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2023年10月13日金曜日

つれづれ雑草「コスモスと枯木のバラ」

「ご自由に持っていってください。」と書かれた一枚の紙が駐車場脇に貼ってある。その下には大きなバケツに入った、秋桜「コスモス」の花が何本も入っている。なんでこんな色が生まれるのだろうかと、植物界の不思議に敬服する。核戦争が起きて地球上の生き物が消滅しても、植物界とゴキブリ界は生き残るらしい。近所のコンビニにスポーツ紙を買いに行く途中でコスモスの花を見た。家に帰ると愚妻がすでにそのコスモスを何本も手に入れていた。花瓶に挿されたコスモスがあった。きれいでしょと言ったから、◯◯さんの家の駐車場にあったのだろうと言った。そうよと応えた。柿とかイチジクとか、キンカンとかをよく持って帰る。私は春に咲く桜よりも、秋に咲くコスモスのほうが好きである。コスモスは咲く場所を選ばない。路傍の花でもある。茎の部分は絡み合い、捻り合う。それはまるで抜き差しならない、男と女の関係のように、死ぬまで解れない。春の桜は散るのが覚悟みたいな戦争を連想する。桜の花の下には死体が埋っていると買いた小説家がいた。そういえば新橋駅SL広場のところによく出ていた右翼の街宣車はどこへ行ったのだろうか。あまりの暑さに活動を控えていたのだろうか。街宣車が同期の桜を流している後に、シュークリームで有名な“HIROTA”ヒロタがある。右翼とシュークリームは、シュールな関係で嫌いではない。(映像的に)この一週間は新作映画の撮影のために、山の頂上から、山の下にある滝まで、腰痛ベルトを装着してがんばった。もともとは修験者が歩んだところなので、岩やら石やら木の根などが山道にあり、汝修業行せよと足腰を痛める。映画についてはいずれ詳細を書く。山の人々がみんな応援してくれた。映画好き20数名がごっそり機材を運んだ。柳田國男の“遠野物語”ではないが、真夜中の山の中には、超常現象的なものを感じる。私は雨よ降るなと念力をかける。で、山の撮影中は思い通りの良い天気であった。山を下り私の地元茅ヶ崎の野球場のシーンを撮り、東京蔵前の地下スタジオ(音響が大きいので)で最終カット。監督のOKの声と共に、拍手拍手ヤッターである。みんなで記念撮影、息子が車で応援しに来てくれたので家に向う。腹が減ったなとなり、家の近所の中華ソバ店へ。12時閉店なので約30分、二人でカタヤキソバとギョーザ一皿を分け合って食べた。なんともいえない疲労感と達成感が、闘志をかりたてる。で、次の日は一日中雨であった。私にはまだ運があるぞ。長い間ロケで雨に降られたことのないツキが残っていた。50年以上傘というものを買ったことがない。一日中雨の日、一日中ゴロンゴロンしていた。両足がひきつりあわてて芍薬甘草湯を服用した。イノシシカレー、熊カレー、コンニャクの刺身、山わさびなどを食す。これがヒジョーニ旨い。そして起きてからは、お世話になった方々に、礼状、礼状、また礼状を書く。(これが重要)ファンドに出資してくれたありがたき方々には、一人ひとり会ってお礼を言う。(これからの最重要)自主映画づくりとは、頭を下げることでもある。北島三郎の歌に、「与作」というのがあるが、私の場合は「遺作」である。♪~ トントントン、トントントンと、与作は藁を打つが、私はドンドンドン、ドンドンドンとご迷惑を打つ。ヤクザ者を志すならこの一曲を知らぬ者はいない。この頃明け方にこれを聞く。31歳で殺された北海道のヤクザ、荏原哲夫通称“雁来のバラ”又、“枯木のバラ”ともいう。この伝説のヤクザを歌ったのが、「484のブルース」だ。484とは札幌刑務所の番地、雁来町に生まれた。♪~ 義理や人情に あこがれた 十九はたちが 花だった ここはその名も 雁来町 いきつく所は 承知の上で ままよこの道 おれは行く……。北海道中のヤクザを震え上がらせた雁来のバラは、当然のように銃弾を浴びた。数人に襲われてスミス&ウェッソン45口径で撃たれた時、海老のように飛び上がった。トドメを刺しに行くと、笑っていたと言う。ずっと昔の話だが、今も語り継がれている。私はバカな自分のことをこの曲を聞きながら想っている。目の前に小さな花瓶がある。濃紅なコスモス、妖しげな桃色のコスモスが、私をじっと見つづけている。人生は、くんずほぐれず、修羅の道だ。(文中敬称略)









