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2018年3月20日火曜日

「甘く見ると」


南北朝時代乱世の頃、武士は武士と呼ばれず「悪党」と言われた。裏切ったり、寝返ったり、逃げたり出たりを繰り返してた「足利尊氏」が室町幕府をつくった後、悪党は武士と呼ばれるようになった。
足利幕府とも言われる。その足利尊氏(アシカガタカウジ)の執権(NO.2)に高師直(コウノモロナオ)という武士になりきれない悪党がいた。
塩谷判官という役人に美しい奥方がいた。高師直はひとかたならぬ思いを持っていたのだろう。ある夜、奥方が入浴しているのをのぞき見する。
この話は今も歌舞伎の演目としてある。
悪党だった高師直がどんな最後を遂げたかは多分想像通りだ。前川元文科省事務次官が悪党たちによって、学校での講演内容をいわばのぞき見された。あるいわ密告(チクル)させた。
新聞、テレビの現場に不法介入し、マスコミを封殺。コノヤローと思ったMCやコメンテーターは姿を消した。悪党たちが手を焼いているのが、週刊文春や新潮などの雑誌だ。
かつて梶山季之(カジヤマトシユキ)がそのリーダーだった”トップ屋”という独立愚連隊のようなモノ書きがいた。独自の取材力で、スクープ記事になるネタを仕入れて、それを書き雑誌社に売り込むのだ。
梶山季之には四天王がいた。その一人にある会社の取材物を手伝ってもらっていたのを思い出す。いつも上着のポケットにウイスキーのポケット瓶を二つ入れ、塩豆の袋を持ち、ウイスキーをキャップの中に入れて朝からチビチビと飲み、塩豆をポリポリとかじっていた。
悪党の裏、その裏、そのまた裏をあぶり出してやる、そして地獄を見せてやるんだと、ボッソリと言っていた。が、取材三回目(確か)が終った後、肝硬変で死んだ、未だ五十才位だった。
「黒の試走車」という自動車業界の秘密の世界を書いて、梶山季之は直木賞候補となり、一躍トップ屋”梶山軍団”は有名になった。黒の試走車は産業スパイという言葉を世に出し、大映で映画化され大ヒットした。
主役は田宮二郎だった。文壇でいちばん銀座でモテたのが、吉行淳之介と言われているが、梶山季之はもっとモテたと伝えられた。週刊誌の記者たちは今でもトップ屋的魂があり、権力何するものぞの気迫がある。但し殆どは人のスキャンダルばかり(男女関係)だ。
週刊誌がいちばん売れるのが、(一)に離婚、(二)に不倫、(三)に二股、三股である。人間という悪党は、高師直的のぞき見習性が誰にでもある。
そのことをデバガメとも言う。
壁に耳あり、障子に目あり、裏切り者はいちばん近くにありと決まっている。
そいつはユダであり、ブルータスよお前もかなのである。
官僚組織を甘く見ると、とんでもない事が世に流出する。これから続々と・・・。
(文中敬称略)

2018年3月19日月曜日

「刊」の中の「リ」について



春なのにつるべ落とし、内閣支持率が急落しはじめた。
どうせ日本国民は一ヶ月もすれば忘れるだろう、と思っているかも知れない。
事実に日本国民は忘れることが習性のようなところがある。三権分立すら忘れている。
一つの事が起きると、どこもかしこも一斉にその話題で、ワァーワァーと大騒ぎになる。その昔税務署に徹底的にイジメられた経験がある。解釈の違いが通らない。
まるで刑事かよと思うほど調べられた。
延々と続いたバトルの結果は実にこの国の官僚システムが鉄の規律があるようなことを体験した。
上から下へは絶対の指示である。軍の掟のようでもある。
中国に未だ紙ができていない時代、重要な文書は、竹とか木に書かれた。
消しゴムとか修正液のない時代だから、誤字や修正をする時は、文字を削り落としそこ(改たな?文書を書き書いた?)
出版社から発行するという「刑」の文字に「リ」の部分があるのは、そこから来ているらしい。
刑罪の刑も同じ「リ」の部分があるから公式な文書を勝手に削り落としたり書き換えたりすると、重罪であったはずだ。研究者や評論家、小説家をはじめモノ書きが書いたオリジナルの文章は一言一句、書き手のものであり、出版社は勝手に書き換えたり、削除は許されない。
かつて小説家は文士と言われた。
武士の魂を持っていたのだ。
この頃はこの魂はかなり怪しい。
が現代でも一文字に命をかけている文士もいる。
我が国のNO.1とNO.2が、今、「刑」の対象となっている。
我々は身を削る思いで日々四苦八苦で生きている。
もはや削れるところは骨の髄にもない。政と官が五分と五分で渡り合わなければ、真の国政とは言えない。
政も官も怒れと言いたい。
寛容な国民もいよいよ頭から角が出て来た。
落ちて来たつるべで、アタマを打たれ終わった政権になる時は近い。



