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2019年10月7日月曜日

「タロウのバカ」の先

私の名は三郎(サブロウ)である。“サブロウのバカ”と言えば、その通りバカヤローであって、映画などにはなれない。「タロウのバカ」という映画を先日テアトル新宿で観た。封切って1週間と少し、観客動員数のベスト10に入っていない。1位はドタバタの作り手三谷幸喜監督の「記憶にございません!」だ。「タロウのバカ」は上映後、賛否両論あるようだが、いい作品だからこそ賛否は出る。ドタバタに賛否は出ない。出るのはドタバタの“ドタバタ度”が強いかどうかぐらいである。つまり“ヒマつぶし”になったかどうかだ。「タロウのバカ」は近年観た、ドキュメンタリー映画を別にすれば、間違いなくNo1だと思った。大森立嗣監督作品である。父麿赤兒、弟大森南朋の芸術家族だ。人間性の外側と、内側の外れにいる人間をいつも題材にしている。一歩間違った人間と、一歩間違いそうな人間だ。それはあと一歩できっと、人生という劇場から退場させられる人間たちの危うい関係だ。「タロウのバカ」の主人公は三人の少年だ。その中の一人タロウは、夫のいない母親の育児放棄によって名もなく、一度も学校に通っていない。二人の仲間から、名がないので「タロウ」と呼ばれている。主役はオーディションで選ばれた。この作品が第一作目の出演だ。タロウはきっと中学生だろう。いつも行く遊び場で知り合った二人の少年は高校生だ。菅田将暉と仲野太賀が実にいい。とくに菅田将暉は、天才的である。スタンリー・キューブロックの名作「時計じかけのオレンジ」に出てくる、主人公のアナーキーな暴力発力を持っている。思春期を楽しむ、その楽しみ方が、野球やサッカー や初恋の味なのではない。大人たちの世界の生んだ、デタラメな世界の中で少年たちは生きている。大人たちの壊れてしまった心では、もはや救いようがない。行き場もない、やり場もない。不条理と理不尽、不公平を正すことも大人たちはしない。アナーキーな生活をしている三人の少年、宗教に救いを求めるタロウの母、タロウには戸籍すらない。大きな鉄の橋、蛇のような高速道路。遠くに大都会が見える空き地が遊び場だ。そこが三人のユートピアであった。少年たちはアナーキストでありダダイストであった。自由こそ青春だ。権力や決まりは関係ない。すでにこの国が無法地帯となっていることを、この映画は見せる。嘘八百の大人たちの決めた社会は、正しいのかどうかと突きつける。ある日ふとしたきっかけで少年たちは一丁の拳銃を手に入れる。権力を持てなかった少年たちに、拳銃という殺傷力を持つ権力が手に入った。タロウのバカがそのトリガー(引き金)を引くとき、引く相手とは。思春期の少年たちの刹那的な輝き、何者でもない“タロウ”という怪物。壊れゆく世界。大森立嗣監督は最高の代表作を生んだ。私サブロウは、タロウにもなれず、一丁の拳銃も手にできず、悩みつづけている。これほど虚無観を持ち、この先の社会を暗示する青春映画はない。アナーキスト、ダダイスト、ニヒリズムの時代になる。三谷幸喜監督の「記憶にございません!」も、現代社会の持つ不条理への、アナーキズムの表現であったのかも知れない。笑っている場合じゃないよとの逆提案なのだろう。もしあなたが今、拳銃を手にしたら、誰にその銃口を向けるだろうか。 

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