2023年10月7日土曜日

休筆のお知らせ

 本日、出張のため休筆致します。

急に涼しくなってきたので、皆様、ご自愛ください。



2023年10月1日日曜日

つれづれ雑草「髪切る前に」

誰れもまだ手にしていない新聞と、何人かが読んだあとの新聞とでは、同じ記事でも鮮度が違う。いつも行く床屋さんのソファーの前のテーブルには、スポーツ紙の報知新聞と、朝日新聞が置いてある。朝九時に行けば新しい新聞紙があり、午後や夕方に行くと、シワシワとなった新聞紙となる。報知新聞は読売系なのだが、きっと気をつかっているのだろう。昨日午後床屋さんに行った。その前に制作している映画の、あるシーンで使用したい施設の使用許可をとるために、尽力してくれた知人の元市議会議長に御礼のごあいさつをした。市営の施設なので役所への手続きが多々ある。床屋さんには先客が一人いた。三人ほど座れるソファーに、ヨッコラショと座る。若い頃はドーンと座った。全身が岩のようにガチガチになっていたのを、平塚の鍼灸の達人、マッサージも達人に来てもらって、鍼を刺してもらい、グイグイ体をほぐしてもらった。達人はこれはもう工事ですという。私の肉体はアスファルトになっている。報知の一面には現在フランスで開催中のW杯ラグビーの記事、サモア戦でトライをしたリーチマイケルのどでかい顔があった。私は早朝3時45分からしっかりと見た。NHKで再放送があるのを知っていたが、結果が分かっていたらツマラナイのだ。スポーツはやはり実況に限る。先日大相撲の千秋楽で、大関貴景勝と前頭どんじりの熱海富士の優勝決定戦があった。双方11勝4敗、20歳か21歳の前頭と、大関の対戦を楽しみにしていたが、勝負はあっけなかった。私は見ていて、汚ねぇ~ぞ大関と叫んだ。前頭がどーんと出ていったら、大関は逃げてしまった。いくら休場明け、心身共にボロボロでも、貴景勝がまさか逃げるとは思わなかった。翌日の新聞ではきっと叩かれると思ったが、協会のトップも、横綱審議会のメンバーも、苦しい中よくやったと語っていた。そりゃないだろうと思った。私はガーンとぶつかって貴景勝が負けてもよくやったという。上位の者が下位の者の挑戦から逃げてはいけない。W杯ラグビーで日本勝つ、ベスト8、ベスト4を目指すと、でっかく書いてあるのだが素直にはよろこべない。日本のチームの半分近くが外国人の助っ人さんたちだ。日本に帰化して日本人になった選手もいる。試合前日本人と外国人さんが君が代を歌っているのを見て、日本人選手がまだ世界レベルになっていない。何人かはいるが数は少ないと思った。いつか15人全員が日本人で戦っている姿を見たいが、その頃、私はあの世からの応援となっているだろう。大リーグで大谷選手が奇跡的活躍をしている。床屋さんの新聞を見て、やっぱり吉田正尚選手でも、大リーグはキツイのかと思った。ムキムキの筋肉で、日本では並ぶ者なきといわれる吉田選手が2打席凡退のあと、3打席目に代打を送られた。日本では吉田に代打なんて考えられないのだ。総理大臣にはいくらでも代打、代打を出すが、スケールが小さい者ばかりだ。吉田正尚を持ってしても体力がキツイのだろう。私は何がいいたいのかというと、貧富の差をなくして、幼少年期から栄養のある食生活をできるようにすべしである。勉強ができなくても、体力に才能があれば、その才能に投資すべしだ。国の予算を地方に割り振り、もっともっと助成しなければならない。新聞には伝統ある大相撲の入門基準が廃止されたとあった。今のままでは“おすもうさん”になる若者がいなくなってしまうからだ。例えが悪いがヤクザ者の世界には、一人親方という人間も多い。つまり子分がいない親分ということである。大相撲の親方になるには、“親方株”という数限られた高額の株を手にしなければならない。弟子がいなくなり廃業する親方もいる(株を売って)。体力に自信があれば誰れでも入門できる。ジャニーズ問題でメディアは大騒動、ずっとバックレ(しらばくれてた)てたツケが大洪水となった。サントリーの新浪剛史社長(経済同友会会長)が、知っていながら知らないそぶりの社長(東山紀之)は考えられない。国際的問題であると語っていた。帝国とか王国で滅亡しなかったのは歴史上ない。解体しかないだろう。そして次はアソコとかアソコ、ヒソヒソ話が広がっている。麻生太郎に呼び捨てにされて“がん”よばわりされた、公明党の代表山口邦津男、石井啓一、北側一雄などは、国土交通大臣の椅子が余程オイシイのか、ムニャムニャと応えている。例えが悪いが、ヤクザ者の世界では、親分が呼び捨てにされたら、言った者の命はとられるだろう。つまりプライドゼロだ。気がつけばインボイス制度などの増税が始まる。マイナンバーは大迷惑、ラチ問題はラチがあかない。北朝鮮に何度か交渉しているようだが、シカトされている。東大法卒の悪魔たちは弱者イジメをつづけている。さて、伸びた髪をカットしてもらうことにした。秋は近いようでまだ遠い。そういえばこんなサラリーマン川柳があった。「あの世では お願いだから 声かけないで」。深夜から朝にかけて、取り寄せてもらった、アンドレイ・タルコフスキーの自伝的名作映画「鏡」と、ベルナルド・ベルトルッチの名作「暗殺の森」の完全版を見た。詩的、哲学的、宗教的、暗示的、叙情的、叙事的、圧倒的であった。「言葉は半端なもの」とタルコフスキーは表現した。建築美、都会美、装飾美、教会美、群像美、暗殺美。「買い物は女同士、支払いは男」という洒落たセリフが53年前のパリで交わされていた。(文中敬称略)



