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2019年4月3日水曜日

「シナイはずがシナイへ」

作家五木寛之氏は私にとって苦手な作家の一人である。が、昨日私が愛読する夕刊紙の名物コラム(連載回数10625回目)を読んで、新元号「令和」について、浅学な私と同じことを書いていて、おっ五木先生もそうですかと、敬意を持った。そこで一部抜粋だが原文のママを記す。「令和」と年号が変わって、マスコミも国民も大騒ぎである。号外を奪い合って転倒する姿までニュースで報道された。「あ、そう」と、冷淡な国民など一人もいないような印象だが、私の周辺では格別な興奮はない。日本の古典から始めて引用された、とテレビでは繰り返し伝えているが、はたしてそうか。画面に写っているのは漢文で、用いられるのも漢字である。なるほど日本の古典というのも漢字文化によって成り立っているのかとあらためて認識させられたことだった。中国文化の決定的な影響の上に築かれた文化と認めることを私たちは避けてはならない。戦後の新憲法にしてもそうだ。外来文化の深い関わりを否定するのなら、年号は「ひかり」とか「のぞみ」とか和風に徹するしかないだろう。それでもなお、ひらがなそのものが漢字の草書体から工夫されたものだと考えると、外来文化を大胆に取り入れて、それを日本風に消化していくというのが日本文化の優れたところだと考えることもできる。今回の万葉集からの選定について、それを国風振興の流れととるのは間違いだろう。どこから採用したところで元号そのものは漢字ではないか。狭い意味でのナショナリズムの視点から、何か立場が変わったように考えるべきではない。とコラムは更に続いた。「令和」フィーバーの中で、私が心配したとおり、自衛隊員がシナイ半島に派遣されることが決まった。防衛大臣はあくまで今後のための学習です、みたいなことを記者会見でシラッと語った。今後とは何か、シナイはずをするのが戦争のはじまりである。このことは世界史、日本史の中で証明されている。何にもシナイからと、シナイ半島の戦地へ行く実績が生まれる。昨夜仕事仲間と夕食を共にした。行きつけの中華店(菊鳳)である。4人でシュウマイ、エビチリ、カニ玉、スブタ、チャーハン、ワンタンをシェアした。料金は4人分11000円ほど(酒代込)世界中旅した人が教えてくれたことがある。 旅先で何を食べるか迷ったら、チャイナタウンに行くべしと。当たり外れはあまりなく、どの国にもチャイナタウンは大なり小なり必ずあって安く食べることができる。但し中国人の悪口は絶対禁物だ。直感的に彼らは分かり、何を入れられるか分からない。中華料理は基本的に焼いたり、炒めたり、揚げて作る。入れたものの原形はなくなる。日本文化は中国文化を先生として敬意を持たねばならない。4月1日から仕事仲間になった「孫宇」君は雲南省出身。聞けば雲南省だけで日本の国土の広さがあると言う。野球帽をかぶり初出社、とてもチャーミングな清々しい若者だ。ニーハオ、ニーハオだ。私は若い才能を育てることに尽くして行く。


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