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2018年2月27日火曜日

「東大安田講堂」

40度の熱まで出さなくてもいいが、38度位の熱を今の若い人に出してほしい。
そう語ったのは、かつて東大全共闘の学生が安田講堂に立てこもり、三十八時間の攻防をした、その時の警察関係の指揮官であり、その後連合赤軍あさま山荘立てこもり事件で指揮を執り、あの有名な鉄の球で攻撃をした人間である。今の若者はあまりにも怒りを忘れていると。
二月十九日私の仕事場に防災関係の仕事をしているNPOの代表や、防災用品を販売している社長。大地震に備えて防災の会社を経営している社長。
音楽を通して防災活動をしている音楽出版の会社社長が集った。
そしてもう一人東大全共闘安田講堂立てこもり事件の中で、もっとも激しい攻防をした「列品館」の守備隊長をしていた人だ。東大落域を防ぐために応援にかけつけた。
最強部隊のリーダーであった。
警察の催涙弾水平撃ちが、一人の学生の片目に命中した。
それまでは消防部隊の放水と上空ヘリコプターからの放水、催涙弾は上に向けて撃ち入れていた、が学生たちの攻撃は警察の想像をはるかに超えていた。
私とそのリーダーとの仲は長い付き合いである。
そのリーダーは列品館屋上から片目に催涙弾が命中した、命が危ない、休戦を申し入れると有名な演説をした。取材していたマスコミも休戦させようと声高に叫びを集中した。板のようなものに乗せられた学生は、ロープで縛られ地上に下ろされた。その間攻防は止み正に休戦となった。リーダーだった人はその後四年間前橋刑務所に入所した。学生運動家の中でこの人を知らない者はモグリである。
安田講堂事件で一番長く服役したので、ある意味スターであり、テレビ取材をいくつも受けた。この人は私が幅広く仕事をさせていただいた。大手電鉄系広告代理店の営業やプロモーションの局長になり、やがて系列会社の役員までになって活躍した。「いつの時代も青年が時代を動かして来たんだ、今の若い人は、もっと怒れ」と言う。東大安田講堂事件から五十年近く経った時、いみじくも立てこもった学生側のリーダーと、攻め続けた警察側のリーダーが、同じことを言ってこの世の今を心配する。その頃のフィルムを見た現代の学生たちは、意味がないじゃんと言う。
何も変わらないでしょと諦めているのだ。久々にお会いしたら自分が取材されていたテレビ番組や、ドキュメンタリーフィルムを五本(DVD5枚)持って来た。
家に帰って約四時間半一気に見た。
二枚は今行っている地域防災の活動であった。
根っからの活動家なのだろう。
学生運動も防災活動も正しいと信じて熱血活動をする
私も今防災活動をライフワークにして各活動を応援している。
私とリーダーとは相性が抜群に合う。何故なら共に闘うことが大好きな性分だからだ。防災活動の一番のネックは」やはりお役所仕事とマンション管理組合の問題、それとまさか自分たちが被災することはないという、不思議な安全感と、ややこしいご近所付き合いはしたくないという感情だ。
こういう人たちは、もしもの事が起きた時、まっ先に人のせいにする
安田講堂のリーダーは広告代理店でも抜群の活躍をして、ある年一発数十億の某大手自動車会社のプレゼンテーションに勝った。能書きが多いのが特徴の業界では、プレゼンテーションに勝つことが最大の戦果であり、勲章となる。ちなみに学生たちに攻撃命令を出し、鉄の球を打ち込んで、38度位の熱で怒ってほしいと語ったのが、伝説の警察官僚である。東大OBが東大の後輩たちに徹底攻撃したという劇的なことであった。私は力強いリーダーシップを持つ味方と共に、防災活動にアイデアを提供する。
自助、共助、公助を目指して。大地震は必ず来る。昨日は二二六事件の日であった。


2018年2月23日金曜日

「酒敵と忘憂の友」



昨日 二十二日は私にとって複雑な日だった。
親友の命日であり、愛する孫娘の誕生日だった。
朝仕事仲間と麻布十番「更科堀井」店の前で待ち合わせて、二人で墓を参る。
粉雪が舞っていた。麻布浄苑の納骨堂もは、一体20センチ程の木の仏像がスズメバチの巣のように集合している。
いつもお茶を出してくれるご婦人がいない。聞けば先日急死したとか。仲間二人と「堀井」に戻り、酒を一合交わし献杯をする。午後十二時頃店内はほぼ満席であった。私には大親友が三人いた。
一人は十六歳で出会い五十三年間ずっと付き合った。
六十九歳癌で死んだ。もう一人は、三十二歳の時からの付き合いであった。三十年ずっと付き合った。六十二歳癌で死んだ。そしてもう一人が二十二日墓を参った友である。六十三歳癌で死んだ。一人は酒と喧嘩に明け暮れた最強の友であった。一年中一緒にいた。朝から朝まで。
一人は今いる業界に入った時からあらゆる仕事を一緒にした。
徹夜、徹夜の仲である。私が行き詰まった時、体をかけて救けてくれた。最高の友であった。
一人は私の先生である。ありとあらゆることを教えてくれた。
最愛の友であった。
つまり私は大親友を三人共癌で失った。粉雪はハラハラと舞っていた。
夜孫娘のところに誕生日の御祝に行った。スクスクと成長していて、プレゼントに持っていった服がすでに小さくてパンパンであり、持ち帰ることとなった。
男と男が旨い酒を交わす仲を「酒敵」という。
又、中国では酒のことを「忘憂」という。「忘憂の友」とは、旨い酒を交わす仲の別の呼び名である。
苦あれば楽あり、苦には四苦八苦があり、楽には極楽がある。
二月二十三日、やけに寒い、今夜は誰れを「酒敵」にするか、「忘憂の友」にするか。そんなことを思いながら銀座を歩いて、服を交換してもらった。
亡き母は私がいよいよどん詰まりになった時、こう言った。
「ケ・セ・ラ・セ・ヨ」と。世の中はなるようにしかならない。





※画像はイメージです。


2018年2月22日木曜日

「ある歌人」


絵に描いたような幸せは、実は絵にも描けない。

生きているのがまるで地獄のようだと思っている内は、実は未だ地獄の中ではない。
ある人は言う、大変だ、大変だと言っている内は大丈夫、本当に大変な時は大変という言葉すら出ない。
一人の歌人のドキュメンタリー映像を見た。
早稲田大学文学部を出たその人は、ある会社に入社するが、売上げの数字に追われる日々に耐えられなくなり、退社してタクシードライバーになる。
家には要介護(3)の母親をおいて。
すでに認知症になっていて一人だけにしておくには心配である。
が稼がなければ生きていけない。
五十歳を超えたであろうそのタクシードライバーは、クルマの中から見る、渋谷、新宿、銀座など夜の人間模様や、人間の生態を短歌にしてメモに書く、その短歌が、歌壇で認められ一つの賞を受賞する。
だからと言ってタクシードライバーの日常が変わる訳ではない、母親のために食事を作り、トイレに行くのに間違いがないように導線のロープを張る。
母親は誰も隣りにいないのに何かを語りかける。
タクシードライバーは夜が稼ぎ時、なかなか眠らない母親を一時間以上かけて眠りにつかせる。
ため息ともつかない息をつく、街には雑踏と雑然があり、酔態と俗悪がある。
無言の人々が駅の改札口に向い、その横のビルの中では、フィットネスやランニングをしている。
若い男女は抱き合いキスを重ね、怪し気な中年男は、派手なコスチュームの女性をホテルに誘う。ネオンの花が咲き乱れる中、タクシードライバーは、絵にも描けない世界を歌にして書き続ける。母と息子その血の繋がり、現実は逃避を許さない。
お母さん行ってくるからねとの声をかけるも、母には息子の愛は認知されない。
無言ほど心に刺さる言葉はない。人間ぜいたくを言ったらきりがない。
小さな幸せを大きな幸せと感じて行こう。