2023年9月24日日曜日

つれづれ雑草「大ヒット上映中」

「友遠方より来たる」ではないが秋がついに来た。ホトホト体にダメージを与えた狂暑、猛暑、酷暑の日々だった。科学者によれば、2030年頃に地球はダウン寸前のボクサーのようになるという。北極の氷が溶けてその水が陸を襲う。そんな夕刊の記事を読んでいる私の隣りの席で、ロールキャベツ弁当を食べている47、8歳の女性がいた。時間は9時少し前、女性はきっと駅ナカの食品売場で、20%、30%引きの弁当を買ったのだろう。パックの中に太いロールキャベツが二本、野菜煮と共にある。ビニール袋をせわしそうに開くところを見ると、かなり空腹だったのだろう。俳優の室井滋さんによく似ている。太いロールキャベツには楊子が一本づつ刺さっている。ごはんにはゴマ塩がふりかかっている。濃いベージュのワンピースが、陽に灼けすぎた肌のように見える。あ~嫌だ嫌だ。会社なんて大嫌いだとその姿から感じる。楊子を一本抜いて、ロールキャベツに憎しみを込めて、ブツリ、ブツリと刺す。口元が動いている。あのバカ男、あのバカ女めと言っているように、ロールキャベツに刺す。キャベツはかなり厚い。グルグルさせると、やっとこさ肉が現われる。憎い気持ちと肉への食欲が弁当内で闘争する。同じ会社の仕事仲間の女性に、男を寝取られた。この夜最後のベッドを共にした。だらしなく寝込んでいる男に、馬乗りになりアイスピックで、ブスッ、ブスッと刺している。男の体がロールキャベツと私の中でシンクロする。女性は爽健美茶のペットボトルで茶を飲みながら、もう一本の楊子を抜き取った。一本目の楊子は、ごま塩ごはんの上に突き刺してある。ニンジン、イモ、ブロッコリーには割り箸を突き刺す。ロールキャベツと人間の体をオーバーラップさせた。映像が再び浮かぶ、キャベツが赤い血で染まっていく。ロールキャベツはグルグルに巻かれた布団に中に入っている肉は男だ。5分位のショートムービーになるなと思った。食品売場は、閉店間際になると安売りが始まる。私は“助六弁当”が好きなので時々買って帰る。私なりに意地があるので値引きされたものは買わない。ガキの頃、母親が働いて帰り疲れ切った体でも、大きな太巻きと、おいなりさんを作って、遠足の弁当を作ってくれた思い出がある。玉子焼きやかんぴょう、桃色のでんぷんがおいしかった。油揚げを甘く味付けして、二つに切って、半分づつに酢メシのまぜごはんを入れてくれた。ロールキャベツも一年に一度か二度作ってくれた。人間はいきなり大人にはならない。ヒトそれぞれに子どもの頃のお弁当の思い出はあるだろう。子どもの頃のロールキャベツは、楊子で刺したりしなかった。食べてノドに刺さるからだ。煮込んだカンピョウでしばってくれていた。品川から乗った列車は沼津行だった。辻堂駅で乗客が線路に落ちたとかで、しばらく停車しますと車内放送があった。私と私の隣りの女性は、戸塚駅でじっと列車が動き出すのを待った。北極海の氷がどれだけ人類を救ってくれていたのか、もう手遅れかも知れないが、まだ間に合うかも知れない。お弁当をしっかり食べ終えた女性は、満腹で憎しみがうすれたのか、目を閉じて首をガクッと落としていた。私は家で待っている孫に小さな声で、今戸塚なんだ辻堂駅でヒトが落ちたらしいと言った。孫は映画のシナリオを読んでほしいんだと言った。次の日の朝には帰るから待っているよと言った。私とは“映画の友”である。来年卒業なので仲間たちと映画づくりをしているのだ。友遠方より来たるの友とは、21歳になる孫であった。20分程遅くれて辻堂駅に着いた。息子と孫が車で迎えに来てくれていた。ホームは静かであった。厄(ヤク)な女と、シャブ(麻薬)と映画には手を出してはいけない、と言い伝えられている。厄な女とは厄病神みたいな女性のこと、ロールキャベツに刺さった楊子の扱い方でほぼわかる。映画は博打の中でいちばん勝ち目のない勝負。一人前のヒモにならないと、一人前の監督にはなれないといわれている。惚れた男の“ゲージュツ”のために、体を売ってでも尽くす。お客さんのいない小さな映画館、ヒモの映画監督を支えつづけた、神様のような女性と二人で、出来上がった「ゲージュツ」を見に映画館に行く。厚い扉の向うでは映画館主がつぶやく。駄目だこりゃ大ゴケだ。仕方ないからすぐ他の映画にしよう。そもそも題名がイケナイ、「ロールキャベツの女」だなんて。あの監督はもう終りだな、オッそれでもお客さんが、7、8人来たよ。大ヒット上映中にするか。列車の中でそんなつまらないことをボーとしたアタマの中で考えていた。きっと暑さがつづいたせいだろう。










