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2020年7月10日金曜日

第80話「私は雲呑」

私は「雲呑」である。カタカナにすると「ワンタン」だ。私雲呑はナヨナヨ&ヘナヘナとしている。ワンタンメンというのがあるが、私雲呑にとっては、いささか気に入らない。どっちが主役かわかんない。できるならワンタンのみで食してほしい。雲呑は哲学者みたいである。つかみどころなく難解である。クラゲの中に肉が入っているようなものなので、ナメてかかると痛い目にあう。論被、撃被、喝被される。ラーメンのように従順にツルツルとはいかない。何を考えているか分からない奴を、私雲呑は、アイツはワンタンみたいだと言っていた。先夜仕事仲間四人と仕事場近くの菊鳳に行った。エビチリ、スブタ、カニ玉を四人でシェアした。シメにチャーハン一人前を四分割、ワンタンを四分割にしてもらった。むし暑い、店内は喚気のためにドアを開放しているからだ。この店は安い旨い早いの見本のような店で、超一流、一流と言われているところより、断然に美味しい。結婚して自分で私雲呑をつくってくれる奥さんをもらった人は、きっと幸せだ。餃子もそれに近いが、ワンタンほどの精神性は感じない。私雲呑がワンタンになったとき、かなりアツアツなので気をつけて口に入れないと、アヂ、アヂッとなり、レンゲの中からすべり落ちる。舌にやけどをする。小籠包もそんなことになる。ワンタンには美意識がない。ヌルヌルとして、ヘナヘナだから絵にもならない。ラーメン店、中華料理店によって、肉の量が違うのだが、私雲呑はワンタンとなって、場末のラーメン店が居心地がいい。時々ゴッツイ、ガテン系のお兄さんが入って来て、チャーシュウ、ワンタン、メンマ、ネギ大盛なんてオーダーすると、イヨッ! お兄さん、サイコーと手を打ってしまう。政府のコロナ担当と、都知事がまるで、ワンタンみたいに、つかみどころのないヘナヘナの話をシドロモドロに発表する。この国は今、私雲呑と同じで何もかもヘナヘナ、フニャフニャーで、丼という国家の中で浮遊する。古今東西、言い訳というのは、やたらに長く、つかみどころがない。何が言いたいのかビシッと話せと言いたいのだが、ウソがウソを重ね、事実をワンタンの中の肉みたいにかくすと、結局レンゲの中から、ツルッとすべり落ちて、火傷する。先日私雲呑はワンタンへのチャレンジに大失敗して、舌先を火傷した。それにしてもコロナ、コロナ、ウソ、ウソ、雨、雨、雨、これは、本当、本当、本当、大惨事なのだ。東京都と政府の発表は冷めたワンタンだ。中国のことわざに、愚将が国を治める時、天から大災難が起きる。そんなのがあった。私雲呑は舌先きにイソジンをつけてかなり治った。この国を治すイソジンは誰か。今日も240人以上がコロナに感染という。本当の数字はこの何十倍。もはや、この国はワンタン、コロナメンになり、その味はシラジラシイ。大きめのレンゲを用意しよう。