※画像はイメージです。


2018年2月20日火曜日

「木材店と梅ジャム」

木曽路はみんな山の中。
こんな書き出しで始まる小説があった。(書き出しではなく文中かもしれない)
この短い言葉に日本という国が森林大国であることをイメージした。
少年の頃住んでいた東京都杉並区天沼三丁目には木材店があった。その頃どの町にも木材店があった。木材の香りは町の香りでもあった。四角い木材はやや斜めに店の前に並んでいた。店の中では何人かのやけに強そうな男の人がカンナで木材を削っていた。男の人の足もとにはカンナくずがクルクル巻きになって落ちていた。男の人は時々カンナを目の前にして刃の出具合いを見てトンカチでカンナの後を叩いた。
材店の中の香りが大好きで私はよく行った。
確か隣りには浜名屋という日本そば屋さんがあり、魚藤という魚屋さんがあった。
その前には大橋豆腐店があり、三州屋という酒屋さんがあった。三原という八百屋さんもあった。
木材店の名だけが今思い出せない。何故だろうか。木材の香りと独特の臭いは憶えているのに。貧しき家でのお使いは、魚藤で魚のアラを買い。大橋豆腐店でおからを買い、三州屋でお醤油を買う。
更に浜名屋でうどん玉を買い、三原で白菜、人参、大根などを買った。
少年の手にはかなり重い。下宿屋みたいに二階の一部を食事付で貸していた。
お金があった頃はお手伝いさんが住んでいたという離れがあり、そこも人に貸していた。
兄姉六人と母、それに下宿人二人分を買った。楽しみは木材店に寄ってカンナくずをもらう事だった。
当時は電動ノコギリはない。腕のいい職人さんたちが削ったカンナくずは、薄く、長く、カール(クルクル)が大きい。食べてしまいたいほどで、まるで上質のカツオ節みたいだった。
カンナくずはたき火おこしに最適であり、ガキ同士が集まってたき火をしてはヤキイモを作った。
日本は世界一の森林国なのに外国から木材を輸入する、特に新建材が輸入されるようになって、木材店は町から姿をなくしはじめた。国の政策がトンチンカンだったのだ。
月六日日経新聞の記事を読むと、林業従事者は4万5千人、25年前の10万人から半減した。
しかも担い手の4人に1人が65歳以上だとあった。
木は成長しすぎれば倒木の危険があり、加工して流通してもコストがかさむ、森林の6割以上は伐採期を迎えているが利用されていない。倒木が進む。
大洪水の時無数の倒木が流れて未曾有の大被害が出ているのは、山を大切にせずに放っておいた無策のせいだ。地方創生というが、その第一は森林創生にあると言っても過言ではない。
いい山は、いい川を生みいい海を育てる。いい海にはいい魚たちが集まる。
いいことばかりなのに何をやってんだと言いたい。かつて木材の下りの勇壮な姿があった。
激流の中、屈強な山の男たちが筏の上に乗り川を下った。今、町には香りがない、風情は何もない。
コンビニだけが異様にある。天沼税務署前にノコギリ屋さんがあった。
オジサンは両足先でノコギリをはさみ、職人さんから頼まれたノコギリの刃の手入れをしていた。舐石屋さんというオジさんが来て、木材店のカンナや、魚藤さんの包丁を研いでいた。
ガキの頃のお使いは重かったが楽しい日々でもあった。
お駄賃の10円を持ってお菓子屋さんで、ソースせんべいや梅ジャムせんべいを買って食べた。
日本で唯一の梅ジャムを作っていた一人のオジサンが16才から始めて70年、遂に引退することを昨日帰宅して知った。レシピは未公開、自分で作り始めたものは、自分と共に終る。
そんな意味のことを梅ジャム生みの親は語っていた。
木材の香り、梅ジャムの味、この国はどんどん大切なものを失って行く。





2018年2月19日月曜日

「男の嫉妬」

この歌を知っている人は、相当に歌謡曲に詳しい。
♪勤王佐幕揺れ動く 空に火を吹く桜島 今に見ていろ イモ侍が……。新川二郎(生死不明)が唄った歌(題名が思い出せない)だ。イモ侍とは薩摩イモを食って育った侍のこと。
歌の主人公は、中村半次郎のちの陸軍少将桐野利秋である。
明治維新(あるいは明治革命)150年を迎えるにあたり、書店もテレビも、明治維新ブームである。書店にはズラリ、ズラズラ西郷隆盛の本が並ぶ。
又、その関係本が並ぶ。私はずっとこんな自論を亡き友と語り合って来た。
明治維新はホモセクショナル的愛情と、憎悪、そして男の嫉妬が生んだと。
佐賀に生まれた「葉隠」の思想と、中国の思想家「王陽明」が生んだ”陽明学”がそのもとである。陽明学とは思想と行動の一体にある。
この思想は男社会にありえる。
葉隠は男子たる者は、朝起きたらその日死ぬことを覚悟せよ、そのために朝カラダを清め、日々洗ったものを身につける。
髪の乱れなども許さないほど美意識を大切にした。
死んだ時のことを思ってのことであった。陽明学は吉田松陰たちを動かした。
高杉晋作、木戸考充たちもその中から生まれた。
薩摩藩には郷中教育という独特の地域教育制度があった。
その中のリーダーが西郷隆盛であり、イモを食った仲が、大久保利通である。
その独特な関係は、親の血を引く兄弟よりも、固い契りの義兄弟というヤクザ者の結束と同じくする。
新選組の近藤勇と土方歳三たちも近い。(思想はなかったが)
三島由紀夫の”楯の会”などは、その典型であろう。男と男の結束は何を生むか、それはある意味男と女の愛情を超えた、ホモセクシャル的なものである。
イモ侍の中に人斬り半次郎と言われた中村半次郎がいた。
後に陸軍少将となり西南戦争を起こす。
又、別府晋介、辺見十太郎とか西郷隆盛大好き人間たちが集結する。郷中教育の中の大好きな兄貴分西郷を、大久保利通は誰よりも愛していたはずだ。
維新を成し遂げたのは西郷と自分だと思っていた。
男の嫉妬は女性のそれよりはるかに恐い。
(近親憎悪)その嫉妬心がやがて西南戦争を生み、(大久保の策略で)西郷大好き結束団を滅ぼした。
桐野自身が西郷を撃ったという説もある。
西郷どんは、誰にも渡さない、オイのもんだと。明治維新ほど男と男の愛情が絡み合った出来事はないだろう。そして公家たちの保身。そのためには、裏切り、寝返りなんでも有り。
岩倉具視は陰謀政治の原型を生んだ。
親分のためなら命を捨てる。兄貴分のためなら命はいらない。
男と男の社会は世界史、日本史の中であらゆる戦争の大因なのである。
その巨大な典型が、ナチスドイツである。陽明学は現在も脈々と生きている。思想とは行動であるとして。
ところで新川二郎の歌の題名は(?)生きていればと願う。
男と女は結合しても、決して結束はしない。
いかなる手段を持ってしても、男が女に勝つことがないのは、男は結束を求めすぎるからだろう。結束は嫉妬によって粉々に碎け散る。週末「流罪の日本史」というのを読んだ。
島流しはどう生まれたか。これから世の会社は人事の季節。思わぬ人が思いもよらぬ所に島流し(左遷)となる。その秘めたる原因が、男の嫉妬にあるのは言うまでもない。
渡邊大門著「流罪の日本史」ちくま新書860円+税。
そう言えば「愛の流行地」なるスケベな男と女の本があった。
渡邊淳一先生の大ベストセラーだった。
ふと思った司馬遼太郎の中にホモセクショナル的なものが色濃くあるのを。
大先生がこよなく愛した小説の主人公たちは、男と男、そして結束と美しき滅びであった。
何もかも自論であり推論である。(文中敬称略)



