「連休は善い人ばかり」
♪空が泣いたら雨になる 山が泣いたら水が出る 俺が泣いても何にも出ない…泣いてたまるか、泣いてたまるかヨォ〜を…
渥美清の歌声で始まるテレビドラマは「泣いてたまるか」一話45分である。
全40話を見ると1800分だ。
一枚のDVDに2話入っている、TSUTAYAにそれがズラリと並んでいた。ヨシ連休中全部見てやろうと決め五枚ずつ借りて時間のある限り見た。
結局十二枚24話を見たところで連休は終わった。
と、同時に小津安二郎の「彼岸花」「麦秋」「東京物語」も見た。
勉強のために何度か見ている。何故「泣いてたまるか」と小津作品を見たかといえば、善人に会いたかったからだ。渥美清の「泣いてたまるか」は徹底的に貧乏であり落語の世界のようである。
後年巨匠になっていく監督や脚本家やカメラマンが活き活きとして貧乏を演じる渥美清を自由奔放に描き出す。
タクシーの運転手、飯場の土方、ラッパ吹き、おもちゃ屋の社長、野球の審判、将棋好きの刑事などなど市井の中に生きる善人たちをカメラは上から下から、左から右から、斜めから好き勝手に撮る。
今は亡き左幸子と、東野英治郎、藤山寛美、笠置シヅ子、左ト全、バーブ佐竹、殿山泰司、西村晃などが一話ずつ共演する。ヤキトリ20円、串カツ50円、魚フライ50円、オムレツ70円、ラーメン40円、山かけ60円の時代だ。
一人として悪人や嫌な奴は出ない。若き日の市原悦子、緑魔子、栗原小巻、三原葉子たちが好ましい。タクシー初乗り(大型)100円の頃は人間が人間らしく生きていた。
大巨匠小津安二郎の作品にも悪人は決して出ない。善い人間ばかりだ。
但しこちらはみんなお金持ちばかり、美人ばかり、原節子、山本富士子、有馬稲子、田中絹代、桑野みゆき(大ファンであったがカレーと肉まんの中村屋の若旦那と結婚して芸能界からすっぱり引退した)など当時のスターが小津安二郎の言われる通りに芝居をする。今は亡き佐分利信、中村伸郎、佐田啓二、高橋貞二、笠智衆など小津作品の常連がみんなまるでロボットのような芝居をする。
小津作品といえばカメラは動かずローアングルと決まっている。
特徴的なのは玄関の扉、ガラス戸、襖、障子がいちばん芝居をする。
モンドリアンの構図のように。そして全て一点透視画法(パースペクティブ)である。
都会はビュフェの絵のようだ。お金持ちだが善い人、いい奴ばかりなのだ。
「泣いてたまるか」と共通しているのはドラマの主軸に茶の間があることだ。
一方は狭く、一方は立派で広い。
茶の間に家族は集まり、茶の間に会話があり、家族に秘密らしきものはない。
子どもは茶の間を通って親にきちんとあいさつをする。
私は小津安二郎の作品は実は苦手なのだ。監督の言うとおりの芝居、脚本に忠実なカメラワークが大人の学芸会みたいで気恥ずかしくなるのだ。どの作品も美男美女ばかりが気に入らない。お金持ちの善人を作り過ぎ、リアリティを感じない。
きっと大人の寓話なのだろう。小津安二郎は悪人が嫌いなのだ。
脚本の名コンビ野田高梧も。
貧乏人たちがてんでんバラバラに逞しく生きる方が私は幸せを感じる。
ともあれ連休中は悪い人には一人も会わなかった。
日本国憲法が悪い人たちの悪知恵で、悪い方向に進んでいる。
連休中に「天人」というノンフィクションを読んだ。
昭和48〜50年代、朝日新聞の天声人語を書いた新聞界史上最高のコラムニストで名文家といわれた「深代惇郎」のことを「後藤正治」が敬愛を持って一冊の本にした。
深代惇郎は私の最も憧れつづけているジャーナリストだ。もう一人は本田靖春。
深代惇郎は四十六才の時、急性骨髄性白血病であっという間に死んでしまった。
今の天声人語は深代惇郎に比べたらただの「へ」みたいなものだ。
この国からジャーナリストは消えてしまった。「そして誰もいなくなった」そんな映画があったはずだ。この国から気骨ある人間が消えてしまった。
「現在を見誤るのは、過去に無知だから」という、無知の人がハシャギ回るこの国の明日を亡き深代惇郎はあの世でどう書いているだろうか。(文中敬称略)
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