私の少年時代はチェッカーズが歌った「ギザギザハートの子守唄」みたいだったが、荻窪駅西口の“日活パルサス”に行けば、ギザギザの刃物が竹細工の刃のようになった。心が全面的に解放されたのだ。それは石原裕次郎という異星人に会えたからだ。全作品を観た。同じ映画を続けて5日間観たこともある。10月7日の東京新聞夕刊を読んでいて、ハタと大きな見出しに目がいった。映画の隆盛『狂った果実』であった。(ほさか・かずし=作家)この人が『狂った果実』の中に出てきた。夏の間だけ神奈川県の逗子海岸にあった遊園や「コニーランド」の出るシーンを「移動遊園地」だと思っていたという記憶の話であった。この作家は映画史に詳しい伊藤彰彦さんから、『狂った果実』上映に対する数々の疑問を聞いたようだ。石原裕次郎のデビュー作といえば、兄石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」だが、この作品ではチョイ役であった。初めて主演したのは『狂った果実』だ。この映画は1956年(昭和31年)公開であった。作家は1956年生まれだった。逗子は米軍基地のある横須賀から電車で10分だ。作家はふと考えた7月12日に公開されたのに、夏の海岸風景が映っている。夏の海岸シーンは前年に撮ったのか。あるいはセットか。「太陽の季節」の公開は5月17日だ。『狂った果実』は「太陽の季節」の大ヒットを受けて撮った、と言われているのに、2つの公開は2ヵ月も空いていない。伊藤彰彦さんが説明をした。『狂った果実』は「太陽の季節」の大ヒットで急遽作った。撮影日数は通常30日のところ、22、3日だった。セットも通常の半分の6、7杯(セットはこう数える)。逗子海岸の移動遊園地のシーンは6月下旬に撮ったものと思われる。コニーランドは夏季限定だった。当時の映画屋は今どきで言えば、超ブラック企業の社員だった。きっと徹夜、徹夜、半徹、徹夜、徹夜、半徹、徹夜、まさに日月火水木金金であり、休む日はなかったはずだ。みんな映画大好き人間の集まりだった。人間、大好きな仕事なら、ブラックだって、超ブラックだってかまわない。パワハラ大好き、セクハラ当然、モラハラだって関係ない。こんなことを書くと私はパワハラと言われると思う。ここに書いているのは、映画界全盛時代に映画屋が山ほどいて、他社との競いをしていた。そんな中から不出世の大スター、異星人石原裕次郎という大スターが生まれた、というより宇宙からやって来たことだ。私は作家よりも年配者だから、「太陽の季節」の封切りからすべて見ていることになる。東京新聞の記事から抜粋をしアレンジして書かせていただく。「ほさか・かずし」さんに会って、石原裕次郎の映画談義をしたいと思った(調べてみる)。この場をかりて久々に映画屋を思い出させてくれた御礼を言う。日活サイコー。タフガイユーちゃんサイコー。猛烈な台風が近づいてきている。「風速40米」という題名の映画がある。台風に向かって、ユーちゃんは歌うのだ。「何! 風速40メートル、ふざけんじゃネエよ」。そして歌う。♪〜 風が吹く吹く やけに吹きゃがると 風に向かって 進みたくなるのサ……♪。当時、風速40メートルと言えば、そんなのないよと思っていた風だ。千葉県で台風15号の被害に遭った人々に、どうか猛烈な風と雨が再び襲いかかりませんようにと願う。週末はTSUTAYAに行って『狂った果実』と「風速40米」を借りてきて見ようと思っている。「天下を取る」と「錆びたナイフ」も。全作大ヒットだった。(文中敬称略)
2019年10月10日木曜日
2019年10月9日水曜日
「悪口本」
サラリーマンの夜の楽しみと言えば、ちょいと一杯と居酒屋に集まって、会社の悪口、上司の悪口、その席にいない同僚の悪口、取引先の悪口だ。スミマセン、冷奴と枝豆、オレはサバの焼いたの、オレはマカロニサラダ、オレはモロキュー、オレはシラスおろしと刺身三点盛、オレはブリのカマ焼きなどなど、好き好き頼んで、まずはビールで、まずはウーロンハイで、まずはハイボールで、まずは日本酒でとなる。草野球をした話、ゴルフに行った話、釣りに行った話、女房とケンカした話、腰とか痔が痛いとかの病気の話。あ~だ、こ〜だと話が弾んで、小一時間、酒が体に注入され、その効果が出始めると、一人ひとり会社や上司、同僚への悪口大会の開始となる。