2018年2月16日金曜日

「映画と信玄餅」



ある会社の新プロジェクトのために、10分位のコンセプトイメージ映像をつくるために、三日三晩三十本ほどの映像を見た。資料探しなのでストーリーは追わない。
確かあの映画のあのシーン、あのカット、あのファッションに、あのメーク、あのタイトルに、あのワインの飲み方、などなど記憶を頼りに思い出し、早送り、停止、メモ、早送り、停止、メモを繰り返す。
0.5秒くらいのカットや、3秒のシーン、5秒の動き、0,8秒の仕草、1.5秒の歩き、4秒のハサミ使いやトルソーに掛けた仮繕い服へのピンワーク。
パンクロックや、R&B、ラップ、テクノサウンドのPV(プロモーションビデオ)やライヴフィルも見た。秒単位を選び出しアタマの中で編集した。
で、昨日演出家にゴッソリ説明をして終えた。
その間「マリス博士の奇想天外の人生」/福岡伸一訳330ページを読んだ。
この企画にいきることを願って。’93にDNAの断片を増幅するPCRを開発して「ノーベル化学賞」を受賞した天才だ。
現在のDNA捜査を画期的に生んだようだ。
(PCRに関しては私のような浅学の徒にはチンプンカンプンである)福岡伸一教授(青山学院大生物学)の文章は何だか分からないことでも、何だか分かったように読ませてくれる。
マリス博士の趣味はサーフィン、数度の離婚と結婚、森の中で聞くフクロウの鳴き声を聞くことも楽しむ。
恋人とデート中にパッパッとヒラメイたビックアイデア。
何でも試してみようとLSD体験。受賞当時「サーファーがノーベル賞受賞」と大々的ニュースとなった。
久々に「プラダを着た悪魔」を見た。アメリカのファッション雑誌の編集長、スーパーブランドブームはこの映画から始まったと言っても過言ではない。
「バレエカンパニー」「ブルゴーニュの森にこんにちは」、「暗黒街」「レディガガ」「マドンナ」「ザ・ヘヴィー」「サーマン・マンソン」「現金に手を出すな」「さよならベートーベン」「ココ・シャネル」アタマの中がまるで、コインランドリーの中でグルグル回るいろんな服のように大回転した。
その結果いい歳をしているが記憶力は未だソコソコ大丈夫だなと思った。
(日常生活においては周りの人々に迷惑をかけ放しだ)つくづく思ったのは外国人たちの編集の上手さだ。
日本の映画界では編集を重く見ていないが。外国では編集がいかにすぐれているかが重要だ。日本の映画界は、アニメ世代、ゲーム世代が映画を手がけるのが多くなった。CG全盛時代なので全てがCG頼り、天才中野裕之さんはじめ何人かの監督は編集が上手い。
「プラダを着た悪魔」は編集を学ぶのには教科書みたいに見事だ。
(映画の内容はともかく)私はやはり旧作の中に映画を感じる。フランスの名優ジャン・ギャバンは最高だった。「現金に手を出すな」の中のレストランシーンは本当にいい、コート姿も。そして主題歌(原題でもある)グリスビーブルースは最高であった。山梨出身のアジアン雑貨のオーナーがお土産で持って来てくれた。
名物の「信玄餅」を食べながら見ていたら、着ていた服にきな粉がボロボロ、ボロボロと落ちた。
でも旨い。このお菓子の包装の手の込みようは、最上の編集に近い作品だ。


※画像はイメージです。


2018年2月13日火曜日

「オーバーコート」



銀座の泰明小学校制服に、ジョルジオ・アルマーニをと、校長が言って物議を呼んでいる。泰明小学校の今を知っているヒトは知っているだろう。
外から見ると廃校のようである。すぐ前にコリドー街、レストランBar、古い飲食街には私が時々行く、「青葉屋」という、スキヤキ・しゃぶしゃぶの店があり、その隣りには故立川談志さんとその一家が通ったBar「美弥」があった。その前の泰明庵というそば屋さんは有名である。小学校の隣りにはBarなどが並ぶ、つまるところ、銀座の片隅の飲食街の突き当たりである。ジョルジオ・アルマーニなんかとても似合うロケーションでない。何しろ狭くて暗いからだ。他のブランドに断られてアルマーニが作ってくれるという結果らしいが、「服育」という言葉には共感する。貧しき家庭に育った私は、兄姉たちが着古したニットを集めて近所の「セーター編みます」の張り紙の家に行って、色とりどりの毛糸で編んだセーターを作ってもらって着た。今ならかなりオシャレだ。又、兄姉が着古した服の切れはしを集めて、「洋服作り直します」の張り紙のある家に行ってパッチワークのような服を作ってもらった。
今なら相当オシャレである。当時は恥ずかしかった。しかし母親の深い愛情を感じた。つまり「服育」であった。一枚の布に穴をあけポンチョみたいにしてデビューしたのが、イッセイ・ミヤケであり、野良着や東北地方に伝わる裂織を生かしてファッション界に新風を呼んだのもイッセイ・ミヤケである。修道院で育った貧しい女の子が、やがて黒い服(修道院で着る服)をオートクチュールとして世界のファッション界にデビューした。葬式に着る服だと酷評を浴びたが、今ではスーパーブランドの中のスーパーブランド、「シャネル」である。古い物を新しくがイッセイ・ミヤケであり、暗い服を斬新にしたのが、ココ・シャネルである。これも又、「服育」であろう。
校長がどこまで分かって服育を語ったかは定かではないが、アッチコチのブランドに断られた末のジョルジオ・アルマーニだとしたら、それはアルマーニに失礼である。
私など下々には手の出ない高価なブランドである。
エンポニオ・アルマーニとか、アルマーニ・エクスチェンジとか、少しがんばれば手の届くファミリーブランドはあるが、ジョルジオとなると別格である。
私の近しい友人は、服はジョルジオ・アルマーニとか、ベルサーチ、時計はフランクミュラー、靴は不明。仕事柄ハリウッドのスターや、それを仕切るマフィア、又日本のトップクラスの芸能人と接する仕事なので、着ている服身につけている品でナメられたら交渉がスムーズに行かない。そのために投資しているのだろう。過日仕事場のハンガーに黒いオーバーコートを私と友人が掛けていた。
渋谷で打ち合わせがあり私は急いでオーバーコートを着て向かった。打ち合わせ先の事務所はまるでホテルのようであり、入り口には厳しいチェックをする受け付けがある。
暗証番号を打ち込まないと鍵は開かない。売れっ子のアートディレクターだけのことはある。そこに電話が入った。もしもし、兄弟、オレのオーバー着て行っているだろう、えっ、と思い脱いだ黒いオーバーのタッグを見ると、ジョルジオ・アルマーニであった。改めて触れてみると、すばらしいカシミアであった。やわらかで軽い。私のオーバーコートの10倍はするだろう。ワルイ、ワルイ急いで間違ってしまった。と言って詫びた。仕事場に帰る時は着ないで手に持って帰った。私は銀座泰明小学校から出て来た、ジョルジオ・アルマーニの制服を着たガキに出会ったら、きっと何かするだろう。(愛情を込めて?)

2018年2月7日水曜日

「店の主人が、店のお客」

昨夜九時半頃、海風が南から北へ向って少しだけ吹いていた。
その風は腹が減ったなと思っていた私の鼻に、ヤキトリを焼くあの独特の香りを乗せていた。万有引力の法則は、男と女が引き合うよりも強く私をヤキトリ屋に引き寄せた。
駅から徒歩約5分。
もうずい分と来ていないなと思いながら、ヤキトリの煙の中に入った。カウンターの右隅に若い会社員、四人掛のテーブル席に少しファンキーな若い男と女性。
二人は並んで座り天井のやや下にとりつけられている小さなテレビを見ていた。マツコデラックスがコーヒー通の男と何やらコーヒー選び談議をしているようだ。
私はカウンター(六人位座れる)の右から三番目に座った。
つまり若い会社員は席を一つ空けたところにいる。一つ空いた左の席を見ると、アレ、アレ、いつもヤキトリを焼いている店の主人が、ベロン、ベロンに酔っているではないか。
薄茶のチノパンに、青と赤のチェックのブルゾン(?)白いダウンのベスト。
メガネのツルが耳から外れている。オジサンどうしたの、はじめてだな主人がお客になって飲んでいるのを見るのは、と言いつつマフラーを外し、オーバーコートを脱いだ。
ヒィック、ヒィックしながら、オスサシビリ(多分お久しぶり)中ジョッキの中には、レモンの切ったものしかない。テーブルの上に一万円札が二枚。
オコラリシャテンノ(多分怒られちゃってんの)ビューインニキョウエッテケタノ、オカネハラウカラナ、(多分今日は病院に行って来た、飲んだ分はちゃんと払う)夕方からずっとヤキトリを焼いていたであろう。
顔中に脂汗を浮き出した奥さんが、無言で私の頼んだレバー、ハツ、ボンジリ、カワ、タン(これだけ塩)を焼いてくれていた。
オジサンはカウンターにうつ伏せになり、すっかり眠っていた。
メガネがズリ落ちて鼻先きに引っかかっていた。
若いバイト風の店員がラストオーダーをと言った。
多分お手伝いのオバサンが若い男から3860円を受け取っていた。私の右横にいた若い会社員(多分)は、すいません、あとコブクロをと言った。
私が煮込みはと言ったら、もう終りましたとオバサンが言った。
オジサンはイビキをかいていた。
二枚の一万円札を左手でしっかりと押さえていた。
オジサンはきっと病院に行って検査結果を聞いて、全然大丈夫と言われてすっかりうれしくなり、絶っていた大好きなショーチューのレモンサワーを一杯、二杯と飲んだのだろう、と推測したのであった。
ヒゲをキレイに剃った顔が青白く、目のまわりがマルマルと赤かった。
オジサンの足もとにモロキュウ(キュウリ)が二本落ちていた。
オジサン良かったな。身長152、3センチ位の小柄なオジサンは、今夜はヤキトリをバタバタと焼いているだろう。
丸顔の奥さんはひらすら無口である。


