の短編映画がやっと出来上がりそのDVDを送っていたのを見てくれたのだ。
鋭い批評をしてくれるので何と言われるか心配していたのだが、いや〜スゴク面白い、いい作品だと言ってくれた。
いままでにないコメディで笑いまくったよ、映画祭にどんどん出すといいですよといってくれた。

ほっと胸をなでおろした。
自主映画は超低予算、みんなで資金を出し合い、協力し合い、お願いを重ねて出来上がる。プロデューサーの仕事とはひたすらお願いする仕事なのです。
こればかりは鈴木商店さんに頼めないのです。

ほぼ一週間茅ヶ崎にていろいろインプット、アウトプットをした。
古いものを捨てて気分も新たに今日から東京の仕事場へ、デスクの女性がハヤシの旨い店に連れていってくれる。
ハヤシはカレーにやられっ放しになってしまった。
みなさんかつての大スター“ハヤシライス”に熱いご支援を。

2015年4月21日火曜日

「oluha(オルハ)から皮膚炎に悩む人に“救世主”」


4/16付 上毛新聞より

oluha Q chaku




「ダニアレルギーを救え」の大見出し、「日本化薬、アート、県繊維工業試験場」加工剤を共同開発、原因物質、衣類に吸着と中見出し、四月十六日の上毛新聞に五段+写真入りで大きく報じられた。
銀座oluha(オルハ)ショップには直ぐに電話注文が入って来た。

「ダニ」という文字ほど人から嫌われるものはない。
街のダニといえば悪い人間たちのこと。
家のダニといえば働かずに家でゴロゴロしている人間とか、カユイ、カユイを生んだりする不潔物質のことだ。

「ダニを原因とする皮膚炎に悩む患者のために、日本科学フードテクノ(高崎市岩鼻町)とアート(桐生市相生町)、県繊維工業試験場(同)は、ダニアレルゲンを肌着などに吸着させる機能を家庭で手軽に施せる加工剤を共同開発し、特許出願した。
ダニアレルゲンを衣類などに吸着させることで、皮膚への直接の吸着や鼻・口から吸い込みを防ぐ効果が期待できる。県外の寝具メーカーがすでに商品化、皮膚炎に悩む人たちの“救世主”と期待が高まっている」(新聞記事原文ママ)

ここに書かれている県外の寝具メーカーとは羽毛ふとんのパイオニア、1950年創業の東洋羽毛工業株式会社(神奈川)のこと。
昨年開かれた健康博覧会で興味を持ち商品化したのだ。

その商品のネーミングを頼まれた私は、「Q chaku」キューチャクとした。
嫌なダニアレルゲン物質を吸着してくれるのだ。
Q」はクイーンの「Q」、女王様だ。ダニを吸着してくれる女王様なのだ。
また「Q」はクエスチョン、何でダニが私に吸い付くの、子どもに吸い付くの、も〜嫌だに対する回答でもあるのだ。

ここから新聞記事抜粋、「加工剤は液体で、プラスの電荷を帯びる天然素材『キトサン』と乳酸、クエン酸、水を原料とする。これを繊維に染み込ませ、マイナス電荷のダニアレルゲンを吸着。洗濯してダニアレルゲンを除去できる。使用後のシーツから採取したアレルギー物質で吸着・除去を実験をしたところ、ダニアレルゲンをほぼ100%取り除けた」
加工剤は食品添加物で出来ており、「口に入っても安心」と試験場の独立研究員の近藤康人さんは話す。
またこれまで専門業者しかできなかった加工が家庭でできるようになったメリットは大きいと話す。

すでにアチコチから電話注文が入って来ている。
ダニに悩まされた方々、不潔大嫌いの方々、お子さんにダニをつけたくない方々は、東京銀座oluha(オルハ)ショップへお電話を。☎03-5579-9710です。

コラッ!五体満足健康なのに働かずに一日中家でゴロゴロしているとダニ退治されてしまうぞ。ちなみに安さを売りにしている羽毛ふとんなどは寝ているあいだ中ダニアレルゲンを吸い込んでいるような代物といえる。