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2018年10月10日水曜日

「サラバ黄金の左よ」

元横綱輪島が亡くなった。大好きな力士だった。 左の下手を取ったら、白鵬も勝てなかっただろう。もっとも白鵬も左下手狙い、差し手争いがきっと凄かっただろうと思う。学生出身で唯一の横綱、優勝14回は立派だ。ずっと昔の話だが、輪島とラスベガスで出会ったことがあった。カジノのホテル内に、ステーキハウス「ベニハナ」があった。輪島はイロイロあって相撲界から引退し、日本プロレスのジャイアント馬場の弟子になっていた。ベニハナは人気でお客さんが列を成していた。ジャイアント馬場とその妻、ボストンバッグを持った輪島が私たちの前に並んでいた。バクチは輪島にはご法度だった。私とプロデューサー、カメラマンはグランドキャニオンで撮影した後、真っ暗の中マニュアル片手に、未だほとんどフライトしたことのないという、パイロットに命を託し、8人乗りの飛行機に乗った。左右体重が同じ位になるように、体重計の上に乗った後であった。どうしてもラスベガスに入り、翌々日ロサンゼルスに飛ばねばならない。着陸後まず腹ごしらえとベニハナに行った。鉄板の前に座ると、すぐ前にジャイアント馬場夫妻がいて、輪島がその隣にいた。私が横綱バクチしたらダメだよと言ったら、肩をすくめて、ニコッと笑い、シマセンよと言った。14回優勝の財産をバクチなどで溶かしていたからだ。ジャイアント馬場は太い葉巻をプカプカしていた。 顔がとてつもなく大きかった。ジャイアント馬場は大変な読書家で、かつてあった銀座近藤書店のキャラクターにも起用されていた。又座談の名手でもあり、その話はウィットに富み教養に満ちていた。そんな話をカメラマンたちとした。それにしてもよく落ちないで無事着いたなと乾杯した。食事を済ませ、しばし仮眠をとり、午前2時頃カジノに行った。すでに私はバクチと縁を切っていたが、少し21(トゥエンティワン)をして負けた後、バカラのテーブルに行くと、いたいたやっぱり輪島がバクチをしていた。横綱ダメじゃないのと言ったら、肩をすくめてニコッと笑ってちょっとだけと言った。そこにデーンとジャイアント馬場がいた。そのずっと奥にハマコー・コーナが表示されていた。浜田幸一代議士がバカラで3億円以上負けて、有名な所だった。本当はVIPルームで負けたのだろう。観光名所のように仕立てていた。カメラマンとプロデューサーは、バンバン、ジャンジャン負けて、カードでキャッシュを引き出していた。もうメチャ負けてて、持っていたカードが使えないと言っていた。私の大好きなカメラマンは、大好きなカジノでゲルピン(金無し)になった。ハイナシ(文無し) エレジーである。輪島と以前夜の赤坂で会った。店の女の子にサインをせがまれて、花籠部屋の“籠”の字が書けないとこぼしていた。輪島がいた日大の相撲部と花籠部屋は、阿佐ヶ谷にあって、隣同士であった。阿佐ヶ谷の一番街でよく飲んでいたので少しだけ顔見知りだった。力士たちとよくモメて、ガッツン、ガッツン殴り合っては飲み直しみんなと仲良しになった。輪島は横綱となり天上人であった。富山県七尾市出身、現在午前4時51分02秒、朝刊を見るとやっぱり輪島は死んでいた。天国で宿敵北の湖とバカラでも楽しんでくれ。北の湖は堅物で有名であった。でも銀座ではお触りをする人間らしさがあった。晩年声を失って筆談であった輪島、天国ではきっと声も出せるだろう。ご冥福を心からお祈りする。(文中敬称略)


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