あいつはヨォ〜もともと何もできなかったのに、あの人をヨイショしまくって出世したんだ。バカだよバカ、自分じゃ何もできないんだから。あいつはヨォ~、パクリ屋だぜパクリ屋、自分じゃ何も考えられないくせに、若い奴の提案のいいとこ取りをしてやがんだ、ゴミだよゴミ。あいつなんかヒドイよ、自分で飲み食いした伝票を会社の経費に入れて込んでいるんだぜ、ダボだよダボ。あの会社のあの人は滅茶苦茶だよな。どうなってんだよ、あの会社。上がダメだから下のヤツまで無礼者ばかりだ。見積りを安くしろ、安くしろって値切るばかりだからな。高いゲタをはいてんだろうなんて平気でいうもんね。あんなガキにウチのあいつは、へいこらしてんだから、悲しいね。悲しい。下請けはつらいよ、バカヤロー。と、まあこんなかんじになると、もうどうにも止まらない。ギョーザまだギョーザ、なんて頼んでない品の名を言い出したりする。日本国の経済は、こんな人たちのがんばりで持って来た。最近の若いのはヨォ~、すぐパワハラだ、セクハラだ、ブラックだなんて言って文句ばかりいいやがる。モタモタしてっからこうしろって言っただけなのに始末書、いつもブスッとしてるねと言ったら始末書、まだ7時だ、あと2時間で今日中にやってしまおうと言ったら始末書だ。やってらんねえよ、何が働き方改革だっていいたいよ。これからの日本国はこういう人たちのがんばりが必要なのだ。「彩図社」刊の「文豪たちの悪口本」というのを旅の途中で読んだ。これは文士たちが、文士に対して言い放ったり、書き残したり、書き送ったりした、赤裸々な罵詈雑言を集めた本だ。中原中也という詩人はかなり酒グセが悪かったようで、太宰治に対して、なんだ、お前は、青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。永井荷風は、菊池寛の如き売文専業のなすところと菊池寛を嫌い、その菊池寛は「ゴシップ本能は、人間の必要な本能の一つである。人間が二人集まれば、会話の三分の二まで人の噂である」と言う。大文豪同士も言葉のボキャブラリーと表現力の差はあれ、会社員の居酒屋と同じである。現代社会はネット上で悪口を言うという卑怯な方法が多い。悪口は本人に向かって言い合うほうがいい。その後、何が起きるのかは予測不明だ。鼻血とか、歯が折れたりとか(?)
2019年10月8日火曜日
「A・McQUEEN(アレキサンダー・マックイーン)」
真の芸術家は正気ではない。正常でなく、正直でもない。狂気と異常と虚実が芸術家を興奮させ、そこから誰もなし得なかった芸術が生まれる。真の芸術家は等しく不安神経症であり、パニック障害を持ち、鬱病と躁病が交差する。純粋と混沌が水と油のようにせめぎ合う。そして、ある者は酒に、ある者はドラッグに、ある者はSEXに身を沈める。芸術家は人間不信であり、尊大であり、しかし野心に満ちている。栄光ある日々は朝陽のように短く、破滅はつるべ落としの夕陽のように速い。昨日夜、待望の映画をレンタルして来て見た(上映見逃した)。アレキサンダー・マックイーンのドキュメンタリー映画だ。モード界の反逆児イギリスが生んだ真の芸術家、真のファッションデザイナーだ。栄光と破滅の人生は、真の芸術家にふさわしい。ロンドンのタクシー運転手の息子として生まれたマックイーンは、これといった専門的教育を受けていない。語学もできず、何の資格もない。ファッションの世界も、画商やパトロンに見出された画家と同じで、その才能が絶えるまで、徹底的に働かされる。年に14回のショーをさせられる。ランウェイを演出するのは、毎回斬新さと、冒険と野心とアイデアと気知に富んだ、舞台公演をするのと同じだ。才能は疲れ切る。莫大な金を手にしても、それはリポビタンDぐらいしか効果はない。名誉と金を手にした者は、失うものも大きく、より残酷である。ファッションデザイナーに同性愛者が多いのは、異性では理解されないからだろう。真に癒されたいと思うから、同性を求めるのだと思う(私はその気がないから想像だ)。20代ですでに最高の栄誉の数々を手にし、ジバンシィに招かれ、やがてジバンシィをサヨナラして、グッチに招かれる。最高の栄誉を手にするまでに、実はたくさんの恩人がいた。