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2018年2月27日火曜日

「東大安田講堂」

40度の熱まで出さなくてもいいが、38度位の熱を今の若い人に出してほしい。
そう語ったのは、かつて東大全共闘の学生が安田講堂に立てこもり、三十八時間の攻防をした、その時の警察関係の指揮官であり、その後連合赤軍あさま山荘立てこもり事件で指揮を執り、あの有名な鉄の球で攻撃をした人間である。今の若者はあまりにも怒りを忘れていると。
二月十九日私の仕事場に防災関係の仕事をしているNPOの代表や、防災用品を販売している社長。大地震に備えて防災の会社を経営している社長。
音楽を通して防災活動をしている音楽出版の会社社長が集った。
そしてもう一人東大全共闘安田講堂立てこもり事件の中で、もっとも激しい攻防をした「列品館」の守備隊長をしていた人だ。東大落域を防ぐために応援にかけつけた。
最強部隊のリーダーであった。
警察の催涙弾水平撃ちが、一人の学生の片目に命中した。
それまでは消防部隊の放水と上空ヘリコプターからの放水、催涙弾は上に向けて撃ち入れていた、が学生たちの攻撃は警察の想像をはるかに超えていた。
私とそのリーダーとの仲は長い付き合いである。
そのリーダーは列品館屋上から片目に催涙弾が命中した、命が危ない、休戦を申し入れると有名な演説をした。取材していたマスコミも休戦させようと声高に叫びを集中した。板のようなものに乗せられた学生は、ロープで縛られ地上に下ろされた。その間攻防は止み正に休戦となった。リーダーだった人はその後四年間前橋刑務所に入所した。学生運動家の中でこの人を知らない者はモグリである。
安田講堂事件で一番長く服役したので、ある意味スターであり、テレビ取材をいくつも受けた。この人は私が幅広く仕事をさせていただいた。大手電鉄系広告代理店の営業やプロモーションの局長になり、やがて系列会社の役員までになって活躍した。「いつの時代も青年が時代を動かして来たんだ、今の若い人は、もっと怒れ」と言う。東大安田講堂事件から五十年近く経った時、いみじくも立てこもった学生側のリーダーと、攻め続けた警察側のリーダーが、同じことを言ってこの世の今を心配する。その頃のフィルムを見た現代の学生たちは、意味がないじゃんと言う。
何も変わらないでしょと諦めているのだ。久々にお会いしたら自分が取材されていたテレビ番組や、ドキュメンタリーフィルムを五本(DVD5枚)持って来た。
家に帰って約四時間半一気に見た。
二枚は今行っている地域防災の活動であった。
根っからの活動家なのだろう。
学生運動も防災活動も正しいと信じて熱血活動をする
私も今防災活動をライフワークにして各活動を応援している。
私とリーダーとは相性が抜群に合う。何故なら共に闘うことが大好きな性分だからだ。防災活動の一番のネックは」やはりお役所仕事とマンション管理組合の問題、それとまさか自分たちが被災することはないという、不思議な安全感と、ややこしいご近所付き合いはしたくないという感情だ。
こういう人たちは、もしもの事が起きた時、まっ先に人のせいにする
安田講堂のリーダーは広告代理店でも抜群の活躍をして、ある年一発数十億の某大手自動車会社のプレゼンテーションに勝った。能書きが多いのが特徴の業界では、プレゼンテーションに勝つことが最大の戦果であり、勲章となる。ちなみに学生たちに攻撃命令を出し、鉄の球を打ち込んで、38度位の熱で怒ってほしいと語ったのが、伝説の警察官僚である。東大OBが東大の後輩たちに徹底攻撃したという劇的なことであった。私は力強いリーダーシップを持つ味方と共に、防災活動にアイデアを提供する。
自助、共助、公助を目指して。大地震は必ず来る。昨日は二二六事件の日であった。