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2020年7月9日木曜日

第79話「閑話休題」

夜がまた来る 思い出つれて おれを泣かせに 足音もなく なにをいまさら つらくはないが 旅の灯りが 遠く遠くうるむよ この「さすらい」は「小林旭」の大ヒット曲だが、「徳久広司」という作詞作曲家&弾き語りもいい。過日、六月十九日・二十日と札幌へ取材に行って来た。安ホテルの窓の外にエアーポートの灯り、その手前を列車の灯りが、斜目に走る。灯りというのは実にロマンチックである。さらにうっすらと霧がかかっていると、さすらいのような気分になる。人生とはさすらう旅みたいなのだ。 あとをふりむきゃ こころ細いよ それでなくとも 遙かな旅路 いつになったら この淋しさが 消える日があろ 今日も今日も旅ゆく 人間弱気になると次々と災難が襲いかかって来る。カラ元気でも、ヨシ! 勝負だ、どっからでもかかって来いと、気合いを入れてないと勝負に負ける。左官のカリスマ挾士秀平さんがいる飛騨高山に豪雨が降った。何度もお会いしに通った。挾士秀平さんの会社、職人社秀平組は、山のふもとにある。野太い声で大丈夫だと言っていると思う。眼光は大きく鋭い。体は大きい、感性は繊細にして文学的、詩的である。ゴーゴー流れる飛騨川の映像を見ていて、下呂温泉・水明館を思い出した。名湯で有名だが、この水明館のオーナー一族の方々は、実に過ぎた月日を忘れさせないほど、ごていねいで代替りしてもよくお便りをいただく。岩下志麻さんを起用させていただき、水明館の新装グランドオープンのCMをつくらせてもらった。その日の飛騨川は清流、水音は流麗でやさしかった。川は人間の感情みたいであって、もうこれ以上我慢ならぬと憤怒した時、激流となって襲いかかって来る。つまり来襲である。人々は夜は恐ろしくて、眠れないと身震いする。コロナ、コロナの中、お世話になった方々が人事移動となった。大会社は辞令が出たら、一週間位で移動する。よくお会いできていた人とは会えなくなり、なかなかお会いできない人とは、すぐにでもお会いできることになる。実に複雑な気がしてならない。インバウンドのない成田空港は、廃港のようであった。海外からの客でごったがえすところに人は誰もいない。ロビーには私と相棒の二人だけだった。880室もあるホテル、早朝チラホラと人がいた。往復2000キロの旅を前に、私は旅芸人の気分となった。私の仕事は芸人の旅である。人と人との関係も同じで、昨日の清流は今日濁流になっている。男と女、夫と妻との関係も同じだ。感情という川の流れは恐ろしい。 
下呂温泉水明館

2020年7月8日水曜日

第78話「私は行動」

私は「行動」である。少しでも命を守る行動をとってくださいと、テレビのニュースは言う。いまだかつて経験のない雨とか、50年に一度の記録的豪雨と言う。とここまで書いていると、でっかい蚊のヤローがヌケヌケと目の前に来た。三月末から私行動は、行動を制限されて、ムカムカ、しているのでバッチンと蚊をやっつけた。手のひらに蚊がツブレ赤い血を出していた。チクショウと言いつつ手を洗いに立った。若い女性の声でお父さん危な~い。お父さん危な~いの声がニュースから流れた。画面を見ると間一髪、大洪水の難から逃げることができた映像があった。デジャブと言う言葉がある。又かみたいの意味と思うが、この国はずっとずっとデジャブがジャブジャブである。又か又か又かの災害を繰り返す。娘さんの声で間一髪助かったお父さん、本当によかった。世の中には人の血を吸う蚊みたいな人間がうんざりいる。ちゃんと公共事業の予算を使ってんのか(?)、おいしい血を吸っているのが多くて、防げる災害が防げてないのではと大いに疑いを持つ。静岡県知事の行動に私行動は拍手を送る。JR東海のボスの野心であるリニア計画を、大井川の水を守るために(と思いたい)と頑固に反対して、リニア計画を止めた。ほぼこの国ではありえない事だ。コロナ、コロナで全国の県知事の言動、行動がよく見えた。使える知事と使えない知事が、クッキリ、ハッキリ分かった。知事の力は使い方次第で大きな力を持っているのを知った。東京都の女性知事にはうんざりだが、この国に女性知事がいないのは何故かと思った。海外には当たり前のようにたくさんいる。森を守り、山を守ると、川や海が守れる、その結果人が守れる。蚊のヤローに血を吸われたせいか、アタマがボンヤリしてきた。時計を見ると午前二時三十六分〇三秒、時計の上にはテレビの画面、大雨による氾濫が流れる。九州や東海地方は明日も激しい雨と報じる。少しでも命を守る行動をと連呼する。最近ユーチューブというのを見る方法を知った。あるボタンを押して、声をかけるのだ。ニュースがいくらでも見れる。その分映画が見えなくなるので余り見ないことにしている。私行動は被災地に何をすればよいのだろうか。コロナ、コロナできっとボランティアの人は入れないのだろう。なんだこれは、網戸にボロッと穴があいている。蚊はここから入ったのだ。私行動はガムテープを取りに行った。これから「9人の翻訳者」という映画を見る。東海道線内で靴を脱いで、列車内でスリッパに履き替える女性が前にいた。灰色の大きなものだった。その変なかんじは、私のボキャブラリーでは表現できない。昨日は七夕さんであったが、みんな忘れていた。手帖に七夕の竹飾りの絵を書いて、てんこもりの願いを書いた。



