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2020年6月4日木曜日

第74話「私は惜別」

私は「惜別」である。私惜別はコロナ騒動の中で、何人もの知人の訃報に接した。だがどの訃報も葬儀はごくごく身内だけ、決して他県からとか、親しい人々に通夜、葬儀をご遠慮願いたいと記してある。地方から東京へ出て来て仕事をしている者の、敬愛する父母がご逝去しても、我が子は我が親の葬儀に行くことは許されていない。親の死に目に会えないという言葉があるが、親の死に体にも会えないのは、つらいものだろう。私惜別の父の思い出と言えば、裸にされた骨身の体を、亡母と、同居していたおばさんと、お隣りのおばさんとの三人で、遺体を北に向けて、アンモニアかなんかで清めていた。(消毒かも)まだ八才だった私惜別には、よく分からなかった。確か夕方の五時頃から、六時頃にかけてのことだった。当時“死”というものが分からなかった。その後、兄や姉たちが帰って来て、ワァーワァー、ギャーギャー泣いていた。早速葬儀社の人らしき人が、白い手袋と白いマスクをして動いていた。お坊さんが弟子みたいのを連れて来た。葬儀には岡山のおばあちゃんが、夜行寝台“安芸”に乗ってやって来た。正座がつらかった。若いお坊さんがドラをど〜ん、ど〜ん、もう一人が何かをジャラン、ジャランやるのが、おかしくて笑ったら岡山のおばあちゃんに、坊主頭をポカリと叩かれた。自宅の葬儀が当たり前の時代である。花輪が門外に並んだ。生花のゆりの香りが強かったのを今でもおぼえている。私惜別はおそばが大好き。先日よく行く近所の「紅がら」さんが、少しづつ店を開けたというので、息子と孫と三人で昼食をしに行った。辻堂にある“事務キチ”で万年筆のインクを買った後である。クルマを運転してくれた息子が生まれた年に、「紅がら」は開店した。しっかりと造られた民家風で坪庭もよく手入れされ、待ち合い室もゆったりして手が入っている。店内で手打ちをするとこを、ガラス越しに見ることできる。四人掛けのテーブルが五つと、壁側にロングソファーと椅子がけのテーブルが四つある。小上りの座敷には、いつも季節の花が活けてある。長い木製のテーブルが三つある。私惜別には二人の子と五人の孫がいるが、紅がらに行くと、この小上りでよく食事をする。テーブルをある日は二つくっつけて、ある日は三つくっつけた。四十年前に息子が生まれた時、娘は六才、オムツの交換はこの場所で行なった。それからみんなお世話になった。私惜別にとって紅がらは、自分んちみたいであった。テキパキとしたおかみさん、美人の娘さん、そしてやさしいお人柄のご主人がいた。私惜別が行くと顔を出してくれた。先日三人で行くと、私惜別がご主人を知人の写真家で撮影して、後輩にデザインしてもらった、ポスターを持って、娘さんがいらっしゃいませと、近づいていた。美しい顔はマスクでかくれていた。ポスターを持つその顔の目には、涙が浮かんでいた。実は父は四月十五日に亡くなりました。このポスターをとても気に入ってました。今は、あそこにかけて(スタッフがいるところ)私たちを見守ってもらっているんですと言った。ずっとコロナ休業していたので、私惜別もご近所の人も知らなかった。享年八十六歳開店して丁度四十年目だった。へえ〜そうだったんだ。私惜別はずっと座敷牢生活で、外食はしていなかったので、ゴメン、スマナイ、と言った。一度ご主人と話をした時、おそば屋さんの重労働のすごさを知った。「麺環かながわ」というタウン紙の一面に大きく載っているご主人の訃報を、娘さんが持って来て、コピーを一枚渡してくれた。長い間組合の理事長をされていたことを知った。私惜別は合掌した。葬儀は身内だけでそっと行なったとか。私惜別がポスターに書いた言葉は二種類。一枚は「日本人のそばに。」一枚は「ほそくながくでございます。」であった。「紅がら」はとてもいい店。ぜひおそばで、“すすり泣いて”あげてください。

紅がら

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