2018年2月23日金曜日

「酒敵と忘憂の友」



昨日 二十二日は私にとって複雑な日だった。
親友の命日であり、愛する孫娘の誕生日だった。
朝仕事仲間と麻布十番「更科堀井」店の前で待ち合わせて、二人で墓を参る。
粉雪が舞っていた。麻布浄苑の納骨堂もは、一体20センチ程の木の仏像がスズメバチの巣のように集合している。
いつもお茶を出してくれるご婦人がいない。聞けば先日急死したとか。仲間二人と「堀井」に戻り、酒を一合交わし献杯をする。午後十二時頃店内はほぼ満席であった。私には大親友が三人いた。
一人は十六歳で出会い五十三年間ずっと付き合った。
六十九歳癌で死んだ。もう一人は、三十二歳の時からの付き合いであった。三十年ずっと付き合った。六十二歳癌で死んだ。そしてもう一人が二十二日墓を参った友である。六十三歳癌で死んだ。一人は酒と喧嘩に明け暮れた最強の友であった。一年中一緒にいた。朝から朝まで。
一人は今いる業界に入った時からあらゆる仕事を一緒にした。
徹夜、徹夜の仲である。私が行き詰まった時、体をかけて救けてくれた。最高の友であった。
一人は私の先生である。ありとあらゆることを教えてくれた。
最愛の友であった。
つまり私は大親友を三人共癌で失った。粉雪はハラハラと舞っていた。
夜孫娘のところに誕生日の御祝に行った。スクスクと成長していて、プレゼントに持っていった服がすでに小さくてパンパンであり、持ち帰ることとなった。
男と男が旨い酒を交わす仲を「酒敵」という。
又、中国では酒のことを「忘憂」という。「忘憂の友」とは、旨い酒を交わす仲の別の呼び名である。
苦あれば楽あり、苦には四苦八苦があり、楽には極楽がある。
二月二十三日、やけに寒い、今夜は誰れを「酒敵」にするか、「忘憂の友」にするか。そんなことを思いながら銀座を歩いて、服を交換してもらった。
亡き母は私がいよいよどん詰まりになった時、こう言った。
「ケ・セ・ラ・セ・ヨ」と。世の中はなるようにしかならない。





※画像はイメージです。


2018年2月22日木曜日

「ある歌人」


絵に描いたような幸せは、実は絵にも描けない。

生きているのがまるで地獄のようだと思っている内は、実は未だ地獄の中ではない。
ある人は言う、大変だ、大変だと言っている内は大丈夫、本当に大変な時は大変という言葉すら出ない。
一人の歌人のドキュメンタリー映像を見た。
早稲田大学文学部を出たその人は、ある会社に入社するが、売上げの数字に追われる日々に耐えられなくなり、退社してタクシードライバーになる。
家には要介護(3)の母親をおいて。
すでに認知症になっていて一人だけにしておくには心配である。
が稼がなければ生きていけない。
五十歳を超えたであろうそのタクシードライバーは、クルマの中から見る、渋谷、新宿、銀座など夜の人間模様や、人間の生態を短歌にしてメモに書く、その短歌が、歌壇で認められ一つの賞を受賞する。
だからと言ってタクシードライバーの日常が変わる訳ではない、母親のために食事を作り、トイレに行くのに間違いがないように導線のロープを張る。
母親は誰も隣りにいないのに何かを語りかける。
タクシードライバーは夜が稼ぎ時、なかなか眠らない母親を一時間以上かけて眠りにつかせる。
ため息ともつかない息をつく、街には雑踏と雑然があり、酔態と俗悪がある。
無言の人々が駅の改札口に向い、その横のビルの中では、フィットネスやランニングをしている。
若い男女は抱き合いキスを重ね、怪し気な中年男は、派手なコスチュームの女性をホテルに誘う。ネオンの花が咲き乱れる中、タクシードライバーは、絵にも描けない世界を歌にして書き続ける。母と息子その血の繋がり、現実は逃避を許さない。
お母さん行ってくるからねとの声をかけるも、母には息子の愛は認知されない。
無言ほど心に刺さる言葉はない。人間ぜいたくを言ったらきりがない。
小さな幸せを大きな幸せと感じて行こう。