2020年7月7日火曜日

「400字のリングのご報告」

400字のリングは、私はただ原稿を書くだけで、それをテキスト化して、配信してくれる神の手のパートナーがご苦労をしてくれている。かなりの腹痛に耐えて、大きな病院にも二つ行って、いろんな検査をしていた。ずい分心配していたのだが、昨日夕方激しい雨音の中電話をいただいた。最終的な検査は来週するのだが、それまでやりますよと言ってくれた。コロナ、コロナ、マスク、マスク、消毒、消毒。うんざりするほど小池百合子の顔を見ていて、かなり気分が悪い。情報を知るためには仕方なく見るが、顔は見ないようにしている。白鴎大学教授の岡田晴恵教授。髪の毛の量が多すぎるから、ハサミで切ってほしい。終りにニコッと笑うと、ゾッとする。日本には感染学の専門家は他にいないのかと思う。カッパ頭の医師会のセミボス。カエル顔の教授。ほぼこの三人が各テレビ局に出ている。私の友人は小池百合子の首筋のホクロの数まで知っていた。4Kで見ると恐いよと言った。人間ヒマほど恐いものはない。そういうお前も十分恐いよと言った。あ~嫌だ、もう嫌だ、東京都知事を早くやめて総理大臣を目指したいと顔に書いてある。オリンピックはかなり怪しくなって来た。なんとなくやる方法を考えているのだろう。得意のあやふやさで。我が街茅ヶ崎を選挙区にする、河野太郎が総理大臣のフロントランナーになっていると聞いて、長いトンネルを抜けると、そこはもっと長いトンネルだった、という言葉を思い出す。私の知り合いの県・市会議員たちの多くは、河野太郎の子分たちだから、かなり色メキだっている。日本中の繁華街を全部PCR検査してみろと言いたい。新宿、池袋だけ悪者みたいになっている。夜の街も、昼の街も四民平等だ。きっとブッタまげる数字となるだろう。熊本県人吉出身の友人がいる。確か三年前も大洪水の被害に遭った。コロナ、大洪水、次は大地震だと地震学の専門家が新聞に書いていた。私の出身県である岡山が生んだ、将棋の大名人がいた。故大山康晴だ。私が杉並区天沼に住んでいた頃、大名人の家がすぐ側にあった。大名人の家の、まん前が文豪井伏鱒二宅であった。「助からないと思っていても、助かっている」大山大名人が書いた言葉だ。もうダメだと思うな、あきらめるな。又、「忍無辱」とも書いた。耐え忍ぶ姿は決して恥しいものではない。うんざりがまだまだ続くが、忍を貫いて行こうと思っている。(文中敬称略)

2020年6月29日月曜日

「400字のリングについて」

私の親愛なるライターの方の症状が、かなりよくなったとのこと。水曜日に病院に行って経過良好、仕事OKのおすみつきをもらったら、400字のリングのゴングを鳴らします。コロナは第2波みたいになってきました。暑さもいよいよ本番。みなさんくれぐれもご注意を。マスクをしていればみんな美男美女です。

2020年6月11日木曜日

「試合中断」

私の書いた生原稿をテキスト化してくださる知人のライターが、モーチョーのようでおなかが痛くてしばし休みます。多分一週間はかかりそうです。大事なきことを念じています。

