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2011年1月24日月曜日

湘南の嵐便り 「物書き」


坂口安吾氏※HPより

その昔物書きこと小説家は原稿用紙と万年筆と二、三冊の辞書を書机に置き座布団に座り書いては紙を丸め、投げ捨てては筆を走らせた。小説を書くために過去を巡り過去を捨て、又過去を主題にした。

女を抱き、金をせびり、又女の体を売りその金で夜毎安酒を飲み、そこで知り合った女を又抱いた。
生きるでもなく死ぬでもなしに、ただ酒臭い息を吐き出しまだ半裸で寝入っている女の体から離れ、小さな珈琲店に入り聴き馴れたモーツァルトやシューベルトを聴き、又はモダンジャズの流れる落書き喫茶に行きソニーロリンズやスタンゲッツを聴き、自分の才能の無さを痛感した。

♪咲いて流れて 散っていく 今じゃ私も 涙の花よ♪盛り場ブルースより
こんな毎日でいいんだろうか、あの女はきっと朝起き乱れた化粧を消し、小さなコンロで沸かしたやかんのお湯でインスタントコーヒーを飲み、私が書いた下手な小説を下着のまま読む。
あら、いやだこの主人公の女って私の事じゃないの、なんて思いながら共同洗面所で歯を磨き、顔を洗い、小さなテレビを点ける。


簡易ベットの下にティッシュペーパーが沢山ありそれを集めてビニール袋の中に入れる。
暑いから小さな扇風機を点ける。昼頃にはいつものラーメン屋さんに行こう。それにしても昨日のお客は嫌な奴だった。そうだ三時になったら一緒に銭湯に行き、その後女はパーマ屋さんに行き一時間ほどパチンコを楽しむ(出る台を用意してあげている)。




男は昨夜体中に傷を負っていた、又ケンカでもしたのだろう。キスをした時血のぬめりが凄かったと女は思った。でも何だか私達はお互いを必要として生きている。


今や芥川賞も直木賞も文藝春秋が仕切っていても書店で平積みされてもさして売れないままだ。


女の子宮の疼きを頼りに体中に残る他の男の臭いに心を痛め、自分の女が薄汚い男に抱かれる姿を思い巡らし安酒を煽る。深夜お茶漬け屋で待ち合わせ言葉を交わすでもなく鮭茶漬けと海苔茶漬けを食べる。
女の歯に海苔が付いているのをそっと取ってやる。

※イメージです
十代も終わりに近づいた二人同士、何かいいの書けた?全然。
外は雨が降って来た。店のおかみさんがビニール傘を貸してくれた。二人で傘に入る。お互いの両肩は濡れる。

インクを買う金と原稿用紙代、それに一度行ってみたい処があるんだ、金を頼むと言う。
前借りがかなり溜まっているけど明日頼んでみる。この頃少し下腹が痛いのと言う。医者行けよ、でも恐いから行かないと言う。駄目だ行けと言い、だって誰の子だか分からないもんという。

その夜の明け方男は左腕に短刀で深く傷をつけた。シーツに少し血が付いてしまった。いつまでもお前の事は忘れない、その証しだ。
そろそろこんな日々とは別れなければならない。人にこんなにマブイいい女はいないだろうと自慢していた。街を歩けば人が振り返る女、ハイヒールの似合う女だった。女は静かに鼾をかいていた。
でもその顔は疲れ切っていた。白いシュミーズから形のいい乳房、小さな乳首が少しだけ出ていた。

※イメージです
パソコンで打つ小説家は果たして物書きだろうか。

取材もしない辞書も引かない直木賞作家を見てふと過ぎ去った日のそぼふる雨、扇風機から出る弱々しい風を思い出した。俺は女を取材し、酒に学び、借金を息づかいの足しにしていた。

ぐっすり眠っている首筋に人に吸われたらしい少し赤アザがあった。
終わりを確信した。世話になり過ぎた。

今でも夜の世界に行くとその頃受けた女達の恩を思い出す。
人生は痛い、そんな事をいった人がいた。
パッと咲いてそして浮いて、沈んで、消えて行く。それが一人一人の女の子にクッキリ見える。
見え過ぎるのが恐い。

