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2021年10月30日土曜日

つれづれ雑草「杉並で、清き一票を」

1028日、理由があって仕事仲間と共に、東京都杉並区阿佐ヶ谷に行った。私は、幼、小、高、十代を荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、中野で忘れ得ぬ日々を送った。中でも荻窪、阿佐ヶ谷では人生の根っこを憶えた。151617と私の人生暗かったと歌ったのは、故藤圭子だったが、私の141516は思い切りオモシロかった。野球少年であったが、故鈴木清順監督の名作「けんかえれじい」でもあった。先輩から酒の味も教わった。いざという時逃げる男、絶対逃げない男。喧嘩三昧で本当の友情を知った。怪我をすると阿佐ヶ谷の河北病院に行った。日本三大七夕祭りといえば、平塚、阿佐ヶ谷、仙台である。一番街は高円寺までつながっていて、大、中、小の飲食店がビッシリとあった。夜になると赤い灯、青い灯をつけて、花火大会のように盛り上がった。七夕祭りをやるアーケードは、一番街とふたまたのソケットみたいに分かれる右側だった。171819となっていた頃は、故大島渚監督の名作「青春残酷物語」的な文学的要素があった。女性を知り、出会い、別れ、故ジャック・レモンが主演した名作「酒とバラの日々」のように、酒とバラバラの日々だった。石原慎太郎原作、篠田正浩監督のヌーベルバーグ的名作「乾いた花」(この映画は私のベストテン入り)のように、日々博打であった。石原慎太郎の作品に「刃鋼」という上、下巻がある。この本は私のバイブルだ。今は映画指向の孫が読んでいる。乾いた花の中で、故池部良と、新人加賀まりこが花札で勝負するシーンを目に刻んだ。それまでの日本映画にないシーンだった。乾いた花とはドライフラワー、それは生きる目的と、生気と時間を失った虚無的な男と女の、ニヒリズムの世界であった。一番街の中程に一軒の店があった。一階は飲み屋で、二階は広間だった。私はそこで乾いた花状態になっていた。もうすぐ二十代になってしまう。もう、酒も博打も、喧嘩もやり尽くし、飽き飽きとしていた。夕方になると流しのお兄さんたちが広間に集まって、二人一組で出て、明け方になると、ゾロゾロと帰って来た。それぞれ売り上げを出し合い、リーダーが手際よく分配した。その広間の片隅に一人の男がいて、絵を描いたり、字を描き、キャバレーの看板や、パチンコ屋の看板、Barやスナックのメニューや、マッチのデザイン、JAZZ喫茶のポスターデザインとか飾りつけなどをしていた。当時若者の憧れだった、トライアンフというスポーツカーに乗っていた。後年その男はファッションモデルを乗せてドライブ中、大事故を起こした。女性は顔面を全面整形した。その男に会ってはじめてデザイナーという言葉を知った。流しのリーダーは上原げんと音楽教室に通っていた。新幹線が開通した時、そのテーマ曲を歌う機会を得た。私たちはモノクロテレビの画面の中、白いスーツで歌う晴れ姿を、あしたのジョーを見るように、中華料理店(だったと思う)のテレビで見た。九州出身だと言っていた男は、流しのリーダーをやめて消えた。そして、私も夜の世界から消える覚悟を決めた。ポスターをデザインしたり、言葉を書く方が楽しくなっていた。先輩や後輩たちは、何やってんのという感じだった。ウルセイ! オレは行く道を行くと、阿佐ヶ谷を卒業した。荻窪も、卒業式を迎えた。1031日は投票日だ。私は阿佐ヶ谷を大切にする人を選んでほしいと願う。久々に中杉通りから荻窪に向いながらそう思った。杉並区はインテリジェンスも高いところ、赤ちゃんから、ご老人まで、一人ひとりによりそってくれる政治家に、清き一票を投じてほしい。コロナ禍は何故か激減している。このままの状態で収束するのだろうか。日本全体が、すっかり乾いた花になってしまった。政治家の人には、生き返る水を与えてほしい。酒とバラの日々の主人公はアルコール中毒症だった。義父母は苦しみ、ウイスキーの瓶を家の庭にあった、ビニールハウスのバラの中に隠した。ジャック・レモンが演じる男は、やさしいが、意志が弱くアルコールが止められない。政治家に求めたいのは、ブレない強い意志だ。昨夜一本の映画を見た。「12年の長い夜」ウルグアイの軍事クーデターで、捕われた3人の政治家は、12年間暗黒の世界で人間性を奪われながら耐え抜く。その中の一人が、過日亡くなった。「世界一貧しい大統領」という映画の主人公、ムヒカ大統領だった。やっと面会できた母は言った。戦っていることをやめた者を敗者という”“人間は戦っている限り敗者にならない。ちなみにあと一人は防衛大臣となり、あと一人は詩人となった。人生は映画より、シネマティックだ。(文中敬称略)



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