※画像はイメージです。


2018年2月6日火曜日

「間違ってない人生とは」

奴雁(どがん)この言葉を知ったのは年が明けてからである。
小さな庭にスーパーで売れ残ったリンゴを置いてあげる。冬になると冬の鳥たちが来て、朝早くからリンゴを突っつきまくる。鳥たちはすこぶる用心深く、疑い深く首をキョロキョロと動かす。雁の群れが餌をついばむ時に、仲間が外敵に襲われないように、首を高くして周囲を警戒する。
この姿を奴雁というらしい。冬に来た鳥たちがこの頃一羽だけになってしまった。
毎朝一羽ずつ交代にリンゴを突っついていたのに。一羽の鳥はとても孤独感がある。こんな詩があった。「孤独の鳥の五つの条件」一つ、孤独な鳥は高く飛ぶ。二つ、孤独な鳥は、仲間を求めない。
三つ、孤独な鳥は、嘴(くちばし)を天空に向ける。四つ、孤独な鳥は、決まった色を持たない。
五つ、孤独な鳥は、しずかに歌う。♪~夜が又来る 思い出連れて 俺を泣かせに 足音もなく 何をいまさら つらくはないが 旅の灯りが 遠く遠くうるむよ。
小林旭の「さすらい」口ずさみながら孤独な自分を味わう。
どんなに人にまみれて生きていても、人間は等しく孤独である。
ある大学の精神科医の診察室を訪れる若者は、こんなことを言う。「つらいんです」どういう風にですか(?)と聞いても、「つらいってことです」そして「この感じがとれる薬をください」と。医師は言う、大学生たちと接していると「『私』をどこかに預けている感じがする」、「自分の弱さと向き合うのはとても苦しいことだから、でしょう」これは大学生だけの話ではない。昨日深夜、廣木隆一監督(原作)の「彼女の人生は間違いじゃない」という映画を見た。その後重なり合った新聞を整理しながら、奴雁のこと、孤独の鳥や、ある精神科医の話をつまみ読みした。映画は廣木隆一の世界がヒシヒシと伝わる。
福島県いわき市、原発事故で無人化した町の外。仮設住宅で父と暮らす娘は、生きている存在を失っている。こころの孤独をいやすためなのだろうか、夜行バスに乗って東京へ行く。
目的はデリヘル嬢になるためだ。金が目当てではない。
性的快感でもない。3、11で母を失い、生活を失った虚脱感が全裸の姿に現れる、恋人はいたがすでにいやされない。デリヘル嬢をしている時、よろこぶ男を見て自分の存在価値が、自分の体で分かるのだろう。廣木隆一はこの手の映画を作らせると天下一品である。
かつて「ヴァイブレーター」という名作を生んでいる。
長距離トラックの運転手の孤独と快楽。確かNO.1であった。
小さな庭に置いたリンゴは未だ半分残っていた。
一羽でなく、二羽、三羽と来るのを私は待っている。
小さな池の12匹の赤い金魚はじっとして動かない。
金魚たちも鳥が来るのを待っている。赤い寒椿が見事に咲いた。
植物たちはしたたかに生きていく。地球が隕石で滅びても、わずかな植物は生き残るらしい。


2018年2月5日月曜日

「少年と少女」

「ライオン」という文字を見れば、100人が100人「百獣の王」を連想するだろう。私もレンタルビデオのタイトルを見てそう思った。準新作7泊8日とシールが貼ってある。
文字がよく見えないからメガネを出してよく見てニコール・キッドマンが出ているオーストラリア映画、これは真実の物語というのを知った。130分。他に8本借りた。
二日深夜にその「ライオン」を見た。結論を言う。100点満点で100点の映画であった。本当に泣けた。兄弟、姉妹は他人の始まりという世の中でこんな兄弟、妹がいた。インドの中でも極貧の村に住む、三人の兄弟、長男、次男と妹、父はいない。
母は石を運んで少しばかり賃金を得ている。
兄と弟は石炭を運ぶ列車に乗って、石炭を盗む。布袋に入れてそれを売り、小さなビニール袋に入った牛乳二つと交換して、母のところに持ち帰る。兄はいつも五才の弟を抱きかかえかわいがる。
弟は、兄ちゃん、兄ちゃんと兄に付き従う。盗む、追われる、逃げる、逃げる。この子役が実にいい。懸命に走る姿がいいのだ。ある日駅のホームで兄は弟のために何か食べる物を求めて、ここで待っていな、すぐ戻るからと言って駅を離れる。弟はベンチに横になり、疲れて寝てしまう。
気がつくと兄はいない。兄ちゃん、兄ちゃんと探す。
停まっていた列車の中に乗り、兄ちゃんと叫んで探す。その列車は回送列車であった。空腹の少年は食べ残りのリンゴを見つけてそれを食べる。そして列車は1600キロも離れた駅に着く。物語はこうして始まり、その少年はやがて施設に送られる。その後オーストラリアに住む、金持ちの夫婦にもらわれて行くのを描く。
少年は養子として25年間育てられる。真実の物語だから最後にすべての真実を見せる。本物の夫婦、本物の少年時代と25年経った今、当時の新聞記事やテレビのニュース映像。2018年現在は34、5才になっている。青年となった少年は兄ちゃん、母ちゃんを思い出す。そしてまい日パソコンに向かいグーグルマップで、兄ちゃんと走り回った山道を探す。兄ちゃんと離れた駅の給水機を思い出して探す。石を拾っている、母ちゃんのいた山を探す。インドは広い、インドは深い、インドのほとんどは貧しい。そしてある日遂にグーグルマップで給水機を見つける。山道を見つける。少年の名がインド名で「ライオン」の意味であることを最後に知る。
涙がボロボロと流れた。土曜日息子が来たので一緒にもう一度見た。
映画好きの息子がすばらしい、自分の息子に見せると言った。感動を忘れた人に、ぜひおススメだ。兄が呼ぶ、少年の名は(?)これが劇的である。キャスティング、シナリオ、撮影、文句なし、特に編集はパーフェクトであった。ニコール・キッドマンが実に抑えられた演技で養子を夫と共に育てる役を演じていた。芥川龍之介の小説(10ページ位)に、「蜜」というのがある。
小説家本人とおぼしき男がある日列車に乗っていると、一人の少女が隣の席に座る。小説では小娘。少女の手には網の中に入ったいくつかの蜜柑が入っていた。
男はいぶかしく思った。列車が動き出し、しばらくすると少女が列車の窓を開けた。少女は柑を手にして窓から外へ投げた。畑のようなところに三人の弟たちがいて手を振っていた。
少女はきっと弟たちのために働きに出るのだろう。私は柑を見るとこの小説を思い出す。人間は貧しい方が純粋でいられる。そう思いながら柑を手にした。
(記憶が定かではない)
兄弟、姉妹、みんな同じ母親が生んでくれたのだ。