人は誰でも一冊の名作を書けるというから書いてみるかと思っている。

ある新鋭直木賞作家がいた。原稿用紙も万年筆もない女気もないIT業みたいな都会の洒落た一室に黒い椅子、黒い机、黒いパソコン、それに向かってひたすらキーボードを叩く(書くのではない)漢字は直ぐに変換され知りたい情報は両面に直ぐ現れる。
一切の取材はいらない。山程ある事件を検索しその中からエキスを引き出し繋ぎ合わせる。

その作家は早朝ジョギングをしていた。自分の汗を流すがどうにもならない女の汗の臭いなどはない。心地よいシャワーと高価な男性化粧品のいい香りが部屋中に香る。
なんだかいい本が書けました(正しくは叩けましたよ)と出版社にメールを送る。
物書きの象徴ペンだこは無い。こんな2030代の男の本が直木賞や芥川賞を受賞する。中身はスカスカ何も無い。

こうして文学界は滅びて行く。

♪落ち葉の舞い散る 停車場は〜今日もひとり 明日もひとり過去から逃げてくる♪終着駅より

2011年1月21日金曜日

湘南の嵐便り 「メッセージを発せよミュージシャン」


かつてミュージシャンの発するメッセージは体制を批判し、政治を攻撃し、国を動かし、世界を一つにするパワーを持っていた。


大好きなイーグルスが来日する。名曲「ホテルカリフォルニア」で病んでいるアメリカを批判した。
要約すると「ようこそホテルカリフォルニアへ、ここは天国かもしれないが、地獄かもしれない。ここはいい人ばかりでも一度入ったら出る事は出来ない。ここでは1969年よりもうアルコール「精神」はありません」とベトナム戦争を行ったアメリカをホテルカリフォルニアに置き換えたのだ。

この名曲のライブ盤が出た時丁度カリフォルニアのズマビーチにいた。
そこでアイワのカセットデッキで最大ボリュームにして聴いて痺れきった。


ベトナムの戦地に入ったボブディランやショーンバエズ、名曲「風に吹かれて」では「どれだけ見上げたら空は見えるの?いくつ耳を持ったら人々の泣き声が聞こえるの、どれだけ人が死んだらもうたくさんだと分かるの?友よその答えは風に吹かれている」とメッセージを送った。


レッドツェッペリンの名曲「天国への階段」で「光るもの全て黄金だと信じている女がいる。彼女は天国への階段を買おうとしている。ああどうしたことか、よく耳を澄ませばあの調べが聞こえるだろう。皆がひとつになり、ひとつになり、ひとつが皆になり岩になるときに転がりはしない岩になる・・・」と迷える社会に対して痛切にメッセージを送った。


ジョン・レノンは名曲「イマジン」で争う事なき世界を願ってこの世を去った。
変女ヨーコ・オノに会わねばきっとビートルズは続いた筈だ。
「考えてごらん富というものがなかったら。君には想像出来るかな 貪欲や飢えがない人間愛に満ちた世界を。考えてみてもし全ての人が世界を全て分け合ったらと。全ての人が今日のために生きている」

今この心の戦争ともいえる病んだ社会夢や希望を失った国、権益ばかりを争う世界。インターネット社会が生んだ人間関係の寸断、疑心社会の増殖。井上陽水はかつて名曲「傘がない」で「都会では自殺する若者が増えている。冷たい雨が心を濡らすそれが問題だ」とメッセージを送った。
そして今、その通りの社会が生まれた。井上陽水は39年前に既に現代社会の崩壊を見抜いていたのだ。


音楽は何故メッセージを失ってしまったのか。何故ミュージシャンは戦う事を忘れてしまったのか。集団でガヤガヤ踊り歌うダンスミュージック。日本語にもなっていない複雑怪奇な恋愛ソング。

あなた、君、僕、愛、別れと出会いに終始する少女マンガの主題歌の様な歌ばかりだ。
聴いていても分からないフレーズの洪水だ。

誰か出ないか、世の中を正そうというメッセージの送り手。不条理を問うメッセージ、人間の強さや弱さを語る胸に突き刺さるメッセージ、心を揺さぶるフレーズ。自分に音楽的センスの無い事を悔やむ。
何しろ通信簿で音楽はずっと(1)だった。