2020年6月9日火曜日

第77話「閑話休題」

本日天気晴朗、快風、爽風。ある「かるた」に知人と共に挑戦中。アタマの中がイロハ歌留多になっている。ところでイロハ全部言えますか(?)神田神保町に「(株)奥野かるた店」という、創業100年(?)のお店があった。いやはやこんなにも“カルタ”があったとは。で現在誰も作らなかったものを制作中。ですっかりアタマが50音で、長文が書けない。ちなみに“イロハ”を全部言ってみてください。


2020年6月8日月曜日

第76話「私は里見」

私は「里見」である。本物は「里見甫」だ。別の名を“阿片王”と言われた。東京裁判の時法廷に立った里見は、あなたは何をしましたかの、問いに、阿片を扱ってましたとこたえた。かつて中国の上海は魔都とか祖界と呼ばれていた。それは特別な地区と言うことである。日本軍は上海に「東亜同文書院」という。軍のエリート養成校をつくった。今の東大よりはるかに難しい最高学府で、ここからエリート軍人たちが生まれた。故児玉誉士夫の児玉機関や笹川良一たちではなく。当時の上海で“里見甫”を通さない麻薬は1gもないとも言われた。中国に侵略した日本軍には共同通信、時事通信をはじめ数多くの報道機関があった。里見甫はこれでは軍の情報が統制できないと思い。海外への通信は時事通信、国内は共同通信と二社に決めた。で電話通信会社みたいだった“電通には報道をやめて、軍の広報活動をせよとなった。略して“電通”誕生である。電通は里見甫の麻薬でできた会社である。しかし戦後電通はめざましく進化し、一流のクリエイブを“つくり、世界にも負けない、総合広告代理店となった。一流のクリエイターやマーケッター、SPプランナーなどを揃えてオリンピックやスポーツイベントのプロデューなどなど、他を圧しつづけた。電通にあらずは、代理店にあらずの時代を生んだ。ライバルに博報堂というのかあるが、横綱と小結ほどのチカラの違いがある、博報堂はクリエイティブ志向で、国家権力とは距離を置いた。アブナイものには手を出さない。電通スポーツマフィアという言葉があるたように、戦闘的である。いっとき“電通マン”なる言葉が生まれ、彼らはモテにモテた。(兄弟分も)戦後、善につき、悪しきにつけ、電通なくして国の発展はなかった。電通マンにシャブ中が多いというのは何かの縁だろうか。その電通が政府の命により、何度も国民の大切な金を丸投げされてきた。不明の金の行方へが電通では、「誠実な使用」を生むことはできない。私里見亡きあとたいそう発展したのが、電通である。私里見はそう長くないうちに電通は外資系となる。(すでになっている)里見は軍関係の報道をゴチャマンとある中から、二社にした。国内は共同通信、外国は時事通。それ故に電通の大株主はこの二社である。天下の電通(?)が政府のトンネル会社になっているのは、裏切り行為である。オリンピックで入って来る “甘い汁”を、たっぷりとすっている。電通は人材の宝庫であり、政財界、著名人や有名人、高名な人たちのご子息や、ご令嬢の人質会社でもある。いまさらこんなことは、どうでもいいのだが、国民の貴重な税金を、中抜きするような恥ずかしい会社に落ちてほくしくない。結局電通マフィアに戻ってしまう。中抜きした数十億をバンバン銀座に落としたら、許してやるかも知れない。時価総額わずか7000億位になったということは、手頃な値段で店先きに出たということだ。サイバー・エージェントにも抜かれしまった。この会社のオーナーはジャンゴロ。(プロ的麻雀打ちだ)私里見は魔都といわれ、租界であった上海で、1gの麻薬も動かすことはさせなかった。里見の女であった男装の麗人は、つい十年ほど前まで、鎌倉雪ノ下で天ぷら屋さんをしていた。電通がある限り里見甫は生きているのだ。いろいろあるが、優秀なクリエイターは電通にダントツにいる。そしてOB、OGにも。私里見も電通に多くの友人がいる。たくさん仕事もした。いい人ばかりだった。(文中敬称略)


