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2010年12月22日水曜日

湘南の嵐便り 「ノーベルは終わり」


ノーベル

ノーベル賞はノーベル本人がダイナマイトを作り本人の意志と違って戦争の道具になってしまったので、しまったこんな筈ではなかったと自身の賞を作った。
そこまではいいとして今のノーベル賞はまるでアカデミー映画賞の如くである。


科学者や物理学者はともかくなんで平和賞、文学賞があるのに映画賞や陶芸や建築や彫刻や絵画賞がないのか。何もかも不可思議になってしまった。


ノーベルの残した資金は様々に投資されたりして維持されている。
例えは悪いがかつて戦争反対をして命を掛けた日本共産党が何で自民や民主より遙かに多い250億近いお金を持っているのか。

エスカレーター付きの党本部にいる事が出来るのか、どこが貧乏人の味方なのか90歳頃まで赤旗を配っていた亡き母になんと説明出来るのか。戦争反対を叫び治安維持法に反対し続け投獄を繰り返した貧乏弁護士の亡き父になんと説明出来るのか。

ノーベル賞の晩餐会
ノーベル賞の途方もない晩餐会のパーティーを見ると心からこれでいいのかノーベル賞と思った。まるでドイツのヒトラーやかつてのソ連の共産党が豪華なパーティーをしている様であった。ノーベル賞は確かに素晴らしい才能と人類への貢献である。
科学と物理と医学、この三つだけで十分なのであると思う。


モンドセレクション金賞なんて受賞しない方が難しい賞であり金を払って参加すれば殆ど受賞できるというではないか。

日本人ほど賞の好きな人間はいない。もらう事ばかり考えないで、建築工芸と(宮大工)とか庭師とか屏風絵師とか左官とか石工とかに世界中に参加させる賞を作り世界をリードすればいい。


私がそもそも不公平で気に入らないノーベル賞は生きていないと受賞出来ない事だ。
徳川家康が弱虫で疑い深い人間だから70数年長生きした事に歴史的意味が生まれた。ならば長生きし天下国家を動かす人間に徳川家康賞を作ればいい。
キリシタン大名で最後までイエスキリストを信仰しその最後をフィリピンで迎えた戦国大名高山右近にイエス大賞を作ればいい。人々の心の平和を願った法然、蓮如、親鸞賞を作ればいい。
だがしかし世界中では誰も知らない。


タキシードに老妻を従えもう早く帰りたいと言った科学者がいた事が救いであった。
もうノーベル賞の役目は終わった。アカデミー賞を作ってアメリカ映画が衰退した様に確実にノーベル賞によって物理、科学、医学は商業化が進み進歩が歪んでしまう。
文学賞とか平和賞とかまるで意味が無い。


ならばイエスキリスト、チャーチル、スターリン、毛沢東、周恩来、ルーズベルト、ドゴールはノーベル平和賞だろうか。宮本顕治はノーベル平和賞だろか。すでに政治利用されている。小さく静かに音も無く食べ物もなく一杯のワインかペリエ等で乾杯、勿論自腹でいいのである。


名もなく苦しく、悲しく、切なく家族と国を思い捕虜となり平和のために骨と皮になり死んで行った平和愛好者は数知れない。



名浪曲師三波春夫は捕虜収容所の中で明るく歌って勇気を与えたという、これこそなんと心得るかを論じろと言いたい。
あんなとんでもない豪華な晩餐会で飲むシャンパンや料理が美味かったなんて言ったらその人はお終いである。

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