♪〜ち、ち、ち、ち、ち、ち、ちち。僕の恋人 東京へ行っちち 僕の気持ち(心だったかな)を知りながら なんで なんで なんで どうして どうして どうして そんなに東京がいいんだろ 僕は泣いちっち 横向いて 泣いちっち 淋しい夜はいやだよ 僕も行こう あの娘の住んでる東京へ・・・。その昔三人ひろしという人気歌手がいた。「守屋浩」、「かまやつひろし」、「井上ひろし」だ。このやたらに、ち、ち、ち、が出てくるのは、守屋浩の大、大ヒット曲「僕は泣いちっち」だ。ホリプロダクションという、大手芸能プロダクションがあるが、その基礎は「守屋浩」が築いたと言っても過言ではないだろう。ホリプロ初代社長の堀威夫は、守屋浩の恩を忘ればずっと役員にしていたと聞いた。今、なぜこんなことを書くかと言うと、過日乗った列車の中で、70代中頃のオジサンが車窓を眺めながら、その歌を口ずさんでいたのだ。私の胸はトキメイた。話しかけるべきか否か悩んだ。おじさんはなかなかいいスーツを着ていて、靴がよく磨かれていた。持っている茶色の鞄もかなりの代物に見えた。列車が平塚橋を渡るころ、鞄の中から小田原名物鯛めし弁当を出した。その間もち、ち、ち、ちち、僕の恋人 東京へ行っちちを口ずさんでいる。小田原の鯛めしといえば、うす桃色の鯛おぼろが大半を占める。オジサンがゴフォンとせきをしたら、鯛おぼろが少々飛んだ。私は思い切って、スイマセンなんで守屋浩なのと聞いたら、詳しくは言えない。いろいろあったんだと言った。十代の時はじめて東京に来た時、本当に東京は遠かった、と言った。東京って何なんですかね、私は嫌いなんですと言って。鯛おぼろを口にした。口周りに鯛おぼろがついた。“井上ひろし”の「夜に咲く花」もよかった。♪〜及ばぬ恋とあきらめました。だけど恋しいあの女性よ ままになるなら もう一度 一夜だけでも・・・。こんな歌が生まれない時代になってしまった。“かまやつひろし”の歌は、♪〜下駄を鳴らして奴が来る 腰に手ぬぐいぶら下げて・・・。確かそんな歌がヒットした。昨日深夜一枚のFAXが届いた。高校一年の時の同級生からだった。なんでも野球部の同窓会があって、そこに一人の先輩が来た。その先輩と私が縁浅からぬ仲だったと知ってビックリした。で近々会おうぜと書いてあった。あの頃、「僕は泣いちっち」が流行っていた。(文中敬称略)
2018年10月26日金曜日
2018年10月22日月曜日
「赤いリンゴ」
植物や生き物たち、そして季節を告げる鳥たち、彼等の変わらぬ営みには到底私たち人間はかなわない。
数千キロを飛んで来る鳥たちを見ると、自らの苦労などと比べようもない。
マイナス50度の中、我が子(卵です)をじっと一ヶ月以上温める皇帝ペンギンの父。
どうしてこんなに動きにくい体型になったのかと思うペンギン。
母親ペンギンはトボトボと海を目指す、そしてやっと食べ物にありつき、体いっぱいにためて、ひたすら”夫ペンギン”とその子のところに辿り着く。
途中で死んでしまうのも多い。
膨大な数がいるのに、夫と我が子を間違えない。
何も食べずに”妻ペンギン”を待つ。こんな夫婦愛と親子愛は、現代社会では、夢物語だ。
今年も小さな庭に秋から来年三月まで、置いた赤いリンゴを食べに来るいつもの鳥が来た。どうしてリンゴがあるのを知っているのだろうか。遠い鳥の国に帰った鳥が、教えたのだろうか。
スーパーに行って一袋に六個、350円を持ち帰った。
何故だか緑色のリンゴは好まない。柿やミカンも、バナナも好まない。
♪~赤いリンゴに口びるよせて…。こんな古い歌を口ずさんだ。
私は未だ未だ苦労が足らないのだ。金曜日まで400字のリングは、休筆です。
長い書き物に挑戦中なのです。
2018年10月18日木曜日
「パワハラの定義とは(?)愛」