2020年6月5日金曜日

第75話「私は冗談」

私は「冗談」である。眠れぬ夜は起きていながら夢を見る。恩人から米寿の御祝の写真が送られて来た。みんなはマスクをしていた。先輩からある賞を受賞してパーティを行なった。全員マスクをしていた。知人から新しい家を建てその知らせの写真葉書きが来た。家族みんなマスクをしていた。ある先生が実は愛人が一人増えた、とび切りの美人だからよく見てなと手紙と写真一葉が封筒に入っていた。二人共マスクしていた。後輩から真鶴に釣りに行って、やけくそに投げ釣りしたら、大魚が釣れたと写真と釣り仲間たち、一人ひとりマスクをしていた。久々に銀座を歩いていたら後姿がやけに美しい(?)松屋の信号のところに立ち停って、振り返ったらマスクをしていた。マスクを外した私冗談は持っていたカバンを手から落とした。私冗談の愛すべきクリエイター赤城廣治君が、ずっと熊本城再建のキャンペーン広告をしていると聞いていた。その新聞記事が載っていた。「籠城じゃ」というキャッチフレーズが紹介されていた。熊本城は築城の名人、とりわけ城壁、石垣造りの名人、加藤清正がプロデュースした難攻不落の城、あの西郷隆盛が攻め落とせず。土佐出身の谷干城たちが籠城戦で勝ち抜いた。西郷は加藤清正に負けたごわすと言ったとか。赤城廣治君のこと以外は冗談ですと、私冗談は久々にウイスキーをいつものグラスに入れた。このグラスはいい酒以外は使わない。お気に入りのバカラだ。一昨日ポストの中に、水のトラブルの時にはぜひ、というカラーの名刺と、いい土地買いますと言う、住友不動産のA4三つ折りのチラシ、それと一緒にペラペラっとしたビニール袋、中に政府支給のマスクが二枚入っていた。出来の悪い冗談みたいな気がした。大変お世話になっている歯医者さんが人形町水天宮側で独立開業をした。かねてより開業したらポスターを二点プレゼントすると約束していたので、提案したものを打ち合わせに行った。一点のキャッチフレーズは、「生か、歯科」日本には現在コンビニ以上六万数千の歯医者さんがあるが、くしの歯が抜けるように、一つ、二つ、三つと閉院している。もう一点は「歯医者復活戦」人柄と腕前がよくないとダメ、ただの歯医者さんは、敗者となる。先生の名は「渡邊哲平」さん。すばらしい人格と腕前だ。いい歯医者さんを探している人は、渡邊哲平デンタルクリニックへ。私冗談の名を出せば。麻酔なしで歯を抜いてくれる。(これは冗談)かつて歯医者さんは、いちばんもうかると言われていたが、今は冗談話だ。私冗談もウソまみれの世の中で、何が本当で何が冗談かが、分からなくなった。そうそう松屋のところで後姿だった美人(?)が、何故に振り返ってマスクを外したか、と言えば右手に焼き立てのワツフルを持っていた。マスクを外すと、ギョッギョッと樹木希林さんみたいであったのだ。私冗談の目はすっかり座敷牢生活で、トロくなってしまった。私冗談はマスク大嫌いなので、口を開けず鼻で息をしながら歩いていた。資金はないがやり残した作品をなんとか形にしたい。天才中野裕之監督に、ある作品を再編集をしてもらっている。気に入った原作だったのだが、自分ですっかりストーリーを失った。ヨシ! これだと天才に電話した。さすがに凄い、第一回目の作品が送られて来た。ウイレシイスバラシイと夜遅く電話をした。十年ほど前に奥多摩の奥地で撮影したものだ。人にはあの世に行く前に謝りたい生き物が、必らずいるはずだ。次の世紀新生児はマスクをしたみたいにこの世に出て来るかも知れない。私冗談は本気でそう思った。(文中敬称略)


