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2019年8月5日月曜日

「アルファ」

週末から月曜日朝まで映画ばかり見た。何しろ外は猛暑である。「沈黙、愛」「J・D・サリンジャー」「スノーマン」「アルファ」「バグダッド・スキャンダル」「モーターギャング」「インモラル・ルーム」の7本である。人から受けた恩をちゃんと返せずに来ている私にとって、この1本は泣けるほどよかった(「アルファ」)。「アルファ」は奇跡的な映画であった。どうやってこんなすばらしい映像が撮れたのだろうか。物語は2万年前のヨーロッパとスーパーが出て始まる。極寒の山地に住む一族の長には一人の息子がいる。男たちは食料を求めて狩猟の旅に出る。息子の名は「ケダ」。彼は父と違ってやさしい。それゆえ、父はケダが心配だ。火を起こすこともできず、鋭い矢じりも作れない。この旅で一族の長の息子としての証明をしなければならない。男たちは広大な雪山の中を進む。目指すのは、野牛の群れであり、その野牛を崖まで追い込んで、墜落させて大量死させる。一種の追い込み猟である。空には大鷲の大群、大地には狼の大群が男たちの命と、野牛の死を追う。超絶的雪山の中の映像、猛吹雪、雪崩れがつづく。ついに男たちは野牛の群れを発見して、崖まで追い込む。そして野牛たちは墜落する。と、同時にケダも落下して数十メートル下の岩のところで動かなくなる。父は息子に大きな声をかけつづける。が、一族の者たちから、もう死んでいると告げられ、早く崖下に行って獲物を運ぶことになる。崖下には一頭の傷ついた狼もいた。男たちは岩を積んでケダに別れを告げて去って行く。日が経ち、ケダは息を吹き返す。死んではいなかった。ケダは大雨で瀧のようになった崖下に飛び下りて河岸にたどりつく。そこに傷ついた狼がいた。ケダは自分の傷を手当てしながら、狼の傷を治そうとする。牙をむく狼、ケダはあきらめずに狼の傷を治す。この狼は大地の群れのリーダーだった。狼は遠吠えで自分の仲間たちに指令を送る。父がケダにいつも教えていた、一族の長になる者の心得は、勇気ある者たれ、仲間のために命をかけると。狼のリーダーはそんなものがなっているのだ。一声で群れを動かす。この狼とケダはまるで愛犬家とその愛犬のような仲となっていく。狼がまるで賢いシェパードのように演技する。泣けるほどケダにつくす。どうやって撮影したのだろうか。息を飲むほど美しい雪の山脈。嵐のような雪、大地ではリカオンの群れが命を狙って追って来る。ケダは狼に「アルファ」と名づけていた。アルファは狼の仲間たちに、俺は大丈夫だ。あるやさしい男に命を助けられた。その恩を返す旅をしている。みんなで手伝ってくれ、そんな思いを込めて、岩穴の外から大地に向かって遠吠えをする。ケダとアルファは集落を目指して行く。と、まあこういう物語なのだが、狼という動物と、人間という動物が、恩と情によって結ばれることを教える。すっかり現代人が忘れてしまった大切なことを、見終わったあと学んだ。この途方もない映画をつくった人たちと、狼に拍手を送った。ぜひ、おススメの一作である。愛犬家が見たら、きっと大泣きするだろう。


