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2015年6月12日金曜日

「鋭いね、木村草太」



防衛大学特任教授「森本敏」、民主党政権の元防衛大臣である。
特任教授なんて代物は肩書ほしさだけ。
一年の内に一度位どうでもいいことを話しているだけ。

今度の戦争法案がまるっきり法案の体を成していないのは一人の国家リーダー以外みんなわかっている。
それ故TV局が出たがり学者に連絡しても腰が痛いとか、頭が痛いとかいって断りを入れる。TVに出れば下手を打ってしまうからだ。

で、森本敏なのだが、あんたは一体何なのかねと思ってしまう。民主党政権でホイホイしてたが、政権が変わるとTVに出まくってペラペラしてた。
戦争法案が出ると無理筋の法案を正当化しようとTV局をハシゴする。いつの世もこんなスヤイ(安い)学者がいるもんだ。

こういう輩を“御用学者”という。
ある番組で「中谷元」防衛大臣とペアを組んで、今売り出し中の首都大学の准教授・憲法学者「木村草太」と小泉政権の元内閣副長官補「柳澤協二」のペアと論戦をした。
論戦といってもまるで論戦にならない。
木村、柳澤ペアの冷静且つ正しい指摘についていけない。
やられっ放し、何しろ国民の6080%が抜け穴だらけ、ツギハギだらけの法案に反対している。

官僚言葉でどうにでも拡大解釈が可能な作文をオウム返しするだけで、さすがに司会者も苦笑する。中谷大臣に至っては目が泳ぎまくって油汗をかいていた。
森本敏は懸命に自論をいうのだがひたすら恥をかくばかり。
若き憲法学者木村草太は鋭く看破していた。

一方的に成立させられると思っていた戦争法案(平和法案という人もいる)が日増したその行方が怪しくなって来た。
きっと強行採決をし、来年の参議院選挙は衆議院選挙と同時に行うだろう。
得意の戦法だ。これで信を得たというやり方だ。

森本敏は次はどっちにつくかをまた考えることとなる。
官僚にもなかなかの人物がいると思ったのは柳澤協二だ。
鷹の様な鋭い目で森本敏を圧倒する、この法案は駄目だと。

中谷元はディベート下手で有名、体はでかいがハートは小さいのでオロオロ感が際立ってしまう。中谷元防衛大臣の首にはすでに秋風が吹いている。
森本敏は性懲りもなくTVに出まくって恥の上塗りをしている。

それにしても木村草太という男は久々に出来る学者だ。
正宗の刀のように切れ味が鋭い。(文中敬称略)


「朝日は夕陽へ」




テメェ〜このヤロー白状シロ、テメェ〜このヤローと背負い投げ、一本背負い。
テメェ〜このヤローやったといえ、顔面を殴る、倒れたらボカスカ蹴飛ばす。
朝から晩まで繰り返す。

このヤロー他のヤローは白状したんだ、こうして冤罪は生まれていった。
しっかりとしたアリバイもある男が死刑を宣告され本当にやった男は無期となる。
まったく何もしてない三人の人間が十二年の刑となる。

無期になった男の単独による強盗殺人事件は警察の見立て違いであったがそれを認めるわけにはいかず犯人を作り上げる。前科が一つあったというのが原因であった。
一度悪いことをした奴は二度やる、三度やる、何度もやるという思い込みが冤罪を生んで来た。

主犯の男は嘘つきの典型であり、友だちに罪を被せた。
どうやっても五人の犯行でないのは分かっていたが、第一審、第二審の裁判所は警察と検事の見立てを正しいと判断した。


社会派の巨匠、今井正監督の「真昼の暗黒」という映画を観た。
おっかさんまだ最高裁があると面会室で叫ぶ無罪の男、若き弁護士は決意を秘めた顔でそれを見る。
「八海事件」をモデルにした名作である(最高裁でどうなったかはここでは描かれていない)。憲法や法律を裁判所が守ってくれるという保証はない。

政治という権力によって解釈が左右されるケースも多い。
憲法学者の90%が違憲だと判断しているのに、戦争に対する判断は政治家がするんだと、法を守る弁護士出身の政治家が声を大にして言っている。
完全なる自己否定といえる。