※画像はイメージです。


2018年2月20日火曜日

「木材店と梅ジャム」

木曽路はみんな山の中。
こんな書き出しで始まる小説があった。(書き出しではなく文中かもしれない)
この短い言葉に日本という国が森林大国であることをイメージした。
少年の頃住んでいた東京都杉並区天沼三丁目には木材店があった。その頃どの町にも木材店があった。木材の香りは町の香りでもあった。四角い木材はやや斜めに店の前に並んでいた。店の中では何人かのやけに強そうな男の人がカンナで木材を削っていた。男の人の足もとにはカンナくずがクルクル巻きになって落ちていた。男の人は時々カンナを目の前にして刃の出具合いを見てトンカチでカンナの後を叩いた。
材店の中の香りが大好きで私はよく行った。
確か隣りには浜名屋という日本そば屋さんがあり、魚藤という魚屋さんがあった。
その前には大橋豆腐店があり、三州屋という酒屋さんがあった。三原という八百屋さんもあった。
木材店の名だけが今思い出せない。何故だろうか。木材の香りと独特の臭いは憶えているのに。貧しき家でのお使いは、魚藤で魚のアラを買い。大橋豆腐店でおからを買い、三州屋でお醤油を買う。
更に浜名屋でうどん玉を買い、三原で白菜、人参、大根などを買った。
少年の手にはかなり重い。下宿屋みたいに二階の一部を食事付で貸していた。
お金があった頃はお手伝いさんが住んでいたという離れがあり、そこも人に貸していた。
兄姉六人と母、それに下宿人二人分を買った。楽しみは木材店に寄ってカンナくずをもらう事だった。
当時は電動ノコギリはない。腕のいい職人さんたちが削ったカンナくずは、薄く、長く、カール(クルクル)が大きい。食べてしまいたいほどで、まるで上質のカツオ節みたいだった。
カンナくずはたき火おこしに最適であり、ガキ同士が集まってたき火をしてはヤキイモを作った。
日本は世界一の森林国なのに外国から木材を輸入する、特に新建材が輸入されるようになって、木材店は町から姿をなくしはじめた。国の政策がトンチンカンだったのだ。
月六日日経新聞の記事を読むと、林業従事者は4万5千人、25年前の10万人から半減した。
しかも担い手の4人に1人が65歳以上だとあった。
木は成長しすぎれば倒木の危険があり、加工して流通してもコストがかさむ、森林の6割以上は伐採期を迎えているが利用されていない。倒木が進む。
大洪水の時無数の倒木が流れて未曾有の大被害が出ているのは、山を大切にせずに放っておいた無策のせいだ。地方創生というが、その第一は森林創生にあると言っても過言ではない。
いい山は、いい川を生みいい海を育てる。いい海にはいい魚たちが集まる。
いいことばかりなのに何をやってんだと言いたい。かつて木材の下りの勇壮な姿があった。
激流の中、屈強な山の男たちが筏の上に乗り川を下った。今、町には香りがない、風情は何もない。
コンビニだけが異様にある。天沼税務署前にノコギリ屋さんがあった。
オジサンは両足先でノコギリをはさみ、職人さんから頼まれたノコギリの刃の手入れをしていた。舐石屋さんというオジさんが来て、木材店のカンナや、魚藤さんの包丁を研いでいた。
ガキの頃のお使いは重かったが楽しい日々でもあった。
お駄賃の10円を持ってお菓子屋さんで、ソースせんべいや梅ジャムせんべいを買って食べた。
日本で唯一の梅ジャムを作っていた一人のオジサンが16才から始めて70年、遂に引退することを昨日帰宅して知った。レシピは未公開、自分で作り始めたものは、自分と共に終る。
そんな意味のことを梅ジャム生みの親は語っていた。
木材の香り、梅ジャムの味、この国はどんどん大切なものを失って行く。