2019年8月2日金曜日

「ペンとパン」

朝日新聞の人は自分たちを評してこう言う。「たかが朝日。されど朝日」。かつて新聞界の高級紙と言われた。インテリは朝日。ノンポリは毎日。大衆は読売。右翼は産経と言われた。無教養な私はずっと朝日を購読していたが、数年前から宅配を止めて駅売りで読むことにした。朝日の「天声人語」の名文に憧れていたのだが、すっかり駄文になってしまい、ワンパターンの書き方にダメ出しを出して止めた。また、夕刊の「素粒子」という名物読み物の酷さにアタマに来た。わずか150字ぐらいだが、これを書くのが朝日新聞記者の夢でもある。150字ぐらいで年収ん千万。昼頃出社してこれを書き終えると、会社のクルマで、高級レストランで美人とランチ。その後、銀座やどこぞへと消えるのだとか。朝日出身の記者の出版本に書いてあった。丸谷才一著の「女ざかり」では、朝日の天声人語みたいのを書く手法が書いてあった。映画では吉永小百合さんが主役を演じた。社内抗争ばかり、創業者とのバトルばかり、出世争いばかりしているうちに、ジャーナリズムとしての誇りも、プライドも使命感も大いに失ってしまった。残念無念でならない。国家権力のイジメに対する力も失った。そして誤報が続いた。ロイター・ジャーナリズム研究所は19年1月から2月にかけて、日本を含む世界38ヵ国・地域でどのようにニュースが読まれているかをインターネットで調査した。7万5千人あまりの回答、日本では2017人が回答した。15の代表的メディアブランドについて「信頼できるかどうか」を10点満点で答えてもらった。そのブランドを知っている中で、NHKが6.32点でトップ。次いで日経新聞が6.09点、日本テレビ5.95点、地方紙5.94点、朝日は5.39点で11位。6位の読売や産経8位、毎日の10位よりも下位に沈んだ。他の調査でも同様。ブランド信頼度が2年連続最下位であった(FACTA8月号70ページ)。これが何によるかは朝日の言い分も、いろいろあるだろう。が、いつまでもオレ様は朝日だと言っている場合ではない。朝・毎・読は30万部から20万部近くが毎年減紙している。地方紙の時代なのだ。もちろん、その地方紙も少子高齢化、新聞配達所の減少、新聞を読まない若者世代の影響で減紙が進んでいる。我々が生きる広告界でも新聞を読まない人間が多くなっている。新聞記者が一つのテーマに対して、体を張っていい記事を書いていけば、きっと読者は増えるはずだ。現在、日本の報道自由度は、国際機関からも強く指摘されるほど不自由な国となっている。ペンは銃よりも強い。こんな言葉は死語となっている。かつて「堺利彦」というジャーナリストがいた。自分の会社の名を「売文社」と名乗った。会社のシンボルマークは“パンにペンが刺さっていた”。ペンはパン(お金)より強いはずだから。



2019年7月31日水曜日

「タマシギ」と「一妻多夫制」

男は言う。「何でオレはお前みたいなオンナと結婚してしまったのだろうか、この広い世界の中で」。女性は言う。「何でよりによってアナタみたいなオトコと結婚したんだろうか。人生最大の失敗だわ」。男は言う。「一夫多妻制だったらよかったのにな。とりあえず別れないでやれるかも」。女性は言う。「一妻多夫制だったらとりあえず別れないであげられたかも」。この鳥の特性を知ったら、ついこんな会話が浮かんだ。鳥の名前は「タマシギ(玉鷸)」という。「一妻多夫の鳥」だ。全長24センチくらい、雌は美しい茶褐色。雄は地味な灰褐色。雌は産卵すると別れ雄を探して移動する。抱卵と子育ては雄だけが行う。留鳥または漂鳥として水田や休耕田に暮らす! タマシギ科。「コオー、コオー」と鳴くのは雌で、雄にラブコールをするらしい。求愛ディスプレイも雌が行うという。(東京新聞・探鳥 より抜粋)。この頃、男がかなり弱虫になっていると聞く。決して女性が強くなっているわけではない。女性はもともと男より強い。妻に先立たれた男は、すっかりしょげてしまい、青菜に塩みたいになってしまう。その逆に夫が先立ってくれた女性は、元気ハツラツオロナミンCみたいになる。女性とは男と別の生き物であるから、決して敵にしてはいけない。間違っても一夫多妻制だったら良かったのに、などと言うなかれだ。タマシギみたいな女性が、「コオー、コオー」と呼びかけても、強い意志を持って対応しなければならないのだ。結婚しない若者が多い時代となった。熟年離婚も多い時代となった。圧倒的に男が女性に捨てられるケースのほうが多いはずだ。若者はそんな大人たちを見て、幻滅しているのかもしれない。ある哲人はこう言った。女性は初めは処女の如く、その後は脱兎の如く。近づくときはウブでかわいく。逃げ出すときは、ウサギちゃんのように素早くハネて行く。今、訳あって結婚したいという若者と、訳あって熟年離婚したいという後輩が、私のところに相談に来ている。あんなに仲良かったのに、こんなに憎しみあっている。あんなにタイプじゃないと言っていたのに、手を握り合って歩いて来た。「何がジェーンに起こったか」。そんな映画のタイトルを思い出した。「歴史は夜作られる」。こんなタイトルの映画もあった。