三人の憲法学者が政府に呼ばれて「違憲です」といった日、朝日、毎日新聞は一面を避けた。逃げたといってもいいだろう。
両紙はインテリ紙を自負しているが、いざという時は腰が砕ける。
冤罪を生む原因は新聞報道によることが多い。警察や政府の発表を裏付けもとらず誤報を流し続け読者を煽るのだ。

「八海事件」の時も新聞は誤報を書きまくった。
この事件は一人の公正な裁判官が法を守って結末する。
それまで20年近い月日が必要であった。

ジョージ・オーウェルは「伝えるべきことを伝えるのがジャーナリズム、そうでないのは、ただの広報だ」といった。私は朝日新聞の宅配をやめようと思っている。
朝日はすっかり落ちてゆく夕陽になっている。
一度でも警察で指紋をとられた人は、いつ冤罪に巻き込まれるかもしれない。
気をつけあれ。

2015年6月11日木曜日

「思い出の打ち直し」




私にも子どもだった頃がある。
一年中朝から晩まで働きに出ていた母親を手伝った日がある。
それは年中行事の一つで何より母親と一緒なのがうれしかった。

その一日は障子紙の張り替えの日、何枚も変色した障子を庭に出し、私は紙の部分を破り水でしっかりと紙を取る、母親はごはんの残りをブリキの洗面器に入れ水でもってそれを糊状にしていく。
私は障子を洗ったり、そこを持ってなさいとの言葉に従い障子の茶色い外枠の部分を持つ。母親は大きな刷毛で正方形の仕切り枠のところに糊を手際よくつける。
乾かない内に巻紙状になった障子紙を張っていく。
全部を貼り、霧吹きで障子紙に霧を吹き込むと1時間もすると真っ白になった一枚の障子が、陽を浴びてピーンと出来上がる。
これはどの家でもやっている季節の光景だった。

学校から帰ると縁側に薄茶色の膨らんだ袋がいくつか重なり並んで置いてある。
あっ、ふとんの打ち直しだ。ふとん屋さんに出しておいた傷んだ綿が生まれ返っていた。きっと今度の日曜日はふとんの作り直しだとよろこんだ。
大きく広げた木綿布のはしっこを持っていなさいといわれる。
母親は真っ白くなった綿を布の上に手際よく広げていく。
母親も私も日本手ぬぐいで口と鼻をふさいでいた。布を上手に引っくり返すのを手伝う。母親は四隅にしっかり綿を入れていく。
そしてふとん屋さんのように針と糸で重点ポイントを縫っていった。

どこの家のお母さんもこんなことをフツーに行っていた。
縫い上がったふとんを外に出し竹の棒で叩くのを手伝った。
母親との共同作業の日は忘れがたき思い出である。

いよいよ梅雨本番へ、シトシト、ジメジメとする。
ダニアレルゲン物質の登場となる。皮膚炎やアトピーなどにお悩みの方や汚いの大嫌い、キレイ大好きな方にぜひoluha(オルハ)ショップ(銀座一丁目キラリトギンザ3階)へのご来店をおすすめする。古くなった羽毛ふとんの生まれ変わりをおすすめする。
ぺったんこになったどこのメーカーの羽毛ふとんでも、ふんわり、ふっくらとした新品同様に再生してくれるはずだ。
夏の間に寝具のお手入れをするのは日本人のよき習慣なのだ。


六月二十日(土)oluha(オルハ)ショップで「寝具のお手入れのコツ」と「実は怖いダニアレルギー」をテーマに睡眠改善インストラクター國井修店長のセミナーがある。詳しくは03-5579-9710へ、ぜひご参加あれ。

また不定愁訴にお悩みの方、自律神経の不調などで快眠できない方はご相談してみて下され。私のような性根の悪い人間を打ち直すことは難しいが、古くなった羽毛ふとんは直すことができる。ダニと一緒に眠る生活はやめましょう。
イライラの多い生活はやめましょう。
枕を変えただけですごくスッキリ眠れたという人もずい分と多いようです。

正座をしたひざの上に新しい綿の入ったふとんをのせ太い縫い針で縫いながら、時々針を髪の毛に触れさせた、何をやってるのと聞くと、こうするとよく縫えるかえらといった。子どもにとって母親のちょっとした仕草が大切な思い出になる。

2015年6月9日火曜日

「過去という花びら」


「男はつらいよ」一作目


大好きだったNHK日曜日の「のど自慢」を二年近く見ていない。
大好きだった「なつかしのメロディ」も見ていない。
大好きだった演歌番組はずっと見ていない。
何故か見る気になれない。

