小学生の頃、一番勉強の出来る男子生徒と一番勉強の出来る女子生徒がいた。
男子生徒は四角い顔をしていつも目をしばたいていたが、勉強は満点ばかりであった。
おかっぱ頭で(今ならボブヘア)小さくてかわいい女子生徒も満点ばかりであった。
みんながそういっていた。女子生徒は男子生徒の憧れであった。
私といえば一番不出来であった。
男子生徒はやがて東大から東大大学院まで行き、どういう訳か外資系の広告マンになった。女子生徒は有名私大で英米文学の教授として現在も活躍中だ(現役なのでどのコースを歩んだのかは秘す)。
勉強の出来る人間と私のような出来ない人間はどこがどう違うのだろうか。
それは授業に集中し、ノオトをしっかりとり、予習復讐をしっかりするんだとなるのだが私はそればかりでないと思う。
中学三年生の時、私の隣に女子生徒がいた。
美人ではないが字がペン習字の見本より美しかった。
この女子生徒は、中学二年、三年の時、東大学力増進会の九科目のテストで900満点をとり続けた。国語、英語、社会、保健体育、音楽、理科、数学、美術、家庭科であったと思う。確か新聞に載って校長を喜ばせた。
オイ見せろよ、とテストの時よく突いた。カンニングさせろということだ。
オイ見せろってばといって困らせた。ある日職員室に呼び出されこっぴどく叱られた。
中学を卒業して二年ほど経った時、美しい字の手紙が来た。
詳しくは忘れたが、すみませんでした、みたいな手紙だった。
名前はちゃんと憶えている、近藤素子さん。
それから何年か経った時、御茶ノ水女子大にいると聞いた。
やはり中学の同級生でいつも一緒に遊んでいた男子生徒はいつ勉強しているか分かんなかったが、東大に入った。
「神」だ学問の神が彼等、彼女に学ぶ役目を与えたのだ。
私には遊ぶ役目を与えたのだ。突然なんでこんなことを書くかといえば、ノーベル賞を受賞した人の話を呼んだり、聞いたり、顔を見たりしていると「神」が見えるのだ。
神がかりという言葉に行きつくのだ。
「神」は天上から学問に向いている人間を見分けてこの人間にと目をつけて選び抜くのだ。私はそう思うことにしている。私はバカな役を与えられたのでバカを通して行く。
ひょっとすると人間は死なないことになるかもしれない。
選ばれた人間が努力を重ね、劇的な、あるいわ奇跡的大発見をして。
オイお前いくつになった、オレか来年で二〇八歳だよ、キミは幾つになるの、えっ、アタシは来年で一八九歳よ、イヤダ女性に歳なんて聞くもんじゃないわよ、オホホ…。
こんな会話の世界になるかもしれない。この時「神」はどんな決断をするだろうか。
死が無くなると「神」の存在理由が無くなってしまうから。