2018年3月15日木曜日

「牛丼、今道子先生、ちらし寿司」


午後八時五分新橋駅、定刻通り沼津行が入線して来た。
昨日も又、財務大臣が佐川が、佐川が、佐川がを聞いて見苦しくうんざりだった。
又、改ざんされた、公文書に対し妻に聞いてみたら、そんなことは言ってないと言っていた。
だから関係してないと、これまた見苦しくうんざりだった。
列車が入線する前グリーン車に乗って座って帰ろうと、数分行列の後に並びながら、
細長く畳んだ夕刊を見ると英国では1000年分の公文書が保管されてあり、国民はいつでもそれを閲覧できると書いてあった。
公文書とは国家国民の公式文書であり、一文字たりとも改ざんは許されない。
今回の信じがたいケースは、例えで言うなら、六法全書を改ざんするようなものであろうか。
この国は一体全体どうなってるんだと思いながらホームいっぱいの人、人、人の中に居た。
殆ど無言であって、殆どスマホを見ている。こりゃ多分グリーン車も座れないなと思っていた。
入線して来た沼津行きはやはりぎっしり満員であった。
仕方ない、一度外に出て一杯飲むかと思ったが、早く家に帰ってやることがある。で、行列のルール通り順番に乗り込んだ。
立っていても980円の特別料金はしっかりとられる。
さて満員のグリーン車の中で、吉野家の牛丼を食べている人を想像して下さい。
最前列進行方向右側の窓側、年は二十六、七才、小さくて、細くてメガネをかけている。
誰かに似ている。そうだ芥川賞作家の芸人又吉直樹さんだ。勿論別人なのだが、テイクアウトしてきたであろう牛丼を、
ガツガツと食べているではないか、隣りに座っている中年のオジサンは、不快の極みのようにそれをニラミつけている。
心がイライラ、ムラムラと乱れているのが、立っている私に伝わってくる。
牛丼の臭いがプーンとする。
小さなビニール袋に入った紅しょうがを出して、割り箸でチョンチョンとつまみとりながら口に入れる。
オッオッと見ると生玉子のせであって、残り半分位になった、肉、タマネギ、紅しょうがとビビンバ状態にしていくではないか。
ビビンバとはかきまぜるであるからだ。
手の動きが箸と共にワサワサとする。
隣りのオジサンはいよいよ肩をゆすって、オレはヒジョーに不快だと表す。ズレたメガネを指で直しながら、
その若者のデイナーは続く。何だか腹が減ったなという気になり、やけに吉野家の牛丼か、牛すき膳が食べたくなっていた。
ラッキーなことに川崎で黒い大きなバックを持っていた男が、すいませんちょっとと言って立ち上がった。
つまり席が空いた。おおなんと川崎でと思いよろこんで座った。
そして私はいつも下りる辻堂駅を通過し、次の茅ヶ崎駅で下りた。
Why何故か、茅ヶ崎駅南口長谷川書店と浜田屋の間には、吉野家があるのだ。午後九時十七分十九分秒、私はそこに吸い込まれていた。
スイマセンとおだやかに若い娘さん(バイト嬢)に、特盛、ごはん半分、それにお新香と、生玉子単品でと注文をしたのだった。
朝日新聞はもともと司法に強い。検察のリークは朝日へと決まっている。そんなことを思っていた。
ひとまずレジ横にある水道と、緑色の液体石けん(?)で手を洗った。
やけに汚れていた。何だか気が重くなった。
安い、旨い、早い。特盛がすぐにテーブルの上に登場した。昨日友人と鎌倉在住の写真家「今道子」さんの個展を見に行った。
アジ、サバ、イワシ、コハダ、アナゴなど魚を使い、人形、鳥たち、果物と共にこれ以上ないという驚異の発想で、異次元の世界を生む。
フツーの人は言葉を見失う。
最高の栄誉木村伊兵衛賞をはじめ、幾多の賞を受けている。
クリエイターは絶対見るべし。昼食は当然、私の大好きな新富町、「寿し辰」のちらし寿司であった。
これも又、実に芸術的作品のように、美しい。