昨夜、というよりは本日午前一時チョイ前、パワハラの定義について、イロイロとテレビで出し合っていた。昨日夜、かつて私のところで働いていた二人の男がそれぞれ新しい会社に入り、その入社祝いをやった。一人は大手広告代理店の映像部の部長になっており、一人は大手外資系広告代理店のスーパーバイザーになっていた。立派になった二人をみてうれしくなった。二人とも入社時は、右も左もわからない新人だった。(一人は少しキャリアがあったが)映像部門の会社に入って来た。その会社とは今、私はいっさい関係はない。ただ何人か新人として入って来た男が、立派な役員となっている。さて、パワハラについての定義だが
バカなことをやったら、バカヤロー、チンタラチンタラやっていたら
バシッとしろバシッと。つまんない案ばかり持って来たら、全然つまんねえんだよ、お前この仕事向いてないから他の仕事考えな。ちゃんとしたあいさつができなければ、ちゃんと立ってあいさつしろ、もっと大きな声で返事しろ、相手が電話切らない内に、電話を切るんじゃねえ、えっ、何、土、日、休日も出てがんばりました。それでこんなの、まったく理解してないんじゃないの、時間をかけりゃいいってもんじゃないんだよ。もう時間がないから俺がやる。ガァ〜ン、ボコボコ、パチン、ゴツン。痛い何すんですか、オマエそれでもプロ目指してんのか、映画見てるか、美術展行ってるか、新聞位読んでんだろうな、えっ新聞とってねえの、落語とかライブコンサート行ってるの、一日中机にへばりついてんじゃないんだよ。オラー気合い入ってんのか、立派になった二人はまい日こんな中で育ったのです。激しく怒り、激しく育てる。それが現在ではパワハラになって、労働基準局かなんかが調査に来て、業務停止になる。私は歳と共に丸くなり、やさしくなった。そう言う人にも多い。ある格言がある。「時間のない仕事は、いちばん忙しい人に頼め」何故か、言うまでもない。仕事がテキパキ速くできて、誰よりすぐれた仕事をするからだ。チンタラして、ブータレて、ノーガキばかり言っている人間に、それってパワハラです!なんて言う資格はないと思う。根性出して独立した人間を見ていると、見違えるように立派になっている。なんと映画に大金を出資してくれた強者もいる。一人、二人、人を使うようになると、人を使いながら育てるっていうのは大変ですねと。そう言うほど成長している。昨日昼、かつて私のところにいた男が、近所に来たからとか言って、ずーっと前に送った(勝手に選んで)本の代金を持って来てくれた。きっと私がいないからと、とてもいい手紙が封筒に入っていた。余分にお金が入っていたので、500円の借りだ。少しだけ顔を合わせた。オッ、オッ、元気か、うれしいことにいい顔つきになっていた。あとで会社の人間に聞いたら、何人かスタッフを使って立派に会社をやっているとか、こんなウレシイことがあるから、がんばって行けるのだ。私は会社にいてくれる人、退社して外にいる人、等しく仲間だと思っている。とてもお世話になっているのだ。すごく迷惑をかけているのだ。パワハラの定義はきっと会社というものがある限り、分からない。正しい答えはない。愛のムチ、愛の無視というのもある。バッコ、バッコの、ボッコ、ボッコ。今はもう思い出話であった。昨日午後二時〜、台東区生涯学習センター2F、ミレニアムホールで、浅草活弁祭りがあり、“麻生八咫(アソウヤタ)”父娘の活弁を見た。この感動は後日詳細を記す。300席のホールは、満員で立ち見の人が10人位いた。無声映画の名作であった。ぜひにと案内状をいただいた。過日あるイベントで無理もお願いした。文部大臣賞を活弁で受賞した名人である。もの凄い熱気であった。
2018年10月17日水曜日
「凶悪」
