土曜日の早朝、俺は紙パックの菊正宗の角をハサミで切り落としいつものグラスに注いだ。つま味は前夜の残り物、“タイの粗煮”だ。しっかり“粗”で金を取る店は“かぶと煮”という。物はいいようである。かつて東京都杉並区天沼三丁目に住んでいた頃、俺は六人兄姉の末っ子のガキだった。魚藤という魚屋さんがあった。母親から魚のアラを買ってくるようにいわれてバケツを持ってよく行った。魚屋さんのオヤジは体が大きく筋肉がモリモリしていた。魚をテキパキ包丁で切っては刺身にしたり、煮物用に内臓を取り出しては、大きなまな板から次々と落としていた。タイの頭はアラと言っていちばん安かった。俺はそれをバケツに入れてもらって帰った。母親は煮物にしたり、アラ汁にしたり、塩焼きにした。俺は今でもタイの“アラ”は大好きだ。愚妻はよく買ってくる。早朝どんぶりにネギとアラを入れた“アラ汁”をつま味に映画を見た。1960年代日活の映画であった。アラを食べるにはとことんアラ探しをする。大きな目玉が俺を見ている。かなり大きめのアラであったので身がかなりある。箸で丹念にアラ探しをする。大きめの身が取れるとやったなとよろこぶ。タイの骨は恐竜の“ハクセイ”のように太くて鋭い。気をつけないとノドに突き刺さり死に至ることもある。骨についた身を根気よく取る。目ん玉を食べてしまう奴もいるが俺は食べない。日活の映画は刑事ものだから犯人を探す。俺はそれを見ながらタイの身を探す。まだある、まだある、オッこんなにある、目ん玉の側には大きな身がある。旨い! 菊正宗も旨い! “鬼ころし”より少し高いだけあって格調がある。どんぶりの中はタイの骨ばかりになるのだが、まだあるのではと箸を動かす。母親はすっかり食べて残った骨を茶碗に入れて、お茶をかけて完全に食べ尽くしていた。1960年代にまさか“コロナ”があったとは、殺人犯を追っている刑事が地取り捜査の時に“コロナが流行してますから”という言葉を使った。意外であった。監督牛原陽一、脚本は古川卓巳であった。1960年代俺は映画ばかり見ていた。二谷英明とか、若き郷 鍈治とか、名優織田政雄とか、小高雄二とか今は亡き役者が次々と出てくる。タイの身も出てくる。突き刺し、ほじくる。こんな時間が俺には至福の時間である。今の世はアラばかり、バカヤロー令和の時代に米一揆かと思う。悪党たちが米を買い占めて値を上げているのだ。アラを探して突き刺してやらねばならない。どんぶりの中はいつしか骨の山となっている。故城 卓矢が歌った「骨まで愛して」を口ずさんでいた。 フジサンケイグループのボス、日枝久は往生際が悪い。早くこの世とオサラバしないと、フジテレビは骨の山になるだろう。フジのアラはまだまだある。不治の病なのだ。(文中敬称略)
2025年2月1日土曜日
2025年1月24日金曜日
400字のリング 「老人と山/中島らも」
快人、怪人、文人、才人、歌人、広告人、酔人、廃人、そして死人へ。生きていれば73歳程だと思う。俺は「中島らも(1952-2004)」の大ファンであった。兵庫県尼崎市、名門灘中を八位で入学した。地元では神童といわれていたという。本名は「中島裕之」(なかじまゆうし)天才と狂人は紙一重というが、この人ほど人に愛された天才は少ない。高校時代に酒の味を知り、大学生、社会人となりやがて酒の肴は睡眠薬、又、覚醒剤の元となるぜんそくの薬(エフェドリン)をシロップで飲んだ。他にマリファナもやった。警察に捕まったこともある。灘高出身者の殆んどは、東大か京大であるが、“中島らも”は成績がガタ落ち、大阪芸大へと進んだ。無類のギター好きであり、世界各国の弦楽楽器を家中に置いて、ほんのスキ間で生活をしていた。話術にも優れていた。愛妻家であり、ロックンローラーでもあった。文才には特に恵まれ、直木賞の候補にも二度なった。人気作家になり、人気エッセイストになり、人気人生相談者にもなった。