マックイーンの才能を見出した女性(イザベラ)がいなければただの縫い子か、フツーのデザイナーで終わっていたかも知れない。マックイーン自身がいちばんそれを分かっていた。マックイーンはマジシャンだと言う人もいる。すべてが魔法のようなランウェイであった。その栄光に影が見えたとき、マックイーンはイザベラの自殺に衝撃を受ける。そして母親の葬儀の前日に自らの命を絶つ。マックイーンはHIV陽性であった。すでに体は骨と皮のようになっていた。生前マックイーンは貧しいデザイナーを育てる基金を設立していた。2010年2月10日享年40歳、真の芸術家と言われるファッションデザイナーは、おそらくアレキサンダー・マックイーンしかいないだろう。ファッションやアートに関心がある人にぜひおススメの映画、圧巻の芸術だ。
2019年10月7日月曜日
「タロウのバカ」の先
私の名は三郎(サブロウ)である。“サブロウのバカ”と言えば、その通りバカヤローであって、映画などにはなれない。「タロウのバカ」という映画を先日テアトル新宿で観た。封切って1週間と少し、観客動員数のベスト10に入っていない。1位はドタバタの作り手三谷幸喜監督の「記憶にございません!」だ。「タロウのバカ」は上映後、賛否両論あるようだが、いい作品だからこそ賛否は出る。ドタバタに賛否は出ない。出るのはドタバタの“ドタバタ度”が強いかどうかぐらいである。つまり“ヒマつぶし”になったかどうかだ。「タロウのバカ」は近年観た、ドキュメンタリー映画を別にすれば、間違いなくNo1だと思った。大森立嗣監督作品である。父麿赤兒、弟大森南朋の芸術家族だ。人間性の外側と、内側の外れにいる人間をいつも題材にしている。一歩間違った人間と、一歩間違いそうな人間だ。それはあと一歩できっと、人生という劇場から退場させられる人間たちの危うい関係だ。「タロウのバカ」の主人公は三人の少年だ。その中の一人タロウは、夫のいない母親の育児放棄によって名もなく、一度も学校に通っていない。二人の仲間から、名がないので「タロウ」と呼ばれている。主役はオーディションで選ばれた。この作品が第一作目の出演だ。タロウはきっと中学生だろう。いつも行く遊び場で知り合った二人の少年は高校生だ。菅田将暉と仲野太賀が実にいい。とくに菅田将暉は、天才的である。スタンリー・キューブロックの名作「時計じかけのオレンジ」に出てくる、主人公のアナーキーな暴力発力を持っている。思春期を楽しむ、その楽しみ方が、野球やサッカー や初恋の味なのではない。大人たちの世界の生んだ、デタラメな世界の中で少年たちは生きている。大人たちの壊れてしまった心では、もはや救いようがない。行き場もない、やり場もない。不条理と理不尽、不公平を正すことも大人たちはしない。アナーキーな生活をしている三人の少年、宗教に救いを求めるタロウの母、タロウには戸籍すらない。大きな鉄の橋、蛇のような高速道路。遠くに大都会が見える空き地が遊び場だ。そこが三人のユートピアであった。少年たちはアナーキストでありダダイストであった。自由こそ青春だ。権力や決まりは関係ない。すでにこの国が無法地帯となっていることを、この映画は見せる。嘘八百の大人たちの決めた社会は、正しいのかどうかと突きつける。ある日ふとしたきっかけで少年たちは一丁の拳銃を手に入れる。権力を持てなかった少年たちに、拳銃という殺傷力を持つ権力が手に入った。タロウのバカがそのトリガー(引き金)を引くとき、引く相手とは。思春期の少年たちの刹那的な輝き、何者でもない“タロウ”という怪物。壊れゆく世界。大森立嗣監督は最高の代表作を生んだ。私サブロウは、タロウにもなれず、一丁の拳銃も手にできず、悩みつづけている。これほど虚無観を持ち、この先の社会を暗示する青春映画はない。アナーキスト、ダダイスト、ニヒリズムの時代になる。三谷幸喜監督の「記憶にございません!」も、現代社会の持つ不条理への、アナーキズムの表現であったのかも知れない。笑っている場合じゃないよとの逆提案なのだろう。もしあなたが今、拳銃を手にしたら、誰にその銃口を向けるだろうか。
2019年10月4日金曜日
「旅は道連れ」