深夜イーグルスのライブDVDを観て聴いてまるで寝れなくなったギターの音が全身に突き刺さったからだ。フォークソングを求めているのではない。戦うメッセージが聴きたい。人間は戦いを忘れたらただの霊長類に過ぎないのだ。

イーグルスはホテルカリフォルニアという名曲を生んだ後長い長いスランプに陥って解散した。

三月に年老いたイーグルスが来日する。必ず行ってホテルカリフォルニアを聴きたい。そのメッセージは今まさに現代に通じるからだ。我々は出口のないホテルカリフォルニアの中にいる。
そこには「精神」がない。人々は天国への階段を登る力もお金もない。
世界はますますひとつにならず、友よ答えは風の中に吹かれていない。
でも「ゴーアヘッド」前に進もう。一人一人が。

2011年1月20日木曜日

湘南の嵐便り 「回転寿司」



「表」の世界では決して裏切ってはならない者、恩を忘れてはならない関係がある
例えば長年連れ添った「糟糠(そうこう)の妻」とか影でそっと支えて尽くしてくれていた愛人とかであるのだが、この人達と道を外した別れ方、金を渋った別れ方をするととんでもない不幸へと向かう。

「裏」の世界ではあいつとは砂を食ったというのがいる。何も食えずカップ麺を二人で食べワンカップを分けて飲む、一枚の布団に二人でくるまって寝た仲だ。いつかきっと男になってやる、そう思った仲だから決して裏切りは許せない。兄弟分の盃は交わしてなくても命懸けの仲なのだ。

井戸を探した人、井戸を掘った人、その井戸の水を飲む人がいる。
仁と義、武士道の世界では、探した人、堀った人の恩は命を懸けても守らねばならない決まりとなっている。今の政治家でいえば、民主党の井戸を探したのが鳩山由紀夫一族、井戸を掘ったのが小沢一郎一家、その井戸の水を飲んで腹をしているのが菅直人グループである。

※週刊新潮より

前にも書いたが私の数多くであった政治家で菅直人程の低レベルの人物はいない。
人の目を見て話さない、基本的な挨拶が出来ない、時間にルーズ、携帯を二つ持ち外へ、戻ってはメールを打ち外に出ては怒りまくり戻ってはところで何だっけと言う。ひっぱたいてやろうと思ったがその価値もない人物と見て取ったので他の議員と共に呆れ返ったものだ。

一年前は小沢宅へ行き作り笑いをし、今年は小沢切りをしますと突然躁状態となった。
野党はあらゆる攻め手を用意して政局を動かそうとしている。必ず政変が起きる。

※週刊新潮より

人間持ち慣れない物を持つと不幸になる。400人を越す国会議員、権力の味、お迎えの車の座り心地、側にいるSP達。民主党は元々寄せ集めだから浮かれて情報がボロボロと流出する。官僚達はしたたかだ。

「孫子の兵法」に「知り難きことは陰の如く」という。大事な事は見せるな、語るなだ。そもそも政党などというのは大臣や党の人事ポストを巡る永遠の戦いなのだ。

コソコソ浮気をしていたり、チョコチョコつまみ食いをしていると酷い復讐を受けねばならない。
過日、孫達が回転寿司が食べたいというので江の島の寿司屋、三浦三崎港に行った。三度目である。
※三浦三崎港店内イメージ
丁度テレビで本マグロ一本3249万が競り落とされ「久兵衛」が三年続けて香港の寿司屋チェーンと組んで落とした。赤や中トロを一貫2,400円から4,000円で出すという。

一貫4000円!!※写真はHPより

目の上の回転してくる中トロを見てコレは二貫で462円だが見た目はマグロによく似ているではないか。サラリーマンや家族連れが楽しそうに回転を楽しんでいる。合計で11,200円、あの本マグロなら赤身五貫しか食べれない。我が家はこれでいいのだよと一年の計をみんなに語る。

シンプルライフ、楽しいことが大切なのだ。仲良い事が一番なのだ。日本国もまず回転寿司に返らねばならない。「美しい貧しさ」を創るのだ。そこから再生は始まる。
その夜改めて受けた恩は決して忘れない様にと心に決めた。