2023年9月21日木曜日

つれづれ雑草「東大卒の馬鹿者」

狂暑でアタマが狂ったのか、元々アタマが狂っているのか、その世界をやったらイケマセンという夢を追っている。先週末から今日まで、心から祈り念じることがあり休筆した。今の世は故鶴田浩二の歌ではないが、右を見ても、左を見ても、まっ暗闇じゃございませんかだ。こうして命長らえている我が身が不思議でならない。世のため人のためになる筈の恩人、友人、知人が次々とこの世を去って行く。もしかしてあの世のほうが生きがいがあるのではと思ってしまう。名は伏すがこの世を駄目にした人間が生きつづけている。が、もうすぐ地獄へ落ちるだろう。富める者をさらに富まし、貧しき者をさらにどん底にしたのだ。大企業は税金を支払わずガッポリ儲ける。あろうことかトヨタに補助金1500億円近く出すという。国家予算の4分の1近い売り上げのトヨタなのに。魚はアタマから腐るというが、国のアタマという東大法学部卒の官僚や政治家から腐っていく。勉強ばかりしていると馬鹿になるぞといわれるがその通りだ。勉強はできる“世間馬鹿”がこの国、この世を滅ぼす。利権と肩書きばかりを欲しがる悲しき人種だ。東大法学部卒のある官僚上りの政治家は、私にこう言った。東大とは法学部だけであり、教養学部や医学部、農学部など他の学科は東大じゃないんだと。野心の塊みたいな安い男を、私は鼻でせせら笑った。赤ワインをガブガブ飲んでいた。勿論勘定は私が払った。実に貧しい男だなと思った。昨日近況報告のDMが送られてきていた。そこには花火大会をみんなで見ました。トラクターに挑戦し畑を耕しました。ブドウ狩りを経験しました。そんなアホなことが写真入りで書いてあった。それを破ってゴミ箱に投げ入れた。オマエ何やってんだよと心の中でバカにしながら。「景徳山白峰寺動物愛護の会」から便りが届いた。10月1日ペットの法要がある知らせだ。毎年一度行なわれる。この寺に二匹の犬と、二匹の猫の魂を授けている。長引く不況のせいで空きが多くなっている。参加者は壱万円、何年か前ガラガラ廻すくじ引きがあった。くじ運の悪い私が一等賞をコロンと出した。賞品はVネックのニットのセーターだった。毎年(コロナ以前)ペット好きなゲストが来て、小箱の上に集りペット愛を語る。佐良直美とかビートきよし、参加者は80人位だった。ペットの名を書いた御塔婆が並ぶ。九官鳥やインコの◯◯ちゃんとか、金魚の◯◯とか、亀の◯◯、蛇の◯◯など多種にわたる。見て回ると結構面白い。クワガタまである。よくよく見ているとその名は銀座や赤坂のホステスさんの源氏名と重なる。ミミちゃんとか、ハナコちゃん、ケイちゃんとヨッコちゃんとか。クワガタのガタガタという名を憶えている。顔に大きなホクロのある演歌歌手“松原のぶえ”がゲストの日は忘れない。乗っていた箱が壊れてよろけて落ちたのだ。先日森達也監督の「福田村事件」を新宿のK'sシネマで観た。関東大震災の時、香川県から千葉県の福田村(現野田市)に行商に来ていた朝鮮人の人たちが、デマと流言、差別によって、自警団の人間や軍人たちによって、大人、子どもが惨殺された。この事件をドキュメンタリーを専門としていた森達也監督が劇映画として世に出した。小柄な軍人役の“水道橋博士”(タレントさん)が恐ろしい日本軍人役で秀逸だった。感情を抑えた静かな演出に好感を持った。惨殺、虐殺のシーンを生々しくしなかったことでより同調圧力の恐ろしさを感じた。久々に東出昌大が映画出演していた。彼は現在山の中の一軒家の軒下を借りテントを張って、一人そこで自給自足の生活をしている。5年前に狩猟の免許を取っており、鹿やイノシシなどを銃で仕止めて自分で解体している。又、道路でクルマにはねられて死んでしまったタヌキやハクビシンなども解体して食料としている。街に出て人を見ると、もしかして週刊誌の記者ではとか、スポーツ紙や女性誌の記者に見えてしまう。それが怖くて嫌で山の中に入ったと語っていた。SNSの時代は福田村事件の時と同じように恐ろしい。デマが拡散して人の命を次々に奪ってしまう。ネット住民は、軍服を着た水道橋博士のように凶暴なのだ。“バズル”という意味を最近知った。それは蜂が群れるとか蜂が集合するということらしい。私などはSNSの時代では無用の人間となっていく。まあ十分に生き過ぎた。尾崎士郎の人生劇場では、主人公の育成瓢吉の瓢太郎は、没落した身をピストルで弾く。義理と人情の男「吉良常」は、辰巳屋の大且郡立派な花火をあげましたねえと涙する。義理が廃ればこの世は闇なのだ。やがて人生劇場は青春編を経て、残俠編、愛欲編とつづいていく。尾崎士郎の自伝といわれる。実はこのところ不眠が酷く明け方に浪曲ばかり聴いている。今朝は広沢虎造の“国定忠治”赤城の山の物語だ。(文中敬称略)









