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2019年9月4日水曜日

「赤いウィンナー」

対面(トイメン)同士の店。私の主な仕事場は銀座2丁目。この近辺で何度か引っ越したが、ほぼ50年銀座で芸を売っている。仕事場から京橋方面に歩いて3分ぐらいのところに名もなき小さな公園がある。その斜め前地下1Fに「銀つね」というかなりレトロな飲み屋がある。初老の夫婦、主人は社交ダンスをしているようだ。写真がべたべた貼ってある。店内にはいつも小林旭の名曲が流れている。古いスピーカー がある。常連たちが来る。私の仕事仲間はここが大好きだ。ご夫婦はとてもかんじがいい。主人は私の人相が悪いのでお酒を注いでくれるとき、ブルブルと手先が震える。冷奴、赤いウインナー炒め、厚揚げ豆腐、ヤキソバ、肉ヤサイ炒めなのが定番である。むかしながらの店好みにはたまらない。マイナーな店である。その店の対面(トイメン)にある年、ポツンと一軒のイタリアンレストランができた。昭和通りの一本裏で人通りは少ない。路地裏の角っこであった。こんなところにイタリアンなんかつくって、大丈夫かなと思った。オープン当時はガランガランで人が並ぶことなど見たことがなかった。ある年になると、朝8時、9時から人が集まり出した。店の前の木の椅子に女性たちが腰掛け、予約名を書いていた。オッ、オッ、オッ、何があったか。ある情報でとにかく旨い、安い、新しい。サイコーだと広がり「予約のとれない店No.1」となった。LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)、「LA BETTOLA」はイタリア語で食堂というらしい。オーナーシェフが落合務さんであった。落合さんはママチャリによく乗って、店の近辺を走っていた。ステキなオジサンである。その落合さんの連載コラムがある新聞で始まった。昨日はその第2回。なんと落合さんの父親は6度結婚して、6度離婚していた。親に反発して、名門一貫校の高校を中退して料理人の道に進んだ。今は月の半分を後進の指導のために全国を回っているとか。一度コーヒーメーカーの仕事に出演を依頼に行ったが、そのときは「一社だけは、ダメナンダヨネ〜、ワカッテ、ゴメン」と言われた。落合さんは魚海岸や野菜市場に行き、半端ものや、形崩れしたものを安く仕入れて来て、絶品の料理にする。だから値段を高く設定しないのだ。だからお客さんが集まるのだ。「食堂だからネ、安くて旨くないと」がモットーなのだ。落合務さんが銀つねに行っているか分からない。対照的な二つの店の前を歩いて通ると、何だかうれしくなるのだ。「銀つねよ、がんばれ」と声をかける。「社交ダンスで優勝しろよ」と言う。以前行ったとき、私の好きな小林旭の曲がなかった。「ダメじゃないの」と言ったらブルブルッとした。銀座の一等地にたくさんの名のある店があるが、これはと思うお店は、高くて気どっていて、たいした味はしない。能書きの多いイタリアンが増えて、ワゴンにのせた料理をイチイチ詳しく説明する。一度「ウルセイ、食べれば分かるよ」と言ったら、シュンとした。今流行らしい。「銀つね」なんか、何も説明しない。メニューが豊富だから、一度ぜひ行ってやってほしい。一人1000円〜2000円で十分気持ちよくなる。小林旭の「さすらい」「北帰行」「純子」「昔の名前で出ています」、これを聞くとたまらない。年に二度ぐらい行くのだ。ラ・ベットラ・ダ・オチアイは、現在夏休み中。
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2019年9月3日火曜日