※画像はイメージです。




2018年3月13日火曜日

「罪務省」



これは通説であった。
道産ん子といえば、”逞しい”東北県人といえば”粘り強い”関東県人と言えば”田舎武士”但し福島県人は武士の鑑みと言われた。
静岡県人は出世欲がなく日本一温和と言われた。
愛知県は天下人を出すほど才気と商才があり、大阪人はいつでも明るく、浪花の土根性といわれる。越中富山は情報通、紀州和歌山は山の民と海の民が混在していて、複雑な一面がある。水戸と紀州は徳川御三家なのでプライドが高く、教育が進んでいて特に水戸は過激思想を生んだ。
”水戸っぽ”と言われた。京都人は京都人以外は”へ”みたいな存在である。何しろ京都には御所があった。特に洛中の京都人は他を寄せ付けない。山陽、山陰は読んで字の如くである。
又、日本の神話の主でもある。本州の南の端山口県人は議論大好きで、談論風発が永遠と続く。四国4県はそれぞれ特徴がある。特に土佐っぽと言えば、酔鯨と言われるほど酒が好きであり、女性はその男を尻に敷くほど強い。村上水軍を生んだほど戦闘的なのが四国人でもあり、特に船造りは有名だ。
さて、前置きが長くなったが、九州男児である。
無法松の一生で有名なように、男一代である。川筋者といえば九州男児の代名詞であり、侠客の見本吉田磯吉という大親分を生んだ。今大河ドラマでやっている”西郷どん”の鹿児島はイモ侍、薩摩隼人とも言われた。鹿児島といえば島津、島津といえば日本最強と言われた。
鹿児島は独立国であった。
話を前にもどす。九州男児として恥ずべき男が財務大臣、麻生太郎である。佐川がよ、佐川がよと、自らの部下に罪をかぶせて自分は逃げを打つ。
最低の男で、きっと本物の九州男児からコケ(バカにされる)にされているだろう。きっと自分は安倍総理夫妻の被害者だ、と思っているのだろう。
だが自分の名前や派閥の人間の名も出ていた。そこで俺が腹を切る!とひと言発すればかなり男を上げたはずだ。マアとてもそう言える器量はないだろう。
残り少ない政治家人生の晩節を見事に汚した。その名は恥ずべき男の代名詞として後世まで残るだろう。私には男の中の男のような、九州男児の知人、友人は多い。皆決して逃げを打たない。それにしてもこの国の官邸政治は醜い状態となっている。
そしてそれを追求する野党の面々を見ると愕然とする。
日本国は今、応仁の時代に戻ったようである。他県のことは後日書く。
そういえば、明治維新の立役者、長州人代表木戸孝允は、桂小五郎と呼ばれた時代は、逃げを打つ天才であったようだ。時事通信の田崎史郎という官邸ヨイショ男の姿は見るに耐えない
どの県の出身だろうか。
財務省は罪務省となるも我々から税金をしぼり取る。

(文中敬称略)

2018年3月12日月曜日

「孤独担当大臣」

昨日三月十一日は東日本大震災の日、つまり七回忌であった。
「辛」いという文字に横一文字を加えると、「幸」となる。「歩」くという文字を分けると、「止」と「少」となる。七年前に生まれた新しい命もある。
新しい勇気もある。新しい友情や、新しい愛との出会いもある。辛い事も多いが幸せに向って、「止」まることなく「少」しづつ歩んで行こう。
歩くという字はそういう意味でもある。
大歌手であり、大金持ちで大馬主でもある歌手北島三郎さんの息子さんが、孤独死をしていたというニュースを見て、北島さんの持ち馬で昨年の年度代表馬「キタサンブラック」という名の中にある。”ブラック”という四文字に不吉を感じた。父親より三十歳近く若い五十一歳であった。大ヒット曲「風雪ながれ旅」を唄う北島三郎さんは正に絶唱、絶品で、私は大好きである。
東日本大震災の被災地では、