2019年7月30日火曜日

「寝苦しき夜」

いきなり猛暑となり、私は睡眠難民となっている。いつも寝ている場所は、四畳間ぐらいである。一台のクーラーがあるのだが、かなりクーラーは高齢化して、湿度調整が不調となる。冷房27度か28度にすると、突然うなり声をあげて24度ぐらいまで下がる。何だこりゃと一度切る。と部屋の中はムシムシ状態となる。それじゃドライにするかと、ドライ+1、ドライ2とかを設定すると、やはり奇妙な音を発して、ドライ−1、2ぐらいになる。これがまた寒い。チキショウどうなってんだと思い、ついに枕を持って部屋を出て、家の中のスキ間を探すのだ。クーラーはもう30年以上使い、2度の転居を経験している。最新型の人工知能AIなどは装備していない。先夜はポタポタと水滴が落ちて、下に置いてあった水彩画の額縁の中に入り、絵をダメにしてしまった。時代おくれのイカレたクーラーは、まったく私自身のようであるなと思っている。ダイキンを呼んで相談したら、「もう限界です」と言われた。今度水滴がボタボタ状態になったら、最後の1台もオシマイとのことであった。オリンピック・パラリンピックを開催する国の国会内が、障害者の方々に対しての方策を、まったく考えていなかったことが分かった。エスカレーター、エレベーター、トイレ(多目的)サポート対策、何もかもが、健常者であることを前提としている。慣例第一主義の国会は男子優先であった。市川房枝さんが議員になった頃は、女子トイレがなかった。土井たか子さんが議長になった頃は、トイレが遠く走って行ったという。テレビの報道番組は急に人権的、ヒューマニストになり、特集を組んでしたり顔で、障害者の方々に同情の言葉と、国の怠慢を言う。国会内の支配者である国会議員は見た目は健常者であるが、脳内や性格が健常であるかは、大いに疑問である。「N国」や「れいわ新選組」が生まれた。今、「吉本から芸人を守る党」とか「ウナギの稚魚を守る党」とか「おかあちゃんから夫を守る党」などなどが声を大にしたら、一議席200万票はとれるだろう。SNSの時代は多党化の時代となる。「不眠解消党」が生まれたら、私は一票を投じてしまうかも知れない。