2018年2月2日金曜日

「僕の好きな先生」

私はブキッチョ(不器用)を極める。その私がキミはブキッチョだねと言った男がいる。
「成城石井」の男である。「成城石井」といえば高級スーパーの見本であり、紀伊国屋と並び称された。
だが八十八店舗あった絶頂期から転げ落ち、2011年に投資ファンドである丸の内キャピタルに買収された。投資ファンドにとって買収した会社は、いわば商品と同じ、すっかり染みついていた汚れを取り、気取りを取り、プライドを取り除き、見栄えをよくして転売する。
リサイクルされた「成城石井」を買ったのはローソンであった。
2014年のことである。業界の大先輩へ人を紹介してくれた御礼に行く途中、青山にある「成城石井」に立ち寄った。スコッチを一本買った。広い店内に見たところスタッフは女性二人とズングリ太った男が白い前掛けをしてレジ側にいた。商品のディスプレイは、辻堂の激安スーパーOKに近いと思うほど乱れている(OKはドンキと同じでそれが戦略である)お客が手にして動かしたのがそのままなのだ。
入り口に果物を高く積み上げていて入店のジャマをしている。
むかしの「成城石井」のスタッフが見たら気を失うだろう。
で、ウィスキーを包装してくれと頼むと、太った前掛け男が包装紙に細長い箱を包もうとしていた。
が、何度やってもキレイに包めない。
とっても気の長い(?)私は本性をムキ出しにして、ブキッチョだな、何回やってんだよ、と言った。
男はすでに一枚、二枚、三枚と失敗をし、手がブルブルと震えている。「成城石井」は人手不足なのであった。
年配のオバサンが私がやりますとピンチヒッター、男はスミマセンと謝ってレジのオバサンと交代、このオバサンが又、やたらセロハンテープを使って包装紙に貼りまくる。
上手な人なら多くて三カ所で十分だ。気の長い(?)私は気の短い男のように、「成城石井」もすっかりダメだね。品川駅の階段下と同じだよと言った。
ウィスキーにはチーズをと思いチーズ売り場に行くと、これが又、バランバラ。
人手不足は私たちも同じなので同情するが、至るところでパートやバイト頼みとなっている。いっそその昔青山通りにあった人気スーパー、ユアーズみたいに過剰な包装をせず、外国みたいに茶袋にバンバン入れて、袋の上を開け放しにしていた方がスタイリッシュである。袋は安い素材でもそれがオシャレだった。
女性たちがその茶袋を抱きかかえていた。袋からバゲットかセロリなんかが二本ばかり出ていた。
VANジャケットの袋も茶袋であり、そこにオシャレなロゴタイプが印字されていた。人手不足は本当に”新国劇”だ。私の家の近くのコンビニ、ファミリーマートに店員バイト募集中の張り紙がある。
バイト代時給980円、それでも人手不足だとなじみのオーナーは言った。
昨夜ピンクと白とグリーンの三色串ダンゴワンパック(三本入)と、杏仁豆腐を買って帰った
ダンゴは父と母、親友二人、兄の写真の前に供えた。杏仁豆腐はその夜お世話になっている会社のオーナーと会食(ごちそうになった)した時、この映画見ておいてと言われた。
86分のドキュメンタリー映画を見終わったら食べようと思った。
広島県因島出身の東北芸術工科大学の先生(教授)「瀬島匠」さんの創作活動を追った作品である。
この作家の作品は”創作活動そのものが作品でもある。
すばらしい、生き方がとにかく明るい。
”が、RUNNERと必ず作品に印すその意味を最後に知った時、杏仁豆腐を食べる気を失った。詳細はいずれ書きたい。
人間は明るくふるまって長く生きるほど、つらいものはない。故忌野清志郎の「僕の好きな先生」がタイトルソングであった。彼も絵が大好きであった。


瀬島匠さんの作品はこちらで見れます。
http://takumi141.exblog.jp


2018年2月1日木曜日

「飛騨高山にて」



辻堂→小田原→名古屋→飛騨高山(打合せ)―高山にてチャーシュウメンをごちそうになり、→名古屋→新横浜→東神奈川→横浜→辻堂。早朝は小田原駅で待合室、大好きな駅弁、”デラックスこゆるぎ”を食した。
「旅芸人の記録」という名画があったが、私も、そのようなものである。
飛騨高山はとにかくラーメン屋さんが多い。今回はここがおススメと調べていただいていた。
「桔梗」という味のある店名のラーメン屋さんであった。
老夫婦と息子とおぼしき男の人が一人、年の頃は三十六・七才であろうか。
L字の形のカウンターに8人程座れる。小上りがあり、4人が座れるテーブルが三つあった。
建築家の先生、建築会社の人二人。広告代理店の人二人、施主の人二人、私の合計八人であった。
カウンターに五人、小上りに私と三人。午後一時少し前。店内は私たちだけで満員のようになった。
それぞれ大きな鞄とオーバーコートやダウンジャケットを脱いで、空いたところに置いたからだ。ラーメンが出来上がる前の話題に、私が待ち時間があった時、前日ある造幣局にテレビが取材に入ったのを見た話をした。新札の一万円がここで一年間に何枚造られるか。輪転機は猛スピードで印刷する。
そして断裁機でズドン、ズバッと断裁されて、刷り立ての一万札のぶ厚いブロックみたいなのができる。
ニセ札ができない工夫のところはボカされる。
勿論カメラが入るには、いくつもの鉄柵のようなところにつけられた厳重な鍵を開けなければならない。
さて、一年間に一万円の新札はいくらかと、造幣局の人に取材者は問われる。
想像もつかない。それじゃ教えます。一年間で12兆8千億円です。
へえ~、うへえ~となった。
私は直感的にソフトバンクの有利子負債14兆5千億円位を思い出した。
つまりソフトバンクは一年間に刷られる新札の一万円札12兆8千億より、2兆円近く多く借金し、利子だけで年間約数千億円を支払っている訳だ。
ラーメンは薄い醤油味、魚系のスープ。
麺は細目のちぢれ系、ラーメンの基本中の基本のようなものであり、ひと口スープを口に入れると旨い。チャーシュウが5枚でこれが実に旨い。
シンプル・イズ・ベストであった。
高山は水がいいので銘酒もたくさんあり、食べ物が美味しい。
飛騨牛店とみたらし団子店が多い。
朝市で有名な川にかかる橋の入り口で、これ以上小さな店は不可能という程小さなみたらし団子屋さんがある、おばさんが一人しか入れない宝くじ屋さんがあるが、それにほぼ近い。
三人でタクシーに乗って運転手さんに、あの店ずーと昔からあるねと言ったら、あの店でビルを建てましたよと言った。
へえ~そうなんだ。
高山の名物店である。
残念ながら団子は食べる時間がなかった。
雨が多い高山は幸い晴天であった。観光客の多くは外国人。
特にアジア系が多い。
最早日本国は中国、台湾、韓国、そしてアジア系を敵に回したら、経済は成り立たない。高山のラーメンに近いなと思ったのは、喜多方ラーメンであった。
天領でもあったから、格式は高い。
プライドもすこぶる高い。京都に近いところがある。
何の仕事で打合せをして来たかは、後日にする。
一人のカリスマと、一人の天才と、大巨匠をプロデュースしている。家に帰って深夜アンジェイ・ワイダの遺作「残像」を見た。いい映画はアタマの中をクリーニングしてくれるのだ。
「芸術とは卓越性だ」と主人公の画家は言った。
「人のやった事をいくらなぞっても、それは技術でしかない」


※画像はイメージです。


2018年1月29日月曜日

「楽するべからず」

「引くな、引くなバカヤロー」オシリを竹刀でバシンバシン、バケツの水をドヴァーとぶっかける。
「引くな、押せ、押せ、引くなバカヤロー」私の仕事場は遠い昔両国であった。
目の前はある相撲部屋であった。仕事でほぼまい日徹夜に近い日を送っていた。
午前四時頃には下の力士たちの朝ゲイコが始まる。親方はとにかく引き技を怒る。
楽して勝つなという事である。
私が相撲をこよなく愛するのは、実にここにある。
楽をするな引くな、逃げるなが私の生き方の手本だった。
私たちは例え何度も競合プレゼンに負けても、着る服や、履く靴やシューズまで変えさせられることはない。ただあいつに頼んでもプレゼンに勝てないとなると、新たな仕事はこなくなる。
私たちは芸を売っているので、お座敷の声がかからないと枕芸者みたいになる。
しばらくぶりにお声がかかった時、受話器に向ってハイ、ハイ、ありがとうございます、としきりに頭を下げている先輩の姿を見て、絶対にそうなるものかと心に決めて来た。
仕事で受けた恩は仕事で返す。
受話器、今なら携帯だろうか、それに向って最敬礼はしない、自分が駄目になってしまうからだ。
ジョージア出身の栃ノ心が平幕優勝をした。
かつて大怪我をして十両へ、そして幕下まで番付を落としたが、消してあきらめずがんばって、幕下、十両で優勝を重ねて幕内に復帰した。
この力士は引き技を使うことがない。
前へ、前へ、なのだ。十両は毎月100万円近く給料などが出るが、幕下は無給、二ヶ月ごとに15万円位の力士養成費が部屋に支払われる。
十両以上は関取といわれるが、幕下に下がるとちゃんこ番(メシがかり)となる。相撲部屋では関取を”米びつ”と言う。つまり部屋が生き残っていくためのメシの糧なのである。メシのことを留置所、拘置所、刑務所では、”バクシャリ”とか”モッソウメシ”と言う。
では学校ではなんと言うかそれは”給食”と言う。
一月二十八日(日)朝日朝刊31面湘南版にかなしい記事があった。見出しに、「給食寂しく 食材高騰に泣く」読めば小学校の給食のメニューの番付(品数)がどんどん減っている。
政府や日銀は景気回復順調と言っているが、国の宝である子どもに食べさせる給食への援助は情けない。2011年、みそ汁と「アジの開き」が出ていたが、アジの値上がりで、14年度は「ししゃもの素揚げ」に。17年度には、みそ汁を豚汁もどきにして、主菜は「ちくわの磯辺揚げ」に。
11年度6分の1カットだったデザートのメロンは17年度は12分の1カットに。
そしてデザートの回数も減る。人気のカレーライスの豚肉は、1人あたり50グラムから40グラムへ。
福神漬けは13年度8回だったが、16年度は1回のみ。神奈川県内の16年度の小学校給食費用は月額平均4,062円、一食あたり243円だった。消費者物価が上がってよろこんでいるのは、政府と日銀だけ。小学校の給食での鉄分や食物繊維は基準を下回っている。
たんぱく質はギリギリとか。各市によって違いがあるが、大差はないようだ。
食い物のウラミは恐い。ママたちを怒らせると恐い。案外こんなことが原因で内閣の支持率は引いて、引いて、どん引きとなる。
留置所とか拘置所、刑務所の方が余程いい食事をしている。だからわざと法を犯して中に入る人間が続出している。
茅ヶ崎出身の序の口力士、「服部桜」は7連敗で入内以来1勝だ。
引くな、引くな、楽をするなだ。
木曜日までは出たり、入ったり、都合により休筆となる。