最後に「孫子の兵法」に「将に五危あり」という。一番危ういのは「必生は虜にされ」とある。
自分が生きる事ばかり考えている将はやがて敵の捕虜となるという事だ。

菅直人は見事にこのケースとなるだろう。リーダー達よ、自ら先頭に立って前へ向かう事だ。
みんなで楽しく回転寿司を食べるが如しだ。寿司と思えば立派な寿司なのだから。
「久兵衛」の親父はやはりしたたかだった。話題作り、こうしてテレビで盛り上がれば一ヶ月はお客が来ますからねだと。食えない親父だぜまったく。



新作を書きました

2011年1月19日水曜日

湘南の嵐便り 「凸と凹」


最近また話題になっているそうです


神が創ったか誰が創ったか誰も教えてくれなかったし誰も分からない人間という生き物。
その生き物には男と女の二種がいる(オカマとかニューハーフは別)その男と女には凸と凹がありそれを出し入れして祖先を残して行く。

凹はお産という信じ難き事を苦痛の中で行う。見返りとして凸の何倍もの性的快楽を得られる。
凸は単なる上下運動に対しこの対価程度しかない。
しかし凸と凹はアダムとイブではないがパートナーを探す。それは合コンであったり、婚活であったり、偶然であったり、お見合いであったり、運命的であったりする。

凸と凹の相性が良い場合は長く続き、そうでない場合は性の不一致という理由でお別れする。

大島渚監督「愛のコリーダ」

先日ある対談があった。司会者と50人の東大生男25人女性25人。一年生から四年生である。司会者がこの中で童貞の方はいますか?いたら手を挙げて下さいというと、なんと25人中の半分以上が童貞であった。

何でなんという司会者の質問に、かなりイケメンの男達が関心がないとか機会がないとか自分で済ませた方が面倒でないというではないか。君の凸は一体何のためにくっついてんのと言いたい。

又、ある新聞の調査によると凹の人の40%以上が性交渉に嫌悪感を感じるという数字が出ていた。
更に面倒臭いとか不潔ぽいから嫌だというではないか。ああなんたるかである。
恋愛は何処へ行ったのかである。


ある若い男女が2LDKのマンション住まいをシェアしている。
家賃、光熱費、公共料金、NHK受信料等々全て折半でもう二年以上一緒に住んでいるという。
お風呂だって同じ風呂を使っている。勿論洗濯機や電子レンジも冷蔵庫やソファーも。
で何もないのと聞くと全く全然お互いにタイプでないから興味なし、興奮なし、ムラムラなし、無駄な経費を節約するためにこういうケースが増えているらしい。

「パレード」という映画ではなんと男二人女二人がマンションをシェアしている映画だ。
藤原竜也が主役、是非DVDで研究を。


なんだか変な世の中だと思っていながら一月二十日号の週間文春を読んでいたら珍妙な記事に出会った。
本田圭佑や香川真司やヨーロッパに行っている選手の殆どが下の毛や体毛を剃っている、それがヨーロッパではなかば常識。あちらは日本と違ってお風呂社会でなくシャワー社会だから下の毛はよく洗ってない不潔なモノと思われるらしい。

女性の内十八歳から二十五歳位の子は半分は剃っているそれが美意識なんだとか。
毛のない凸と毛のない凹、何だか間の抜けた姿が見える。

※週間文春より
深夜日本VSサウジアラビア戦を観ていたらそればかり気になってしまってしまりの悪い気分だった。
詳しく知りたい人は文春の140141頁を読んで下さい。350円です。



読み終わると何となく下の方がスースーします。

2011年1月18日火曜日

湘南の嵐便り 「一兵卒」


軍隊でいうと一兵卒とは二等兵である。
その二等兵が党代表、党幹事長即ち軍の親玉と参謀総長が何のケジメも付けない。

又、全ての軍幹部が敬語を使う「お」がつくのである、「ご」がつくのである。おっしゃって、ご自身で、ご判断を、御自らとなる。民主軍は完全な壊滅である。又、野党は国会へ国会へといい世論を操作する。立法と司法の役割がまるで分かっていない。