「表と裏」

コインに表と裏があるように、この世は表と裏でできている。人間という生き物を創ったのが誰かは分からない。ある学者は創造主と言う。ある学者はある奇跡の掛け算の結果と言う。ある学者はただの偶然の進化だという。この世に真実はあるかと言えば、間違いなくNOである。嘘のない人間もいなければ、嘘のない人生もない。この世は嘘という粘土でできている。雲に常形なく、水に常形がないように、ヒトの人生に常形はない。昨夜、相変わらず眠れぬ夜に映画を見た。原題は「THE WIFE」。日本語題は「天才作家の妻 40年目の真実」。時代設定はクリントン大統領時代、空には超高速ジェットコンコルドが飛んでいる。老夫婦(70〜75歳)がベッドの中にいる。妻は眠っているが、スケベジジイの夫は眠れない。腹が減ったと言い何か食べる。妻が起きて「糖分のとりすぎは体によくないわよ」と言う。夫はなんと妻に「SEXをしよう」と言う。老妻は「何言ってるの」と言う。そして老妻の体をいじる。「若い男に抱かれているのをイメージしろよ」と。そこに一本の電話が入る。なんとノーベル賞の選考委員の事務局からだ。「オメデトウございます。ノーベル文学賞に選ばれました」と。この映画はノーベル賞授賞式を見事に再現する。相当の予算がかかったはずだ(否パーティ会場のシーン以外は工夫して予算をかけていないかも)。映画はノーベル文学賞がいかにバカバカしく、イカサマに満ちているかを風刺的に描く。そもそも文学賞なんてものは最初はなかった。ストーリーは単純だ。作家夫婦はもとは大学の文学部教授とその教え子だった。教授は女性大好き人間だった。当然のように美しく才能ある教え子に手を出す。結婚をするが若い女性には目がなく、浮気ばかりする(そのシーンはない)。妻はジッと耐え忍ぶ。小説家としての才能は自分のほうがある。夫は自分の書いた小説を世に出す道具でしかない。ラストにあらん限りの言葉を使って夫をなじり倒す。一日8時間小説を書いた自分こそが受賞者だと言う。ノーベル文学賞を受賞すると、一人の伝記作家が現われ妻がゴーストライターであったことを暴いていく。結婚して40年ずっと秘密にしていた過去を探し出す。伝記作家は言う。「あなたは何であったのか」と。妻は言う。「私はキングメーカーよ」と言う。確か松本清張の本だったと思う。ある画壇のボスの絵はほとんどが弟子が描く。ボスは絵の最後の仕上げにチョンチョンと筆を入れるだけだ。そしてそれが日展の最高賞になる。すべてはボスたちの間で談合され、取り決められている。表彰式かなんかの会場で、「次はソロソロ入選させるか、キミの弟子を」と言って配分が決まる。今の世の中、日展に入選しても最高賞になってもニュースにもならない。読書はあまりしないが、夏休みの間に「文士と編集者」という本を読んだ。講談社の純文学専門雑誌「群像」の名物編集長であった「大久保房男」の著作である。創刊以来20年もの間、編集長をやっていたので日本の純文学史みたいな人物だ。この本は実に面白く、読み応えがあった。文士なんて言える小説家は現在いないが、明治、大正、昭和中期頃まではいたと言う。その表と裏の表情が読むと分かる。純文学とは徹底的に私小説でなければならない。ちなみに大久保房男氏が最後の文士と言ったのは、「高見順」であった。9月3日午前1時46分38秒、外では鈴虫が鳴いている。遠くで潮騒の音が立っている。台風がまた生まれたようだ。残暑がキツイ日がつづく。季節に表と裏はない。誤差だけはある。植物たちは着実に秋冬に向かっている。(文中敬称略)