「地面師」がイモズル式にパクられた(捕まった)。映画「凶悪」で、“リリーフランキー”が怪演したのが地面師である。 映画ではヤクザ者の男から、“先生”と呼ばれていた。現在無期懲役で収監中である。何人も殺しているのだが、殺人に関しては一件しか立証できていない。その先生の使いパシリをやっていたのが、ヤクザの中でも、あまりに凶暴なことで有名な、一人の親分だった。確定死刑囚なのだが、何人も何人も、山に埋めたり、住宅を建てる土地の下に埋めた。分かっているだけで、五人らしいが、実態は分からない。死刑を少しでも遅らすために、小出しに遺体を埋めたことを話し出す。当然警察は遺体を発掘する。証言通り出て来ると、それについて追捜査するので、死刑囚の執行はできない。映画では、“ピエール瀧”が怪演していた。いかなる暴力団、ヤクザ者も“地面師”は、ヤバイ存在なので手を出さない。ヤクザ者たちは、地面師のパシリとなり、報酬を求める。「地面師」はその土地のルーツというか、歴史をスミからスミまで知っている。つまり「その土地」の歴史を。代々、代々、代々と、その土地の歴史を調べて、筋書きを生んで行く。戦国時代の前から、太平洋戦争にかけて、日本の土地の登記書などは焼失した。元華族などは身分を廃止され、生きて行くために土地を手放した。空襲などで住んでいた家の主が死んでしまった。駅前の一等地は、当時第三国人と言われた、中国・台湾・韓国人が、ここは“勝者”のオレたちの土地だと好き勝手に奪い取り合った。東京の駅前をはじめ繁華街のいい土地は、第三国人のものとなった。それは現在にも続いている。駅前開発は地面師との、戦いでもあった。知人だった元刑事は言う。よく身元不明の人間が、山の中から白骨遺体で出て来たり、海からバラバラになって出て来たり、突然変死したり、自殺に見せかける。それには、たいがい地面師集団がからんでますよと。地面師はリーダーらしき者がいる。その下にいろんな役目がいるのだが、その実態は複雑で本丸に行き届かない。地下の地下の地下にいる、黒い生き物なのだ。詳しく知りたい人は、映画「凶悪」を見るといい。人間という生き物の本質を知ることができる。金という「エサ」を食べて行くために、人間は地球上でいちばん凶悪となる。
2018年10月12日金曜日
「塩害とフグ」
二週間続けて月曜日が休日、得したのか、損をしたのか、一週間が早く過ぎてしまった。昨日人に会うために日本橋近辺を歩いていたら、街路樹がうす汚く茶色になっていた。塩害である。度重なる台風が日本橋まで塩害を浴びせたのだ。風の来た方向だけが茶色になっている。海のそばの小さな住まいに暮らす私の家の坪庭(らしきもの)にある樹木も塩害でボロボロになってしまった。玄関(らしきもの)の脇にからまる、蔦もボロボロになってしまった。ママチャリ二台と、私用のハイコロ(自転車のこと)は、塩風でサビの上にサビが重なっている。チェーンは茶褐色となり果てた。こうなりゃ、CUREの556しかない。これを発明した人にはノーベル賞を授与していいと思う。何しろ全て動かなくなった、ネジが556ひと吹き入れると、スルンスルンと動き出す。サビついた人間関係や、仕事関係、親兄弟、親類関係も556で、スムーズになるやもしれない。初物のフグを食した。ヒレ酒も二杯飲んだ。酒は私にとって556である。一ヶ月近く禁酒をしていたので、すこぶる旨い。フグはまだその味が若い。あと一、五ヶ月位すると、グンとよくなるはずだ。年末にもう一度、自分へのご褒美として食すつもりだ。その後久々に銀座へ出た。兄弟分とデザイン界の大巨匠と会うために。ここでは半合しか飲まなかった。やはり銀座の夜はいい。ここでも街路樹が塩害にやられていた。もうこれ以上スリットを入れたら、全て開放と思う女性が緑のチャイナドレスでお客さんを送っていた。又ね、又ね、又来てね〜と言って送ったあとだった。