2019年7月27日土曜日

「大先生と大先輩」

昨日金曜日、かねてより約束をしていたことを果たし、“ほっと”した。旅打ちばかりしていたので、少々体もへばっていたのだが、チリが生んだノーベル賞受賞の詩人「パブロ・ネルーダ」のアンデス越えの逃亡劇の映画「ネルーダ」を木曜日深夜に見て、少々へばったなどと言っていられないと思った。詩人は革命家であり、エロ大好きであり、享楽主義者でもあった。つまり極めてフツーの人間的要素をその怪異な顔と姿の中に持っていた。午後12時〜2時。伝説の大先生親子と、靖国通り近く曙橋の名店「魚亭かみや」で、約束していた、鮎づくしを食した。店の主人は和の名人「神谷宗佑」さんである。稚鮎(串刺し)小型の鮎(塩焼き)そしてシメに大型の(鮎飯)ものであった。先生はご指定の冷酒。息子さんと私はノンアルコールビールであった。コリャ〜ウメェと先生は胃癌+食道癌にメゲずにすべて食した。こうなりゃ来年まで生きていなきゃと言って、よろこんでくれた。その4時間後、午後6時南青山のうなぎの名店「大江戸」に行った。大尊敬の大先輩は、現在悪性リンパと肝硬変と闘っている。腹水がたまると食欲はゼロ、北里病院へ行って2泊して腹水を抜いた後は食欲がでる。何回も何回もうなぎが食いてえと言っていたのだが、何回も何回も体調が悪くなりキャンセルをしていた。ついに昨日、うなぎの夢が叶った。ストローハットに白いポロシャツ、スカイブルーの麻のジャケット、相変わらずオシャレであった。こんなにやせた姿を見せられるのは、森山良子さんと、オマエだけだからと手を震わせ両手でグラスを持って乾杯をした。二人ともノンアルコールビール。1年前にはある雑誌の取材で、ブタペストとウィーンを回り、オペラを観劇。いい紀行文を書いていた。人間の体と命の行き先は、あっという間に激変する。天はよく働く者のみに微笑む。大先生も大先輩も、日々命がけで働いてきたから、80歳を過ぎても食べたいものが食べられる。船の汽笛みたいボーッと生きるなかれ、楽を選ぶなかれ。苦海に挑めなのだ。だから死ぬ気で働く、明日は来ないぞと思い、その日すべきことは、その日にする。「俺たちに明日はない」、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードの名作映画のように。


2019年7月25日木曜日

「取っ払い」

吉本のお笑い芸人と、その使用責任者たち(経営者ともいう)の関係が、ビビンバ(ごちゃ混ぜ)状態になっている。当然私は芸人の側に立つ。世の中は表と裏、正義と悪(正義は少ない)嘘と真実、絶えず対極があって成り立つ。タレントさんを起用する会社の人間が、よく言う言葉がある。「たかがタレントのくせしやがって」。「タレント」とは辞書を引けば“才能”という意味だ。つまり大金を払って使用しているタレントさんを、「たかが才能のくせしがって」と言っていることになる。芸人といえば、かつて芸大や音大の楽器弾きは、コマーシャルの音楽録りで生活をしていた。ピアノ、ギター、サックス、トランペット、トロンボーン、ドラム、ハーモニカ、フルート、クラリネットなど作曲家の要望で音楽録りのスタジオに来る。自分のパートが終わると、仕切り屋が茶封筒に入ったバイト代を渡す。業界では「取っ払い」と言って、請求書も領収書もない。シーズンオフ、プロゴルファーがゴルフ好きの会社社長やお金持ちの人間とラウンドすると、「今日はありがとう、楽しかった。これはレッスン料だ」と、取っ払いでギャラが支払われる。将棋や囲碁も同じである。有名棋士と一局差したがる。お相撲さんなんかは、基本的に「ごっつあん」であり、そもそも自分で払うという習慣がない。夜の世界では、その筋と一緒の時間を過ごす(男も女もあり)。銀座、赤坂、六本木、西麻布、新橋、柳橋、錦糸町、どこへ行っても、仲良くVIPルームにいて、「ごっつあん」である。テレビに出て名を出しては講習料を高くする。バカ弁護士とか、バカ評論家、バカ小説家、バカ学者も同じで、取っ払いである。中にはちゃんとした学者さんもいるが、そんな人は稀有である。ある学者さんを私は心から尊敬する。芸能人は自分を大きく見せるために、反社会の人間と、よく記念写真を撮る。何かのときに「オレには、この人がついているんだ」と使う(ケツ持ちという)。あるいは「アタシにはこの人がついてんのよ」と。興行と芸能とマスコミの世界は、反社会と手を切ることはできない。新聞、雑誌、TV局も、警察も、ネタ元はほとんど反社会勢力か、その周辺の人間だ。吉本の芸人にかぎらずそうしないと、成績は上がらず生きていけないのだ。ゴシップ雑誌はネタを高く買う。もちろん取っ払いだ。東京→軽井沢→名古屋→飛騨高山→名古屋→東京→名古屋→東京と、この一週間旅を打ってきた。芸を売るために。生きていくために。昨日深夜、2本の映画を見た。1本は「ある女流作家の罪と罰」。伝記物を書いて、ベストセラー作家になった51歳の女性は、すっかり売れなくなり、有名作家の手紙を偽装し、収集家のお客を持っている書店に売って、滞納した家賃や、猫の治療代や生活費を稼ぐ。そしてFBIに捕まる。実話であった。もう1本は「フロントランナー」。次期アメリカ大統領の第一番手(フロントランナー)であった。若き上院議員が、一人の女性を愛してしまい、それをマスコミにスクープされる。妻子のいる大統領候補にとって致命的スキャンダルであり、撤退をする。だが、二人の愛は本物であって、老人となった現在も二人は結婚生活を続けている。もちろん妻子とは別れて。これも実話である。芸人に追い込みをかけてはダメ。社会的信用を失った吉本は、すでに解体と同じである。