例えば小沢一郎なる者を国会証人に引っ張り出してもその件は司法で語る内容でお応え出来ませんと連発するだろう。そのむかし記憶にありませんで突き通したのと同じである。
かつて田中角栄は三木武夫に比べたら福田や大平はセーラー服を着た女子高生だと言い放った。
田中角栄氏※HPより
三木武夫氏※HPより
 田中の生涯で一番手強かったのがバルカン政治家三木武夫であった。米国と協力して三木武夫は田中角栄を拘置所に送った。政争とはこういう激しいものなのだ。


何の物的証拠もない事件、とんでもない嘘つき、水谷建設のいう事に何の信憑性もない。三権分立をしっかりしないとこれからとんでもない事になる。例えば今政治とカネで問題を起こしている小沢元代表は国会で証人として出るべきでしょうかと聞けば、余程三権分立を知らない人は答えとして国会に出るべきと答えるだろう。大マスコミの世論調査ほど恐いものはない。行き着くところ大マスコミ優先主義、米国服従主義、日本全土基地化、日本金ヅル主義である。

何も私は小沢一郎を弁護する気は毛一本もない。
ただ三権分立をしっかり守れ。かつての軍国主義に走るなと声を大にしていいたいのだ。

マッカーサー元師※HPより

この国は完全に滅亡に向かっているのは間違いない。かつて占領国のアメリカ(GHQ)は日本人は一生懸命よく働く、だから米国のファクトリー(工場)にしよう。そのためには一血一族の象徴である天皇陛下を殺すわけにはいかないとマッカーサーは判断した。


小沢一郎が国会に出て来てひたすら何やらやましい事はないと連発したら今の政治家の中で五分で戦える人はいないであろう。小沢一郎は自分の値打ちをしっかり計っている。(小心だが)
大勝負を賭けるとき、一気に勝負に出て来るであろう。その全ては米国が握っている。
どっちが得か損か、戦争資本主義の米国はしたたかに値踏みをしている。

ただ今の民主党はホトホト稼ぎの悪い奴等だと決めている。
それ故にTPPへの参加を協力に命令して来ている。

毒を盛って毒を制す?

もはや政界再編しかない。毒を盛って毒を制すともいう。
ドイツを始めEU諸国は連立が当たり前である。
やがて日本はもっと仕分けされる。日本の銀行や郵政、通信、弁護士、流通の様に。

日本は永遠に占領国なのだ。

ミズリー号調印※HPより

2011年1月17日月曜日

湘南の嵐便り 「再生のヒント」


気の使い過ぎだから病気になったりするんですよと云われる事がある。
気を使う、気を使わない。この問題は渦巻く鳴門海峡の様に険しい。

人間と人間の関係は「人の間」という位気使いで成り立っている。
使い過ぎれば先方に負担をかけるし気を使わなければ人の道が分からない奴だという事になる。


私は気を使うことによって自らの心にケジメがつき、気を使わなければ寝付きが悪い。
だったら自らのケジメをつけて少しでも寝付きのいい方を選ぶ事にしている。
気が利かない奴だといわれるよりは、よく気を回してくれる人といわれている方が楽な性格なのである。何かをしたら何かがきっと返って来る、こんな邪悪な気持ちは必ず相手にも分かってしまう。実は世の中は永遠なる義と理の間で成り立っている。


まだまだ子供だと思っていた親戚の子から、もしもしオジサン○×です春から大学一年生です、お年玉ありがとうございました。なんて男っぽい声を聞くと嬉しいものだ。そ
うか大学生か楽しみだなと思いを馳せる事ができる。

少し心を病んでいる友人の娘さんにちょっとしたネックレスとピアスを送ってあげたらとてもご丁寧な手紙を貰った。すごく嬉しいですと書いてあった。お世辞でも嬉しいものだ。
難病で何年も家から出れない人に下手な絵を送ったら震える字で元気が出ましたと書いて来てくれた。


私の事を気を使い過ぎという人もいれば、よく気を使ってくれる人だという人もいる。私はこれからこの国を再生して行くには先ず家族愛、そして隣人愛、そして地域愛、そして故里愛つまりは遠い昔の良き村社会の在り方を見本にするしかないと思っている。