2018年2月19日月曜日

「男の嫉妬」

この歌を知っている人は、相当に歌謡曲に詳しい。
♪勤王佐幕揺れ動く 空に火を吹く桜島 今に見ていろ イモ侍が……。新川二郎(生死不明)が唄った歌(題名が思い出せない)だ。イモ侍とは薩摩イモを食って育った侍のこと。
歌の主人公は、中村半次郎のちの陸軍少将桐野利秋である。
明治維新(あるいは明治革命)150年を迎えるにあたり、書店もテレビも、明治維新ブームである。書店にはズラリ、ズラズラ西郷隆盛の本が並ぶ。
又、その関係本が並ぶ。私はずっとこんな自論を亡き友と語り合って来た。
明治維新はホモセクショナル的愛情と、憎悪、そして男の嫉妬が生んだと。
佐賀に生まれた「葉隠」の思想と、中国の思想家「王陽明」が生んだ”陽明学”がそのもとである。陽明学とは思想と行動の一体にある。
この思想は男社会にありえる。
葉隠は男子たる者は、朝起きたらその日死ぬことを覚悟せよ、そのために朝カラダを清め、日々洗ったものを身につける。
髪の乱れなども許さないほど美意識を大切にした。
死んだ時のことを思ってのことであった。陽明学は吉田松陰たちを動かした。
高杉晋作、木戸考充たちもその中から生まれた。
薩摩藩には郷中教育という独特の地域教育制度があった。
その中のリーダーが西郷隆盛であり、イモを食った仲が、大久保利通である。
その独特な関係は、親の血を引く兄弟よりも、固い契りの義兄弟というヤクザ者の結束と同じくする。
新選組の近藤勇と土方歳三たちも近い。(思想はなかったが)
三島由紀夫の”楯の会”などは、その典型であろう。男と男の結束は何を生むか、それはある意味男と女の愛情を超えた、ホモセクシャル的なものである。
イモ侍の中に人斬り半次郎と言われた中村半次郎がいた。
後に陸軍少将となり西南戦争を起こす。
又、別府晋介、辺見十太郎とか西郷隆盛大好き人間たちが集結する。郷中教育の中の大好きな兄貴分西郷を、大久保利通は誰よりも愛していたはずだ。
維新を成し遂げたのは西郷と自分だと思っていた。
男の嫉妬は女性のそれよりはるかに恐い。
(近親憎悪)その嫉妬心がやがて西南戦争を生み、(大久保の策略で)西郷大好き結束団を滅ぼした。
桐野自身が西郷を撃ったという説もある。
西郷どんは、誰にも渡さない、オイのもんだと。明治維新ほど男と男の愛情が絡み合った出来事はないだろう。そして公家たちの保身。そのためには、裏切り、寝返りなんでも有り。
岩倉具視は陰謀政治の原型を生んだ。
親分のためなら命を捨てる。兄貴分のためなら命はいらない。
男と男の社会は世界史、日本史の中であらゆる戦争の大因なのである。
その巨大な典型が、ナチスドイツである。陽明学は現在も脈々と生きている。思想とは行動であるとして。
ところで新川二郎の歌の題名は(?)生きていればと願う。
男と女は結合しても、決して結束はしない。
いかなる手段を持ってしても、男が女に勝つことがないのは、男は結束を求めすぎるからだろう。結束は嫉妬によって粉々に碎け散る。週末「流罪の日本史」というのを読んだ。
島流しはどう生まれたか。これから世の会社は人事の季節。思わぬ人が思いもよらぬ所に島流し(左遷)となる。その秘めたる原因が、男の嫉妬にあるのは言うまでもない。
渡邊大門著「流罪の日本史」ちくま新書860円+税。
そう言えば「愛の流行地」なるスケベな男と女の本があった。
渡邊淳一先生の大ベストセラーだった。
ふと思った司馬遼太郎の中にホモセクショナル的なものが色濃くあるのを。
大先生がこよなく愛した小説の主人公たちは、男と男、そして結束と美しき滅びであった。
何もかも自論であり推論である。(文中敬称略)