フランスであった話ですけどね。仕事で出張中の会社員が、ちょっと女性と遊んでホテルでSEXをした。が、不幸にも腹上死してしまった。日本であれば「何をやってるんだバカ者め」と言われるだろうが、そこは性の国フランスのこと、ちゃんと事故(?)による保険がいただけたとか。物知りの人と旅をして仕事をしていると実に楽しい。ホテルで眠れなくて、朝まで世界陸上ドーハ大会を見ていた。で、なんで日本人は陸上競技はダメなんだろうね。痛々しいほど下位を走ったり、跳んだりしているもんね。物知りは言った。それは日本人が農耕民族でヌルヌルした地でスベッたりしないように“スリ足”なんですよ。雪国の人はスリ足でスベラず、しかも早く歩くでしょ。狩猟民族は食べ物を追うために、スリ足では生きていけない。筋肉のDNAが違う。柔道とか、空手とか、相撲とか、レスリングなど、スリ足が基本なのは強いんですよ。陸上でも競歩で金メダルをとったけど、競歩はスリ足の極みですからね。マラソンが強いのは、ガマン強い飛脚のDNAですね。柔道の寝技が強いのは、日本人は畳文化で、男と女性が日々くんずほぐれずをしていたDNAですよ。外国人はベット文化だから、日本人みたいなことをしていたらベットから落ちてしまいますからね。話がホントかどうかは、定かではない。女子砲丸投げを見ていて、その驚異的体型に目を奪われる。ドラム缶にゴッツイ筋肉を持つ、両手両足をつけて顔と頭をのっけたようであり、ウギャーと砲丸を投げる。日本の選手は姿も見えない。しかし、日本人と同じような顔をした、中国人が一位であった。怪力怪女は、見応え十分である。オッパイも筋肉化している。ひょっとして金メダルかもと注目している。とても恐いが、とても凄い。ハンマー投げも同じ。私の体のメンテナンスをしてくれている、鍼灸の達人は佐賀県内でも、有名な(?)円盤投げの選手だった。で、円盤投げをしっかり見ている。実に奥深いようだ。自己と闘う哲学を必要として、その上科学的でないと円盤は遠くへ行かない。他のスポーツも同じ。個人競技は自分がライバルなのだ。「人間皆苦」という言葉があるが、人生は過酷な個人競技である。「長距離ランナーの孤独」という名作を基にした名画があった。一着で走って来たランナーがゴールテープのところでとった行動に、この世へのメッセージがあった。物知りが言った。「この頃『死後離婚』というのが多いのですよ。ある住職の話ですがね。死んだら、絶対同じ墓に入りたくないという女性の遺言で、お寺業界では死後離婚と言うらしいんです」「分かるね、その話」。私は深く納得したのであった。結婚という旅は道連れではないのだ。昨日夜「マリア・カラス」という映画を陸上の合い間に見た。史上最高の歌姫の人生は、53歳で死ぬまで歌と愛と、結婚と別れ、そして「天上天下唯我独尊」であった。ギリシャの海運王オナシスとの再婚と別れは、ドラマチックであった。歌姫は言う。「『マリア・カラス』は二人いるのよ。“マリア”という一人と“カラス”という一人が」。国王が劇場に来ても、声の調子が悪いとオペラすべて中止するという絶大な歌声と美しさを持っていた。しかしマリア・カラスも「長距離ランナーの孤独」の主人公であった。午前一時、テレビを見ると十種競技の中の円盤投げで、日本の右代選手がすばらしい記録を出した。人間は「苦愛」に満ちている。いつものグラスに氷をコロンコロンと入れた。
2019年10月3日木曜日
「川は流れてない」
寿しの「伝八」で、海鮮丼を食べた。と言えば、あっ! そうでオシマイ。仙台在住の写真家「佐藤活視」さんと一緒に。その場所は東日本大震災で、大津波で何もかも失った場所に建てられたプレハブ小屋の店と言えば、少し興味を持ってくれるだろうか。その近辺はホタテ2枚、3枚、4枚と注文すれば、水中にある棚を引き上げ、そこから活き活きしたホタテを、注文された数だけ取り出して焼いて食べる名所で、スラリ、ズラリと出店が並ぶ「繁盛の地」だった。観光客は大勢並んで、焼きたてのホタテにしょうゆをかけて食べた。ウマイ! のは当然であった(私は今は、ホタテが食べれない体質になってしまった)。仙台から硯で有名な「雄勝」に行き、現在の「女川」周辺を佐藤さんが車で案内してくれた。3年程前は何もしてなかったが、今は防潮堤の工事現場で、走っても走っても工事現場の中であった。クレーン車や、大・中・小のバックホーがあり、シャベルカーばかりであった。防潮堤は、ピクリとも動かない静かな北上川と、まったくミスマッチである。住んでいた人々はいない。