仕事は山盛りとなった。朝起きたらすぐにウイスキー、そして次の朝まで、飲んでは書き、飲んでは書きをつづけた。医者から希有な内臓といわれた程酒に強かった。俺の知る限り多種多彩数多くの人に愛され、リスペクトされたのは、故原田芳雄さんと、故中島らもの二人だろう。各界の人々が二人を愛した。故中上健次、松田優作、内田裕也、崔洋一、安岡力也、飲んだら大暴れする武闘派も二人の存在で事を納めた。かつて四谷に「ホワイト」というBarが地下にあった。俺は一度行ったが、業界人の溜り場でここで飲んだら、きっと大きな事件を生むと思いご遠慮した。マスコミ関係、出版関係、広告人や芸術家、文人墨客、芸能人たちが集まっていた。新宿二丁目ゴールデン街に「前田(まえだ)」という有名なBar、「アイララ」というBar、故赤塚不二夫や当時のタモリが珍芸を行なっていた。「どん底」というBarも同様で、ラリパッパ(酔っ払い)が常連であった。俺は今「中島らも」という山を見上げている。ラリパッパ界のスーパースターだ。酒癖が悪いことはない。分別をわきまえていた。残念なことに怪我をして死人となった。当時階段から落ちたと聞いた。俺は今「中島らも」の落語を見ている。最近破天荒な人間が出てこない。みんなこじんまりしている。命がけで酒を飲む人間もいない。胃が突き刺ささるように痛い。ヨシヨシと、“ブスコパン”を酒で飲んでやると、すっかり治まる。だが「中島らも」という山は、とんでもない山なのだ。(文中敬称略)
2025年1月15日水曜日
400字のリング 「老人と山/孫 家邦という山」
小柄だが大きな山は「リトルモア社」という会社を経営している人だ。ひと言で表現すれば、孫 正義(ソフトバンク会長)より凄いのが、孫 家邦という人だ。小さな巨人である。孫 正義は天才的起業家で、天才的投資家である。二人の孫さんの違いは、孫 正義は野心と野望を追う大天狗だ。一方孫 家邦は、映画製作、本や写真集などを通して人材を発掘する。私がもの凄いと思う人は数少ない。孫 家邦はベストワンに選ばれた映画のヒット作を何本も手がけたと思えば、期待作が大ゴケしてどでかい傷を負っても、平然としてすぐに次作に取り組む。又、若者たちの映画の配給を支援する。かつて主婦がケータイで撮った写真の良さを発見して、写真集にして出版、最高権威の賞を受賞させた。主婦は一流の写真家に育った。一人だけではない。グラフィックデザイン界の巨匠の本を出版する。この巨匠は並大抵の人では信頼を得ることができない。フツーの人は怖がって近づかない。その名を井上嗣也という。リトルモアの孫 家邦の新作映画の試写会に、井上氏とその高弟稲垣氏、親愛なる友と明日16日に行く。渋谷の映画学校の試写会だ。きっと入り口で小さな体の孫 家邦が、ニコニコしながら受付の所にいるだろう。顔は笑っていても、決して眼は笑わない。「葉隠、武士道とは死ぬことと見つけたり」体がそう言っている。俺は孫 正義などに興味はない。大天才の彼は金を育てるが、市井の民の中から人を発掘し育てない。だが100年先の世の中が見えているという。新作の題名は「片思い世界」主演は“広瀬すず”“杉咲花”“清原果耶”脚本/坂元裕二、監督は、「花束みたいな恋をした」の土井裕泰。キャッチフレーズは「3人で、ずっとずっと片思い」。4月から全国ロードショー。又、孫 家邦は、巨匠井上嗣也の700ページ近くになる大作品集を、プロデュースしている。俺には巨大な山に見えるのが、孫 家邦だ。後藤新平の遺した有名な言葉がある。人生において、(一)金を残したるは下なり、(一)事を残したるは中なり、(一)人を残したるは上なり。つまり、孫 正義は下であって、孫 家邦は特上の人物である。やるつもり。行くつもり。読むつもり。何かにつけて、つもりつもりの人間で大成した者はいない。幕末の風雲児「高杉晋作」の師は“死んでもやらねばと思へば死すべし”“生きてやらねばと思えば生きるべし”。こう教えたと言う。孫 家邦は、高杉晋作に近い。「おもしろき こともなき世を おもしろく」。文人であり、粋人であり革命家でもあった。そして若くして死んだ。やるべき事をやって。ちなみに“リトルモア”とは、「もうちょっと」という意味らしい。(文中敬称略)