2019年9月2日月曜日

「DOGMAN」

マッテオ・ガローネ監督。世界中の若手監督でこの人の影響を受けていない人はいないだろう。今をときめく監督たちの目標だ。カンヌ国際映画祭の常連である。大評判を読んだ「ゴモラ」の監督である。そのマッテオ・ガローネの新作「DOGMAN・ドッグマン」が上映開始となり、何をさておいてもヒューマントラスト渋谷に行った。金曜日の夜である。この監督の映画の舞台は、イタリアのナポリだ。映画の手法は徹底的にリアリティを追う(作品にナポリ市民を主人公にした“リアリティ”というのがある)。ナポリはイタリアの街。30年間に4000人が抗争によって殺された街である。3日に一人が殺されている。マフィアの名は“コッモラ”。ゴモラとは聖書の中に出てくる街の名。神の怒りを受け滅亡された街の名だ。このゴモラの主人公役を演じた役者は2018年カンヌ国際映画祭で主演男優賞を受賞した。特別にパルム・ドッグ賞、さらにダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で最多9部門受賞。作品賞、監督賞、脚本賞、助演男優賞、撮影賞、美術賞、メイクアップ賞、編集賞、録音賞である。つまり映画として完璧であるということだ。薄暗いナポリの街の一角。二人の友人同士。一人はDOGMANという犬のトリマーショップを一人でやっている。世間に隠している仕事としてコカインの密売をしている。一人の友人がいる。この男はナポリの中で嫌われている悪業非道の暴れ者だ。ナヨナヨとした男とマッチョな男。コカイン欲しさにここまでやるかとトリマーの男を痛めつける。自分の身代わりとして1年の刑に服してくれたら大金をやると約束する。トリマーは1年服役して出所して来るが、待っていたのは以前に増した暴力であった。人間の感情の限度をこの映画は計る。人間の非暴力と暴力との境界を探す。弱いはずの人間が強い人間を退治すると決めたとき、その人間性を破壊させる。そこには地獄絵図のような世界が当然のように現れる。現代社会では極度の格差社会である。一部の富める者たちを相手に弱者が怒りを爆発させたらどうなるか。それを暗示させる。狂おしく、牙をむく犬、犬、犬。彼等はトリマーの言うことしか聞く耳はない。最後にトリマーが選んだ復讐とは。愛犬家の方々はぜひ観て欲しい。久々にものすごい映画であった。


2019年8月30日金曜日

「早朝の枝豆」

これは私の主観なので、気を悪くする人ファンの人がいたら、ごかんべんを。何かをしながらテレビをつけ放題にしてある。天気予報をよく見るが、NHKの斉田季実治さんが出てくると、私は、「ああきっと天気は悪くなるな」と思ってしまう。無表情、無感情。タンタンと予報するので「タンタンメン」と言っている。きっと民放の気軽さみたいに話してはいけない決まりがあるのだろう。明日、爆弾の嵐が来ても、タンタンメンは、タンタンと話すだろう。自民党の大実力者菅官房長官が出てくると、「ああきっとまた、その事はあたりません」と言うから、私は「アタラナイト」呼んでいる。きっと競馬の馬券を買う人が、ニュースでこの方を見ると、アタラナイと思う。安倍晋三内閣総理大臣が出てくると、何故かその後にトランプ大統領が背後霊のようにくっついている。私は「シンランプ」と言っている。「シンゾーの後にトランプ」。例えは悪いが、トランプは悪質のお客さんみたいなもので、運転するアベシンゾーさんに対し後部座席から、右へ、左へ、その横へ、その前へ、路肩でもイケイケと大声を出す、そんな気がしてならない。報道ステーションをよく見るが、富川悠太さんを見ると、私は「オトコカマトト」と言う。いい人ぶっている。知っているのに知らないそぶりが上手ではない。作り笑いの中に底意地の悪さが見える(本当のところは知りません)。NEWS23の星浩さんを見ると、私は、「モノタリン」と言う。元々は朝日新聞のスター記者、それが毎日新聞系のTBSでのキャスターとしての出演。いつも奥歯にモノがはさまったようなキレ味のないニュース解説。モーちょっと話せよ、モノタリンとなる。世耕弘成通産大臣が出ると、「ヘラナマズ」と言う。小柄だが全身野心でヌルヌルと黒い。口を開けばヘラヘラと、ヘラズ口。見ているだけで気分がヌメヌメになるから、出たらチャンネルを変える。テレビ東京の看板、大江なんとかさんという女性キャスターは声がやたらに裏返るので「ウララ」と言う。話すニュースがウラがえって、聞こえるのだ。TBS土曜日の「報道特集」、メイン美人キャスターの膳場貴子さんを見ると私は、「トーコン」と言う。東大出で二度離婚。妻が頭がよすぎて、夫婦内論争がきっと闘争になる。クールな表情でコワイヒトになるのかもと思ってしまう。でも子どもさんには、きっとやさしいママさんのはず。人間よく眠れないと、こんなことを考えてしまう(ファンのみなさんゴメン)。昨夜、斉田季実治さんが、「週末の天気は悪い」って言っていた。午前6時、外は雨どしゃ降り。少し眠りたいので一杯。早朝の冷えた枝豆はウマイ! 
(文中敬称略)
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2019年8月29日木曜日