※画像はイメージです。



2018年1月25日木曜日

「ある確信の数字」

今日一月二十五日仕事でお世話になったある人に誕生日のプレゼントをする。
ある世界の第一人者だ。さて何にするかと昨夜東京発小田原行き湘南ライナーの中で考えつつ、朝日、毎日、読売の夕刊と、愛読紙日刊ゲンダイを読んでいた。クオリティーペーパーの夕刊は50円だが、日刊ゲンダイは140円だ。円が109円台となった。白根山が噴火した。
名湯NO.1、第一位の草津温泉でお客さんがキャンセル続出とか、前々日九段のグランドパレスホテルB1で、後輩の就活に労を尽くしてくれた、友人とその知人の人とお礼の昼食を共にした。(和食千代旧)友人の知人は草津でも有名な旅館(一井)の親類であるとい話をしたばかりだ。
今年は年初からこんな奇跡的な(?)事にであった。
一月七日相撲ノ国一之宮の有名な寒川神社に家族七人でお参りをした。
その帰り何を食べたいかというと、回転寿しと小さな子が言った。一軒目満員、二軒目満杯、三軒目超満員、そうこうしている内に家に近づき、結局近所のおしどり寿司へ。
そして、フライドポテトやとりのカラ揚げなど、一点、二点…。それに一皿、二皿、三皿、とお寿しを頼んだ。私はお茶と巻き物を二皿、小さな子、中二、中三の子は大よろこび、さて勘定となった。
レジを打つ男がバシバシと打つ。レジ機の数字がバンバン増えていく。
そして、チーンと終了。なんと消費税込みで、ジャスト10,000円、おつり0円。な、なんとその店はじまって以来の出来事であって、店の主人らしき人も来てビックリ、その領収シートは今年から大きな手帳にした一ページに貼って、会社の人間に見せて、今年はいいことあるぞと言った。
又、京王プラザホテル南園飲店でお世話になっている方と会食をした、オーバーコート等をあずけたら、セルロイドの黄色番号札、数字が「36」オッ、サブローではないか、それに足して「9」オイチョカブ(花札バクチ)の最強番号カブではないか。(私は「9」の数字を見つける習性がある、(クルマのナンバーとか)昨夜我が社の女性を赤坂のローリーズ(ローストビーフの名店)に招待、オーバーコートとマフラーをあずけると、番号札の数字が、又「36」ヨ、ヨ、ヨであった。ヨシ、今年は勝負運があると確信をした。
さて、列車内で小さなコラムを見つけた。
日刊ゲンダイはやっぱり面白い。一月二十五日生まれの人を紹介していた。
小説家サマセットモーム作家池波正太郎、詩人北原白秋、漫画家石ノ森章太郎と松本零士、人気グループの嵐の桜井翔、美容家の草分け、メイ牛山、ボサノバの父、アントニオ・カルロス・ジョビン。
等々そして、アメリカのマフィアのボス、アル・カポネ、そして、そして、日本国最大の山口組六代目組長司忍(本名篠田建市)と書いてあった。頭の中にパッと誕生日のプレゼントが浮かんだ。
goodアイデアだ。(文中敬称略)


※実際のレシート。


2018年1月24日水曜日

「銀座は白座に」


「私たちは高価な品を売っているのではありません。高級な品を売っているのです。」
広告の本場アメリカのある高級ブランドのキャッチフレーズである。日本には「安物買いの銭失い」という言葉がある。安物には安物の理由があり、最高級にはその理由がある。
30年近く前にある人から頂いたダンヒルのブルーのカシミヤセーターは、今でもプルシヤンブルーのままであり、型くずれもしていない。その間私自身が買い求めた安物のセーターは、何度もイカレポンチとなり捨てた。
ユニクロはユニクロであり、H&MはH&Mであり、ZARAはZARAである。靴下は”靴下屋”という靴下屋(ややこしい)で2足1000円とか、がんばって1足1000円位で履きつぶして来た。革靴はスーツをあまり着ないので、軽いスポーツシューズとかリングシューズとか1足8000円~10,000円を履きつぶして来た。
ワンシーズン持てばOK主義である。
ジーンズも同じだ。が結局は安物買いの銭失いで、高いけどいい物をしっかりメンテナンスしている人の方が、年月を経ると圧倒的に得をしている。
一昨日の大雪の中を、この5文字が通ったら日本中があっと驚くタメゴローのようなアイデアを込めたある箱を、依頼人のところへ届けに歩いた。箱は優秀な我が社のアートディレクターがイメージ通り作ってくれた。
午後九時半頃には銀座を白座にしていた。
隣にあるセブン•イレブンの前には雪ダルマがつくられていた。
傘を決して買わない主義(仕事上雨はロケを中止にするので、縁起悪いので持たない)丁度打ち合わせに来てくれていた、ウェブデザイナーの方が白いビニール傘を差して、箱の入った大切な袋を雪から守ってくれた。
すでに人影はなくフツーなら10分位のところに行くのに20~30分はかかる。
タクシーは来ない、オッ来たと思うと迎車のランプ、二人でズブズブと雪の中を行軍する。
黒のオーバーコートは、白のオーバーコートになっていく。
水分を含み重くなる。オッ開いててよかったデニーズだ。朝から何も食べてなかった。
四つの仕事を朝早くから一日中打ち合わせをしていた。
狭い狭い仕事場に依頼人が来ては帰った。私は大きなビル、広いオフィス、沢山の人がいる所が大の苦手なので、(はじめて入った会社が百貨店だったのでトラウマがある)ひたすら狭さを好む。
で、雪中行軍をした。
デニーズでコーンスープの暖かいのをスプーンで口に運びながら、足先がまったく冷えてないのに気づいた。
そうかヨージ•ヤマモトの靴下だからだ、過日経理担当の女史からヨージ•ヤマモトのソックスを頂いた。
多分1足4000円位はする高価な品である。
素材は厚いが柔らかく実に気持ちよくフィットする。
ホットしてフィットなのだ。靴下屋の1000円とはやはり物が違った。
それと先日仕事場の側にある、PATRICのシューズのあかげだ。
安物が破れてしまった。
シマッタ今日は夜お客さんと会食、その店は靴を脱いで上がらねばらない。
その手の商売の人は脱いだ靴、脱いだコート、持って来た傘で値踏みをするという。
ヤバイ破れている、が時間はない。PATRICはいいシューズだが高い。仕方ないと思って買った。これがまるで紙のように軽くてジャストフィット。
そしてこれもホットしてフィット。水分を全て弾いてくれて靴下まで染み込まない。軽いトレッキングシューズであった。傘を差し続けてくれた人には、ビーフシチューとビール中ジョッキを。
やっぱりいい物をいい値段で買った方がいいのであった。その後家に帰るまで苦難は続いた。今週末から月末まで、出張が何回かある。400字のリングは途切れ途切れとなる。
昨晩一合の酒を飲む。「♪~風が呼んでいる マイトガイ」小林旭の唄う声が聞こえていた。雪の白座はなんともいえぬほど美しかった。