かつて白樺派の武者小路実篤達が作った「新しき村」の様な理想の追求である。

鹿児島に「柳谷」という小さな300人程の集落が一人のリーダーの熱意によって笑顔の絶えない集落として再生した。「やねだん」というその集落は「奇跡の村」として今世界でも注目されている。
勿論日本各地の首長達がリーダーの主宰する創世塾という処に学習に来ている。胃癌を手術した時残りの人生を何に使うか悩んだ末にリーダーはこの集落の再生にかけた。このドキュメントをある日曜の深夜観た時私は泣いた。

※やねだんHPより


そうか、これが本当の気使いなんだと確信したからだ。
人間は人間によって再生できる。ケチな権力争いなんかは無い。
人に会ったら挨拶をする、困った人がいたら助け合う、荒地や雑木林はみんなで畑にする。

みんなで作った迎賓館※やねだんHPより


やねだんブランド焼酎※HPより



この「みんなで」というのが基本テーマだ。かつての日本人はみんなで問題を背負いみんなで考え、みんなで解決していった。自分だけが、自分の家だけがよければいい、隣なんて誰が居るのか分からないのだから関係ない。なるべく関わりたくない回覧板さえ回せばいい。
笑い声の聞こえない関係はこうして増殖化してしまったのだ。

※やねだんHPより

気使いの使い方を学び直そうではないかニッポン人。
時間は掛かるがこれしかないと私は思っている。年を取ったせいであろうか。
近々鹿児島の柳谷に行こうと思っている、一学生として。

先日、元資産家で有名だった二人の中年姉妹がマンションで亡くなっていた。
一人はなんと栄養失調でありお腹は空っぽ、所持金は90円であったというではないか。






やねだんホームページ

やねだんの概要記事

2011年1月12日水曜日

湘南の嵐便り 「正月に想う」


正月観たテレビは主に箱根駅伝とラグビーだけであった。
勿論ニュースは見たがこれは楽しむためのものではない。今やテレビはその役目を終えようとしている。本格的地デジ化となるとただの電視箱となる。


どのチャンネルをだしてもまとめてドンみたいにお笑いやオカマやニューハーフやフグの巨大化した男だか女だか分からない生き物がペリカンの膨らんだ口、顎袋みたいな顔から毒を出す。バラエティという名の異様な番組。


もう馬鹿を通り越して大馬鹿になるように仕掛けられたチンドン屋さんには失礼だが(この人達は立派な芸人)家の中に土足で入り込んで来たチンドン屋系の悲しくも哀れな芸人の集団である。

世の中はネット帝国という見えない帝国に確実に犯されている。
そしてこの帝国は決して滅亡する事のない世界史上初の帝国である。歴史は創った者によって滅びるという格言が正しければ間違いなく人間社会、地球社会はネット帝国によって滅亡させられる。誰も信じられない、何も信じられない。

かつてピーター・ドラッカーが云った「断絶の時代」が変形して形となってしまった。
恐ろしい社会の中に我々は入った。テーマパークのお化け屋敷の何十倍も恐い社会だ。汝隣人を愛せではなく、汝隣人を疑えなのだ。


そして巨大な隣国中国は日本中の山と水を買い占め始めている。見えない処で動いている社会の現実。それはテレビ、新聞等で見られ読まれている世界と情報ギャップは大きく恐怖を通り越して処刑を待つ死刑囚の如くである。

※写真はイメージです
徹夜して福袋を買うために行列して飛びつくオバサン達を見るといよいよこの国の終わりを感じる。元々20004000円のカニを10000円位に値付けして、さあ2000円だ持ってけドロボーみたいに売り込む人間達。分かっちゃいるけど止められない人間。


で、まあ、そんなこんなうんざりしあきれ返りながらTSUTAYAに行って鬼平犯科帳をごっそり借りて来てずっと観ていた。このドラマには一話ずつ教えがある、人情がある、食がある。善と悪に対する意志がある、物事に対するケジメがある。


私はこれからの社会は「逆化」すると思っている。「男と女」「善と悪」「高と安」「大と小」「旧と新」「街と村」「富と貧」「強と弱」「常識と非常識」すべてが逆化し始めるだろう。既に「テレビとネット」は逆化した。「男と女」も逆化した。値下げ競争をしている企業は滅び始める。新たな「逆化価値社会」が生まれ始める。

