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2016年6月9日木曜日

「天野祐吉さんの言葉」




メモに書いておいたある王様の言葉。
実語(真実の言葉)は天に昇る橋で、妄語(偽りの言葉)は地獄へ入る道だ。
一国のリーダーが偽りの言葉ばかり言うと、その国の知事→市長→町長→村長と偽りの言葉はリレー的に繋がって行く。

深夜いつものグラスに酒を入れてしばし瞑想すると、自分が妄語ばかり言っているではないかと。真実の言葉とは何かを考える。どこからどこまでが真実なのか分からない。
自分の直感を信じて言葉を発するのが常だから、絶えず話しながら思考を展開する。
気が付くと偽りとも真実とも言えない言葉の中にいる。

まい日この実語と妄語の境界の中で生きている。
仕事柄理論的に有り得ないことも有るのだと信じて言葉にする。
理屈や間尺に合わないことでも直観を信じて合わせていく。
直観はいきなり出るのではなく四六時中思考していないと浮かばない。
直感が浮かばなくなった時、私は私でなくなる。

国語の辞典や英語の辞書にない言葉を造る。
それを生業としている。小説などはさて実語かと思う。
何言ってやんだ小説なんてウソばかりの作り話だよという小説家の声も聞こえたりする。正直な人がバカを見る時代となってしまった。
誠実という言葉が希少性を持ってきた。愚直などという言葉は宝のようになってきた。

偽りの国家に未来はあるのだろうか。
裁判所も、警察も、大学も、高校も、勿論小・中学校も偽りばかりが横行している。
超一流といわれた名門企業も、一流企業も、中、小、零細企業も偽りと共に沈没する。
いかなる大金を持ってしても手に入れることができないのが、正直と誠実さだ。

名コラムニスト故天野祐吉さんの言葉に、「日本は一位とか二位とかを争う野暮な国じゃなくていい。『別品』の国でありたいと思うのです」なるほど別品か、いい言葉ではないか、新聞の切り抜きから見つけた。

チーズクラッカーを食べながら飲んだ。クラッカーがポロポロと崩れて落ちた。
人差し指でそれを取った。

2016年6月7日火曜日

「忘れがたき日々」

♪〜兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき 故郷。

2時〜3時はおうたとおやつの時間であった。
老人たちはかつて元気一杯の子どもであった。
やがて少年少女となり初恋に胸をトキメかす。
夢多き青春時代に、よき友、よき仲間をつくった。やがて大人社会に進み、愛を育み、よき伴侶を持った。

子宝に恵まれた人は、子育てに全力を尽くした。
親は子のためにはその命をかけた。
人間、老人になるまでは長いが、老人でいるのも長い。
私の目の前にいる老人たちは戦争を経験した人たちであった。

忘れがたき故郷はどこであろうが、深い愛情を持つ我が子がいる家だろうか。だが、子どもや人に迷惑をかけずに自分らしく生きたいという。

介護付老人ホーム、ここに入居できる人は幸せな人だという。
老人介護、老老介護を自宅で行っている人々にこの国の政治は冷たい。


2016年6月6日月曜日

「お母さん」


この世の中で誰がいちばん大切か言えば、いのいちばんは「お母さん」だろう。

「戯れに母を背負いて そのあまりに軽さに泣きて 三歩歩まず(石川啄木)」
良い命も悪い命もお母さんの中から出て来た。
お年寄りを大切にしない社会は、お母さんを大切にしない社会といえる。

遠い昔「日本の母」という映画があった。三益愛子が主演した。記憶が定かでないが概ねこんな話だ。

三益愛子演じる老母には、兄姉が三人いる。
兄には嫁がおり、姉には夫がいる。末っ子は遠く離れたところで働いている。
老母ははじめ長男の家に住むが、嫁がやさしくない。
とても居づらい。娘のところに身を寄せるが、その夫がやさしくない。
とても居心地が悪い。
次男のところも同様で老母にとって居心地が悪い。
それぞれの家庭にそれぞれの事情がある。

ある雪の日老母は外をさまよっている時、路上に倒れてしまう。
すぐ前に養老院があり命は助かる。
やがて末っ子が帰ってくる(確か宇津井健)。
末っ子は怒り、兄や姉をなじり倒す。
そしてお母さんは僕がお世話をする。

とまあこういう映画であって、当時十二、三歳だった私は、オイオイと泣いた。
これから介護付老人ホームを撮影するために向かう。
お母さんを大切にしない国はきっとお天道様に叱られる。

2016年6月3日金曜日

「日本映画史上初のリアリズム」




日本の映画界は史上初めて本当の喧嘩のシーンを生んだ。
リアリズムの監督といえば、故今村昌平とか、故小林正樹が両巨頭であっただろうと思うが、ある視点ではそれを超えた。