2023年9月16日土曜日

休筆のお知らせ

 本日、出張のため休筆致します。

残暑が本当に厳しいので、皆様、ご自愛ください。



2023年9月9日土曜日

つれづれ雑草「今日も私キレイ(?)」

「夢精映画」ではなく、「無声映画」を見た。役者は演じながらセリフを言っているが、声は出ないという、ずっと昔の映画だ。現在時九月九日午前三時二十七分〇九秒、テレビの画面ではフランスの大統領マクロンが、ラグビーのワールドカップの開会宣言をしている。4年に一度のワールドカップだ。サッカーのワールドカップ、オリンピックも4年に一回だ。午後十時頃帰宅をしていた。溜池にあるレストランで、お世話になっている代理店の方と、その代理店がお世話になっている会社の役員の方の誕生会をした。台風の影響かやけにジメジメしている。雨は思っていたよりずっと小降りだった。ニュースでは千葉の茂原が観測史上初の雨で氾濫する川が予想されていた。毎年史上初が生まれている。天の悪意か毎年大被害になる地が違う。Why何故(?)と思う。ラグビーの第一戦はいきなり優勝候補同士、フランス対ニュージーランドだ。画面にテロップが流れる。震度4の地震が南の国の島、鹿児島県“悪石島”近くが震源地だと伝える。悪石島とはいい名ではないかと不謹慎に思う。過日、小松左京の“復活の日”“日本沈没”を生んだ、アナザーストーリーのドキュメンタリー番組を見て日本列島という特殊な列島の、運命と宿命と寿命を知った。小松左京は阪神淡路大震災の現場を見て、自らが書いた恐怖の光景が、事実の光景であるのを確認して、“鬱”病になってしまった。このSF小説家は、純文学の小説家たちと違って、実に真っ当かつ正直であり、自分の書いた小説に責任をかんじたのだ。嘘ばかりついているある政治家に、ある人間がこう言った。なんであなたはそう嘘ばかりつくのか(?)、その答えは、それは“私が政治家だから”だと。つまり、政治と小説は嘘(作り話)で進行する。小説とは男と女を書くものなのだと、批評の神様「小林秀雄」が言ったとか、ある本で読んだ。男と女の血みどろの小説には、殆んど実際に起きた事件がネタになっている。小説家にとって新聞の三面記事と、裁判所でさまざまな事件について傍聴するのは、ネタの山なのだ。私小説は自分自身がネタであるから、原稿用紙と鉛筆一本あれば書ける。ヒトは誰でも一本の小説は書けるといわれる。いよいよネタが尽きるとなると、ジエンド終りとなる。男よりいかに女性が恐ろしい生き物であるかを知る。圧倒的に男の方が自殺する。心中を支配するのも女性が多い(殆んど)。見方によっては人殺しである。九月一日新宿の映画館で、中国映画の「兎たちの暴走」という映画を観た。200人近く入る映画館に観客は私と4人だけであった。毎週上映する映画をチェックしている。批評を読むと私好みなので足を運んだ。現在の中国が抱えている若い世代の問題は、現在の日本と同じであった。映像がとてもいい、中国語のロックの主題歌がいい。一歳の時に女の子をすてて出て行ってしまった母親が、16年振りに帰って来る。多額の借金を背負って。17歳の少女にとって母親は憧れの人であった。二人は借金地獄か逃れるために、少女の学校にいる、金持ちの子の誘拐を実行する。貧しい少女にとって、ずっと気に入らない目障りな子だったのだ。そして……。少女は母親に言う。あなたのためならなんでもやると。二人は歌う。♪~ 夢の中に上下左右はないと。5人だけで観るには勿体ない映画だった。さて、無声映画だが、内田吐夢監督の「人生劇場」だ。作者である「尾崎士郎」の自伝といわれている大長篇だ。映画は60分ほど、セリフは画面の文字で読む。古い書体がいい味を出している。愛知県吉良町に尾崎士郎は生まれた。私は中学生の頃から今日までずっと人生劇場の歌を口ずさんでいる。尾崎士郎は宇野千代との関係で苦悶する。宇野千代は恋多き女性で、東郷青児や北原武夫、梶井基次郎などの文壇や画壇の男共を悩ませつづけた。九十歳を過ぎた時、インタビュアーに、“今日も私キレイ”などと言ったのは有名である。現在午前四時四十五分八秒。フランスが9対8でニュージーランドに勝っている。画面にはテロップで千葉県の土砂崩れとか、JRの計画運休とか、竜巻、雷、地震情報が流れつづけている。神も仏もラグビーに夢中なのだろう。戦前の映画はフィルムが劣化していて、ザーザー降りの雨が画面に降ってよく見えない。でも尾崎士郎の気迫が伝わってくる。男心は男じゃないと分からないと。私の人生の見本は人生劇場の中に出てくる“吉良の常吉”だ。ヤッパ(短刀)や、ピストルより恐いのは、女心だな。そしてこの列島は災害に勝てない。※日本人の個人名は全て故人。(文中敬称略)