「イモヅル」

「列(れつ)」。警察用語である。列とは、その人間に連なる人間たちを表わす。例えば、あいつの親分は誰、兄貴分は誰々、兄弟分は、舎弟分は、またダンベ(金ヅル)は誰々、スケ(女)は誰だ。だからコイツをパクッて(捕まえて)ウタワセレバ(白状させる)列をみんなパクれる。そのためにいちばんのキーになる人間を見つける。根性者はカンタンにはウタワないからだ。「列」は会社の組織とか、官僚、政治、人間が群なる集団にすべて当てはめられる。この人はきっと出世して、社長になれると見込んで列をつくった人間たちも、その人が社内人事抗争に破れてしまうと、列は壊されそれぞれあちこちに飛ばされて哀れな末路となる。もちろん逆襲に成功して再び列を形成して勢力を盛り返す列もある。官僚組織、自衛隊、警察関係も列を形成して強固につながっている。鉄の団結であり、あらゆる疑惑をともに隠しつづける。そして分け前を分け合う。政治の世界は派閥として列をつくる。教育界、芸能界も列を成す。列を乱す者は、裏切り者との烙印を押されてスポイルされる。韓国映画の「一級機密」という映画を見た。韓国軍の装備品担当部署にまつわる実話がベースになっている。アメリカと思われる会社から購入した戦闘機が、飛行中トラブルを起こし遂落する。パイロットは脱出して重傷を負う、やがて闇の中で死亡する(殺される)。一人の正義感が強い将校が新任として来る。そして、相次ぐ戦闘機の事故に不信を持ち、装備品を一つひとつ調べていく。そこには果てしない列の闇がある。1本1ドルのネジは400ドルだったり、もはや使えなくなった部品が使われている。将校は上官、将軍、政界の闇の資料を見つける。あらゆるところに金が振り込まれている。上官たちは将校の動きを察知して、将校やその家族まで脅して行く。これは我々「家族」のずっとむかしから守って来た決まりなんだと。出世したければ従え、さもないとお前に明日はないぞと言う。家族とは列のことであり、その部署全部が列となっていた。将校はテレビ局にその資料を持ち込み、自ら出演して告発する。ラストのロールにその後除隊したと伝える。列の人間たちはきっとゾンビのように生き返ったのだろう。現在、日本はアメリカの軍備を大量に購入して、安全を得ているというが、事故は絶えない。アメリカ国内でも、日本国以外でも事故は、絶えない。韓国軍の中に正義を貫いた軍人がいたことを映画で知った。韓国軍上官の言う「家族」とは、「列」のことである。これを別名「イモヅル」とも言う。