みんな高い所に新居を建てていた。その地を去った人々も多い。灰色のコンクリートは、分厚くて高さは10メートルぐらいだろうか。「北上川夜曲」で有名な川と、人々が高い所で生活をしている所を分断していて、異様なものである。小一時間車で走っても、建設現場でありつづけた。人手不足なのだろうか、建築関係の人よりガードマンのほうが多く感じる。人が乗っていない建機ばかりだ。あの「大川小学校」の側にあって、大津波で破壊され一気に流された大鉄橋は再現されていた。大川小学校にはかつてのように人はまったく来ていない。ポツネンとしてあった。今年は暑かったので山林はたっぷりとした緑色であった。空はこれ以上なく青く、リアス式海岸につづく北上川は無言の禅僧のように、黙して語らずであり、点々とアンカーを下ろした小船がゆらりとも動かない。白くて細長い鳥だけがちょっと飛んでは、水面に波紋を生んだ。写真家の佐藤さんは、夜中何人かの霊を見て、なぜか若い女性の霊と、ディープキスをしたと言った。仙台で100年の歴史を持つ笹氣出版の井上英子編集長から、紹介された山の頂上にあるホテルを目指した。そこは広大な庭園があり、自然石が絶妙に配置され、松島の数々はもちろん、大津波が発生した原点(震源地が見えるので有名)を見下ろせる。雀崎にある美しく広い桃源郷ホテルは、大津波後、営業していない。ただし、ここで震災を悼む、ライブコンサートのPVをつくりたいと私が言えば、井上編集長が「OKをもらってあげるわよ」と言ってくれた。庭師のおじさんがまい日営業していない庭園の、芝生やたくさんの木々の手入れをしている。広大な魚鱗のような、逆光の海は息を飲み込み、そのまま死んでしまうほど美しい。「祈りの塔」を久々に見て感動した。赤々とした“曼珠沙華”の花が咲き、塔を際立たせていた。浅葉克己さんデザインのマークが祈りつづけていた。倍賞千恵子さんにお願いして植えた、桜の木は太く立派に成長していた。今度は桜の季節に来ることを「祈りの塔」と桜の木に約束した。寿し「伝八」の店内にはたくさんのサインの色紙が貼ってあった。震災の取材に来た有名女子アナや、レポーターのが多かった。6月8日から上映開始の映画のチラシが貼ってあった。雄勝でロケをした作品であった。今、注目の監督「白石和彌」の「凪待ち」という作品であった(この頃当り外れが多い)。海鮮丼はこれでもかと言うほど旨かった。きっとあの小泉進次郎大臣もきっと来るだろう。すっかり言語不明なタドタドしい男になってしまって、人気は急降下している。「川は流れない」が、大不況の津波が流れて来ている。石巻の岩ガキは絶品だった。大きいのを2個食べた。夜、腹ペコで帰宅して食べた「ペヤングソースやきそば」。非常食であったが、ヒジョーに旨かった。
2019年10月1日火曜日
「『石見多恵』(いわみ)社長という作品」
「アスルメンディ×エネコ」。スペインバスク地方の3つ星レストランのシェフの名前である。この名を冠したレストランが「エネコ東京」だ。場所は六本木のとある路地の中心、閑静な場所にある。ここを経営している(株)プリオコーポレーション代表取締役社長松井研三氏の経歴がユニークだ。1947年群馬県伊勢崎市生まれ。専修大学卒業後、1970年、叔父が経営する(株)大村に入社、まず婚礼事業に携わる。以後、新しいスタイルの結婚式場を次々に提案。1983年に(株)プリオパレス、現(株)プリオコーポレーションを設立。ヨーロッパバスクスタイルの本物のウエディングを実現していく。現在、群馬、栃木、埼玉、東京、長野に11の式場、東京にレストラン3店舗、ドレスショップ1店舗と幅広く事業展開、2017年9月、六本木にスペインの3つ星レストラン・バスクビストロ(エネコ東京)をオープンさせた。先日、このレストランにロケハンをかねて、ある女性編集長と、ある高級品メーカーの事業部長と行った。そのきっかけは、過日軽井沢の“大賀ホール”で行った、オペラコンサートの後のパーティ会場でのことだ。軽井沢の林の中、ステキな結婚式場では丁度一組がウエディングを行っていた。その式場横に、シャレたレストランがあり、そこに大賀ホールで美声を披露した四人の女性とピアニストの女性とともに、友人、知人、取材の人たちが、ステージ用のお化粧落とした五人を囲んでいた。