ページ

2016年9月6日火曜日

「下半身の戦い」




私はスポーツ観戦といえば野球とボクシングだ。
深夜BSで海外のサッカーも観る。

過日日本代表がUAE12で負けた。
毎度同じでメンバーが多い、本田、長谷部、香川、岡崎、宇佐美、吉田などの選手だ。
すっかりチヤホヤされてスター気取りとなっている選手は、格下の中の格下に負けた。
後半になるともう動きが悪くヘトヘト、ヘロヘロだった。

今日は格下の中の格下の中の格下、世界ランク117位のタイと戦う。
バカな報道はこれを世紀の一戦と大騒ぎしている。
バカヤロー負けたら全員丸坊主になって当分ネパールの山の中で精神修行をして来いと言いたい。南米のサッカーなんてまる喧嘩(戦争)だ。
レフリーの目を盗んでヒジで殴る、ヒザで蹴る、足を踏んづけるなんて当たり前だ。
頭突きに飛び蹴りだってやる、流血なんてザラだ。

孫子の兵法にはこう書いてある。喧嘩(戦争)はしてはいけない、調略で勝てと。
但し止むなく戦いとなったらどんな手を使ってでも勝てと。
日本代表のサッカー選手たちは、前へ前へ向かう事なく、ハイ、キミへ、ハイ、キミへと横へばかりアッチ向いてホイばかりだから相手にナメられてしまう。
汚い手もルールの内、見つかればイエローカードにレッドカードだ。
見えない技術を使うという事を学ぶといい。

東京都知事小池百合子氏がボスだかドンだかを相手に身内でチームを作ってドンチャン騒ぎをしている。役人は人事が全てだから、きっと人事で潰される。
私の知る限り、ドンなんていう人も遠くから見るとその影はやけに大きく見えるものだが、接近密着すれば影はなく、やさしくてかわいい孫が大好きなご老人だよ。
それに命の先が短いから思いの外弱気なんだ。

命なんかイラネエというドンは歴史上いない。
あの平清盛や後白河法皇だって同じ、徳川家康なんて死ぬのが絶対に嫌だったのだ。
人間には死という絶対に勝てない相手がある。
カッコをつけてスタンドプレイをするとサッカーも政治も勝てない。
但し一人で何人も抜き去ってゴールを入れる位の事はしなければならない(技術があれば)。100位で勝って当然の相手だからね。

下半身に力を込めてガンバレ、「性器の一戦」を。
夜のタイには美人も多いし、ニューハーフも多いから気をつけるべしだ。
それに辛い料理も気をつけるべし、腸が下がり下半身がシマラなくなってしまうからだ。

2016年9月5日月曜日

「スタートです」



昨日東京新聞朝刊に3年近くかけて企画をすすめていたプロジェクトの広告が掲載されました。91011月とシリーズで掲載されます。
全文を記しますので、東京新聞を購読されていない方はぜひ読んでください。


幸福な家庭の顔はお互い似かよっているが、不幸な家庭の顔はどれもこれも違っている。
−レフ・トルストイ

 私たちの国はアメリカをはじめとする寄付先進国から見ると、残念ながら未だ後進国といわざるを得ません。
 私たちはNPO活動を正しく理解していただき、新しい活動を応援していきたい。NPONonprofit Organization」という意味は、広義では非営利団体、狭義では非営利での社会貢献活動や慈善活動を行う市民団体と位置づけられています。
私たちが応援するNPOは多くの人々から寄付をいただき、みなさまのご理解を活動の資金として運営しております。ただ、一部では誤解もされています。無料奉仕、無償奉仕活動と思われているのです。そのため、私たちはきちんと透明性をもち健全に運営をし、正式な法人格(公益社団法人、認定特定非営利活動法人)を得て世の中に尽くしているNPO活動を応援したいのです。
格差社会の中で悩み苦しむ、生まれながらにしてハンデがある、また不幸にしてハンデを抱えてしまった、そんな隣人を愛するために知性と知恵を集め、いつまでも変わらぬ友情を持って、プロジェクト名を「KIFUJIN PROJECT」と名付けました。私たちはNPO活動や社会貢献をする企業、人との接点や繋がりをつくり、その輪を広げる活動をプロデュースしていきます。
そして、寄付行為をしてくださるご理解ある方々に、人としての人格と品位を感じていただきたいと考え「きふ人」と呼ばせていただきます。
寄付文化から「きふ人文化」へとその輪を広げていくのです。