かつて栄華を極めたカタカナ産業はワーキングプアとなり、医者になるなら歯医者が一番といわれた歯科医は続々と医院を閉めている。信じられない「歯医者復活戦」である。

(※ちなみに私が通院している銀座鳩居堂裏の「深水歯科」は先生もスタッフも最高でオススメです)


「小児科」も同じである。中でもジゴロ的ジャーナリスト、たかり的ジャーナリストなどはネット帝国の出現でただのスケこましとなり果てている。


新しき年、まず一人一人が自分を見直すしかない。
自分のオナラは人のお尻からは決して出ないのだから。

2011年1月11日火曜日

湘南の嵐便り 「つもり人間」


新年明けましておめでとうございます。本年もこのブログを宜しくお願いいたします。


賀状を出すつもりだった、ちゃんと作るつもりだった、御礼をするつもりだった、お詫びするつもりだった、読むつもりだった、見にいくつもりだった、手紙を出すつもりだった、お見舞に行くつもりだった、会いに行くつもりだった、励ますつもりだった。

世の中大概の人はつもりだった人間だ(私も勿論そうだが)。

水嶋ヒロ(本名齊藤智裕)がポプラ社の大賞を獲り、賞金2000万円を辞退した。
いいではないか、何か文句あるのかといいたい。書くつもりだったのを実行した事が素晴らしい。100万部売れている、素晴らしいではないか。



ゴーストライターがいるのではとか編集者が書いたのではとかやかましい。
今、世の中に出ている新人作家なんて出版社に持って行けばみんなボツ。ちょっと面白いぞと編集者が見抜けば(氏素姓、人生の歩き方に対して等だが)後は編集者が段取りをつけ書き手を用意してくれる。本人の書いた元の原稿なんて真っ赤っか、空の雲の上の様に朱が入り元の原稿がほぼなくなる。誰でも始めは新人である。


ただ優秀な編集者?がたった一行に、わずかな状況描写に、人物や人生や死生観や体験に興味を示すモノがあればいいのだ。だからモノ書きになりたいという志を持ったらまず「書くつもり」ではなく恥を承知で書いて書いて恥をかいてかきまくるのだ。

猿のなんとかみたいに頭がボー然となり思考回路が変わり果てる迄、指にタコが出来るまで書きまくる。何もしない者共は批判ばかりする野次馬、暇人達だ。
せいぜいテレビの前にかじりつきお茶を飲みながら煎餅などをかじり、お尻をぼりぼり掻きまくっている。私だって書けるわとか、下手くそだなどうせ誰かが書いたのだろう俺だって書けば書けるさなんて言う「カゲロウ」の様な人間達なのだ。


文藝評論家ほど(なんとなく小林秀雄、江藤淳、奥野健男あたりは別として)いい加減な連中はいない、斜め読みで終わり。出版社から概要をFAXかなんかで送ってもらってから読むだけ。で。出版社書評は褒めるのけなすのなんて指示を受ける。
モノ書きになれなかった「つもり人間」の成りの果てだ。


本なんて読んだ人が面白いと思えば面白い、つまらないといえばつまらない。ためになったし少し物知りになった。若い女性と恋愛したくなった。
古女房(駄目亭主)でも今夜はするか、そんな思いを読者が持ってくれればそれでいいのだ。難解な本は難解な人に読んでもらってしまう事だ。


誰だって小説家になれるのだ。書くつもりでなく一行でも二行でも書けばいいのだ。
水嶋ヒロがあんまりカッコよすぎてジェラシーを感じている悲しき人々よ、今日からせめて日記に一行でも書きなさい。ずっと続ければ積もり積もって立派な本が生まれるはずだから。歴史小説とか戦争小説とか宗教とか哲学とかに挑戦するには山ほど資料を読まねばならないが「私小説」は紙と鉛筆一本あれば十分なのだから。

この頃純文学、私小説が生まれない。近々私は挑戦しようかな思っている「つもり」である。
先日、近所の開高健記念館に行ったら既に大先生より十年近く年を食っている事に気付いた。何たる才無き人生、何たるナマケ者であったかを思い知った。
「明日世界が滅びるとしても今日あなたはリンゴの木を植える」そんな教えを書いた葉書を100円で買った。

今年こそ「つもり人間」から自覚して何か行動を始めましょう。