2019年7月23日火曜日

「勝者なき選挙の先」

投票率が50%に満たないという、国政選挙が終わった。自民党のあきらかな大敗北である。57議席は前々回より大幅に減らし、前回より増えていない。歴史に「もし」という言葉は嫌いだが、投票率が50%を超えていたら(フツーは当たり前)自民党は惨敗をしていた。幹事長からあろうことか安倍総理4選論が出た。この人は大策士なので、クセ球を投げた(次もオレだぞと)。自分の政権下で行なった国政選挙が投票率40%台という過半数に満たないというのは、完全に政治が見離されたということだ。「れいわ新選組」が2議席を、「NHKから国民を守る党」が1議席を、「日本維新の会」が東京で初議席、当選者は当初小池百合子にべったりとつき、そして離れ、区長選に出たりして落選して、維新にへばりついた。「立憲民主党」が躍進して、「国民民主党」は低退、「社民党」は消滅の危機を免れた。今回の選挙の結果は、既成の政党へのサヨナラの合図でもある。48.8%の投票率の国家のリーダーに、安定政治などある訳がない。4選となれば、党を割るような動きとなるだろう。令和おじさんとなった菅義偉官房長官が、すっかり次の権力者に色気を出し始めた。自分の会社の芸人をさらし者にした、吉本興業はもはや会社とは言えない。本来なら、まず社長が謝罪するのが決まりだ。投票率48.8%というのは、声なき声からの不信任であったと、謝罪すべき姿こそ国のリーダーの姿だ。あっちの政党からも、こっちからもと、自らの野望のため(アメリカからの命令)に人数合わせを語っている。情けない姿である。この選挙をしっかり総括しないと、いずれ行われるであろう衆議員選挙は、ビビンバ(ごちゃ混ぜ)状態となる。「君も政治家になろう」私はこうすすめたい。もはや死語となった日本語に「青雲の志」というのがある。私の家には少々の本しか残ってないが、石原慎太郎・盛田昭夫共著『「NO」と言える日本』というのがあった。アメリカに「NO!」を突きつけられる根性者の政治家が、きっと若者たちの中にいるはずだ。著者の一人が一度総理大臣になっていたら、この国はどうなっていただろうかと、ふと思った。若者が動けば政治は劇的に変わって行く。(文中敬称略)