孤独死が多い。否、日本中で孤独死が多い世の中となった。
人口約6500万人の国英国では、900万人が孤独を感じ、65歳以上のうち360万人が、「テレビが主な友達」だという。その英国に「孤独担当相」が設置された。
孤独は伝染する病。テクノロジーで最も人とつながる時代なのに、デジタル化が進み、人と人が直接つながらない世の中となったのが、原因の一つだと言う。
経済協力機構(OECD)が21カ国を調べたところ、「友達や同僚と過ごす時間があまりない」と答えた男性は日本がトップ、女性もメキシコに次いで2位、日本は世界で最も孤独な国の1つなのだ。(日経2月19日/福山絵里子さんのコラムより抜粋)”孤独のグルメ”という番組があり、私はよくそれを見て安くて旨い店を知る。マンガが原作のようだが、この主人公も孤独死となるのだろうか。
永井荷風のように。(この大作家はまい日大黒屋のカツ丼であった)結婚をしない若者が増え続ける。一方老人となった孤独身の男性と女性が、ホテルなどで婚活をする。日本にも、「孤独担当大臣」が必要なのだ。デジタル化した社会は歪んでいく。ご近所づき合いも無くなって行く。
北島三郎さんが「風雪ながれ旅」を唄う時、舞台には吹雪が乱舞する。
それは白い雪であって、キタサンブラック(黒い喪服を着た、北島さん)ではない。
人生とは辛く、そして皮肉である。孤独に強くならねばならない。仙台出身の人気芸人、”サンドウィッチマン”の二人が立ち上げた、基金に4億円以上が全国から集まったという記事を読んで、この二人を孤独担当大臣にしたらと思った。名コンビがきっと明るいアイデアを出しまくってくれるはずだ。
復興大臣の名も顔も浮かばない。ヨシ!今日はサンドウィッチを食べよう。



2018年3月1日木曜日

「目玉焼きとノザキのコンビーフ」

この世にこんなに美味しい食べ物はなかった。
と言ったのは、美輪明宏さんであった。私は丸山明宏さんの方がなじみやすい。
ある食べ物番組のゲストとして、メケメケとかヨイトマケの唄で有名な美輪明宏さんが出演していた。先週の土曜日の夜十一時半~十二時であった。美輪明宏さんは長崎県出身であったから、やはり思い出の食べ物となると、チャンポンと皿うどんであった。なんだフツーじゃないかと思ったのだが、やはりフツーじゃなかった。
最も美味しいと思った一品として、目玉焼きと共に皿にのったコンビーフと言った。
(二つで一品料理)目玉焼きは実はむずかしいのだ。
例えば結婚してすぐにシマッタこの女性とは結婚すべきでなかったと思うのが、ある調査によると(私ひとりです)目玉焼きが上手いか、下手かにある。
白身の部分が円形か、あるいわ異型か、黄身の部分が固すぎないか、はたまたグニョグニョでないか。それは円形の白身のまん中あたりにちゃんとあるか否か。
又目玉焼きの引き立て役(あるいわ主役)としてコンビーフが何気なくあるか否か。
ロースハムエッグなどは邪道である。
又、目玉焼きにプチトマトとか、パセリやセロリ、いわんやレタスなどは論外である。
白い大きめな皿に、目玉焼きのみ、そのすこし離れたところにコンビーフが何気なくあるか否か。
美輪明宏さんはこんな目玉焼きをはじめて食べた時の思い出を語っていた。
コンビーフといえばなんと言ってもノザキのコンビーフと大六法、小六法全書に載っている(ウソです。)
私にとってはノザキのコンビーフ、それも台形が法律である。
何故台形になったかと言うと、保存性を高めるため。
面積が大きい側から肉を詰めることで缶の空気を抜き、肉の酸化を防ぐのだと、ノザキのコンビーフの人が言っている。11年にプルトップ式ができたが、やはり巻き取り鍵式でないとダメだとファンは声を大にして言っているらしい。
コンビーフは誰が考案したか知らないが、実にアイデア抜群の開け方ができるのだ。
黄身の部分にお箸の先かナイフでプチッと刺すと、かなりもったいぶって黄身が割れて、白身の部分にとろり、どろりとしたたり落ちる。
白身の円形のふちにはほんのりと焼きコゲがある。
目玉焼き三回にコンビーフ一回位のリズムで食べるとベストである。
私は目玉焼きをつくらせたらかなりのものである。
火加減が命、フライパンの大きさ、ちゃんと水平か。玉子を落とす高さ、油の温度。
フタをするタイミング、勿論油の量が決め手となる。
バターはダメ。ゴマ油もダメ。
日清オイリオ(綿実油)がいいのだ。
目玉焼きは一流シェフでもむずかしいのだ。ぜひやってトーライ。そしてノザキのコンビーフのご用意を。
ちなみに目玉焼きは一皿に一つが基本です。明日から一週間、少々とり混んでいますので400字のリングは休筆します。