2018年2月16日金曜日

「映画と信玄餅」



ある会社の新プロジェクトのために、10分位のコンセプトイメージ映像をつくるために、三日三晩三十本ほどの映像を見た。資料探しなのでストーリーは追わない。
確かあの映画のあのシーン、あのカット、あのファッションに、あのメーク、あのタイトルに、あのワインの飲み方、などなど記憶を頼りに思い出し、早送り、停止、メモ、早送り、停止、メモを繰り返す。
0.5秒くらいのカットや、3秒のシーン、5秒の動き、0,8秒の仕草、1.5秒の歩き、4秒のハサミ使いやトルソーに掛けた仮繕い服へのピンワーク。
パンクロックや、R&B、ラップ、テクノサウンドのPV(プロモーションビデオ)やライヴフィルも見た。秒単位を選び出しアタマの中で編集した。
で、昨日演出家にゴッソリ説明をして終えた。
その間「マリス博士の奇想天外の人生」/福岡伸一訳330ページを読んだ。
この企画にいきることを願って。’93にDNAの断片を増幅するPCRを開発して「ノーベル化学賞」を受賞した天才だ。
現在のDNA捜査を画期的に生んだようだ。
(PCRに関しては私のような浅学の徒にはチンプンカンプンである)福岡伸一教授(青山学院大生物学)の文章は何だか分からないことでも、何だか分かったように読ませてくれる。
マリス博士の趣味はサーフィン、数度の離婚と結婚、森の中で聞くフクロウの鳴き声を聞くことも楽しむ。
恋人とデート中にパッパッとヒラメイたビックアイデア。
何でも試してみようとLSD体験。受賞当時「サーファーがノーベル賞受賞」と大々的ニュースとなった。
久々に「プラダを着た悪魔」を見た。アメリカのファッション雑誌の編集長、スーパーブランドブームはこの映画から始まったと言っても過言ではない。
「バレエカンパニー」「ブルゴーニュの森にこんにちは」、「暗黒街」「レディガガ」「マドンナ」「ザ・ヘヴィー」「サーマン・マンソン」「現金に手を出すな」「さよならベートーベン」「ココ・シャネル」アタマの中がまるで、コインランドリーの中でグルグル回るいろんな服のように大回転した。
その結果いい歳をしているが記憶力は未だソコソコ大丈夫だなと思った。
(日常生活においては周りの人々に迷惑をかけ放しだ)つくづく思ったのは外国人たちの編集の上手さだ。
日本の映画界では編集を重く見ていないが。外国では編集がいかにすぐれているかが重要だ。日本の映画界は、アニメ世代、ゲーム世代が映画を手がけるのが多くなった。CG全盛時代なので全てがCG頼り、天才中野裕之さんはじめ何人かの監督は編集が上手い。
「プラダを着た悪魔」は編集を学ぶのには教科書みたいに見事だ。
(映画の内容はともかく)私はやはり旧作の中に映画を感じる。フランスの名優ジャン・ギャバンは最高だった。「現金に手を出すな」の中のレストランシーンは本当にいい、コート姿も。そして主題歌(原題でもある)グリスビーブルースは最高であった。山梨出身のアジアン雑貨のオーナーがお土産で持って来てくれた。
名物の「信玄餅」を食べながら見ていたら、着ていた服にきな粉がボロボロ、ボロボロと落ちた。
でも旨い。このお菓子の包装の手の込みようは、最上の編集に近い作品だ。