※画像はイメージです。






2018年1月23日火曜日

休筆



本日は昨晩の大雪の影響の都合で休筆します。

みなさん足元にくれぐれもご注意を。



※画像はイメージです。


2018年1月22日月曜日

「凄い人、嫌いな人」



私はこんな人たちを尊敬し、心から憧れる。
人間はこうありたいと思う。で定年になった後、3年かけて日本百名山を上り続けて、ついにあと一つの山となった人。
その登山とは遂に世界30カ国の深い深い洞窟に20日以上かけて下り続ける人、51才。片や頂上を目指し、片や地底を目指す。
世に博士はいくらでもいるが「大博士」の称号を手にした人がいる。
1997年に始まり約50万人が受けた歴史上初の人。
この人は日本史検定の1級に、10回合格すると得られる「大博士」となり、6年前日本史に続いて世界史でも獲得した。
電気機器会社で働きながら、平日は2~3時間、休日は15時間以上学び続けた。
78才の人だ。
80才から連載を再会するマンガ家の人。
83才で絵本を出版する人。
昨年97才でこの世を去った。
「囲碁の神様」の妻であり、囲碁八段の人は90才だが、公式戦の大局を続けている。
番付の差一枚が天と地の、十両と幕下、その境界線を何度も転げ落ちては、はい上がった力士、その数7回。
会場8度目の十両へ、給料がもらえる関取りとなった。
もっと凄い力士がいて、入内以降1勝しかできていない。
確か1勝70敗の序の口力士である。
茅ヶ崎出身の服部桜、人間はやっぱりすばらしい、その強い意思に感銘する。
その一方私が気に入らないナルシストの物書きがいる。
その名は、「五木寛之」21日(日)の新聞にトーハン調べのベストセラーランキングが載っていた。
一位五木寛之「孤独のすすめ」、四位五木寛之「健康という病」、八位五木寛之「百歳人生を生きるヒント」なんと三冊、この老物書きは、人の心のすき間を書き、講演して荒稼ぎをする。
かねてより「生きるヒント」とか「大河の一滴」とか、中味はほとんど同じものを手を変え、名を変え、出版社を変えて、人の悩みにつけ込む。
ずーとむかし、ある航空会社のキャンペーンを頼まれた時、仕事を依頼するために、氏の常宿である■のプリンスホテル(当時)に行った。
一階のカフェラウンジで待たされること6時間であった。
何とかは仕事を引き受けてもらったが、長く待たせて悪かったの一言もなかった。
それ以来私はアンチ五木寛之である。
使い切れないほど印税が入っているはずだが、世のため、人のため、特に老人のためなどに使ったという話は聞いたことがない。
その程度の物書きである。
これからでも遅くない、ソロソロあの世は近い(否こういう人は100まで生きる)と思うから、五木寛之財団でも使って若者たちの明日のために使ってほしいと願う。
「青春の門」で売り出したのだから、青春の門を広げてくれよだ。
昨日元東大教授の論客西部邁が多摩川で入水自殺した。
四年前に愛妻を失ってから、死を覚悟していたようだ。
男は女性に比べて孤独力が断然弱いという。
女性は厄介な男があの世に行ってくれると、断然元気になる。
保守派の論客の冥福を祈る。
「朝まで生テレビ」の常連であった。
(文中敬称略)


2018年1月19日金曜日

「ドライフルーツ&カナヅチ」


一昨日朝八重洲口にある黒い高層ビル、鉄鋼ビルで新しい仕事の提案をした後、日本橋三越の菓子売り場に行った。
目的は昨年末友人から教えてもらったドライフルーツを買うためである。そのドライフルーツは円形でやや小型のピザ位の大きさであった。
いろんなフルーツがこれでもかとギッシリせめぎ合っている。
まあこれならあっそうで終りなのだが、なんと銀色のカナヅチが一緒にパッケージされている。
このドライフルーツはそのカナヅチでぶっ叩いて割りながら味を楽しみ、大・中・小の割れた破片を味わうのであった。Tの字型の銀色のカナヅチの叩く部分は二カ所あり、それぞれイボイボ状とギザギザ状になっている。透明な袋の中に入っているドライフルーツをこのヤローとばかり叩いて割る。これが実に美味しいのだ。家族全員で叩いては割り、叩いては割って食べた。
でこれをある人、ある方、あるところへプレゼントしてあげようと思った。
日本橋三越本店の本館菓子売り場を探し求めたが見つからない。ここでしか売ってないと聞いていたので探し続けた。老舗のブランドがズラズラと並んでいる。室町時代からとか、江戸、明治、大正創業という店と共に、新しい味を追求したロールケーキに大行列、マリーアントワネットが食べた(?)というフランスチョコ大賞に中行列、その他にもいろいろに小行列、次の打ち合わせがあるので教えてくれた人に電話をした。
もしもし、どこにあんの、いくら探してもないよと言った。相手はちょっと切って待ってという。
そして電話が来た。もしもしすごく小さなショップで見逃しているのでは、なんか英語で FRUIT & NUTS という文字があったけどと言ったら、そうそうそこですよとなった。左右1.5メートルくらいのショップに二人の女性、あのトンカチというか、カナヅチで割るドライフルーツあると聞いたら、一月十日で終売になりました。テレビで紹介されたら一気にお客さんが来て品切れとのことであった。二人の女性はスミマセンと言ってくれた。あのさドライフルーツを叩くのに使ったカナヅチというかトンカチは何に使うんだろうねと言ったら、そうですねトンカツとかビーフステーキを作る時肉を叩いて使うとか、そう言って苦笑した。
よしそれじゃ、それと、それと、それをチョーダイ、家に持って帰って冷凍庫でカチンコチンにして、家にあるカナヅチでぶっ叩いて食べてみるわと言って、小さな袋の中にあるドライフルーツを買って三越を後にした。バカな冗談を二人の女性に言ったら、二人は声を出して笑った。友人はちゃんと電話を入れてくれていた。きっと人相の悪いヤクザみたいなのが行くからと(?)。
菓子売り場はアートギャラリーみたいで、アイデアの宝庫だ。それぞれの店が温故知新を大切にとか、頑固一徹や、この道一筋にかけている。オッ、鎌倉名物”鳩サブレー”に小行列ではないか、江の島のタコせんべいとか、シラスせんべいがあればと思った。

2018年1月18日木曜日

「ピンクのポッキー」

私が大好きであった元ブラジル代表のサッカーのスーパースター、ロナウジーニョが引退との記事を昨日の夕刊で知った。芸術的な出っ歯で、芸術的なプレイをした。37才であった。スペインの最強チーム・バルセロナに所属していた時、04、05年に国際サッカー連盟(FIFA)の年間最優秀選手に選ばれた。ドリブル、パスワーク、そしてアタッカーとして天才であった。
私はどのプレイより、彼の出っ歯を愛していた。
日本に来ねえかなと期待している。私の住む茅ヶ崎を選挙区にする、河野太郎という私の期待していない政治家が、外務大臣になったと思ったら専用機を買えとか、自分がかつて外務省を害務省と言って人員を減らしたが、外務大臣になると、減らしたのは間違いであった。だから人員を増やせてくれと言う。昨日はカナダで行われた国際会議で世界の流れは北朝鮮と話し合い融和しよう。
あるいは脅しつつ仲良しになろうぜと話したのに、本当は出席することはないと思っていたが、日本だけが蚊帳の外におかれるとあわてて出席した。そして圧力、圧力、制裁を主張して、やっぱり蚊帳の外となった。茅ヶ崎市のために何もできない人間が、国を背負える訳がない。父親河野洋平にはある主義を感じたが、河野太郎は体制主義者だ。私の知人の市会議員たちはみんな子分だが、この親分は(?)(?)(?)だ。次の総理大臣候補だなんて言う実力者がいてヨイショする大新聞も多い。冗談もホドホドにだ。
茅ヶ崎市の一人としてまことに恥ずかしい。
先進国のクオリティーペーパーの会長や社長が、公然と大統領や首相と夜毎会食する国はない、日本しかない。それ故インポのチンポみたいな記事しか書かない。東京新聞と日刊ゲンダイは気合十分だ。雑誌ならFACTA か選択だ。(この二誌は年間契約しないと読めない。)右翼系の人にも気合の入っている雑誌がある。
かつて銀座数寄屋橋公園交差点に一年中(正月はいなかったと思う)赤尾敏という愛国党党首が熱弁をふるっていた。
フラフラとする老人となりながらも熱弁する姿に、街宣車の対面(トイメン)の交番のお巡りさんも、思わずよろける体を支えていた。赤尾敏が遂いに死した時、共産党の人間が一年中欠かさぬ街宣運動と熱弁に、見ならうとこありと、語り合ったという伝説もある。左でもよし、中間でもよし、右でもよし、主義主張を発する熱量を出し合ってくれよと願う、但しテロと暴力はダメ。
民進党や希望の党、社会党や自由党、まるでダメ連中。正月レンタルして来た映画に「帝一の國」(だったと思うオムニバス型式だった)という映画で、高校の生徒会会長を選ぶドタバタ、ゴチャゴチャ、イライラ、ムカムカする生徒たちの姿を、喫茶店のマスターの目で語る作品があった。菅田将暉がやはり群を抜いて良かった。
350億円以上の政党助成金が今年も支払われる(共産党と日本のこころ以外)支持率1%とか、0.5%とか0%にも数十億、数億円が税金によって支払われる。
こんなバカな国は地球上に日本しかない。
帰宅する夕刊を読みながら、そんなこんなを思った。
ウルセイナ、やけにいろいろ臭せいな、そうか熱海行であった。
私の隣の32才位とおぼしき女性はクリアアサヒという第三のビールを飲みつつ、ピンクのポッキーをなめつつかじり、スマホを見てグスグスと笑っていた。
光る画面にお笑い芸人たちがなんとなく見えた。
しっかり顔を見たら、あまり美人でなかった。
私は腰を浮かし窓側におしりを動かした。
家に帰ってロナウジーニョの録画映像を見ようと思った。
(文中敬称略)