少年の頃、あるヤクザ者にいわれた言葉がある。
「男は長生きと、ため息をつくんじゃない」と。
そのヤクザ者が死んだという話を聞いた。

中学時代の先輩だった。
その先輩のアパートの一室でNHKの「のど自慢」を一緒に見た日々がある。
渋谷になあ、すごい流しが居るらしいぞ、そんな話をした。
私の知っている流しは「上原げんと」の弟子であった。やはり渋谷の流しの話をした。

当時は三曲唄って100円だった。
流しの一流は400曲を覚えていなければ駄目だといっていた。
人間ジュークボックスなのだ。
お前ガキのくせしてやけに「のど自慢」とか演歌が好きだなといわれた。
そんなことはないよといった。ロックもフォークもモダンジャズも、クラシックもウェスタンも、津軽三味線も浪曲も民謡も好きであった。
小さなレコードプレイヤーにソノシートとかドーナツ盤でいろんな曲を聴いた。

渋谷で有名な流しの名は「北島三郎」だと聞いた。
目黒にあった野口進ボクシング教室(ジム)にキックボクシングの大スター沢村忠選手がいた。その沢村選手がかわいがっている歌手が抜群にうまいという話を聞いた。
真空飛び膝蹴りで無敗だった沢村選手がある夜TVスタジオ内につくったリングの上で、一人の歌手を紹介した。その名を「五木ひろし」といった。

私の仕事場の前に手焼きせんべいの「田吾作」という小さな店がある。
そこに行ったら沢村選手の色紙があった。
オヤジに何故と聞いたら時々いらっしゃるんですといった。穏やかな日々を送っているらしい。なんだかうれしかった。

大好きな歌手「ちあきなおみ」はどうしているかと時々想う。
美空ひばりと五分の勝負ができた歌手だ。
♪〜新宿二丁目裏通り・・・
もう一度ナマで聴きたいものだ。

いい歳になると過去という花びらがハラハラと降りて来る。
だからだろうか懐メロとか演歌を避けるようになったのは。

♪〜私のなみだも知らないで あの人は 何処へ何処へ行く どんなに冷たくされたって いいえ私はついて行く・・・西田佐知子の「灯りを消して」という曲だ。

思い出したくないあの日、荻窪にあったBAR「角笛」の有線放送から流れていた。
ヤバイ、すっかり長生きをし、ため息をついている。気合を入れてもう一勝負だ。
勝負はこれからだ。みんなはじめは無名だったのだ。

遂に渥美清主演の「泣いてたまるか」全2040話を見終わった。
最後の作品の題名は「男はつらい」脚本が若き山田洋次さんだった。
このあと「男はつらいよ」シリーズが生まれていった。

「カタクチイワシだって」




「五ろ引網」が地引き網を入れる。いわゆる観光網だ。
一網15万位だと聞いた。

六月七日(日)早朝に網をおろしたものをユンボでジワジワと引く、二本のロープをお客さんみんなで引く。辻堂海岸にいくつものテントが張られていた。
多くは地元の建設会社の社員家族慰労のためであった。
孫たちの野球のチームも参加していたので見に行った。

老若男女その数200人以上はいただろうか。
すでにビール、日本酒、ワイン、ウィスキー、焼酎、ジュース、コーラ、カルピスなど大騒ぎだ。漁師さんの数は六人だったと思う。天ぷらを揚げる漁師の奥さんたちが数人いた。

相模湾は魚の宝庫だったが今や魚がいない。
この日は特にいなかった。みんなでセーノ、セーノと引いた。
網を取りに海に漁師さんが入る、首まで入る。コラーしっかり引けと老漁師が怒鳴る。

みんな運動会の網引みたいに引っ張った。三十分位してやっと魚の入った網が見えて来た。ズッズ、ズーと砂浜を引きずられて膨らんだ網が現れた。
子どもたちはワァー、ワァーとよろこぶ。
漁師さんが水色のプラスチックの大きな桶を何個も用意する。

網を数人で持ちドバァーと出て来た魚は、カタクチイワシばかりであった。
シラスも少なかった。シラスはおばさんたちが釜茹でにする。
漁師さんが手際よく魚を分別する。
だが入っていたのはアジ一匹、小さなスズキ一匹、黒鯛の子が七匹だったと思う。あとトカゲを少し大きくしたようなサメの子が一匹であった。

