小説の神様、志賀直哉の小説で大好きなのがある。一度映画化を目指しコンテまで描いたが実現出来なかった。「剃刀」という。
一人の男がいる。気難しいが剃刀を使って顔を当たらしたら一番の腕と評判の男であった。若い衆一人と女房がいる。その日男は風邪気味で布団に伏せていた。
そこに一人の若衆が来た。顔を当たっておくないと、女房は若い衆にやらせてアンタは休んでいなよという。しかし男は俺の腕を頼んで来たんだ、俺がやるから湯を沸かせとなる。剃刀を革のベルトで入念に磨く。そして顔を蒸しシャボンをつけ剃刀を当て始める。額から顔、そして顎へと進む。
気が付くと若衆は気持ちよさそうにイビキをかいて寝てしまっている。名人気質で病的性格の男はそれをジッと見ながらノド仏の辺りを剃刀で丁寧に当たっていた。とその時男の持つ剃刀は男のノド仏をかき切ってしまっていた。鮮血が吹き出し若衆は息絶える。とまあ大まかこんな小説である。
長い長い間私の頭と私の顔を当たってくれた人が引退した。その後家から歩いて15分位の所にある床屋さんに行く事にした。座席が5席もあるのだから大きな床屋さんだ。しかしいつ行っても一人か二人しかいない。息子と娘と既に背中が少し曲がった母親らしき人の三人コンビである。
鋏を使うのは息子、頭を洗うのが嫁、そして眠りから覚めて気が付いたのだが剃刀を使っていたのは老婆であった。頭を洗ってもらい肩をほぐしてもらって座席を倒した時寝不足の私は眠ってしまった様だ。息子は隣に来ているお客さんの頭を刈っている。
えっおばちゃんが剃刀を使って当たってくれたのと言った。ハイ、そうですよ、いい気持ちになって大きなイビキをかいてよくお休みでしたよ。と手にキラッと光る剃刀を持っているではないか。聞けば先代のご主人の時から顔は昔の女房、今の老婆の仕事だったらしい。その腕は確かで剃り残しはないという。
それから二度行った。二度とも同じコンビで同じ仕事の流れであった。お客さん、随分とお疲れの様ですがあんまりご無理なさらないで下さいと言われた。大きなイビキをかくけどお婆ちゃん殺さないでよ、まだ少しやり残した仕事があるんだからと言った何を言ってるんですか、よく見ると北林谷栄にソックリだった。
殺せるもんならもう何人も殺してますよオホホホだって。