※画像はイメージです。

2018年1月17日水曜日

「小説とは」

あなたは昨年の芥川賞作家、直木賞作家を憶えていますか(?)私は忘れています。昨日両賞の受賞者が発表になった。正直私には興味はない。
とはいうが私は天邪鬼なので隠れて読むかも知れない。芥川賞も直木賞も無理矢理年二回も審査して、受賞者を出して書店を活気づけようとしているのに過ぎない。
かつて太宰治は審査委員の文豪に、「どうか芥川賞を私にとらせてください」そんな手紙を書いた。
それ程文学を志す作家にとって欲しい賞であった。
受賞作なしということも多くあった。
活字離れの世の中は出版不況となり、無理矢理かさ上げした文学が世に出て、かえって文学離れしたと私は思っている。マンガ家や劇作家の作品の方が、発想が斬新であり、空想と奇知に富んでいる。
そして人間の抱えている重大なテーマに取り組み、そしてその先きを、暗示している。
文学を超えてしまっている。
昨夜帰宅した後2012年にBS TBSで放送された、作家開高健のドキュメンタリー番組の録画DVDを見た。
竹籠の中に取って置きのDVDがゴッソリある。
吉本隆明、小田実、遠藤周作を前日、前々日と見ていた。
で昨夜は、開高健が生前モンゴルの河に大魚”イトウ”を追い求めていた地を小林薫が訪れる。
河は厚く氷り、小林薫は宇宙旅行士みたいになる防寒服を着ている。このDVDは数度見ている。
このところどんどんオバカになっている自分を感じ、アタマの体操をする。
脳内が煮過ぎたおもちみたいにグニャグニャになっている。インプットをしないと、アウトプットは出来ない。「美と巨人」「美の壷」「日曜美術館」「Eテレ特集」等々、竹籠七個分を一気に見て行く。
さて、二時間の開高健のドキュメンタリー番組の中で、小説とは、という問いに、開高健が答える場面がある。「人間は変わらないが、人間の言葉は変わる。

小説家が100人いれば100人の小説がある。
それが何かとひとつの言葉で言うなら、それは、”助けてくれ”だろう。
小説家はあらゆる小説の中で、助けてくれを書いている」とまあ開高健先生はこんな意味のことを話した。
五十八歳没。
今の時代に生きていたらどんな小説を書いただろうかと思った。
開高健はベトナム戦争の戦場に従軍記者のように行き、200人の大隊が17人になってしまった壮絶な体験をして、精神を病んでしまったのだろう。
猛烈な躁と鬱を公園のギッタン、バッコンのように繰り返した。
作家をこよなく愛し続け応援をした、盟友の広告代理店の社長に死の間際小さなメモ書きを渡した。
翠国飲店の飲茶と震える字で書いた。
グルメにしてグルマンの開高健は、何より飲茶が好きだったと盟友の社長は語った。元サントリーの宣伝部制作室長だった床波氏は「闇の中の蛍」みたいな人だと語った。
今の世の中どうだろうか、みんな、”助けてくれ”と言っているように私には思える。
改めて芥川賞、直木賞のお二人におめでとうと言いたい。
若者よ恋に火となり、愛に炎となり、合体して燃え尽くせ。そして文学に挑め。彼の国の病的な大統領がまい日のように、世迷い言を発している。
どうしようもないバカを相手に”助けてくれ”とみんな思っているだろう。
我が国にも、隣国にもそれに近しい者がいる。
ハワイでは先日ある警報にみんな助けてくれとパニックを起こした。(文中敬称略)



※画像はイメージです。


2018年1月16日火曜日

「400字のリング開始」

二〇一八年一月十五日「400字のリング」のゴングを鳴らした。元旦から四日間、正月休みを取り五日から仕事を始めた。本年の自分への言葉を二日に書いた。
「鬼にもなり、仏にもなる」プロとして受けた仕事は、依頼人の期待以上に応えなければならない。年の瀬三十一日仲宗根美樹の名曲「川は流れる」を聴いた。♪~病葉(わくらば)をきょうも浮かべて 街の谷 川は流れる ささやかな 望み破れて 哀しみに 染まる瞳に たそがれの水のまぶしさ ♪~思い出の 橋のたもとに 錆ついた 夢のかずかず ある人は心つめたく ある人は好きで別れて 吹き抜ける 風に泣いている ♪~ともしびも 薄い谷間を 一筋に 川は流れる 人の世の 塵にまみれて 嘆くまい あすは明るく/思うところあり禁酒をしている。
禁酒を余儀なくされた数値はすでに正常値になっている。年の終りいつも一緒に飲み明かしていた友人に電話をすると、一人しみじみ飲んでいるとのことであった。
故郷には帰らず正月を迎えると言った。夜の街で働く女性たちは、年の瀬は嫌いだと言う。
何故なら男たちが正月家族揃って、幸せ気分になっている姿を考えたくないからだ。病葉とは傷つき破れた落葉のようなもの、女性たちは、街の谷から離れて正月を迎える。大晦日TSUTAYAに行き、旧作、準新作、新作など17本の映画を借りて帰った。十四歳で酒の味を知ってから、はじめて酒を飲まない正月であった。
20年近く悩み続けた目のチカチカがドライアイでないことを眼科に行って、いろいろ検査してもらって分かった。
今までキタァーで有名な目薬をバンバン眼の中にさしていたが、医師からかえって悪化させたと言われ即やめさせられた。検査の結果は、両目ともにアレルギー性結膜炎であった。
二種類の点眼薬を、四時間ごとに使用するように言われ実行を開始すると、かなり眼が楽になって来た。正月の三日間で見た映画の中で、「アズミ•ハルコは行方不明」「お前はまだグンマを知らない」「きょう会社やめました」「裏切りの街」この四本が良かった。
キネマ旬報のベストテンが発表された。
私のNO.1は中村高寛監督の「禅と骨」であったが、NO.2と思っていた若き詩人の”最果タヒ”原作の「夜空はいつでも最高密度の青空だ」が第一位であった。
リトルモアの孫家邦さん製作、この人はもの凄い。
今大評判の辞典づくりをテーマにした「舟を編む」でNO.1を受けている。恐るべしである。渋谷で行われた試写会に友人三人と行った時、入り口で名簿をスタッフとチェックしながら、一人ひとりあいさつをしていた姿を思い出した。蒼井優が秀逸だった。池松壮亮も菅田 将暉に負けずいい俳優だ。
「裏切りの街」という映画で、出会い系サイトで知り合った四十歳の人妻と不倫をする。
寺島しのぶも良かった。不倫の舞台は”荻窪”であった。
荻窪はラブホテルがほとんどないところである。
十二月三十日お墓参りの帰りに春木屋に寄り、”チヤシュウワンタンメン煮卵付き”を食した。やっぱりラーメンは荻窪だ。400字のリングに立った今日、アタマの中にやりたい映画が何作か浮かんだ。資料で入手した。ザ•へヴィーの日本での野外コンサートのDVDをガンガンと見て聴いた。
ボブサップのような黒人ボーカルが圧倒的であった。
「SAME OL’」と叫ぶが、その意味が英語の辞典コンサイスを開いて調べても分からないのであった。やはり英語は大切だ。友人のピート小林氏が独特の教え方講座をやっていると年末資料を送って来た。
カクテル作りの名手だが、コピーライターの名手、英会話の名手でもある。諸兄よ学びたまえ。
「鬼は人になれないが、人は鬼になれると言う。」あっと驚く作品を今年は続々と世に出して行く。
ボロボロの病葉になる覚悟である。誰もやらなかった事をやる。
最後に17本見た映画の中で外国作品のNO.1は、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」これは鬼も泣く。
すばらしい映画だ。