かつてはアジ、カマス、サバ、イシモチ、キスや見たこともない珍魚がたくさん入っていた。海の上に黒いものがたくさん浮かんでいた。サーファーたちだ。
波はそれほど大きくないからじっとしている。

むかし有明海でみたムツゴロウの漁を思い出した。
ドロ海の上を細く長い板みたいなのを滑らせ、長い竿の先に付いたフックのような釣針でじっとしているムツゴロウをピッと一瞬で釣り上げる。あっとおどろくタメゴローのように、あっとおどろいたムツゴロウは時すでに遅しと釣り上げられる。

黒いサーファーたちが釣り上げられたという話は聞いたことはない。
カタクチイワシでもお頭つきの立派な魚である、みんなビニール袋や小さなバケツに入れてもらっていた。イモだかカボチャをおばさんたちが天ぷらにしていた。

先週はヨォ、カマスが4,50匹入ったんだがよ、と老漁師はいった。
私はカシャッと使い捨てカメラのシャッターを切った。

2015年6月8日月曜日

「日曜日に観た、ある日曜日」


※イメージです


六月七日、日曜日。
早朝地引き網を見る、深夜TSUTAYAから借りたDVDを観る、渥美清主演「泣いてたまるか」全20巻に挑戦して遂にあと4巻となった。全部観ると1800分近くだ。

いい人ばかりが出るドラマだったのだが第15巻「ある日曜日」にはじめて嫌な人間が出て来た。脚本は大巨匠となった「木下恵介」だった。

主人公は渥美清、市原悦子が演じる夫婦(一人の男の子、一人の女の子)。
結婚して十年になる家族であった。嫌な奴とは隣に住む夫婦の妻と、その居候の弟、妻の母親だ。50年ほど前の社宅、壁一枚で話は筒抜け、野心家の居候の弟は小説家志望で、渥美清家を二階からいつも見ている。

“ある日曜日”渥美清家はデパートに行くこととなり子どもたちは大喜び、妻もこの日はと一張羅の着物を来てお出かけとなった。
お隣の家に「すみませんちょっと横浜まで出かけますので留守をします、何ぶんよろしく」とご挨拶をします。
隣の妻と母(主人は養子で無言)は、なんだね横浜行くのがそんなに嬉しいのかねと嫌味をたっぷりという(当時は留守にする時お隣さんにひと言いっていた)。

事件はデパートで起きた。
買い物をしていた時、下の女の子(四歳位)がハンドバックを持って動きだしてしまった。母親はダメよ返してらっしゃいといって叱りバッグを持っていたら万引きと間違えられてしまったのです。その姿をお隣の居候に見られてしまいました。
居候はそれを姉や母にしゃべり、それを聞いていた子どもたちがご近所にふれて回ります。社宅みたいなところはそんな話はあっという間に広がってしまいます。

意気消沈した奥さんはダンナに私が無実だったことを説明して回ってと強くいいます。
人のよいダンナさんはそんなことをする必要はないよ、ちゃんと無実が証明されたのだから。母は四歳位の娘にきつく当たります。
あんたがバッグを持って動いてしまったからよと、娘は泣きじゃくります。

そんなシーンを隣の居候は「日曜日の悲劇」という題名の小説にして懸賞小説に応募して入選します。出版社がカメラを持って取材に来ます。
姉と母は魚屋から鯛を出前させて御祝いをします。
居候の彼女は人の不幸を本に書く男に嫌悪感を持ち別れの手紙をよこします。
渥美清の妻は悶々とします。

そして、その日ふとんに横になり下の娘とガス自殺を図ります。
上の男の子が学校から帰り、ぐったりしている母と妹を見て、大変だ、大変だとご近所に助けを求めて事なきをえたのです。

渥美清と市原悦子夫婦は故郷に引越をします。
渥美清は仕事があるので単身となり、アパートの一人住まいへと引越します。
お隣のご主人が申し訳ありませんでしたとお詫びに来ます。
柱時計を外し風呂敷に包んで渥美清は道をトボトボと歩いて行きます。
後姿に無念が浮かんでいます。

