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2021年8月21日土曜日

つれづれ雑草「徳之島の夏」

人には何か一つとりえがあるように、私が利用する東海道線辻堂駅にも一つ二つとりえがある。聞くところによると、辻堂駅のホームは、日本で一、二、三に入る位長いのだとか、確かに長い。40年以上前に東京から引っ越して来た時、北口には大きな葬儀場しか目立った物はなかった。私は南口だったので北口に行くことは殆どなかった。近年テラスモール湘南ができて、駅と直結した。何もなかった北口は人気スポットになり、人がとにかくたくさん集まる。又、そのモールの側に湘南藤沢徳洲会病院という大きな病院ができて、この地に暮らす人々の健康に尽くしてくれている。昨日朝、私はその病院のロビーにいた。ある先生と会うためだった。いい歳をして無理を重ねた足腰が、ギシギシ、ビリビリ、チクチク、ガタガタするのだ。私のとりえといえば、ただ一つ足腰が丈夫だったことだ。ずっと放っといたのだが、いい先生を紹介された。結果はともかくその原因を知りたかった。ロビーにて名前を呼ばれるのを待っていると、目の前の壁に、この病院の創立者である、徳田虎雄さんの大きな写真があった。私は若い頃はじめて徳之島に行った夏の日を思い出した。ある航空会社の仕事でロケに行ったのだ。徳之島の飛行場の滑走路は長く、大型ジェットが降りることができる。飛行場に着き二・二六事件で青年将校に暗殺された、総理大臣の孫が運転するJEEPに乗った。美しいモデルさんと多くのスタッフ、徳之島はにわかに都会の風が吹いたようだった。その頃徳之島には三人の有名人がいるんだと、島の観光課の人に聞いた。一人は、百歳の長寿の人「泉重千代」さん。一人は、山口組の大幹部佐々木組組長「佐々木道雄」さん。もう一人が「徳田虎雄」さんだった。当時徳田虎雄さんは政界進出を目指していた。撮影は島の観光になるので皆さん協力的である。浜辺に行ってロケハンをしていると、刺青を彫った若いヤクザや、片目を白い布でグルグルと巻いた者もいた。聞けば大阪で抗争があり、佐々木親分の島に体をかわしに来ているのだと。撮影のジャマをしないように頼んだ。ヒマを持て余している若者たちは、興味津々だった。マブイ(美しい)モデルさんを早く見たいね、なんてことを言っていた。後年佐々木道雄組長は、山口組を出て一和会に行き確か幹事長となり、山一戦争終結後、静かにこの世を去ったようだ。ある年、ある雑誌の編集長さんから、面白いパーティがあるからちょっと行ってみないと誘われた。東京二番町にあるその建物に着くと、駐車場には手袋をした黒執事が、来客をエスコートしていた。建物内には能舞台がありすでに若い美男子が演舞をしていた。(新流派だった)時は春、窓の外の桜を見ながら一献する集まりらしい。不思議と不気味な気分、旧華族の人たちが多くいると聞いた。パーティ会場には高級シャンパンが列を成し、寿しを握るコーナーがある。私はそこにある椅子に腰掛けて、独特の空気を吸っていた。さっき演じていた美男子たちもいる。その時、編集長さんがちょっと紹介するわと言って、一人の老婦人を紹介された。その婦人は、徳田虎雄さんの身内の人であった。もう一人紹介された。その人は、新右翼の代表だった。丁度猪瀬都知事の金銭問題で、二人は取調べを受けていた。新聞の記事で知っていたので、大変でしたねと言った。とてもおだやかな婦人で、まったくやんなっちゃうわよと言った。私はお皿に握り寿しをとって、婦人にどうですかと渡した。そして徳之島のあの夏の日の思い出を話した。編集長さんは何人かの人と話しをしてから私のところに来て、もう用は済んだよ、不気味なところから早く帰ろうと言った。外は少し雨が降っていた。二人でタクシーに乗り、銀座へ行って飲みはじめた。ロビーにいると私の名を呼ばれた。壁に掛けられた徳田虎雄さんの写真に向って、こんないい病院をありがとうございます。徳之島は大好きですと心の中で言った。徳田虎雄さんは、長い間難病で全身を動かすことができず、目で文字を追って会話をして来ている。人間は夢を叶えるという、志を持つと凄い人生を歩めるのだと思った。強い心が外から見えない体の中で生きているんだ。足腰がイテェ~なんて言っていられないと思いつつエスカレーターに乗った。徳洲会はアチコチの地域で、人々への救急医療を引き受けている。ボーっと生きてんじゃないよと我々健常人は五歳のチコちゃんに叱られる。あの老婦人は元気だろうか。病名多数、治療不可、原因不明。投薬なし。生き方の姿勢が悪いので正しくすべしであった。救急車のサイレンと共に人が運ばれていた。コロナだろうか。政治とは言葉であると言うが、その言葉を持たない国のリーダーには、すでに言葉がない。我が身のあしたを探す目は、日曜日に投開票される横浜市長選の結果を追っている。なんと横浜のドンといわれる、藤木幸夫という人が、ヨコハマにカジノはつくらせないと、全面カラー広告を出稿した。九十一歳のドンの言葉はなかなかに力強かった。国のリーダーが推す人間が負けたら、政権は終ると週刊文集砲が放たれた。国民のコロナなんて知ったこっちゃないのだ。私は空腹である事を腹の虫が、グゥ~と鳴いて教えた。足はモールへ向っていた。(文中敬称略)





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