暴力性を描いた監督は多い、故深作欣二をはじめ、三池崇史、阪本順治など、日本の映画作品の50%は暴力と性を描いてきた。
女と性を書かない物書きは小説家ではないと評論の神様、故小林秀雄は言っていた。
同じように暴力とその延長上の戦争は映画監督にとって永遠のテーマであった。
今まで私が観て来た映画の中の喧嘩シーンは、どこまでいってもやっぱり映画家さんが作った偽物であった。

先日友人の娘さんのライブを見聞しに行った時、娘さんから二人の若者を紹介された。
一人は監督を目指し、一人は格闘家をしながら役者を目指していた。
この映画是非観に行ってください僕出ているんです、と言って一枚のフライヤー(チラシ)をもらった。暗い中であったのでそれをバッグの中に入れた。

家に帰ってそれを見ると“ディストラクション・ベイビーズ”という映画だった。
その後友人のプロデューサーにその映画の題名を言うと、それ真利子哲也さんの作品ですね、今年はその映画No.1で決まりでしょうと言った。
僕よく知っています、今度一本一緒にやろうと思っているんですと言った。

1981年生というから現在34歳だ。
法政大学時代から8ミリで自主映画を作り、すでにカリスマのような存在であったという。東京藝術大学院映像研究科映像専攻にいた頃も自主映画で誰も作らなかったリアリズム映画で、国内外の短編映画祭や長編でグランプリをはじめ数多くの賞を獲りまくっていた。
私は不勉強でこの監督を知らなかった。

で、昨日テアトル新宿に行った(640分の回)。
テアトル新宿は若い才能を育てる事で有名なところである、東京テアトル(株)は今年で70周年を迎えた。

映画の舞台は愛媛県松山市、登場する人間は伊予弁で話す、主人公の若者は無口でラストまで言葉らしきものは発しない。
この主人公は中里介山の大長編の名作「大菩薩峠」に出てくる虚無的な盲目の武士、机竜之助のようである。
人を見ると誰でも斬りたがる机竜之助、主人公は人を見ると殴りたがり、蹴りたがる。
その逆に殴られ、蹴られる。不良でもない、チンピラでもない、暴走族でもない、ヤクザ者や極道でもない。
漁師の息子のようであり、どこかの工場に勤めている作業員のようである。

ごくフツーの若者なのだが、相手が学生だろうが、不良だろうが、チンピラだろうが、極道者だろうが辻斬りのようにいきなり殴り、蹴りまくる。
反撃されボコボコにされるのを楽しむ。映画の殆どがその喧嘩のシーンである。
勝つとか負けるとかはドーデモいい。
ただ楽しかったらいいと暴力を楽しむ。鬱屈の爆発を暴力という肉体言語で発散する。

目的のないまい日の中で虚無的彷徨をする若者のニヒリズムの極致だ。
真利子哲也はよくぞここまで喧嘩を研究したなと思うほど徹底的なリアリズムを追求した。この映画を観た監督は、喧嘩のあるシーンはもう撮れないだろうと思う。

役者たちがまた素晴らしい。
あえて名は伏す、本年度No.1になるであろうこの映画を観てほしい。
撮影、照明、衣裳、特殊メイク、音楽、全てパーフェクトであった。
現代社会に於いてディストラクション・ベイビーズはすぐ側にいるはずだ。
裏社会ではこういう、あいつは“フーな奴(気が狂っている)”だから近寄るなと。
ブルージンジャエールが熱くなったカラダを冷やしてくれた。

2016年6月2日木曜日

「コロッケパン」




牛のオッパイといえば牛乳である。
私の胃腸はすこぶる過敏であるから牛乳は苦手な飲み物だ。
飲み味は好きだが直ぐに胃腸がゴロゴロしキューキューとなる。
四方八方トイレに囲まれている処ならば冷え冷えの牛乳を飲んでもいい。

割りとパンが好きである。
ガキの頃コッペパンにコロッケをはさんで食べるのがうれしかった、おいしかった。
コッペパンを切るとき包丁に力を入れるとパンがへこんで駄目なことを学んだ。
力を入れず静かにそっとが基本だ。
包丁の刃をコッペパンの側面に横にして少しばかり力を込めて引くようにする。
刃はコッペパンを等しく二分割する、全部切ってしまわずパンの皮一枚を少し厚めに残す。そしてバターではなくマーガリンをナイフで塗る。
左官の職人さんが壁をコテで塗るように。
そこに焼き上がったコロッケをのせ、ブルドックソースを全体的にかける。

昨今はキャベツをはさむが私はそれを好まない。
パンとコロッケとキャベツとブルドックが混然となってコロッケパンというシンプルさをジャマする。その上キャベツがパラパラ落ちる。
マーガリンの上にマスタードを重ね塗りする人もいるが、ツーンと来てやはりシンプルさを失う。理想的なのは時間が少し経ったコッペパンとコロッケが望ましい。

コッペパン一個にコロッケ二個となればサイコーの贅沢である。
ここで絶対的に必要なのがコーヒー牛乳だ。
ブラックコーヒーとか紅茶とか気取ったのは駄目、コロッケパンというアナーキーな特権的食べ物には、コーヒー牛乳なのだ。ガキの頃は名糖牛乳が決まりだった。