生まれたばかりのプロジェクトですが、今後の活動にどうぞご期待ください。                    発起人 東本三郎



2016年9月2日金曜日

「大先生」

広告界の先駆者に土屋耕一大先生というという名コピーライターがいた。

すでに亡くなっているが、軽妙にして酒脱、優雅にして風雅、そして正宗の名刀のように時代を鋭く切った。特に伊勢丹、資生堂においての名作は歴史に残る。
その中に「テレビを消した一週間。」というのがあった。
テレビ全盛時代、テレビに釘付けの時代に、やんわりとファッショナブルに一週間テレビの前から離れてみようと提案したのだ。
今ならツイッターやライン。スマホやパソコンなどから一週間はなれてみようということだろうか。

沖縄の友人のホテルにはテレビがない。どこにもない。
30日東京を出発して2日間まったくテレビという存在に気づかなかった。
ということはアタマに来るニュース、嫌なニュース、不愉快なニュース、悲しいニュース、無惨なニュース、怖しいニュースなどに一切出会うことがなかったということであった。これ以上なく新鮮であった。
新鮮な魚貝類、新鮮な昔話、新鮮な沖縄民謡と親娘三人による沖縄の踊り、そしてホテルオーナーの友人との新鮮な会話。気持ちいい夜風、夜空にたくさんの星、じゃれつく二匹の猫、イギリス人ミュージシャンのR&BのCD、ジャックダニエルと友人の喫うパイプの香り。昔話は何度も話すのが常だがそれが楽しい。
テレビがあるのをつけないのと、そもそもテレビがないのは違う。
人生について、夢について、映画、音楽、恋愛、結婚、離婚や友人の死について語り合った。
酒が入った会話というのはほぼ80%がム・カ・シ・バ・ナ・シである。
「サプール」というコンゴ人のファッション写真展もみたし、「ナビィの恋」も生で聞けた。
新聞も買わずに空港の待合室のテレビをみたら、北海道の大洪水のニュースに直面、あっという間に現実の世界に入った。次々と大災害のニュース、想定外、情報が入らない、水がない。まさかこんなことになるなんてと学者や役所、そして国の責任者。
毎年繰り返されるシーンだ。“デ・ジャヴ”だ。
亜熱帯化された地球は確実に狂暴化している。神も仏も熱中症だ。

東京都知事小池百合子氏が性力的否精力的に動いているシーンもあった。
役人は外部の人間による動きには異常に敏感だ。
“桂馬の高転び”ということわざがある。調子に乗り過ぎると役人という人事と金が命の生き物は深く静かに潜航して密告者となる。
テレビを見るとやはりよくない気分となる。

「テレビを消した一週間。」土屋耕一大先生は文明批評家でもあった。
「こんにちは土曜日くん。」は週休二日制を生み、「ああ、スポーツの空気だ。」では、スポーツ社会を生んだ。

今、ご存命ならなんと書いただろうか。

2016年8月30日火曜日

本日より二日間沖縄に出張するのでブログは休筆します。
夜になるとコオロギが鳴いています。
秋は夏の暑さを連れてやって来る、厄介なやつだと言った文士がいたが、秋はそこまで来ている。

2016年8月29日月曜日

「絶品の臭い」




海を愛するヨットマンの友人が三宅島に寄港して送ってくれたのだと思う。
パッケージに「わたしゃ三宅のくさやの干物、主に焼かれて身を焦がす」なんてロマンチックな言葉が書かれている。
飛び魚のくさやとアジのくさや、それと島のりが送られて来た。

台風が近いのに大丈夫かと心配しているのだが、ベテランのヨットマンだからきっと海が荒れる前には帰って来ているはずだ。
あちこち航海するたびに、海の幸を送ってくれる。ありがたい人である。

さて、くさやを焼くとなると相当な覚悟がいる。
酒の肴としては最高だが、ひとたび家の中でくさや一匹まるごと焼くと小宅はくさやの臭いで充満するはずだ。孫たちはいまだかつてない臭いに逃げ帰るやもしれない。
だがくさや、特に三宅島のものは格別、特別、別格だ。

で、先日鍼灸マッサージの達人が送ってくれた、小さな七輪で小さく、小さく、小さくちぎって網の上において焼くことにした。
土曜の午後ちょうど達人が来ていたので半分分けてあげた。
達人は釣りの名人でもあるので魚に詳しい。
うわぁ〜これは高級なくさやですねと言って喜んで持ち帰った。
近々バーベキューをするのでそこで焼いて食べますと言った。
え、家の中でなく外で、そうなの家の中でバンバン焼いてみてほしいと思ったがその強烈無比の臭いを知っているらしい。