ソロソロあの客飛ばしてやるか(破滅)と決心したかのように、ジッと立ちつくしていた。お店の中で、ケーキにローソクを立ててみんなで、ハッピーバースデーをやっていた。不粋なヤローだと思ったが、店のオーナーがいちばん大声ではしゃいでいた。銀座での粋な飲み方は、客が混んでいたら、40分位でサッと席を立つ、ガラガラなら、次の客が来るまで粘ってやる。席がそこそこになったら、ハイサヨナラと席を立つ、これが銀座。赤坂はもう少し長く。六本木はさらに長く、西麻布は説明ができない。あの人、あの方、あっあいつ、まさかあいつらを見ることとなる。私はもう全然近寄らない。♪〜夜がまた来る 思い出つれて 俺を泣かせに 足音もなく 何をいまさら さびしかないが 旅の灯りが 遠く遠く見えるよ・・・。小林旭の歌を口ずさみながら、えっ、もう明日は金曜日と酔いが醒めた。ヤバイ原稿の〆切だ。
2018年10月10日水曜日
「サラバ黄金の左よ」
元横綱輪島が亡くなった。大好きな力士だった。 左の下手を取ったら、白鵬も勝てなかっただろう。もっとも白鵬も左下手狙い、差し手争いがきっと凄かっただろうと思う。学生出身で唯一の横綱、優勝14回は立派だ。ずっと昔の話だが、輪島とラスベガスで出会ったことがあった。カジノのホテル内に、ステーキハウス「ベニハナ」があった。輪島はイロイロあって相撲界から引退し、日本プロレスのジャイアント馬場の弟子になっていた。ベニハナは人気でお客さんが列を成していた。ジャイアント馬場とその妻、ボストンバッグを持った輪島が私たちの前に並んでいた。バクチは輪島にはご法度だった。私とプロデューサー、カメラマンはグランドキャニオンで撮影した後、真っ暗の中マニュアル片手に、未だほとんどフライトしたことのないという、パイロットに命を託し、8人乗りの飛行機に乗った。左右体重が同じ位になるように、体重計の上に乗った後であった。どうしてもラスベガスに入り、翌々日ロサンゼルスに飛ばねばならない。着陸後まず腹ごしらえとベニハナに行った。鉄板の前に座ると、すぐ前にジャイアント馬場夫妻がいて、輪島がその隣にいた。私が横綱バクチしたらダメだよと言ったら、肩をすくめて、ニコッと笑い、シマセンよと言った。14回優勝の財産をバクチなどで溶かしていたからだ。ジャイアント馬場は太い葉巻をプカプカしていた。 顔がとてつもなく大きかった。ジャイアント馬場は大変な読書家で、かつてあった銀座近藤書店のキャラクターにも起用されていた。又座談の名手でもあり、その話はウィットに富み教養に満ちていた。そんな話をカメラマンたちとした。それにしてもよく落ちないで無事着いたなと乾杯した。食事を済ませ、しばし仮眠をとり、午前2時頃カジノに行った。すでに私はバクチと縁を切っていたが、少し21(トゥエンティワン)をして負けた後、バカラのテーブルに行くと、いたいたやっぱり輪島がバクチをしていた。横綱ダメじゃないのと言ったら、肩をすくめてニコッと笑ってちょっとだけと言った。そこにデーンとジャイアント馬場がいた。そのずっと奥にハマコー・コーナが表示されていた。浜田幸一代議士がバカラで3億円以上負けて、有名な所だった。本当はVIPルームで負けたのだろう。観光名所のように仕立てていた。カメラマンとプロデューサーは、バンバン、ジャンジャン負けて、カードでキャッシュを引き出していた。もうメチャ負けてて、持っていたカードが使えないと言っていた。私の大好きなカメラマンは、大好きなカジノでゲルピン(金無し)になった。ハイナシ(文無し) エレジーである。輪島と以前夜の赤坂で会った。店の女の子にサインをせがまれて、花籠部屋の“籠”の字が書けないとこぼしていた。輪島がいた日大の相撲部と花籠部屋は、阿佐ヶ谷にあって、隣同士であった。阿佐ヶ谷の一番街でよく飲んでいたので少しだけ顔見知りだった。力士たちとよくモメて、ガッツン、ガッツン殴り合っては飲み直しみんなと仲良しになった。輪島は横綱となり天上人であった。富山県七尾市出身、現在午前4時51分02秒、朝刊を見るとやっぱり輪島は死んでいた。天国で宿敵北の湖とバカラでも楽しんでくれ。北の湖は堅物で有名であった。でも銀座ではお触りをする人間らしさがあった。晩年声を失って筆談であった輪島、天国ではきっと声も出せるだろう。ご冥福を心からお祈りする。(文中敬称略)