2019年7月22日月曜日

「軽井沢にて」

7月20日土曜日、この日の午後には軽井沢に行かなければならない。京都アニメの地獄絵のような凄惨なニュースを前々日、前夜、そして早朝より見る。あまりにも酷い。34人が焼死しているというのに、テレビではバカバカしいバラエティを事件後もたれ流す。金曜日午後5時、新橋駅前(機関車があるところ)で「れいわ新選組」の演説会をしていた。運動員の数がものすごい。女性たちはみんなゆかた姿であった。山本太郎が現れると大拍手と大喚声、新興宗教の教祖が誕生したような異様な盛り上がりであった。あまりに混んでいて本人が見えなかったが、きっと本人だ。山本太郎の演説は、他の議員たちのワンパターンと違って、静かに語り、分かりやすく、説得力があった。自民党の小泉進次郎がいつのまにか、ただのオヤジギャグの口先き男に成り下がり、ここ一番のときは、いつも逃げてしまう男となったのとは大違いだ。したたかな山本太郎はいずれ、したたかな橋下徹と対決するのだろう。そんなことを思いながら私は茅ヶ崎→東京→そして軽井沢に向かった。2時30分より始まる軽井沢大賀ホールのソプラノコンサートに招待されていた。大賀ホールは05年、元ソニー会長の故大賀典雄が、私財を投じて生んだすばらしい音楽ホールだ。六角形の建築物は鹿島建設が施工した。大きな池と緑の芝生が囲んでいる。軽井沢在住の超富裕層がホールいっぱいに来ていた。ビンボー人の私には縁遠い世界だ。コンサートが終了後、パーティがホールの近くの会場である。私はそこで、私のお世話になっている会長の商品を、プレゼンテーションするために来た。1時頃、軽井沢駅に着き、南口のショッピングモールを歩いて回った。250店近いスーパーブランドや、有名ブランドが規則正しく、美しく並んでいた。丁度SALE中なので、どの店も満員のお客さん、セレブたちとともに、中国人、台湾人、韓国人のお客さんが半分ぐらいいた(銀座より静かな行動)。新幹線の中の車内放送も、中国語、韓国語があった。現在日本の主要都市のデパートやショップも同じで、中国語と韓国語表示があり、店内放送も店内案内も同様である。JRの主要幹線の駅の表示も同じだ。つまり、日本の経済と消費は中国、韓国、台湾、そしてアジア諸国との交流なくして成立しない。私の住む選挙区出身の外務大臣、河野太郎が、テレビのアタマ撮りをしているところで、交渉の相手国(韓国)の人間に対して、“無礼だ”などと口走った。スタンドプレイが過ぎる。交渉ごとは見えるところでは、とりあえず過激な言葉を発してはいかない。そのシーンはずっと残ってしまうからだ。外交のセンスがまったくない。河野太郎は主義主張がコロコロ変わる。外交成果はいまだになし。少なくとも、我が街茅ヶ崎のためになることは、何もしていない。私の知り合いの市会議員たちは、皆、河野太郎の子分だが。さて、大賀ホールのコンサートはすばらしかった。ピアノ大坪由里(武蔵野音楽大学首席卒業)、ソプラノ小川智子(武蔵野音楽大学)、ソプラノ友佳子クスト平盛(武蔵野音楽大学)、ソプラノ佐藤篤子(武蔵野音楽大学)、ソプラノ齋藤千夏ドゥラガヌリー(桐朋学園大学、パリ在住)、この美人たちが、ホールの屋根を突き抜けるのではないかと思うほどの声を響かせた。ピアノがまた超絶的であった。クラシックはまったく分からないが、観客がブラボー、ブラボーと大拍手していたから、ブラボーなのだ。拍手しすぎて両手がふくれてしまった。5人とはパーティで会話をした。気さくでステキだった。私と同じテーブルにドン小西さんがいた。新幹線の中の新聞記事に、経団連夏期セミナーが軽井沢で開催とあった。日本を代表する企業の志のない経営者たち、雇われマダムやサラリーマン経営者たちが、何人集まってもただのガヤガヤだ。大賀ホールを生んだような、アカデミックな経営者はいない。政権にモノ言う人物はいない。国家百年の計などまったくなく、自分たちの業界、自分の会社のことしか考えていない。心配なのは在任中の株価だけだ。他の経済団体も同じだ。軽井沢の北口はほとんどむかしのまま。遠くに浅間山、南口に客をとられて数軒の店だけだった。宿泊先のホテルに、日曜日朝6時半にモーニングコールを頼む。午前11時試合開始の高校野球神奈川大会の応援に行かねばならない。犯罪史上最大の悪魔、私たちの周りには悪魔が存在している。京都アニメーションの惨劇の犠牲者の方、そのご家族に対して、心よりご冥福をお祈りする。私の期待するリベラルなリーダーが、きっとこの国を救ってくれることを願って投票する。人間とは何ぞやを、ソプラノを聴きながら思いつづけた。(文中敬称略)