2019年8月28日水曜日

「つむぐもの」

世の中の映画に秀作というものがあるとしたら、今年私が見た映画の中で、かなりの秀作である。「つむぐもの」26日午前2時までこの映画を見た。おそらく低予算である。日本と韓国の合作映画、日活が参加している。名の知れた役者は「石倉三郎」しか出ていない。絶妙、絶品の演技で、私なら主演男優賞をおくる。脚本は「守口悠介」、シナリオが実にいい。監督は「犬童一利」、撮影が「伊集守忠」であった。舞台は越前、和紙づくりに命をかける男は頑固一徹である。妻に先き立たれた男は、脳出血を起こして(脳梗塞かも?)右半身が不自由となり、杖なしでは歩けない。そこで介護協会から一人の若い新人介護福祉見習いの、20歳ぐらいの若い娘「ヨナ」が施設から派遣される。和紙職人の男は、韓国人のヨナを差別する。「出て行け」とも言う。ヨナもまた、「韓国人、韓国人」という職人に「クソジジイ」と言う。右半身が動かない。杖しか頼りにならない。ヨナを「韓国人、韓国人」とさげすむ。でもヨナは明るい。メゲずに尽くす。映画は日本の介護施設の現状をリアルに表現する。ワガママ放題の老人たち、介護福祉士の人たちの大変さ。ヨナは和紙職人に精一杯つくす。それでも日々「韓国人、韓国人」と言いつづける。そんな中でヨナは明るく元気に職人につくす。ある夜、職人は寝ている最中にシモをたれ流す。ヨナは風呂場に運び、全身を洗ってあげる。ある日、二人はドライブに向かい越前の海、水族館などを車椅子で楽しむが、職人は再び発作が起き、ついに病院のベッドに寝たきりとなる。ここまでの石倉三郎の演技は絶品である。ケンカが強いので有名な石倉三郎は圧倒的名演技であった。監督の犬童一利の演出は絶妙を極める。はじめはヨナを「韓国人、韓国人」と呼んでいたが、やがて心を許すようになって行く。しかし職人は最後を迎える。ヨナは帰国に察し荷物を整理していると、一冊の本がある。それは「はじめての韓国語入門書」だった。ヨナはそれを見て涙する。職人は一生懸命、韓国語を学んでいたのだ。この映画を見れば日韓は仲良くできるはずだ。それにしても石倉三郎はすばらしい演技だった。今はどうか分からないが、門前仲町で美人の奥さんと、小さな飲み屋を営んでいた。短気でケンカ早く、とても強く数々の武勇伝があると言う。すこぶる愛妻家であったとも言う。石倉三郎さんにいつものグラスで乾杯した。実においしかった。東海道線内の天敵“柿ピー”を食べながら。(文中敬称略)





2019年8月27日火曜日

「イージー・ライダー」

一言居士の映画監督「井筒和幸」さんが夕刊紙にいいコラムを書いていた。8月24日「怒怒哀楽劇場」である。以前、私も書いた「イージー・ライダー」というアメリカン・ニューシネマの代表的作品についてだ。主役のキャプテン・アメリカ役を演じた「ピーター・フォンダ」が亡くなった。80歳を過ぎていた。父は「ヘンリー・フォンダ」という大スター、姉はやはり大スターの「ジェーン・フォンダ」である。ピーター・フォンダはB級シネマのスターであったが、自身が製作・出演した「イージー・ライダー」は歴史的映画で、世界中の若者たちに影響を与えた。チョッパーバイク(ハーレーダビッドソン)、革ジャン、マリファナ、ステッペンウルフの楽曲「ワイルドでいこう!」、ほぼ無名だった「ジャック・ニコルソン」、今は亡き「デニス・ホッパー」の味わい深き演技。中でもアメリカの「自由」について、焚き火をかこみ語り合うシーンに、井筒和幸監督も私も共感する。自由に見えて自由でない国アメリカ。ヨソ者を入れない人種差別の国、アメリカ・ファーストを叫ぶ今の大統領はまさに、「イージー・ライダー」の中で若者たちが語る、保守的アメリカの人間である。「『自由』ってやつをこの国は一番恐れているんだ」。長髪やヒッピーみたいな格好、革ジャンスタイルは嫌悪の対象だった。そしてその若者たちを見たオトナは、走るバイクを追いかけ、いとも簡単に銃の引き金を引き、若者たちを殺してしまう。ハッピーエンドが定番だったハリウッド映画界にとって衝撃的ラストシーンだった。その後、ハリウッドは変わっていった。井筒和幸監督も大いに影響を受けたようであった。日曜日夜、NHKの「ドキュメント矢沢永吉」を見た。近々70歳になる世界のYAZAWAは、ロックの明日に夢とロマンを持って、ニューアルバムを出す。いい音を求めてロサンゼルスへ。そしてそこには日本から古い友人たちが革ジャンを着て集まっていた。チョッパーバイク(ハーレーダビッドソン)に乗り、仲間とツーリング。スーパーでバーベキュー用のアメリカンビーフ、そして一本28ドルのワイン。「仲間、サイコーだよ」と言う。男たちは少年のように無邪気だ。ビートルズを見てロックを目指したYAZAWAは言う。「有名になりたかった。金も欲しかった。成り上がり上等だよ。結局世の中は、やるときはやる奴と、いつまでたってもやらない奴とに別れるんだよ。5万人もの観衆を熱狂させるためには、やっぱりロマンじゃないの。オレはやるよ」と。香港の若者が「自由」を求めて立ち上がっている。日本の若者といえばどうだろうか(?)。リーダーなき世界は混迷を極めていく。井筒和幸監督は、次にどんな作品を世に出すのだろうか。「ガキ帝国」はすばらしい作品だった。少年が少年らしくない世の中は、雲のない空みたいにつまらない。石川啄木は「雲は天才である」と書いた。少年少女はみんな天才なんだ。成り上がれ若者よ、天下を取れ! YAZAWAをオドロカセだ。(文中敬称略)