※画像はイメージです。


2018年2月13日火曜日

「オーバーコート」



銀座の泰明小学校制服に、ジョルジオ・アルマーニをと、校長が言って物議を呼んでいる。泰明小学校の今を知っているヒトは知っているだろう。
外から見ると廃校のようである。すぐ前にコリドー街、レストランBar、古い飲食街には私が時々行く、「青葉屋」という、スキヤキ・しゃぶしゃぶの店があり、その隣りには故立川談志さんとその一家が通ったBar「美弥」があった。その前の泰明庵というそば屋さんは有名である。小学校の隣りにはBarなどが並ぶ、つまるところ、銀座の片隅の飲食街の突き当たりである。ジョルジオ・アルマーニなんかとても似合うロケーションでない。何しろ狭くて暗いからだ。他のブランドに断られてアルマーニが作ってくれるという結果らしいが、「服育」という言葉には共感する。貧しき家庭に育った私は、兄姉たちが着古したニットを集めて近所の「セーター編みます」の張り紙の家に行って、色とりどりの毛糸で編んだセーターを作ってもらって着た。今ならかなりオシャレだ。又、兄姉が着古した服の切れはしを集めて、「洋服作り直します」の張り紙のある家に行ってパッチワークのような服を作ってもらった。
今なら相当オシャレである。当時は恥ずかしかった。しかし母親の深い愛情を感じた。つまり「服育」であった。一枚の布に穴をあけポンチョみたいにしてデビューしたのが、イッセイ・ミヤケであり、野良着や東北地方に伝わる裂織を生かしてファッション界に新風を呼んだのもイッセイ・ミヤケである。修道院で育った貧しい女の子が、やがて黒い服(修道院で着る服)をオートクチュールとして世界のファッション界にデビューした。葬式に着る服だと酷評を浴びたが、今ではスーパーブランドの中のスーパーブランド、「シャネル」である。古い物を新しくがイッセイ・ミヤケであり、暗い服を斬新にしたのが、ココ・シャネルである。これも又、「服育」であろう。
校長がどこまで分かって服育を語ったかは定かではないが、アッチコチのブランドに断られた末のジョルジオ・アルマーニだとしたら、それはアルマーニに失礼である。
私など下々には手の出ない高価なブランドである。
エンポニオ・アルマーニとか、アルマーニ・エクスチェンジとか、少しがんばれば手の届くファミリーブランドはあるが、ジョルジオとなると別格である。
私の近しい友人は、服はジョルジオ・アルマーニとか、ベルサーチ、時計はフランクミュラー、靴は不明。仕事柄ハリウッドのスターや、それを仕切るマフィア、又日本のトップクラスの芸能人と接する仕事なので、着ている服身につけている品でナメられたら交渉がスムーズに行かない。そのために投資しているのだろう。過日仕事場のハンガーに黒いオーバーコートを私と友人が掛けていた。
渋谷で打ち合わせがあり私は急いでオーバーコートを着て向かった。打ち合わせ先の事務所はまるでホテルのようであり、入り口には厳しいチェックをする受け付けがある。
暗証番号を打ち込まないと鍵は開かない。売れっ子のアートディレクターだけのことはある。そこに電話が入った。もしもし、兄弟、オレのオーバー着て行っているだろう、えっ、と思い脱いだ黒いオーバーのタッグを見ると、ジョルジオ・アルマーニであった。改めて触れてみると、すばらしいカシミアであった。やわらかで軽い。私のオーバーコートの10倍はするだろう。ワルイ、ワルイ急いで間違ってしまった。と言って詫びた。仕事場に帰る時は着ないで手に持って帰った。私は銀座泰明小学校から出て来た、ジョルジオ・アルマーニの制服を着たガキに出会ったら、きっと何かするだろう。(愛情を込めて?)

2018年2月7日水曜日

「店の主人が、店のお客」

昨夜九時半頃、海風が南から北へ向って少しだけ吹いていた。
その風は腹が減ったなと思っていた私の鼻に、ヤキトリを焼くあの独特の香りを乗せていた。万有引力の法則は、男と女が引き合うよりも強く私をヤキトリ屋に引き寄せた。
駅から徒歩約5分。
もうずい分と来ていないなと思いながら、ヤキトリの煙の中に入った。カウンターの右隅に若い会社員、四人掛のテーブル席に少しファンキーな若い男と女性。
二人は並んで座り天井のやや下にとりつけられている小さなテレビを見ていた。マツコデラックスがコーヒー通の男と何やらコーヒー選び談議をしているようだ。
私はカウンター(六人位座れる)の右から三番目に座った。
つまり若い会社員は席を一つ空けたところにいる。一つ空いた左の席を見ると、アレ、アレ、いつもヤキトリを焼いている店の主人が、ベロン、ベロンに酔っているではないか。
薄茶のチノパンに、青と赤のチェックのブルゾン(?)白いダウンのベスト。
メガネのツルが耳から外れている。オジサンどうしたの、はじめてだな主人がお客になって飲んでいるのを見るのは、と言いつつマフラーを外し、オーバーコートを脱いだ。
ヒィック、ヒィックしながら、オスサシビリ(多分お久しぶり)中ジョッキの中には、レモンの切ったものしかない。テーブルの上に一万円札が二枚。
オコラリシャテンノ(多分怒られちゃってんの)ビューインニキョウエッテケタノ、オカネハラウカラナ、(多分今日は病院に行って来た、飲んだ分はちゃんと払う)夕方からずっとヤキトリを焼いていたであろう。
顔中に脂汗を浮き出した奥さんが、無言で私の頼んだレバー、ハツ、ボンジリ、カワ、タン(これだけ塩)を焼いてくれていた。
オジサンはカウンターにうつ伏せになり、すっかり眠っていた。
メガネがズリ落ちて鼻先きに引っかかっていた。
若いバイト風の店員がラストオーダーをと言った。
多分お手伝いのオバサンが若い男から3860円を受け取っていた。私の右横にいた若い会社員(多分)は、すいません、あとコブクロをと言った。
私が煮込みはと言ったら、もう終りましたとオバサンが言った。
オジサンはイビキをかいていた。
二枚の一万円札を左手でしっかりと押さえていた。
オジサンはきっと病院に行って検査結果を聞いて、全然大丈夫と言われてすっかりうれしくなり、絶っていた大好きなショーチューのレモンサワーを一杯、二杯と飲んだのだろう、と推測したのであった。
ヒゲをキレイに剃った顔が青白く、目のまわりがマルマルと赤かった。
オジサンの足もとにモロキュウ(キュウリ)が二本落ちていた。
オジサン良かったな。身長152、3センチ位の小柄なオジサンは、今夜はヤキトリをバタバタと焼いているだろう。
丸顔の奥さんはひらすら無口である。