2019年7月19日金曜日

「男たちの挽歌」

妻子のために殴られた男の顔は酷く美しい。フランスのボクシング映画は実にいい作品であった。一昨日深夜「原題:SPARRING」日本での題「負け犬の美学」である。主人公は45歳のボクサー。日本でいえば6回戦ボーイだ。49戦で13勝しかしていない。妻と子が3人いる。すでに45歳、50戦で引退しようと思っている。50戦目を戦って勝利し3人の子どもたちにパパは勝ったと言いたい。ある日、ジムで世界チャンピオンのスパーリングパートナー(練習相手)を3人探していると聞き、ぜひにと売り込む。最強のチャンピオンは45歳の男に心配を持つ。パンチ力なし、テクニックなし、ただ得意と言えば“打たれ強い”ことだけ。スパーリングをするとまるで弱く練習にならない。妻と3人の子がいる男は、ファイトマネーが必要だ。殴られて顔は変形するが、決してダウンしない。チャンピオンはその姿に心打たれる。男はチャンピオンの試合に対して自分の考えた戦い方をチャンピオンにアドバイスする。トレーナーたちは、お前は何勝しているんだと聞く。男はこの3年間は勝っていない。49戦で13勝34敗2分けだと言う。そんなボクサーの出過ぎたアドバイスにトレーナーたちは一笑に伏すが、チャンピオンは何かを感じる。そしてあるところで前座試合があるから出てみないかと言う。妻は陽気だ、長女にはピアノの才能があり伸ばしてやりたい。小さな娘と息子にはパパの勝ったことを、50戦目のラストの試合で知らせたい。そして6回戦のゴングが鳴り一進一退の殴り合いは続く。映画はこの試合の結果を正確には伝えない。試合を終えベッドの中で寝ていた子がパパ勝った(?)という問いに、やさしく笑い抱きしめる。この映画は実話をモデルにしている。ラストに「ロビン・ディーキンス」21勝51敗、「ジョニー・グリズス」4勝96敗、「ピーター・バックリー」32勝256敗という記録が映像とともに表示される。男は酷い顔になった姿で長女のピアノを演奏する姿にエールを送る。ボクシングこそ男のスポーツNO.1と思っている私は、先日の村田涼太選手の勝利に感動していた。リング上から、我が子に向かって「明日からパパといくらでも、野球でも水泳でも行けるからな!」と言った。ボクサーは1gの減量に苦しみながら長期間すべての欲望を拒否して、試合に挑む。リング上で殴られ、たとえ死んでも仕方がない、プロの職業なのだ。「負け犬の美学」は最新作だが、シングルパパが見たら泣けてしまうだろう。村田涼太選手はある先生に出会い、ボクシングを教えられるまで、無敵の不良少年だった。私も負け犬の美学を貫いて行きたいと思って今日まで来た。「勝者には何もあげるな。すでに勝利を手にしているのだから」。私の初恋の女の子が、超有名大学の大学教授となり、「E・ヘミングウェイ」や英米文学の研究と翻訳をし続けている。確かE・ヘミングウェイの言葉である。E・ヘミングウェイは自らボクシングをするほど、ボクシングが好きであった。「負け犬の美学」ほど美しいものはない。香港映画の名作「男たちの挽歌」を思い出した。「恥じて生きるより、熱く死ね」。男にとって仁義こそすべてなのだ。







