アメリカの作曲家、ジョン・ケージ〈4分33秒〉は、ステージにでてきた演奏家が、一定時間、音を発しない。何も発さないという指示が書いてある。この作曲家は現代の音楽やアートに大きな影響を与え続けている。例えていうなら、一冊の本を読んでいたら、突然何も書いていない白いページが続く。一本の映画を見ていたら、突然画面が白くなりそれが続く。気短いヒトならすぐに出版社に電話をして、オラー、なんて本を売ってるんだよ、バーロ、何も書いていないページがあるんだよと怒る。又はオリヤーと映写室に行き、何やってんだよ、映画が切れちゃったじゃないか、俺の大好きな女優がちょん切れるなんて許せない、と涙声となる。芸術は奥深い、ジョン・ケージは、突然音をなくすことによって、「無」が生む「有」を表現したのだろう。(と私は思う)無はざわめき、ときめき、予期し予言する。人生という旅をやっていると、この無の状態がある。ざわめかず、ときめかず、予期も予言も出てこない。オーケストラの演奏者が、突然何も演奏しなくなったシーンを想像してほしい。ジョン・ケージの楽譜はアートの作品でもある。人間が一人生まれると、基本的にその日は誕生日となる。私が尊敬していた義兄は一月一日元旦に生れて、元旦にこの世を去った。私たち夫婦の仲人をしてくれた恩師も同じで、一月一日元旦が、誕生日で命日である。私は、人間の死を次の人間へ生まれ変わるまでの、無の状態と思えばいいと思っている。ジョン・ケージの曲のように。亡き私の母は今は誰かになって生まれ変わっているかも知れない。父も、兄も姉も、大恩人、大親友も桜のように散った恋人も、きっと誰かに生まれ変わっているのだと思うことにしている。奇蹟的に生まれた生命は、奇蹟的であるはずなのだ。その日私は大船駅に停車している列車の中から、愚妻に電話を入れた。その日は一年に一度だけある私の生まれた日だった。愚妻はジンギスカン、ジンギスカンが来ているわよ、と言った。息子たち孫たちも待っているわよとコーフンしていた。何! ジンギスカンが来た、蒙古襲来ではないか。弘安の役、文永の役ではないか。時は鎌倉時代であった。歴史的には“元寇”という。日本人にとってジンギスカンといえば、札幌のビール園でのビールとジンギスカンか、元寇である。落ち着けと愚妻に言って家に帰った。とそこに大きな箱が二つ、重いかなり重い。伝票にジンギスカンとか、鉄鍋と書いてある。貧しき家族一同、その箱を開けると、ジャーン、バァーン、ガァーンとビックリ、札幌のビール園がそのまま入っているではないか。たくさんのマトン、マトンといろいろ、そして立派な鉄鍋セット、小樽“北一硝子”の美しい切子のグラスセットまで。かなり遅く帰ったが、ジンギスカン大会の火は切って落とされた。そして2回に分けることにした。一回目のマトンの香りが家中にただよっている。今日は土曜日二回目を開催する。時ならぬ、弘安の役、文永の役である。フビライ・ハーンが日本に襲来した時は、神風が吹いたと歴史にある。私のような人間のために気をつかってくれた、北の家族に神風が吹くことを願って、バクバク食べる。このところやたら人を刺したり、火をつけたり、なんとなく人を殺したかったから、などと言うブッソウな事件が連発している。栄養学的には、“カルシウム”不足なのだ。“小さな魚”を小さい頃から食べさせないさせなくなった。ニボシ、チリメンジャコ、シラス、コウナゴなどだ。カルシウム不足は気が短くなるらしい。最もいちばんの原因は、“無”を楽しまなくなった。一日中ネットとつながっている。起きている間、ずっとネットと関係を持っている。ボ~とする貴重な時間を持っていない。「失意の人は、同類を救う」という言葉がある。ネット上でつながり、言葉はエスカレートする。「愛の中にはつねに狂気が潜んでいる。その狂気の中には、いつも理性が潜んでいる」と、かのニーチェは言っている。理性は私には途方もなく縁遠いが、この頃は、ムッとしても、グッと我慢することができるようになった。赤坂に“塩野”という和菓子屋がある。ここの紅白の大饅頭は、縁起が良く御祝いの品として名高い。一昨日ある方の御祝いに予約しておいた品を取りに行った。長椅子にマスクをして座っていたら、ケータイに電話が入った。で、ついマスクを外して話をつづけていたら、オトコのお客が、スミマセンマスクをして話すか、外に出て話しをと言った。むかしだと、何んだと言ってたはずだが、コロナは私をオトナにした。オオ、_ゴメンゴメンと言って店の外に出た。三十六、七歳の長身の男が買い物を終えて外に出て来た。私がオッと手をあげると、チョコンと頭を下げた。血を見なければ治まらない時代の中で、衆議員選挙が始まる。子どもにはカルシウムを、選挙には清き一票をだ。私は今、“無”の境地を探している。数字の「0」ゼロを発見したインド人は偉大だ。ゼロは全てを無にしてくれる。あらゆる数字、忌しい数字もゼロに掛ければ「0」ゼロ即ち無となる。現代人に今、大切なのは「無の価値」だと思っている。インドは数学の大国でもある。10000000000×0=0
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