2019年8月23日金曜日

「ラムネの泡」

ガキの頃、ラムネの中のビー玉は、どうやって入れるのか分からず謎の炭酸飲料だった。昨日、ある場所で人と会っていた。午後1時頃、そこには出店があって冷え冷えのラムネを売っていた。老人夫婦とおぼしき二人が仲良く竹の長椅子に座ってラムネを飲みはじめた。メガネをかけた男の人は薄茶色のチノパンに、皮のサンダルであった。大きな英文字の入った白いTシャツは、首の部分がかなりヨレていた。ご婦人はジーンズの太いパンツに白いビニールのサンダル。白に黒のドット模様のTシャツを着ていた。二人はラムネを掴む、屋台のような店の主人がラムネの栓をポンと叩くと、ブシューっとラムネの泡が出た。二人は私の隣りに座って、ひと口飲んだウメェ〜ッとは言ってなかったが、ウマそうであった。私は足を組んでガラケーを使っていた。メロンソーダが大好きなので飲んでいた。暑くてむし暑い。待ち人である相手が来るには少し時間があった。と、その時隣りの男の人がラムネを一気飲みしすぎたのか、むせかえりブオッブオッと泡を口から出し、鼻の二つの穴からも泡が出て、メガネの下の目からは涙を出した。ご婦人がトートバックの中から小さなタオルを出して、「ユックリ飲まなければ」と言ってやさしく、目の涙、鼻の穴、そして口まわり、チノパンについた泡をふいてあげた。なんだかいいシーンであった。8月10日中止となった、茅ヶ崎の花火大会が近々実行されると聞いた。ラムネは大人気で屋台が何軒も出る。炭酸飲料を飲む前は、決して瓶を振ってはならない。週末にぜひラムネを楽しんでください。待ち人は二人で来た。二人とも缶ビールを飲み出した。私はノンアルコールビールを飲んで、ある企画について話を始めた。日韓のGSOMIA協定が破棄された。これにより、アメリカは日本に、どんどん防衛予算を求めてくるだろう。日本はラムネを一気に飲まされたようになり、泡を食っている。我々の税金が鼻の穴からあふれ出て、目からは涙が出てしまうのだ。今どき半グレでも身につけてない、金の腕時計を右手につけて、握手をした。我が国の外務大臣のセンスに、「こりゃダメだ」と思っていた。
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2019年8月21日水曜日