2018年2月27日火曜日

「東大安田講堂」

40度の熱まで出さなくてもいいが、38度位の熱を今の若い人に出してほしい。
そう語ったのは、かつて東大全共闘の学生が安田講堂に立てこもり、三十八時間の攻防をした、その時の警察関係の指揮官であり、その後連合赤軍あさま山荘立てこもり事件で指揮を執り、あの有名な鉄の球で攻撃をした人間である。今の若者はあまりにも怒りを忘れていると。
二月十九日私の仕事場に防災関係の仕事をしているNPOの代表や、防災用品を販売している社長。大地震に備えて防災の会社を経営している社長。
音楽を通して防災活動をしている音楽出版の会社社長が集った。
そしてもう一人東大全共闘安田講堂立てこもり事件の中で、もっとも激しい攻防をした「列品館」の守備隊長をしていた人だ。東大落域を防ぐために応援にかけつけた。
最強部隊のリーダーであった。
警察の催涙弾水平撃ちが、一人の学生の片目に命中した。
それまでは消防部隊の放水と上空ヘリコプターからの放水、催涙弾は上に向けて撃ち入れていた、が学生たちの攻撃は警察の想像をはるかに超えていた。
私とそのリーダーとの仲は長い付き合いである。
そのリーダーは列品館屋上から片目に催涙弾が命中した、命が危ない、休戦を申し入れると有名な演説をした。取材していたマスコミも休戦させようと声高に叫びを集中した。板のようなものに乗せられた学生は、ロープで縛られ地上に下ろされた。その間攻防は止み正に休戦となった。リーダーだった人はその後四年間前橋刑務所に入所した。学生運動家の中でこの人を知らない者はモグリである。
安田講堂事件で一番長く服役したので、ある意味スターであり、テレビ取材をいくつも受けた。この人は私が幅広く仕事をさせていただいた。大手電鉄系広告代理店の営業やプロモーションの局長になり、やがて系列会社の役員までになって活躍した。「いつの時代も青年が時代を動かして来たんだ、今の若い人は、もっと怒れ」と言う。東大安田講堂事件から五十年近く経った時、いみじくも立てこもった学生側のリーダーと、攻め続けた警察側のリーダーが、同じことを言ってこの世の今を心配する。その頃のフィルムを見た現代の学生たちは、意味がないじゃんと言う。
何も変わらないでしょと諦めているのだ。久々にお会いしたら自分が取材されていたテレビ番組や、ドキュメンタリーフィルムを五本(DVD5枚)持って来た。
家に帰って約四時間半一気に見た。
二枚は今行っている地域防災の活動であった。
根っからの活動家なのだろう。
学生運動も防災活動も正しいと信じて熱血活動をする
私も今防災活動をライフワークにして各活動を応援している。
私とリーダーとは相性が抜群に合う。何故なら共に闘うことが大好きな性分だからだ。防災活動の一番のネックは」やはりお役所仕事とマンション管理組合の問題、それとまさか自分たちが被災することはないという、不思議な安全感と、ややこしいご近所付き合いはしたくないという感情だ。
こういう人たちは、もしもの事が起きた時、まっ先に人のせいにする
安田講堂のリーダーは広告代理店でも抜群の活躍をして、ある年一発数十億の某大手自動車会社のプレゼンテーションに勝った。能書きが多いのが特徴の業界では、プレゼンテーションに勝つことが最大の戦果であり、勲章となる。ちなみに学生たちに攻撃命令を出し、鉄の球を打ち込んで、38度位の熱で怒ってほしいと語ったのが、伝説の警察官僚である。東大OBが東大の後輩たちに徹底攻撃したという劇的なことであった。私は力強いリーダーシップを持つ味方と共に、防災活動にアイデアを提供する。
自助、共助、公助を目指して。大地震は必ず来る。昨日は二二六事件の日であった。


