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2018年3月30日金曜日

「四万十映画祭」



3月23、24、25、26日と、高知県四万十市に行って来た。
2015年に製作した短篇(27分)映画が、第三回四万十映画祭の短編部門にノミネートされて、それに参加するためであった。出品数38作品の中から最優秀賞、優秀賞、観客賞が選ばれる。長篇部門もある。今、日本中の地方都市は衰退している。高知には多くの映画館があったが、今は姿を消した。四万十映画祭も第二回以来開催ができなかった。資金集めや、行政との問題、四万十市の人々との問題や商店街との問題などなど、いろんな問題をクリアしなければならない。四万十市までは、龍馬空港から8人乗りレンタカーで約二時間半、途中で一服すると三時間余りであった。23日にINする人、24日にINする人、なんと25日に来た出演者は、平塚⇔羽田⇔龍馬空港⇔四万十市という弾丸日帰りをやり遂げた。自主映画のため自費参加なのだが、この出演者は(若い衆役)通常は鍼灸、マッサージの先生を仕事としている。リハビリをしている患者さんたちにとって先生が来てくれることが何よりのことなのだ。で、日帰りとなった。滞在時間わずか一時間半ほどであった。一度だけ出演した映画であり思い出深い、一目だけでも皆んなに会いたいと。監督の寺尾学ぶさん、プロデューサーをしてくれた奥野和明さん、上原有美さん(25日戻り)、カメラマンの河西宏一さん、主役の指宿豪さん、リヨン樺澤さん(前橋から来た)アートディレクターの前島一郎さん(25日戻り)そして、本作品に出資もしてくれて、若頭役を演じてくれたコピーライターの赤城廣治さん。この旅の全てのコーディネートをしてくれた、小社、経理の正田智美さん(25日戻り)それぞれ多忙の中参加してくれた。25日ノミネートされたスタッフやキャストが、この映画祭名物の、四万十川にかかる「沈下橋」上に敷かれた200メートルのレッドカーペットの上を礼服で歩く。(雨、風の場合は危険なので中止)皆モーニングやビシッとしたスーツで歩いた。(私は遠慮した)天気はこれ以上なく晴天、風はそよそよと春風、四万十川は堂々と流れていた。スギ花粉が多いのが予想外で、花粉症の酷い人はグション、グションになってしまった。奥野和明君はこんな過酷なドライバーをこなしてくれた。大阪→龍馬空港→四万十市。四万十市⇔龍馬空港⇔四万十市⇔龍馬空港、そして大阪へ。オツカレさん、ありがとうであった。嬉しいことにかつて小社にいた、門田プロデューサー親子5人が家族旅行をかねて埼玉県入間市から来てくれた。門田剛というこの男は今、「いち」という飲食店を経営して10数人のスタッフを動かしている。フグの調理までできる。いつ会ってもニコニコしている。会いたかったんですよと言ってくれた。映画製作にあたり、缶詰や食品を用意してくれた。更に製作費まで。25日5時過ぎから長篇、短篇部門の授賞式であった。厳正な審査であったと、経過を委員長が語り、元ミス高知のアナウンサーから発表があった。結果短篇部門の最優秀賞(グランプリ)を受賞できた。「寺尾学ぶ監督」が壇上に上がり、立派なトロフィー、表彰状、賞金を授かった。スピーチがとてもよかった。映画は映画バカしか作れない。夜は主催者の人たちがパーティーの席を用意してくれていた。私たち映画製作者より、この映画祭を何年もかけて実行した多くの人々の街おこしへの熱情と細やかな心くばり、街の人々のやさしさに最大限の敬意を表したい。この事については後日記す。もう一つ嬉しいことに元東急エージェンシーのクリエイティブディレクターだった、福井正文さんが(高知在住)はるばると来てくれた。この人についても後日記す。24日夜、ブリのシャブシャブ、カツオの塩たたき、最高のサバの刺身などを皆で食した。今年は土佐が生んだ坂本龍馬たちが成し遂げた明治維新150年の記念の年であった。四万十市長が四万十から世界へと語っていた。地方創生は全然進んでいない。

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