※画像はイメージです。


2018年2月6日火曜日

「間違ってない人生とは」

奴雁(どがん)この言葉を知ったのは年が明けてからである。
小さな庭にスーパーで売れ残ったリンゴを置いてあげる。冬になると冬の鳥たちが来て、朝早くからリンゴを突っつきまくる。鳥たちはすこぶる用心深く、疑い深く首をキョロキョロと動かす。雁の群れが餌をついばむ時に、仲間が外敵に襲われないように、首を高くして周囲を警戒する。
この姿を奴雁というらしい。冬に来た鳥たちがこの頃一羽だけになってしまった。
毎朝一羽ずつ交代にリンゴを突っついていたのに。一羽の鳥はとても孤独感がある。こんな詩があった。「孤独の鳥の五つの条件」一つ、孤独な鳥は高く飛ぶ。二つ、孤独な鳥は、仲間を求めない。
三つ、孤独な鳥は、嘴(くちばし)を天空に向ける。四つ、孤独な鳥は、決まった色を持たない。
五つ、孤独な鳥は、しずかに歌う。♪~夜が又来る 思い出連れて 俺を泣かせに 足音もなく 何をいまさら つらくはないが 旅の灯りが 遠く遠くうるむよ。
小林旭の「さすらい」口ずさみながら孤独な自分を味わう。
どんなに人にまみれて生きていても、人間は等しく孤独である。
ある大学の精神科医の診察室を訪れる若者は、こんなことを言う。「つらいんです」どういう風にですか(?)と聞いても、「つらいってことです」そして「この感じがとれる薬をください」と。医師は言う、大学生たちと接していると「『私』をどこかに預けている感じがする」、「自分の弱さと向き合うのはとても苦しいことだから、でしょう」これは大学生だけの話ではない。昨日深夜、廣木隆一監督(原作)の「彼女の人生は間違いじゃない」という映画を見た。その後重なり合った新聞を整理しながら、奴雁のこと、孤独の鳥や、ある精神科医の話をつまみ読みした。映画は廣木隆一の世界がヒシヒシと伝わる。
福島県いわき市、原発事故で無人化した町の外。仮設住宅で父と暮らす娘は、生きている存在を失っている。こころの孤独をいやすためなのだろうか、夜行バスに乗って東京へ行く。
目的はデリヘル嬢になるためだ。金が目当てではない。
性的快感でもない。3、11で母を失い、生活を失った虚脱感が全裸の姿に現れる、恋人はいたがすでにいやされない。デリヘル嬢をしている時、よろこぶ男を見て自分の存在価値が、自分の体で分かるのだろう。廣木隆一はこの手の映画を作らせると天下一品である。
かつて「ヴァイブレーター」という名作を生んでいる。
長距離トラックの運転手の孤独と快楽。確かNO.1であった。
小さな庭に置いたリンゴは未だ半分残っていた。
一羽でなく、二羽、三羽と来るのを私は待っている。
小さな池の12匹の赤い金魚はじっとして動かない。
金魚たちも鳥が来るのを待っている。赤い寒椿が見事に咲いた。
植物たちはしたたかに生きていく。地球が隕石で滅びても、わずかな植物は生き残るらしい。