2018年2月23日金曜日

「酒敵と忘憂の友」



昨日 二十二日は私にとって複雑な日だった。
親友の命日であり、愛する孫娘の誕生日だった。
朝仕事仲間と麻布十番「更科堀井」店の前で待ち合わせて、二人で墓を参る。
粉雪が舞っていた。麻布浄苑の納骨堂もは、一体20センチ程の木の仏像がスズメバチの巣のように集合している。
いつもお茶を出してくれるご婦人がいない。聞けば先日急死したとか。仲間二人と「堀井」に戻り、酒を一合交わし献杯をする。午後十二時頃店内はほぼ満席であった。私には大親友が三人いた。
一人は十六歳で出会い五十三年間ずっと付き合った。
六十九歳癌で死んだ。もう一人は、三十二歳の時からの付き合いであった。三十年ずっと付き合った。六十二歳癌で死んだ。そしてもう一人が二十二日墓を参った友である。六十三歳癌で死んだ。一人は酒と喧嘩に明け暮れた最強の友であった。一年中一緒にいた。朝から朝まで。
一人は今いる業界に入った時からあらゆる仕事を一緒にした。
徹夜、徹夜の仲である。私が行き詰まった時、体をかけて救けてくれた。最高の友であった。
一人は私の先生である。ありとあらゆることを教えてくれた。
最愛の友であった。
つまり私は大親友を三人共癌で失った。粉雪はハラハラと舞っていた。
夜孫娘のところに誕生日の御祝に行った。スクスクと成長していて、プレゼントに持っていった服がすでに小さくてパンパンであり、持ち帰ることとなった。
男と男が旨い酒を交わす仲を「酒敵」という。
又、中国では酒のことを「忘憂」という。「忘憂の友」とは、旨い酒を交わす仲の別の呼び名である。
苦あれば楽あり、苦には四苦八苦があり、楽には極楽がある。
二月二十三日、やけに寒い、今夜は誰れを「酒敵」にするか、「忘憂の友」にするか。そんなことを思いながら銀座を歩いて、服を交換してもらった。
亡き母は私がいよいよどん詰まりになった時、こう言った。
「ケ・セ・ラ・セ・ヨ」と。世の中はなるようにしかならない。





※画像はイメージです。


2018年2月22日木曜日

「ある歌人」


絵に描いたような幸せは、実は絵にも描けない。

生きているのがまるで地獄のようだと思っている内は、実は未だ地獄の中ではない。
ある人は言う、大変だ、大変だと言っている内は大丈夫、本当に大変な時は大変という言葉すら出ない。
一人の歌人のドキュメンタリー映像を見た。
早稲田大学文学部を出たその人は、ある会社に入社するが、売上げの数字に追われる日々に耐えられなくなり、退社してタクシードライバーになる。
家には要介護(3)の母親をおいて。
すでに認知症になっていて一人だけにしておくには心配である。
が稼がなければ生きていけない。
五十歳を超えたであろうそのタクシードライバーは、クルマの中から見る、渋谷、新宿、銀座など夜の人間模様や、人間の生態を短歌にしてメモに書く、その短歌が、歌壇で認められ一つの賞を受賞する。
だからと言ってタクシードライバーの日常が変わる訳ではない、母親のために食事を作り、トイレに行くのに間違いがないように導線のロープを張る。
母親は誰も隣りにいないのに何かを語りかける。
タクシードライバーは夜が稼ぎ時、なかなか眠らない母親を一時間以上かけて眠りにつかせる。
ため息ともつかない息をつく、街には雑踏と雑然があり、酔態と俗悪がある。
無言の人々が駅の改札口に向い、その横のビルの中では、フィットネスやランニングをしている。
若い男女は抱き合いキスを重ね、怪し気な中年男は、派手なコスチュームの女性をホテルに誘う。ネオンの花が咲き乱れる中、タクシードライバーは、絵にも描けない世界を歌にして書き続ける。母と息子その血の繋がり、現実は逃避を許さない。
お母さん行ってくるからねとの声をかけるも、母には息子の愛は認知されない。
無言ほど心に刺さる言葉はない。人間ぜいたくを言ったらきりがない。
小さな幸せを大きな幸せと感じて行こう。