2023年9月2日土曜日

つれづれ雑草「灯りを消して」

九月一日午前一時二十五分十八秒になった時、そうだ月を見ようと思い外に出た。月がいちばん大きいという記事を思い出したのだ。日をまたいだが確かに月が大きく輝いていた。いつもは電池が切れた懐中電灯みたいのが、新しい電池を入れたばかりのように煌々としていた。星たちはいつもよりはるかに多くその月に従っていた。あるいはその夜空を演出していた。ふと「ツキノワグマ」という言葉を思い出した。先日牛60数頭を襲ったという、体重330kg凶暴な巨大熊を猟師が射止めた。その数日後のニュースを見ていると、五十歳位の見栄えの悪いオッサンが、これはやわらでウマイ! ウマイ! と巨大熊を食べていた。人間はやっぱり地球上でいちばん凶暴なのだ。一日の朝辻堂駅西口にあるコンビニで新聞を買ってレジに向うと、一人のご婦人が私の前に並んでいた。アップルジュースの紙パック(小さいの)とコロッケ二個、から揚げ棒を一本買っていた。前の晩ご主人と夏の夜の営みをしたのだろうか、マッタリとして全身から気が抜けている。女性は後姿に物語が出る。髪は乱れサンダルを履いた足は広いガニ股だった。真夏の甲子園大会の決勝戦は、九州に出張している最中で見れなかった。佐賀空港に着くと、慶應高校が8対2で仙台育英高校に勝っていた。私は慶應の応援団のウルセーのが嫌いなので、友人の写真家やお世話になった出版社の編集長がいる、仙台育英を応援していた。勿論“おかやま山陽高校”も。ケイオー、ケイオー、陸の王者ケイオーを大集団で連呼され続けると、ウルセーとなるのだ。後日慶應の監督が、その応援の激しさを大学生の応援のようですまなかったと、スポーツマンらしい記事を読んで、素直にオメデトウと思った。自宅に帰り試合のダイジェストを見ると、実にいいチームであった。巨大熊の話に戻ると、西麻布の「またぎ」の店主が亡くなったことを教えてもらった。身長180センチ以上、体重90kg位、マタギ界の王、狙撃の王者があの世に旅立っていたのだ。キジ、シカ、イノシシ、ラストに熊鍋、味噌味の中に入った“すいとん”が絶品だった。私の親愛なる友とは射撃仲間であった。広島出身岸田文雄がアメリカの足の先までなめている。軍産国家アメリカのポンコツを、命じられるママに買わされている。世界中に第三次世界大戦への火種が生まれている。私は三島のファンではないが、三島由紀夫が生前書き残した通りになっている。この国は極東の片隅で衰え滅びていくだろうと。セントラルパークの中にトランプタワーは建てないだろうと、新進気鋭の経営思想家「斎藤幸平」がインタビューに応えていた。つまり神宮外苑の樹々をブッタ切って、高層ビルを建設する。名目上は神宮球場や秩父宮ラグビー場の建て替えが主目的だというが、やっているのは13年間かけてSDGsの時代の真逆の事業だ。世界では街路樹を増やす時代なのだ。銀杏の樹は水分を多く含み、防災に役立つのだ。日本人は怒りを忘れ、すっかり羊たちの群れになってしまった。私が20歳となり堅気の仕事を始めた「西武」と「そごう」が大安売りセールで売り出されて、外国資本に買われてしまった。久々にストライキという言葉が躍動している。ガンバレ労働組合よ。1970年代はサブカルチャーが花開いた。寺山修司、唐十郎、土方巽、全共闘、六本木族、みゆき族、野獣会、ヴァンジャケット、サイケデリックアート、旧体制打破とばかりに、前衛芸術がメッセージを世に送り出した。雑誌アンアンやノンノンが出版された。平凡パンチ、ポパイ、ブルータス、マガジンハウス全盛となった。銀座のマガジンハウス本社の側に、編集者たちが深夜作業を終えて、あるいは仕事の途中で、一杯飲み、いっぱいおでんを食べた。地下一階の「舟よし」のおやじも先年この世を去った。飲み仲間の女性エステシャン(インディバ式)と虎の門病院に見舞いにいったら、気がついたらこんなに高い病院に担ぎ込まれていたよと笑った。店の中で倒れていたのだ。実に魅力ある人であった。店のカウンターに私の書いた下手な本や、映画のフライヤー(チラシ)を置いてお客さんに、コノヒトのだよと宣伝してくれた。得意だったのはなんといっても、ボラの卵でつくる“カラスミ”だった。黄金色の大きなチンポコみたいのが、店内にズラリ、ズラリとぶら下がっていた。一ヶ月以上かけて作る、その味絶品、一ケ五千円~一万円であった。先日、新富町のおすし屋に仕事仲間といたら、ワァ~ビックリと、一緒に見舞いに行った、エステシャンの女性が声をかけてきた。男性と一緒だった。オ~、久しぶり、以前よりもっと美人になっていた。舟よしでは深夜、とりの唐揚げをいくつも食べていた。ストレス食いなの、太ったっていいのよと言っていた。今、私は脈絡のないことを書いている。九州で活躍している友人や後輩と、アッとオドロク仕事をしている。否、またやったんですか、イケナイジョーダンを真面目にやっている。スバラシイ経営者の方と出会った。深夜の風は、その昔女と別れ話をしていた時と同じように、ぎこちない初秋の肌触りであった。十九の終わりに私は夜の世界を卒業し、昼の世界に入学した。有線放送から西田佐知子の歌う“灯りを消して”が流れていた。(文中敬称略)






