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2019年10月10日木曜日

「大スター、石原裕次郎の初主演作は」

私の少年時代はチェッカーズが歌った「ギザギザハートの子守唄」みたいだったが、荻窪駅西口の“日活パルサス”に行けば、ギザギザの刃物が竹細工の刃のようになった。心が全面的に解放されたのだ。それは石原裕次郎という異星人に会えたからだ。全作品を観た。同じ映画を続けて5日間観たこともある。10月7日の東京新聞夕刊を読んでいて、ハタと大きな見出しに目がいった。映画の隆盛『狂った果実』であった。(ほさか・かずし=作家)この人が『狂った果実』の中に出てきた。夏の間だけ神奈川県の逗子海岸にあった遊園や「コニーランド」の出るシーンを「移動遊園地」だと思っていたという記憶の話であった。この作家は映画史に詳しい伊藤彰彦さんから、『狂った果実』上映に対する数々の疑問を聞いたようだ。石原裕次郎のデビュー作といえば、兄石原慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」だが、この作品ではチョイ役であった。初めて主演したのは『狂った果実』だ。この映画は1956年(昭和31年)公開であった。作家は1956年生まれだった。逗子は米軍基地のある横須賀から電車で10分だ。作家はふと考えた7月12日に公開されたのに、夏の海岸風景が映っている。夏の海岸シーンは前年に撮ったのか。あるいはセットか。「太陽の季節」の公開は5月17日だ。『狂った果実』は「太陽の季節」の大ヒットを受けて撮った、と言われているのに、2つの公開は2ヵ月も空いていない。伊藤彰彦さんが説明をした。『狂った果実』は「太陽の季節」の大ヒットで急遽作った。撮影日数は通常30日のところ、22、3日だった。セットも通常の半分の6、7杯(セットはこう数える)。逗子海岸の移動遊園地のシーンは6月下旬に撮ったものと思われる。コニーランドは夏季限定だった。当時の映画屋は今どきで言えば、超ブラック企業の社員だった。きっと徹夜、徹夜、半徹、徹夜、徹夜、半徹、徹夜、まさに日月火水木金金であり、休む日はなかったはずだ。みんな映画大好き人間の集まりだった。人間、大好きな仕事なら、ブラックだって、超ブラックだってかまわない。パワハラ大好き、セクハラ当然、モラハラだって関係ない。こんなことを書くと私はパワハラと言われると思う。ここに書いているのは、映画界全盛時代に映画屋が山ほどいて、他社との競いをしていた。そんな中から不出世の大スター、異星人石原裕次郎という大スターが生まれた、というより宇宙からやって来たことだ。私は作家よりも年配者だから、「太陽の季節」の封切りからすべて見ていることになる。東京新聞の記事から抜粋をしアレンジして書かせていただく。「ほさか・かずし」さんに会って、石原裕次郎の映画談義をしたいと思った(調べてみる)。この場をかりて久々に映画屋を思い出させてくれた御礼を言う。日活サイコー。タフガイユーちゃんサイコー。猛烈な台風が近づいてきている。「風速40米」という題名の映画がある。台風に向かって、ユーちゃんは歌うのだ。「何! 風速40メートル、ふざけんじゃネエよ」。そして歌う。♪〜 風が吹く吹く やけに吹きゃがると 風に向かって 進みたくなるのサ……♪。当時、風速40メートルと言えば、そんなのないよと思っていた風だ。千葉県で台風15号の被害に遭った人々に、どうか猛烈な風と雨が再び襲いかかりませんようにと願う。週末はTSUTAYAに行って『狂った果実』と「風速40米」を借りてきて見ようと思っている。「天下を取る」と「錆びたナイフ」も。全作大ヒットだった。(文中敬称略)

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