2019年7月18日木曜日

「『スヤイ刑』と『ミックスサンド』」

先日昼、フリーのライターさんとニュー新橋ビル内の喫茶店に入り、珈琲をした。地下の定食屋さんでサンマ定食を食べた後である。サンマはまったく脂っ気がなくパサパサであった。このビルは地下から地上まで中国人が経営している店が多い。喫茶店に行ったのは、森功著の「地面師」に出ていたので、フリーのライターさんに一度入ってみると誘った。私はこのビルが日本人ばかりだった頃、喫茶店の前にある歯医者さんに通ってクリーニングや治療をしてもらっていた。ある年の暮れ、40代でお医者さんが急死したと、奥さんから電話が入った。私には酒は飲まないと言っていたが、奥さんによると大酒豪だったらしい。すこぶる男前で腕がよかった。待ち時間や早く着いたとき、喫茶店で珈琲をしながら新聞を読んでいた。その頃を思い出すと、確かに怪し気な男たちが話し込んでいた。もっとも私自身がかなり怪しい感じなので、お店の人からみると、一味の人間に思えたと思う。新橋グループは相当に強力な地面師たちで有名である(その筋で)積水ハウスさん(私の家は積水ハウスさん)から60億円近くだまし取ったグループの一部の人間に、昨日東京地裁で判決が下った。10人が起訴されている。その判決を見ると懲役4年から4年6ヵ月であった。裁判長は「組織性が高く、非常に悪質だ」と言ったと記事にあった。業界用語で言えば「スヤイ」なんとまあ「安い」となる。日本は詐欺に対してものすごく刑が安い。やりたい放題の国、やった者勝ちの国なのだ。1000万円の詐欺も1000億円の詐欺も大した差はない。15年、20年の長期刑は少なく、無期懲役は聞いたこともない。例えば悪質な詐欺にあって一家心中したり、会社も倒産したりのケースもある。間接的な殺人と同じだが、刑は安い。オレオレ詐欺が防げないのはこの刑の安さである。刑事訴訟法を今すぐにでも改正する必要がある。警察や裁判所は詐欺をする奴も悪いが、ダマされるほうも悪いという考え方が強い。強盗や強姦(強制性交等)、殺人などの強力犯に比べて、詐欺事件は得点が少ない。日本で詐欺をした金を国外に持ち出し、カジノで全部使ってしまったとウソをつき、しっかり隠しておいて、3、4年で出所して来て手にすれば3、4年は安い旅(刑につくことを旅に出るとも言う)なのだ。大変お世話になった積水ハウスさんのために、判決は死刑が私の望みであった。マルチ商法で世間を騒がし、数千億をかき集めた連中も、安い旅から帰って姿カタチを変えて、再びマルチ商法を発見している。ちなみに、その喫茶店はサラリーマンのオアシスであり、地面師グループとは一切関わりはない。とてもいいサービスで、感じがいい対応である(ミックスサンドウィッチが旨い!)。詐欺と人にお金を貸すのも同じで、返すと言って期日にちゃんと返す人間はほとんどいない。貸した人間のほうが悪いんだと言われる。人に金を貸すということは、友人を失うことに等しい。保証人になるのも同じだ。借金魔と言われた「石川啄木」などは、その天才的才能を、「5・7・5・7・7」に発揮し、もう一つの才能を借金に発揮したと言う。人に金を貸したらあげたと思うべしなのだ。なまじあの金を返してなんて催促すると、陰で悪口雑言を言われてしまう。私の人生の多くは血族の借金返済に消耗した。「はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざり/ぢっと手を見る(石川啄木)」。
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