「戦争と祭り」

今、なぜNHKが、新事実を強調するのか、原武史・放送大学教授(日本政治思想史)は8月20日、日本経済新聞朝刊の記事の中で強調していた。昭和天皇拝謁記をNHKスペシャルで取り上げた。田島道治元初代宮内庁長官の(1948〜53)拝謁記は、すでに加藤恭子氏が先行研究をしていた。それに触れずに突然新事実の資料が見つかったがごとく公開したことに対してだ。私も違和感を持った。今の政権は参議院選挙で9議席を減らしながら、勝利したと言い、選挙戦の中で訴えた、憲法改正のテーマも認められたと拡大解釈をした。昭和天皇拝謁記の中で、とくに「憲法改正と再軍備について、昭和27年2月11日『私は憲法改正ニ便乗して外(ほか)のいろへ(いろいろ)の事があると思って否定的ニ考へていたが今となっては他の改正ハ一切ふれず軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してやった方がいゝ様ニ思ふ』。同年3月11日「侵略者のない世の中ニなれば武備ハいらないが、侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得已(やむをえず)」。このためであったかと思う。現天皇が「先の戦争の反省に立ち」と父上皇の意志を継ぐと言ったのは、精一杯の抵抗だったのだろう。昭和天皇も「反省」という言葉にこだわったが、政治的に許されなかった。世界中がキナ臭い。一人のギャンブラー的不動産王D・トランプ大統領の朝令暮改に振り回されている。日本国の外交は機能停止、通産省が主体の動きとなっている。吉田茂元首相が「再軍備なんていけません」とキッパリと言い、初代宮内庁長官も「政治的発言は、象徴天皇としてはいけません」と、進言したのは、外交的見識を国の指導者が持っていたからと思われる(?)。N国なる政党が出現したが、マツコデラックスさんに気持ち悪いと言われ、攻撃中とか。NHKをぶっ壊す前に、世の中をぶっ壊すかも知れない。ともあれNHKの動きは、戦前に似てきた。「モノ言えば口びる寒し」の状態である。悪魔は笑顔でやって来ると言う。リベラル派のがんばりが国を守るはずだと思っているのだが、さて。高名な作家の(外国人)「戦争論」という本には、人間にとって戦争は、お祭りと同じで、何回もやりたくなる。“コーフンとエクスタシーを生む”。そんな一節があった。


2019年8月20日火曜日

「盆栽とマクベス」

お前は生きているのか、それともダメなのか、日々そういう問いかけながら、朝には水をかけてやる。今年1月、知人から小さな松の盆栽をいただいた。小鉢ぐらいの上に、一本の松がなかなかの枝ぶりで、目をなごませてくれていた。しかし盆栽の手入れの仕方が分からず、6月頃に枝がポッキリと折れてしまった。銀座松屋の裏にミニ盆栽の専門店があるので、そこでイロイロ聞いたら、それはもう大変に難しいことであった。知人には誠に申し訳ないと思い、枝のなくなった部分、つまり苔の部分を育てようと思いずっと愛情を注いでいる。しかしこの部分は生きているのか、死んでいるのか分からない。カラカラでコチコチになり、緑色だったのが、土気色になってしまう。そんなときはちょいと日本酒をあげたり、お〜いお茶をあげたりする。過日は飛び切り高価な大吟醸酒をポタポタあげたら、こりゃウメェ〜と言って(声は出ないがそんな感じ)、コチコチがヤワヤワになり、指で押すとたっぷり水を含んだ芝生のようになり、土気色が緑色になった。松屋の裏の店でその話をしたら、「う〜ん、よく分からないけど、酒が好きなのかも」と言った。昨夜帰宅すると、また土気色になっていた。冷房にあたりすぎているのではと思い、場所を移動した。盆栽類は湿気を好むらしい。「オイ、ガンバレ」と言いながら料理用の酒とミリンを少々かけてやった。生きていればきっと緑色になるのだが。植物の生命力は人間の想像をはるかに超えるそうだから。テレビのニュースで、あおり運転で暴行して逃げていた男が捕まった。宮崎文夫という名であった。その顔を見ていて誰かに似ているなと思った。そうだ、今は亡き名優「平幹二朗」さんだ。スミマセンなのだが、かなり似ていた。ずっとむかし、故蜷川幸雄さんに仕事をお願いしていたとき、日生劇場で上映中の「マクベス」のチケットを2枚いただいた。友人と行ったら、一番前の席であった。目の前で平幹二朗さんと、栗原小巻さんがものすごく恐い顔をした。それが残像として記憶されているのだろう。名優はやさしい人だったそうである。ご子息「平岳大」さんはいい役者だ。ちなみに母親は佐久間良子さん、変な比較をしてしまって、フォローが大変なことになった。悪い野郎は宮崎文夫だ。

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