2018年2月5日月曜日

「少年と少女」

「ライオン」という文字を見れば、100人が100人「百獣の王」を連想するだろう。私もレンタルビデオのタイトルを見てそう思った。準新作7泊8日とシールが貼ってある。
文字がよく見えないからメガネを出してよく見てニコール・キッドマンが出ているオーストラリア映画、これは真実の物語というのを知った。130分。他に8本借りた。
二日深夜にその「ライオン」を見た。結論を言う。100点満点で100点の映画であった。本当に泣けた。兄弟、姉妹は他人の始まりという世の中でこんな兄弟、妹がいた。インドの中でも極貧の村に住む、三人の兄弟、長男、次男と妹、父はいない。
母は石を運んで少しばかり賃金を得ている。
兄と弟は石炭を運ぶ列車に乗って、石炭を盗む。布袋に入れてそれを売り、小さなビニール袋に入った牛乳二つと交換して、母のところに持ち帰る。兄はいつも五才の弟を抱きかかえかわいがる。
弟は、兄ちゃん、兄ちゃんと兄に付き従う。盗む、追われる、逃げる、逃げる。この子役が実にいい。懸命に走る姿がいいのだ。ある日駅のホームで兄は弟のために何か食べる物を求めて、ここで待っていな、すぐ戻るからと言って駅を離れる。弟はベンチに横になり、疲れて寝てしまう。
気がつくと兄はいない。兄ちゃん、兄ちゃんと探す。
停まっていた列車の中に乗り、兄ちゃんと叫んで探す。その列車は回送列車であった。空腹の少年は食べ残りのリンゴを見つけてそれを食べる。そして列車は1600キロも離れた駅に着く。物語はこうして始まり、その少年はやがて施設に送られる。その後オーストラリアに住む、金持ちの夫婦にもらわれて行くのを描く。
少年は養子として25年間育てられる。真実の物語だから最後にすべての真実を見せる。本物の夫婦、本物の少年時代と25年経った今、当時の新聞記事やテレビのニュース映像。2018年現在は34、5才になっている。青年となった少年は兄ちゃん、母ちゃんを思い出す。そしてまい日パソコンに向かいグーグルマップで、兄ちゃんと走り回った山道を探す。兄ちゃんと離れた駅の給水機を思い出して探す。石を拾っている、母ちゃんのいた山を探す。インドは広い、インドは深い、インドのほとんどは貧しい。そしてある日遂にグーグルマップで給水機を見つける。山道を見つける。少年の名がインド名で「ライオン」の意味であることを最後に知る。
涙がボロボロと流れた。土曜日息子が来たので一緒にもう一度見た。
映画好きの息子がすばらしい、自分の息子に見せると言った。感動を忘れた人に、ぜひおススメだ。兄が呼ぶ、少年の名は(?)これが劇的である。キャスティング、シナリオ、撮影、文句なし、特に編集はパーフェクトであった。ニコール・キッドマンが実に抑えられた演技で養子を夫と共に育てる役を演じていた。芥川龍之介の小説(10ページ位)に、「蜜」というのがある。
小説家本人とおぼしき男がある日列車に乗っていると、一人の少女が隣の席に座る。小説では小娘。少女の手には網の中に入ったいくつかの蜜柑が入っていた。
男はいぶかしく思った。列車が動き出し、しばらくすると少女が列車の窓を開けた。少女は柑を手にして窓から外へ投げた。畑のようなところに三人の弟たちがいて手を振っていた。
少女はきっと弟たちのために働きに出るのだろう。私は柑を見るとこの小説を思い出す。人間は貧しい方が純粋でいられる。そう思いながら柑を手にした。
(記憶が定かではない)
兄弟、姉妹、みんな同じ母親が生んでくれたのだ。