私はそこである商品の、サンプリングのプレゼンテーションをさせてもらった。そのとき、これ以上はないほどテキパキと指示を出しながら、自らもひとときも休むことなく動く女性がいた。これほど感じのいい女性はいなかった。笑顔が今売り出し中のプロゴルファー渋野日向子選手のように、明るくステキだった。この話は前にも書いたと思う。東京に帰り、早速アポイントをとり、ご多忙の中、小一時間八重洲の本社でお会いいただいた。女性はレストラン&ウエディングスの取締役社長であった。そのキャリアがすごい、入社してから何の縁故もなく実力で、オーナーの目に止まって社長にまでなったのだ。応接に出て来た「石見多恵」社長は、やはりニコニコと笑い、親しみやすく、これ以上なく感じ良かった(詳しくは調べてください)。三人で向かったのだが、「いいわよね」「いいですね」と言い合ったので、六本木の「エネコ東京」に行くこととなった。ウエディングスペースから、ウエイティングバー、そしてメインレストラン。すべて自然環境でできていて、オシャレで工夫に満ちている。スタッフはしっかり教育されていてすばらしい。料理は一つひとつがデザインの作品みたいであった。料金はリーズナブルで予想していたより、はるかにフツーであった。料理はもちろんおいしいが、そのレイアウトと入れ物とその上、その中にある数々の小さめの品々に楽しくなる。エコロジカルでエスプリがある。日本の懐石料理のような緊張感もある。私のフトコロではリーズナブルと言ってもなかなか行けないが、美人とか知性的なヒト、とくにエコロジストを誘うと、あなたの申し込みに心を動かしてくれるかもしれない。なんと言っても「石見多恵」(いわみ)社長が最高作品だ。私は今日仙台に行く。岩手の常堅寺の「後藤泰彦」住職ご夫婦、地元の名物編集長「井上英子」さん、それとカメラマン佐藤浩視さんと、牡鹿半島という店で会う。本当はここに鉄の作家、小谷中清さんと退社した、敏腕女史がいればベストメンバーなのだ。「祈りの塔」を作れたのは、この女史のおかげである。その塔の側に植栽した「倍賞千恵子」さんの桜の木の成長も見に行く。
2019年9月30日月曜日
「カレーパンとカフェラテ」
犯人が分かった。前回、小庭の池の中の金魚(鯉みたい)が食べられた。そのショックを書いた。その夜犯人を午前3時半頃、お隣のご夫婦が発見してくれた。金属の屋根の上で、何か爪をかく音がうるさい。何だろうと思い懐中電灯で使って照らすと、ギョ、ギョ、ギョ。両目を大きく見開いて光る目、立ち上がり両手で金魚をムシャムシャ食べている「アライグマ」がいたのだ。ビックリして懐中電灯をコイツめみたいに動かしても、まったく動じず食べつづけていたらしい。大変ご迷惑をおかけしたので私は事情を聞きに、おうかがいし、玄関先で、ご主人から詳しくご説明を受けた。「本当にいたんです。『アライグマ』が。もしかしたら、あと一匹いたかも」とご主人は言った。小さなアライグマは見た目はかわいいが、大きくなったものは、怒るともの凄く狂暴になるらしい(獰猛とも言う)。咬まれると狂犬病になることもあるとか。市役所の駆除係に電話をしたら、仕掛けの鉄系網の箱を取りに来るように。そこにアライグマの好む物を入れて入ったら、保健所が取りに行きますからと。十分に気をつけてください。きっとどこかの空き家とか、人家の屋根裏とかに住んでいて、夫婦、親子で移動する。夜行性なので明るいうちは行動しない。天敵がいないので全然物おじをしないとか。あのかわいい“ラスカルちゃん”(仕事ではお世話になっている)とどうしてもイメージが合致しない。ペットのうちはかわいいが、大きくなると手に負えない。人間も動物も同じだなと思った。今、私は大いに悩んでいる。一匹だけ生き残った金魚をどうするか(?) きっと、また来るからどこか川に放ってあげるか、どこかの池に入れてあげるか。大きな池を持っている“うなぎ屋さん”に頼むか、それとも一匹でさびしそうにしている姿を見て暮らすか、エサが3本残っているから、それをあげ終わったら行動するか、などと悩んでいる。9月25日午前3時半の惨劇は、かなり生々しいシーンだったようだ。9月25日は大先輩の告別式の日であった。敬愛していた人と。愛情を込めた生き物との別れの日だった。忘れ得ぬ日となった。ラグビーW杯で日本が世界ランク2位のアイルランドに勝った。