たった1つの誤解、子どもの無邪気な行為が大不幸を生んだのです。
そして噂の拡散。

現代社会はメールとかツイッターとか、ラインなどというものが人の大不幸を生んでいる。ちなみに居候役は「新克利」だった。
♪〜上を向いたらきりがない 下を向いたらあとがない 匙をなげるはまだまだはやい 五分の魂 泣いてたまるか・・・が渥美清の後姿にかぶり、遠くに横須賀線が走っていた。

かつてこの国には隣人同士“おすそ分け”などというあったかい習慣があった、私の家もお隣さんから時々おすそ分けをいただく、私はそんな時子どもの頃を思い出す。
隣のおばさんからもらった水戸納豆の味を思い出す。

2015年6月5日金曜日

「ああ、沼津行」




だから沼津行は嫌いなのです。
東京発2102分、ベルは鳴る鳴る、階段をオリャーコリャーと気合を入れて登りグリーン車に滑り込む。

車内はすでに満員状態であった。
チキショウめと思って探したら四席空いていた。
一席は女性らしくない女性なので辞め、一席はパソコンを叩いているのでやめ、一席はすでにビールのロング缶を二缶と、宝缶酎ハイを飲んでおり、お決まりのつま味を食べているのでやめ、で、残りの一席しかない。

後から三番目通路側、窓側のメガネをかけたおじさんはじっと目を閉じている。
とりあえず息を整える、新橋を過ぎた時、取り寄せてもらっていた松本清張の「山中鹿之介」を読むべしと思いバッグから出して読み始めた。
隣は沈思黙考、ぜひこのままでいて下さいと思っていた。 

56頁「泥子を討って、隆元の弔いをせよ」のところにいった時、おじさんの目がバチッとおっぴろがった。列車は田町辺りを過ぎていた。
足元にあったバッグを膝の上にのせてチャックを引いた、中にはワンカップ白鶴が、ウィスキー(サントリー角)のポケット瓶が二つ、駅弁(牛肉ど真ん中)、焼売、焼鳥、貝柱くん製、それと柿の種などが続々と出て来た。

出しては入れ、入れては出し、まずウィスキーをラッパ飲み、プーンとウィスキーの臭いが来た。続いて焼売の臭いが、続いて貝柱、もう山中鹿之介どころではない。
品川から川崎を過ぎたあたりでウィスキーは終り、次はプーンと日本酒の臭い。
いつの間にか靴を脱いでいた。ヤローいい加減にしろと思いつつ列車は走る。

おじさんは六十五・六だろうか、否七十二・三歳かもしれない。
おやっと思うと手にはスマホを持っている。
私はすでに活字を追う気力は臭いで失っている。目はおじさんのスマホ画面に、お、なんだ、指を広げたりつぼめたり、上にしたり、下にしたりしている画面には、若い女性の姿が何分割かにされていて夥しい数である。おじさんは時々その中の気に入ったもの(?)を拡大する。

日本酒を飲む、貝柱を口に入れる。次にいよいよ柿の種の袋をくわえて破った。
目、口、左手、右手を総動員、足はズルズルとした靴下、かゆいのか足で足をかく。
慣れない読書なんかするのがいけなかった。

山中鹿之介は58頁でやめて私はじっと目を閉じた。
忍の一字だ、怒っちゃダメだと言い聞かせる(果たして怒る権利は有るや無しや)。
二分前の湘南ライナー(21時丁度発)に乗っていたらこんな事にならなかったと思った。

列車はやっと横浜を過ぎたのであった。オッと空席が出ている、私はおじさんの隣の席を立ちいそいそと移動した。目の前の網の中に缶ビールの空缶と、夕刊フジと、いかくん製とチーかまの食べ残りの袋が入っていた。
確か女性らしからぬ女性が座っていたはずだと思った。

2015年6月4日木曜日

「役柄」



六月朝の雨は泪のように光っていた。
花弁をいっぱいにした薄青い紫陽花はまるでくすだまの様であった。
公園の片隅に咲いているくすだまたちを見ていて緑の葉っぱたちの方が美しいなと思った。不規則な木の部分が逞しいなと思った。
背の低い紫陽花の根の部分を見るとふてぶてしいように力強く見えた。
紫陽花は絵を描く人たちのよき題材であった。

その日久々に絵を描こうと思った。ノオトにスケッチを描いた。
私が紫陽花を描こうと思っているのは根の部分だけだった。
花弁は画一的でつまらないと思った。

根の部分には生きていくための必死が見えた。
根の下を掘って見てみたいと思った。
小さな子どもたちが遊ぶ公園の下には生き残っていくための根と根が無数に絡み合っているのだろう。