2025年1月9日木曜日
400字のリング 俺は「老人と山」
E・ヘミングウェイは「老人と海」で自分自身の魂の歴史を語り、やがて猟銃の引き金を自ら引いて、男としての人生を終えた。俺の家の中には、E・ヘミングウェイが巨大カジキマグロを釣った後、漁港で記念写真を撮った写真がある。床から天井までの大きいパネルだ。俺は日々それを見てきた。俺はどう自分の人生の落とし前をつけるかを考えながら、ずっと生きてきている。憧れのE・ヘミングウェイが、「老人と海」なら、俺は「老人と山」だと決めた。今年の年賀状の一枚は、「両忘(りょうぼう)」に決めた。「生を忘れ、死を忘れる」。中国の賢人の言葉だ。今までは「私」という言葉で自分を気取ってきたが、コソバユイので今後は「俺」で行く。これからヒデー腰痛を抱えながら、標高何メートルの山を登れるだろうか。登山ではない。これはやってやるぞという目標の山の高さだ。人生は不条理との闘い。長い裁判生活ともいえる。自分自身との闘いである。いまさら過去に未練はない。今日生きてていても、明日は死刑かも知れない。人生は喧嘩と同じなので、マイッタ、負けましたと頭を下げない限り、勝負はつづく。地の果てまで探してケジメをつけなければならない奴もいる。(もうあの世かも知れないが、あの世でカタをつける)近頃の世の中は堅気の人間が、やたらに人を刺す。物騒この上ない。若い頃、喧嘩をする相手が刃物を使うと調べたら、腰に少年マガジンとか、少年ジャンプを巻き、両腕には週刊朝日とか、サンデー毎日とかの週刊誌をつけた。紙の束はピストルのタマも、刃物も寄せつけない。今の世はこんな装着が必要なほど人は狂っている。令和七年は世界中が大混乱する。何が起きても不思議ではない。日本国はかつて一人の指導者が「美しい国づくり」なんて言ったが、夢も希望もない、金、金、金の拝金国家となってしまった。「汚い国」に成り下がったのだ。石破 茂という国の指導者に、何ができるのか、関税マニアのトランプの米国からすれば、鴨がネギを背負って来るのを、舌なめずりして待っている。アレやれコレやれ、アレ買え、コレ買え。あ~しろ、こうしろ、三白眼がただの白眼になってしまうだろう。目を白黒させられる、世界の政治情況を間近に体感している内に、黒目が無くなってしまうはずだ。野党も、与党も、ゆ党も世界が全く見えていない。チンケな公約ばかりだ。霞ヶ関の官僚に立ち向える政治家は少ない。日本は完全なる官僚国家となる。日本の一人あたりのGDPは、OECD加盟38ヵ国中21番目の韓国以下になった。韓国語でもうおしまい、という事を「オプソ」という。日本は完全にオプソとなる。世界はトランプによって、ビビンバ(かきまぜる)だ。中国は100年単位で国をつくる。気がつけば地球の殆どは中国が支配している。あるいは金を貸している。世界一速い新幹線が完成、時速500km以上だ。新年早々嫌な気分だ。だがあの山を登らればならない目標がある。正月駅伝の選手の速さを見ると、ああ無情脚力はガタ落ちだが、「老人と山」で行く。そこに山があるかぎり一歩づつだ。今年400字のリングは、ブンキ(気分)次第です。生原稿をテキスト化するため、人の手を借りないとイケナイのです。そして頼りはガタがきているFAX。時々どん詰まりになる。送り役の愚妻のごきげんもある。(文中敬称略)
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