私はライブで見ていたが、ニッポン、ニッポンと言うのだが、選手の半分ぐらいは屈強な外国人であった(日本国籍を持つ)。これが昔のように全員日本人だったら、どうなっていただろうと思った。日本はすでに移民の国である。東京駅9番10番ホームに“NEWDAYS”という店がある。3人のアルバイトさんがいる。左から女性(ヘ)さん、真ん中の女性(ヒ)さん。右に男性(カ)さんだった。3人ともに若い。しょっちゅうメンバーは変われるので、よく胸章の文字を見る。かつて「ア」「イ」「ウ」とか、「カ」「キ」「ク」とか「オ」「ナ」「ラ」さんというのもあった。テキパキと実によく働く。昨日午後1時から、平塚にある須賀公園球場に少年野球の試合を応援しに行った。アロハを着た私は少し異質だった。試合時間は70分と決まっている。ダブルヘッダーだった。須賀公園に来るとき、一級河川があった。金魚のケイコちゃんを、そこに放ってあげようと心に決めた。ラグビーW杯のせいで、世界陸上もプロ野球も全然盛り上がらない。織田裕二のあの裏返った声も聞こえない。日本のプロ野球を支えているのが、外国人ばかりなのが気になっている。ボールが飛びすぎてホームランの大量生産だ。関西電力では、原発誘致で大量のワイロを生んでいた。ワイロを保管していて、「返しました」と言う珍問答。これが通るのが日本である。少年野球にも厳しいルールがあるのに。一塁を守っていた少年が「お腹が痛い」と言った。選手交代かと思ったら、審判がトイレに行かせてあげた。その間試合は中断。そしてスッキリした少年が一塁に戻って試合は再開した。こんなオリジナルルールは気持ちいい。みんなで拍手した。「アンデルセン」で買ったカレーパンをアイスカフェラテを飲みながら食べ応援をした。気分が少し晴れたのは、少年の風だ。(文中敬称略)
2019年9月27日金曜日
「犯人は?」
朝6時25分、カーテンを開け、硝子戸開けて、さあ金魚ちゃん(と言っても体長20センチぐらいに成長して鯉みたい)にエサをと行動したら、ウギャと思った。沓脱ぎの細長い石の上に、頭部を食べられた金魚の姿。池をみると8匹いたはずの赤い金魚がいない。ずっと以前にも同じことが2度あった。犯人は分からなかった。7、8年前、平塚の七夕祭りの金魚すくいで子どもたちが持ち帰って来た。そのときは数センチであった。以来ずっと、愛情をかけて育てていたら、りっぱな鯉みたいになっていた。今年の夏の猛暑で12匹のうち4匹が死んでしまい、小庭の隅にお墓をつくってやった。オ〜イ! 起きろ、また金魚が消えたぞと、上の階で寝ている愚妻に言ったが、さしたる反応はなし。きっと熟睡していたのだ。以前、神隠しのように1匹残らず消えたときから、もう金魚はヤメテ、ブキミだからと言っていた。それ以来、池には太い竹で、水面の半分以上かくしていた。よく見ると、竹の上に金魚のウロコが生々しくへばりついている。右隅の方に水を流すところがあるのだが、そこにもウロコがあった。池の中をよく見ると1匹が生き残っていた。恐怖心が残っているのか、ジッとして動かない。チクショウかわいそうにと思いながら、再び上の階に向かって、「オ〜イ、小さなシャベルは」と大声を出すと、「何よ」などとネボケながら、物入れからシャベルを出して来た。「キモチ悪い。だから言ったじゃない」などと言った。私は池の側の土を掘り、頭のない金魚を手にして埋めてやり、2本のお線香を立てた。私は3時頃まで映画を見ていたので、それから6時の間の出来事だ。7時59分、庭師の人に電話した。「それはサギですよ、サギ」と言った。以前から犯人説はイロイロあった。鎌倉の故義兄はタヌキだと言った。長く通ってくれていた故庭師は、「サ、サ、サギですよ。ダンナ、サギはひと飲みですよ」と言った。立派な錦鯉を何匹も池の中に泳がせている、藤沢のうなぎ屋さん(うな平)のご主人も「サギですよ」と言った。確かに海の側なのでいくつか川があり、サギがたくさんいる。以前の時、「夜中に撮影する装置をつけましょう」と言われたが、「何が写し出されるかキモチ悪いからイヤ」と反対された。ご近所の人は、カラスとかハクビシン、トンビではとか、野良猫説を言った。「う〜ん、小さな庭にある3メートル程の池に、空からサギが飛んで来るか、鳥なら羽根ぐらい落ちているんじゃないの」と言った。