2023年8月11日金曜日

つれづれ雑草「そんなの関係ネェ~」

だから言っただろバカ者たち。甲子園を屋根付きにすべしで書いたが、初日の試合ですでにその必要性を強く感じた。レフトを守っていた選手は足がつり激痛でボールが追えない。ヒット性のボールを打った選手が、一塁まで走っていく途中で足がつりベースにたどり着けない。そんなケースがいくつもあった。正確に計測すると、グラウンド上にいる選手の体感は40度を超えていたとか、頭の中はやかんでお湯をわかしているようなもの、こんな状態がつづくと、重大な支障をきたして、後遺症が残ると医学者は言う。私は声を大にして言いたい。もっと科学的にせよと、私が朝日新聞の購読をやめたのは、堕落しきった経営者と、ヤル気のない記者のヘタクソな記事、ワンパターンの天声人語や、宿酔いで書いているようなコラム素粒子腰が引けた社説。がある。記者たちは昼頃出社し、大型の社用車やハイヤーを使い、高級レストランやホテルでランチをし、わずか数百字の記事やコラムを書いて、年収2000万以上、夕方にはどこぞへしけこみとなる。「女ざかり」という本の主人公は、朝日新聞とおぼしき新聞社の記者である。映画化され吉永小百合が演じた。ずっと昔すでにジャーナリズムとか、ジャーナリストは消失していたのだ。今、日本のメディアは、物言えば唇寒しの状態である。有能な記者の記事は、どれもこれもボツとなってしまう。司法の朝日、社会部の読売、外信の毎日と称された頃は、権力と闘っていた。時の総理大臣佐藤栄作が、政権最後の記者会見で、私は新聞社は大嫌いだと言った。その時、新聞記者たちは、そうですか、それじゃ退場します、みんな出ましょう、出ようとなり、広い記者会見場に佐藤栄作はポツンと一人だけとなった。後世に残る有名なシーンだ。今ではこんな根性のある記者たちはいない。話を真夏の甲子園に戻す。私は少年野球を数多く見るが、審判の特権意識の大きさに、頭に血が登る。警察官と同じで、自分たちのミスや誤審を認めない。酷い誤審やルールを知らない判定も数多い。大リーグを真似して、プロ野球でビデオ判定を導入したら、約4割は誤審である。審判には文句を言ってはいけないという、古い慣習がこびりついている。そもそも朝日新聞の社旗は、旧日本軍と同じような旭日旗である。日本に来た元大リーガーが帰国後、地球の裏側にベースボールに似た野球というのがあった。そんな本を出版した。松坂大輔は一人で250球も投げた試合がある。本場の人間はクレイジーだと伝える。大リーガーたちの契約は球数が決められている。余分に投げればギャラが発生する。名監督とはいかに選手寿命を長くしてあげられるかである。日本は勝利至上主義だから、監督は投手を酷使してきた。この頃やっと本場のように、先発は100球位までが基準となった。私は高校野球の判定は人工知能でやるべしと言いたい。100%誤審はないからだ。野球と同じことが、政治、経済、教育などの世界にへばりついている。議員特権で罪を犯しても殆どパクられない。ビックモーターのような、ノルマ、ノルマ、未達成なら降格、左遷、あるいは会社内座敷牢入り。(仕事を与えず机と椅子のみ、一日中座っているだけ)本人から辞表を出すのを待つ。ソニーとかパナソニックなどは有名であった。何十人、何百人が牢人とされたのだ。その結果有能な人材や技術者たちは辞めて、中国、韓国、台湾へ職を求めた。それ故日本は先進七ヵ国の中で人材の活躍度最下位である。アメリカのシリコンバレーでは科学技術者の約半分は、中国人とインド人だという。三洋、ビクター、東芝は倒れ、シャープは台湾に、ソニーはゲームと損保メーカーになってしまった。日本を再生するには、教育の現場から正さねばならない。おそらく100年かかるだろうが、やらねばならない。小・中学校の先生の30%近くが「鬱」状態で休職したり、退職している。先生になる人か年々減っている。いい先生がいなければ、いい生徒は生まれない。点数や内申書中心主義では、個性的な生徒は生まれない。政界は世襲を禁止するか英国のように、親の地盤でないところからにする。経済界はもっと意地とプライドを持って政界と対決しなければならない。人材を発掘、投資して世界に通用する人材に育てなければならない。スティーブ・ジョブズが演説したように、愚か者が時代をつくるのだ。敗戦記念日の前に一つの言葉を書く。キューバ革命を成功させた、チェ・ゲバラが64年前の7月2531歳の時に広島に来て、原爆資料館を訪れた。その時こう言ったと伝えられている。「アメリカにこんなひどい目に遭っても何故怒らないのか」。一昨日の昼新橋駅品川寄り、改札口となりの相談窓口コーナーで、白いマスク、花柄のワンピースを着た高齢の女性が、大きな旅行用キャリーバックの横で、バッタリ倒れていた。二人のJR駅員はカウンター越しに呆然と見ているだけ、誰一人も声をかけず通り過ぎる。私はガラス越しにそれを見ていて怒り心頭となった。改札口を出てしまっていたが、窓口へと引き返したら、年配の駅員がキヨスク斜め前の所から一人二人と出て来た。倒れた高齢の女性の横を窓口に来た人たちは、通り過ぎて行く。この国は完全な「無関心国家」となっている。スマホで写真を撮っているバカムスメが二人いた。二人共に小さなTシャツでおへそを丸出していた。本日より休筆する。まずはお墓参りだ。永眠はいいな、ずっと眠っていられるから、不眠の私は、不謹慎にも永眠に憧れている。その前にやらねばならないことをやり遂げる。そんなの関係ネェ~、そんなの関係ネェ~とパンツ一枚だった芸人は誰れであったか。(文中敬称略)