人間も同じだなと思った。
人にはそれぞれ役柄がある。土の下の根の役、土から出た木の役、そして咲く花の役だ。私が土の下にて乱れに乱れる根の脈になりたいと思うのはいうまでもない。
美は乱調にあるという。

2015年6月3日水曜日

「夢のポスター」




六月一日(土)ある用があってタクシーに乗り茅ヶ崎の産業道路を走っていた。
午後一時半頃だった。

腹がへったなメシでも食べるかと顔なじみの運転手さんにいった。
ハイ!食べますといった。産業道路にはこれといった店はない。

一軒の和定食屋さんがあった。中に入るとかなり広い、メニューはやたらに多い。
きっと私が憧れるガテン系の人たちが来るのだろう。
私と運転手さんはいろり形になったテーブルの角と角に座った。

私はつけとろそばを、運転手さんは体が大きいのでもりそばとヒレカツ刺身定食を頼んだ。店内にはむかしのビールのポスターや映画のポスターが貼られていた。
店の女性になんでと聞いたら、先代が好きで貼ったようですよといった。

あっ、私は二枚のポスターに目をやった。
3判を立て2分の1にした日活のポスターだった。いずれも主役は石原裕次郎さんだ。一枚はな、なんと「天下を取る」一枚は石原裕次郎原作「あじさいの歌」だった。
共演は芦川いずみであった。

店の女性に知ってる、今大ブレーク中の藤竜也の奥さんだよといったら、そうですか知らなかったといった。タクシーの運転手さんが「天下を取る」なんて本当にあった映画なんですねといった。

それにしてもまるで夢を見ているようだった。
ほしいなあ、あのポスターがと思った。時間をつくってまた行こうと思っている。
なんとかして手に入れたいものだ。車の中でふとこんなことを思い出した。

あるテレビ番組の人気コーナー“食わず嫌い”で石原裕次郎さんの後継者、渡哲也さんが食う奴の気が知れない、大嫌いですといっていたのが「とろろ」だった。
マズかったなツキが落ちる、他のを食べればよかったと思ったが、時すでに遅しだった。とろろそばは決してまずくなく期待以上に旨かった。

2015年6月2日火曜日

「芸術と技術」






その女性は一〇三歳になっても若返っていく。
墨の芸術家「篠田桃江」さんだ。

書道からはじまり書道を否定した。
書であって書にあらず、大きな硯が生み出す黒色、血管が浮き出た細くしなやかな腕と指がゆっくりゆっくり動くと、千色、万色の黒のグラデーションが生み出される。
硯の上に滴る水の量、硯の持つ個性、墨を持つ力の加減がそれを生み出す。

自分の腕と一体になるように特別に作った筆はとても長い、筆先もだらりと長い。
このだらりが墨を吸い込み書き手と意志を通じ合い金箔、銀箔、和紙の上をまるで蛇がうねるように動き、時に図太く、時に荒々しく、時に細々とそしてさらに極細の線、を生む。また自在の面形を生む。

篠田桃江の世界は妖しい黒から白への無数の階調の世界だ。
「生きている限り、前とは別のものができる」という、昨日と今日は違う。
篠田桃江の人生は「わがまま」を貫き通すことであった。

「お手本通りにすることくらい朝飯前ですが、それではつまらない。お手本をまねするのは複製を作ること、アートはまねしたものは偽物です」朝日新聞、著者に会いたいのインタビューに応えていた。

私はNHK ETVのドキュメンタリー番組で見た。
映画監督篠田正浩は従兄弟である。この女性は強烈だ、自分を確信しながらも日々自己を徹底的に研磨する。妖気ただよう美しさがある。近寄りがたいリリシズムがある。
能楽の小面(こおもて)のように、表情があって表情がない、妥協を許さないでくるときっとこうなるという表情だ。究極の抽象画家といえるだろう。

黒い闇の中でバッサリ人に斬られた時、飛び出す赤い血のように時として赤色が黒色を灰色を刺すのだ。芸術とは人のやらないことをやる、それを貫いている篠田桃江はその鏡だろう。何しろ歳を重ねるごとに若々しくなるのだから。
どんなに上手く描いてもそれは技術に過ぎない。これは全ての芸術にいえるだろう。
(文中敬称略)