チラチラ青光りする固形燃料の炎で小さくほぐしたくさやを焼けば、小さくても価干金しかっりとくさやの香りだ。
冷酒で一杯実に旨い。ありがたきかな島の民の知恵。

三宅島では塩は幕府から管理されていた貴重品、それ故とれた魚を海水にひたして、ひたして、塩味をつけていった。
それをまた工夫の漬け味の中につけてじっくり干して仕上げ極上のくさやとなる。
その昔新橋のある飲み屋に一人の客がくさやを持参して来て、これを焼いてくれと言って焼かせた。オー島の臭いだと本人は喜んだが、店内はくさやが充満した。
一人、一人と客が帰って行き、その客一人となった。
これほどの凄い臭いと味はないのだ。ちぎって小さくすればほんのりといい臭いだ。
とりあえず換気扇は回した。

黒潮の味、島のりはお吸い物でよし、そのままでよし、ラーメンやおそばによし、潮の香りと味がなんともいえない、ちょいと焼いたらくさやの臭いと磯の香りで、もう言うことなしであった。
沖縄を舞台にした老人の初恋物語の名作「ナビイの恋」の中で確かこんな歌があった。♪〜一銭二銭の 葉書さえ 千里万里と 旅をする 同じコザ市に 住みながら あえぬ吾が身の せつなさよ

ヨットマンの持ち船は大きい。
今はどこ辺りにいるのだろうか。天気予報では台風10号が東京へ、スカイマーク機は沖縄へ飛んでくれるだろうか。30日に来るはずだとか。


この国は日々何らかの自然災害がある。
人による被害はそれ以上ある。事前防災できることからはじめよう。
何、奥さんから無視されているってか、それはきっと大切な何かを忘れているんだよ。
先週食べたパクチーの味が残っている。パクチーもまた独特の味だ。
私はこれといって苦手な食べ物は無いが、何故かホタテ貝だけ4年前からアレルギー物質となった。沖縄に行ったらアグー豚のしゃぶしゃぶを食べようと思っている。
すでに腹がグーグー言っている。

2016年8月26日金曜日

「また少年が」


少年がまた一人無惨に殺された。
そしてまたいつものように、いい子だった、あいさつがしっかりとできた、あの子がなんでこんな酷い目にとご近所の人々が語る。
少年は家を離れるようになり、悪い仲間と遊ぶようになっていたようだとも語る。

だが大人たちは実は何もしていない。いろんな変化をしていても関わり合いを避ける。
そして少年が死んでいた所などに花やお線香やジュース、お菓子などを持って行き、手を合わせてご家族に同情しますとなる。

私は何度も見るエセ同情に嫌悪感を持つ。
半分は野次馬根性なのだ。
髪の毛を染めただの、見た目の服装が派手になっただの、実に細かく見ているくせに少年にひと声かけてやる勇気を持っていない。否愛情を持っていない。
むしろきっといつか何か起こすぞと期待をしたりしているのだ。
少年少女が不良になっていくには必ず変化のプロセスがある。

トリュフォーの名画に「大人は判ってくれない」というのがあるが、本当に大人は少年たちの孤独を知ろうとせず、観察者、傍観者を演じる。
オッどうしたやけに派手になったじゃないか、何か相談事があったら来るんだぞ、そんなひと声が大切だと思っている。このジジイ、このオヤジ、このババア、このオバサンは俺のことを見てくれているんだ、俺の味方なんだと思うだけでも大きな救いとなる。
お説教はダメ、ウルセイなとなってしまう。

私にも年頃になっていく孫がいる。
ひと様のことをとやかく言えないが、私は私の経験を活かせたらと思っている。
なりたくて不良になる少年少女はいない。
殺した少年たちも、みんなで“やっちゃえ”だったとしたらやはりこのフレーズは怖しいと思った。
私にどこまで勇気があるか分からないが、私はひと声かけて来た。

ある少年がちゃんとした大人になり結婚をしたという話を、先日いつも行くおそば屋で友人から聞いた。殺された少年の親は何をしていたのかはここでは語らない。
警察の少年係は何をしていたのかも語らない。
「翼」といういい名を持っていた少年が、暴行され、川に流され全裸であの世に飛び立ったという事なのだ。(合掌)