羽根はまったくない。それに今度は食べ残しがある。飲み込んでない。ウロコがいっぱいある。赤い金魚全匹に名前をつけていた。「あ〜あ、チクショウ、そうだ物知りの鍼灸の先生に聞いてみよう」と思い電話した。先生は明快に、それは「アライグマですよ」と言った。「何! アライグマ(?)」。先生は言った。「鎌倉に住む私の患者さんの家では、錦鯉をパクパク食べられましたよ。防御用のネットを食いちぎって池の中に入って」「え! そうなの、アライグマなんているの」と聞けば、「この頃、異常繁殖して、市から駆除していいとの許可まで出ている」と言った。ペットとして飼っていたのを自然に帰してあげようと、鎌倉山あたりで起きたことが、すごい繁殖力を持つ、アライグマを大量に生み出し、それが藤沢、辻堂、茅ヶ崎、平塚と東海道線みたいに移動しているらしい。アライグマの資料を読むと、サギ、ハクビシン、タヌキ、猫、カラス、トンビなどの説より、いやにリアリティがあった。私が今の家に引っ越して来たときは、周辺は小さな山がたくさんあった。山の香りが残っているのだろうか。昨夜、帰宅して池を見ると、赤い金魚が1匹悲しそうに泳いでいた。日曜日、川に放流してやろうと思ったが、サギのエジキになるかとも思った。「夜中の撮影をするか」と言えば「キモチ悪い」と言う。傷心の私は思案に思案を重ねている。みなさんはこんな経験がありますか(?) アライグマを見たことありますか。金魚は鬼のようになって生きている。私の身代わりになってくれたのかもしれない。犯人は私の天敵である。アライグマには、天敵がいないらしい。
小庭の池 |
2019年9月26日木曜日
「小さなオルゴール」
♪ 遠き別れに 耐えかねて この高殿に のぼるかな 悲しむなかれ 我が友よ 旅の衣を ととのえよ ♪(惜別の唄) 人間は出会ったときから別れに向かって生きて行く。共に飲み、笑い、怒り、食し、愛し合い月日という目盛りを重ねる。人間の生涯で親友というべき人間が、一人でもつくられたなら、それはいい人生だと言う。それほど心を許し、信じ合い、助け合う。“親友”を得るのは難しい。先輩も同じである。生涯命をかけて付き合う先輩に出会うことも、親友と同じで難しい。幼年から少年になり、青年を経て大人になり、長じて年配者から老人になるまでに、一人、二人、三人と失望し、絶望して「サヨナラだけが人生だ」ということになる。これは人間に生まれた宿命である。私は親友を失い、そして先輩を失った。友は62歳、先輩は79歳であった。9月25日幼年時代から、可愛がってくれた中学時代の先輩を見送った。初代東急文化村社長「田中珍彦(ウズヒコ)」さんだ。野球部の先輩だったので、会えば直立してごあいさつをした。父はかの右翼玄洋社の「頭山満」の流れを持つ思想家であった。兄上は「武蔵野美術大学」を苦労して創設した人である。武蔵美の校史として、田中珍彦さんがインタビューに応えている別冊がある。長いもみあげと大きな声、誰よりオシャレなファッションセンス。ステキな生き方。音楽を愛し、オペラを愛した。生涯お金には無頓着であった。東急グループの総帥だった故五島昇さんから、“もみあげ”と呼ばれていた。石井好子事務所から、東急エージェンシーに途中入社、そして、東急文化村創設の役をまかされた。ある日電話があり、「オイ、赤坂のふぐ屋に来てくれ、頼みがある」「ハイ!」とばかりに夜、会った。そこで文化村のプランを聞き、ポスターやらカタログや蜷川幸雄さんを起用した全面広告などをまかせてくれた。柿落に門外不出と言われたワーグナーのバイロイト祝祭楽団、総勢約240名を飛行機数便に分けて、日本に呼んでしまった。世界的奇跡の事だった。詳しくは、伝説の編集長「小黒一三」さんが経営する「木楽舎」発行の「珍しい日記」をぜひ読んでいただきたい。快男児の躍動と男のロマンが見えるはずだ。この場を借りて小黒一三さんと編集者の方に心より御礼申し上げる。告別式の出棺のとき、小さなオルゴールを回しながら、一人の女性が美しい歌声で先輩を送ってくれた。生涯の大親友だと言っていた歌手の「森山良子」さんだった。私の心の中に底なしの井戸のような穴が空いている。
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