コロッケパンは屋内で食べてはウマくない。
原っぱとか、階段の上とか、石段の上とかが最高だ。公園のベンチもかなりいい。
私の場合はコーヒー牛乳には牛乳が入っているので食べる場所を特に選ぶ。
あ〜うまかったの後に、ゴロゴロとキューキューが来るからだ。

昨日パン屋さんでコロッケパンとブリックパックに入ったコーヒー牛乳を買った。
正式なコッペパンでないのが残念だった(小型だった)、正式なコーヒー牛乳(瓶入り)でなかった。どこで食べたか、歩きながら食べた。
左手にコロッケパン、右手にコーヒー牛乳、ストローでチューチュー、ブリックパックはダメモノだ、最後まで飲むことが難しい、底の角の方に残ってしまう。

ジーパンにアロハ、ビーチサンダルにコロッケパンとコーヒー牛乳、東京でなく茅ヶ崎ではこれが堂々と許される。
買い物をした文房具屋さんのある駅から家までの途中、ヤバイ、ゴロゴロして来た。
で、安心できるオートバックスのロビーのソファーに座った。

今年の流行語大賞に、舛添都知事の“第三者”と、安倍総理の“新しい判断”が選ばれるだろう。役人とは実に新語を作るのが達者だ。
全ての公約を破っても“新しい判断”といえば通ると進言したのだろう。
雷の季節には未だ早いのに一寸先は闇という、永田町はゴロゴロしはじめたようだ。
総理大臣のおなかも。都知事のオシリには火が付いている。
決して消えない火がボーボーと。

2016年6月1日水曜日

「ガリガリ君」




爆弾をしょっている(背負っている)裏社会では執行猶予の事をそう言う。
爆弾三年なら三年間ずっと耐え忍ぶ。
バカにされコケにされても手出しをしない。

時として爆弾が恐くて極道やってられるかと、本来の凶暴性を発揮する者も多い。
新しく起こした事件も執行猶予中だと裁判官の心証を悪くする。
10年なら12年とかになり、執行猶予の三年が加算されるので15年となる。
本来なら10年で済んだものが5年多くなる。

“返し”という言葉がある。借りたものは返す。
世の中には借りたものはもらったものという図々しい奴も多い。
今の世の中は貸した者より、借りた者の勝ちとなっている。
返したいけど返せないと言われるとそこまでとなる。
やられたらやり返すのを“返し”と言う。返しをしなくなった極道は堅気になるしかない。

裏社会では引退し堅気になった人間には手出しをしないという暗黙のルールがある。
それ故現在極道をやめて正道(?)に向かう人間が加速度的に増えている(?)。
だがマフィア化しているので実態は分からない。ちゃんと貸した金を、ちゃんと返せよ終いには怒るぞと強い調子で言うと、脅迫罪になったりする。

“吹かし”という言葉がある。
あいつは吹かすから気をつけろ、つまり平気でホラを吹く人間を“吹かし屋”と言う。
我が国のリーダーが更に吹かして行くとコメントした。
エンジントラブルを起こさないよう願いたい。
日銀史上最低の吹かし屋黒田総裁は、吹いても音の出ないラッパとなってしまった。

山口組(?)が神戸山口組の金庫番的組織のNo.2を射殺した。
その銃声は正しい極道(?)のヨーイドンの号砲であり、警察が待ってましたの号砲でもある。市民にとっては怖ろしい号砲だ。

原和博に執行猶予がついた。
裁判長が最後に言った言葉“あなたは決して一人ではない”その言葉を宝に再起してほしい、中学2年と小学5年の子どものために。パパは英雄なのだ。
プロ野球界も再起を願っている。

世の中は“水素水ブーム”だとか、ある学者は水素水が病気を治すなんて、体にいいなんてありえないと書いていた。
ミネラルウォーターを買う必要もない、日本の水道水はミネラルウォーター以上だと。ちなみにオナラの大部分は水素なんだと。
野党が出した不信任決議案はオナラほどの威力がなかった。


昨夜、先日持って帰って来てしまったお品書き(メニュー)を返しに、赤坂の“しみず”に行った。仕事仲間四人と共に。日本酒2.5合、初めは一ノ蔵、次は男山にした。
長い間努めてくれた男が近々独立する、その祝酒だった。
家に帰り、赤城乳業のガリガリ君をガリガリした。クールダウンには最適なのだ。
ガリガリ君の値上げのコマーシャルは面白い。
海外でもガリガリ君の値上げはトップニュースなのだ。

もう一つ、リクルートの松本人志のコマーシャルシリーズは15秒の逸品だ。
バイトするなら…、きっと耳に残っているはずだ。
何!テレビは見ないってか、それはウラヤマシイ。いよいよアロハの季節となる。
トッポイファッションで行こうと思っている。