「悪魔みたいな人間」という存在は多く知っている。
私も人から悪魔の如く思われている存在の一人だ。
さて、「善魔」という存在を知っていますか。
とにかく徹底的に善い人なのだ。
純粋で、純朴で、素直で、気高く、慈愛にあふれ情愛が噴出しまくるのだ。
こんな人がいるのかいないのかを描いた映画が木下恵介の「善魔」だ。
撮影は勿論名人、楠田浩之なのだ。1951年松竹の作品だ。
名優三國連太郎の新人第一作であり、若い新聞記者役である。
その記者役の名が三国連太郎でありその後その名を役者名とした記念すべき作品である。
六月二十一日朝4時頃から観た。
その前にアメリカの大学であった実話からインスパイアされた。
「神は死んだのか」を観た。無神論者の教授と有神論者の学生とのディベートだ。
聖書の言葉が次々と出る。
尊敬している友人の教授から送っていただいて以来、青い聖書を仕事場の座右の書としているので出るたびに少しずつ読み、少しずつ忘れてしまう。
私はいつまで経っても不出来なのだ。私にはイエスもノーもない。
さて「善魔」なのだが、劇中新聞社の上司である社会部長(森雅之)がこんな言葉をいう。世の中で素直ほど厄介なものはない。
悪魔は分かりやすいが、悪魔は分かりにくいと。
木下恵介は、大学時代に恋心を持った女性ですら冷徹にスクープの対象とする。
決して悪人ではないが現実的でしたたかな社会部長をより人間的に描く。
一方新人記者の三国連太郎はスクープの対象である女性の妹を徹底的に愛してしまう。
悲しいかなその妹は二十歳を前に病気で死んでしまう。
だが僕はどうしても結婚するんだといって、なんと処女のまま死んだ妹と結婚をする。
姉役(淡島千景)、父役(笠智衆)、妹役(桂木洋子)。
富士山が美しく見えるモノクロームな山の中、社会部長はその場を去って行く。
彼は官僚の力で出版局参与という閑職に追いやられるのだがそれを現実として受け入れて行く。善と悪、現実と非現実とを見事に描いていた。そして結婚とは何かを。
ある人はいう、世に人に好かれたく善い人ぶっている者ほど始末の悪い人はいないと。
いざという時にいつだって沈黙する神こそ善い人ぶっている始末の悪いいちばんの存在だと(神がいればだが)。
六月二十日(日)早朝映画を見終わりそのまま少々時間をつぶした後、孫の野球の応援に行った。平塚の山の中にある日本トラック協会総合野球場、リーグ戦の第一戦、相手は横浜の港北から来たチームだ。
相手は23人、当方は13人。
0対0でむかえた最終回一点を取りそれを守り切って1対0で勝った。
雨の中応援するのは20人ほどのチーム関係者。
コーチや当番のお母さんたち以外では私一人のようであった。
私はどこへでも行く。
雨に濡れますからテントの中に入って下さいとお母さんたちにいわれた。
最終回に神はいたのかもしれない。