2020年6月4日木曜日

第74話「私は惜別」

私は「惜別」である。私惜別はコロナ騒動の中で、何人もの知人の訃報に接した。だがどの訃報も葬儀はごくごく身内だけ、決して他県からとか、親しい人々に通夜、葬儀をご遠慮願いたいと記してある。地方から東京へ出て来て仕事をしている者の、敬愛する父母がご逝去しても、我が子は我が親の葬儀に行くことは許されていない。親の死に目に会えないという言葉があるが、親の死に体にも会えないのは、つらいものだろう。私惜別の父の思い出と言えば、裸にされた骨身の体を、亡母と、同居していたおばさんと、お隣りのおばさんとの三人で、遺体を北に向けて、アンモニアかなんかで清めていた。(消毒かも)まだ八才だった私惜別には、よく分からなかった。確か夕方の五時頃から、六時頃にかけてのことだった。当時“死”というものが分からなかった。その後、兄や姉たちが帰って来て、ワァーワァー、ギャーギャー泣いていた。早速葬儀社の人らしき人が、白い手袋と白いマスクをして動いていた。お坊さんが弟子みたいのを連れて来た。葬儀には岡山のおばあちゃんが、夜行寝台“安芸”に乗ってやって来た。正座がつらかった。若いお坊さんがドラをど〜ん、ど〜ん、もう一人が何かをジャラン、ジャランやるのが、おかしくて笑ったら岡山のおばあちゃんに、坊主頭をポカリと叩かれた。自宅の葬儀が当たり前の時代である。花輪が門外に並んだ。生花のゆりの香りが強かったのを今でもおぼえている。私惜別はおそばが大好き。先日よく行く近所の「紅がら」さんが、少しづつ店を開けたというので、息子と孫と三人で昼食をしに行った。辻堂にある“事務キチ”で万年筆のインクを買った後である。クルマを運転してくれた息子が生まれた年に、「紅がら」は開店した。しっかりと造られた民家風で坪庭もよく手入れされ、待ち合い室もゆったりして手が入っている。店内で手打ちをするとこを、ガラス越しに見ることできる。四人掛けのテーブルが五つと、壁側にロングソファーと椅子がけのテーブルが四つある。小上りの座敷には、いつも季節の花が活けてある。長い木製のテーブルが三つある。私惜別には二人の子と五人の孫がいるが、紅がらに行くと、この小上りでよく食事をする。テーブルをある日は二つくっつけて、ある日は三つくっつけた。四十年前に息子が生まれた時、娘は六才、オムツの交換はこの場所で行なった。それからみんなお世話になった。私惜別にとって紅がらは、自分んちみたいであった。テキパキとしたおかみさん、美人の娘さん、そしてやさしいお人柄のご主人がいた。私惜別が行くと顔を出してくれた。先日三人で行くと、私惜別がご主人を知人の写真家で撮影して、後輩にデザインしてもらった、ポスターを持って、娘さんがいらっしゃいませと、近づいていた。美しい顔はマスクでかくれていた。ポスターを持つその顔の目には、涙が浮かんでいた。実は父は四月十五日に亡くなりました。このポスターをとても気に入ってました。今は、あそこにかけて(スタッフがいるところ)私たちを見守ってもらっているんですと言った。ずっとコロナ休業していたので、私惜別もご近所の人も知らなかった。享年八十六歳開店して丁度四十年目だった。へえ〜そうだったんだ。私惜別はずっと座敷牢生活で、外食はしていなかったので、ゴメン、スマナイ、と言った。一度ご主人と話をした時、おそば屋さんの重労働のすごさを知った。「麺環かながわ」というタウン紙の一面に大きく載っているご主人の訃報を、娘さんが持って来て、コピーを一枚渡してくれた。長い間組合の理事長をされていたことを知った。私惜別は合掌した。葬儀は身内だけでそっと行なったとか。私惜別がポスターに書いた言葉は二種類。一枚は「日本人のそばに。」一枚は「ほそくながくでございます。」であった。「紅がら」はとてもいい店。ぜひおそばで、“すすり泣いて”あげてください。

紅がら