2023年8月5日土曜日

つれづれ雑草「落語のはなし」

八月二日夜、ある会社の美人社長と、正義と直情の衆議院議員のヒトと、夜食事をした。恵比寿のとある店であった。家族で営んでいるその店には初めて行った。居酒屋さんのようであった。若い人たちが多く来ていたところをみると、適正価格なのだろう。丸い顔をして笑顔がとてもいいご主人、がっしりとした体でテキパキしている女性、長身でメガネをかけてよく働く若い娘さん。いい店は入った瞬間で分かる、というか感じるのだ。何故会ったかというさしたる理由はない。社長さんから◯◯先生と久々に会いませんかという連絡があったので、暑気払いにいいですねとなった。カウンターには数人座れるがすでにいっぱい。小上りの座敷には四人が座れる席が四席ほどあったがすでに若い人たちがいた。奥の席を予約してくれてたのでそこに座った。とめどない話を、とめどなく話をするのは楽しい。お金儲けの話とか、仕事の話とか、政治や経済の話もしない。とめどなく話をしては笑い、そして話は線香花火のように、飛び散る。社長も先生も決して“エラブッタ”ところはない。お刺身とか牛肉のタタキとかおいしい品が出て、三人でそれを食す。この店のメインはうなぎのようだ。汗びっしょりの丸い顔のご主人が焼いている。とにかくこの店の人の笑顔がいい。社長は何度が来ているようだった。いわゆる“ナジミ”の客だ。雑談の会みたいな時間はいいものだ。最後にうなぎを半分ずつに分けて食べて終った。いい店、いい笑顔、いいかんじ、いい時間、ヘバヘバにへバっていた体が陽気になった。連日38度、39度があたり前だのクラッカー状態である。今日八月五日はどこぞで40度を超えたとか。地球が狂って、大自然が狂って、生態系が狂って、人間も狂いに狂っている。かつて“明石家さんま”が、「生きているだけで丸儲け」と言ったが、今は生きてる内にサンマの丸焼きとなっている。こんな狂った暑さの中で、明日夏の甲子園大会が始まる。国連ではジャニーズ事務所の創業者による性加害が数百人になると大問題化している。児童虐待や青少年の虐待は、国際的問題となっている。真夏の甲子園大会も青少年への虐待だと問題化している。朝日新聞とNHKが主催している一大イベントだが、このイベントのために全国でどれほどの野球少年の肩やヒジや腰が、足やヒザが壊れているか数知れない。そして精神まで壊れているのも数知れない。入場式は学徒出陣のようであり、宣誓式は特攻隊のようである。私は大の野球ファンであるから、夏の甲子園大会は予選から見ている。私は提案する、夏にやるのであれば、甲子園球場を屋根付球場にせよと、朝日、NHKは勿論、日本中の大企業が、しこたま儲けた金の中から寄付をせよと。第一回夏の甲子園の頃は30度を超す日などなかった。この国の駄目なところは、寄付文化がないところだ。弱者や体に障害を持っている人々、生まれつきハンディを背負っている人々に対して、大企業は寄付をしない。バカヤローな国なのだ。大谷選手が劇画を超える活動をしているが、私はそれほど興味はない。すばらしい才能を持った者が、人一倍努力してすばらしい記録を生んでいる。そりゃそうだよなスゴイなと思うだけだ。それよりもこの打席で一本のヒットを打たなければプロとして残れない。トライアウトの試合でヒットを打った選手、三振を奪った選手に拍手を送る。スカスカのスタンドで、一本のヒットに、赤子を抱える妻は涙する。運命論者の私には、大谷選手がきっと数奇な運命を遂げるのが見える。“過ぎたるは猶及ばざるが如し”だ。老子曰く“努力より脱力せよ”と。超、超大天才の将棋の藤井聡太七冠、もうすぐ八冠は、恋をせよ、愛に砕けよと言いたい。大谷選手もしかりだ。大リーグの名選手だったジョー・ディマジオは、マリリン・モンローと恋に落ちた。人間サイボーグでなく、人間であるためには、今のままではつまらない。大ファンだったゴルフ界のスーパースター、タイガー・ウッズは、セックス依存症と戦って再起し、奇跡的にマスターズで勝った。私は狂喜乱舞した。今は勝つことはできないが、私は今のほうが以前より好きである。腰痛と闘いながら、女体の叫びと闘いながら、フェアウェイをトボトボと歩く姿に感動する。さあ、高校野球好きのみなさん、甲子園球場に屋根を付ける運動へ声を上げよう。経済四団体のオッサンたち、若者たちの肉体と精神を守るために尽くせ。落語の中にこんな噺がある。「酒もやらず、女もやらず、百まで生きたバカがいる」超天才たちにこの落語の言葉を送る。凡才の私は超天才を超えて来たなと自負をする。(文中敬称略)