※画像はイメージです。


2018年2月20日火曜日

「木材店と梅ジャム」

木曽路はみんな山の中。
こんな書き出しで始まる小説があった。(書き出しではなく文中かもしれない)
この短い言葉に日本という国が森林大国であることをイメージした。
少年の頃住んでいた東京都杉並区天沼三丁目には木材店があった。その頃どの町にも木材店があった。木材の香りは町の香りでもあった。四角い木材はやや斜めに店の前に並んでいた。店の中では何人かのやけに強そうな男の人がカンナで木材を削っていた。男の人の足もとにはカンナくずがクルクル巻きになって落ちていた。男の人は時々カンナを目の前にして刃の出具合いを見てトンカチでカンナの後を叩いた。
材店の中の香りが大好きで私はよく行った。
確か隣りには浜名屋という日本そば屋さんがあり、魚藤という魚屋さんがあった。
その前には大橋豆腐店があり、三州屋という酒屋さんがあった。三原という八百屋さんもあった。
木材店の名だけが今思い出せない。何故だろうか。木材の香りと独特の臭いは憶えているのに。貧しき家でのお使いは、魚藤で魚のアラを買い。大橋豆腐店でおからを買い、三州屋でお醤油を買う。
更に浜名屋でうどん玉を買い、三原で白菜、人参、大根などを買った。
少年の手にはかなり重い。下宿屋みたいに二階の一部を食事付で貸していた。
お金があった頃はお手伝いさんが住んでいたという離れがあり、そこも人に貸していた。
兄姉六人と母、それに下宿人二人分を買った。楽しみは木材店に寄ってカンナくずをもらう事だった。
当時は電動ノコギリはない。腕のいい職人さんたちが削ったカンナくずは、薄く、長く、カール(クルクル)が大きい。食べてしまいたいほどで、まるで上質のカツオ節みたいだった。
カンナくずはたき火おこしに最適であり、ガキ同士が集まってたき火をしてはヤキイモを作った。
日本は世界一の森林国なのに外国から木材を輸入する、特に新建材が輸入されるようになって、木材店は町から姿をなくしはじめた。国の政策がトンチンカンだったのだ。
月六日日経新聞の記事を読むと、林業従事者は4万5千人、25年前の10万人から半減した。
しかも担い手の4人に1人が65歳以上だとあった。
木は成長しすぎれば倒木の危険があり、加工して流通してもコストがかさむ、森林の6割以上は伐採期を迎えているが利用されていない。倒木が進む。
大洪水の時無数の倒木が流れて未曾有の大被害が出ているのは、山を大切にせずに放っておいた無策のせいだ。地方創生というが、その第一は森林創生にあると言っても過言ではない。
いい山は、いい川を生みいい海を育てる。いい海にはいい魚たちが集まる。
いいことばかりなのに何をやってんだと言いたい。かつて木材の下りの勇壮な姿があった。
激流の中、屈強な山の男たちが筏の上に乗り川を下った。今、町には香りがない、風情は何もない。
コンビニだけが異様にある。天沼税務署前にノコギリ屋さんがあった。
オジサンは両足先でノコギリをはさみ、職人さんから頼まれたノコギリの刃の手入れをしていた。舐石屋さんというオジさんが来て、木材店のカンナや、魚藤さんの包丁を研いでいた。
ガキの頃のお使いは重かったが楽しい日々でもあった。
お駄賃の10円を持ってお菓子屋さんで、ソースせんべいや梅ジャムせんべいを買って食べた。
日本で唯一の梅ジャムを作っていた一人のオジサンが16才から始めて70年、遂に引退することを昨日帰宅して知った。レシピは未公開、自分で作り始めたものは、自分と共に終る。
そんな意味のことを梅ジャム生みの親は語っていた。
木材の香り、梅ジャムの味、この国はどんどん大切なものを失って行く。