2018年10月9日火曜日
「きしめんと、スッピン」
昨日朝小田原発10時8分で名古屋へ行った。仕事をおてつだいさせてもらったマンションのモデルルームが完成した。すでに一ヶ月近く経っていたが、諸々仕事があり、又、台風の影響でスケジュールが狂った。名古屋は天気晴朗だった。タクシー乗り場の側に、プレハブの交番があった。そこに大きな木製の看板があり、下手な筆文字で、「みかじめ相談所」と書いてあった。みかじめとは、用心棒代(略してジンボー代と言う)さすが山口組六代目の地元である。タクシーに乗り、運転手さんに、この頃ドンパチはあるのと聞いたら、全然静かなものですよと言った。来年高山若頭が出所して来るので、静かにしているんですよ、暴対法もあるしね、とやけに詳しかった。モデルルームはとても明るくて、よく出来ていたのでうれしかった。休日なので予約したお客様が相談コーナーにたくさんいた。シニアの夫婦、若いカップル、小さな子(一歳くらい)をダッコした夫婦、大切なお客様のジャマをしてはいけないので、サラ、サラッと見た。シアタームービー、立派な模型の部屋、挾土秀平さんの作品、バッハ幅さんのコーナー、浅葉先生のマークの紹介ボード、各種ポスター、大型ポスター等々を見た。日当たりがよく明るかった。販売会社の人が親切に応対してくれた。顔を知っている女性もいて、蘭の花をありがとうございますと、言ってくれた。(オープンの時に送った。入り口にたくさんの蘭の花が置いてあった。)次に待ってもらっていたタクシーに乗って、工事中の現場を見に行った。未だ基礎の段階だった。仮囲いに大きなキービジュアルがあった。その後名古屋駅へ。三連休の三日目、キップ売り場には長い行列が出来ていた。外人さんが多い、とても多い、ものすごく多い。中国人やアジア人より白人系が多い。私の前に並んでいたのは、やたらに太った40代の白人男性、その連れが日本人女性、34•5歳だろうか。ノーメイクであった。が、とても美しい。スッピンでこれほど美しいのだから、メイクアップしたら、女優さんと同じになるだろう。なんで、こんな野郎にと思った。男のダブついたジーンズから、白いシャツがはみ出ていた。90キロ位はあるだろう。女性はやけに疲れきっていた。目に輝きがない。二人はキップを手にして消えて行った。腹が減ったなと思った。小田原止まりは、一時間に一本しかない。残り時間はあと26分。ヨシ、ホームできしめんを食べようと思った。名古屋のきしめんは、駅のホームが一番ウマイ。海老天きしめん680円を頼んだ。たっぷりとカツオ節がのっている。昔、オマエヨオ、きしめんみたいにヘラヘラしてんじゃネエなどと表現していた奴がいた。きしめんはすすった時の独特のズルズル感がいい。かなり無秩序な音がする。山梨のホウトウはかなり厚めであって、ヘラヘラとしていない。名古屋駅ホームのきしめんは、私の知っているヘラヘラ野郎と違って、天下人を生んだ誇りがある。信長、秀吉、家康の歴史が、やや薄めのつゆの中にある。空腹が天下を取ったように、満たされた。赤い制服を着たおじさんが、テキパキと働いていた。ホームには人、人、人。指定席は売り切れていた。が、指定席に空きは必ずある。車内精算でOKだ。「赤福」か「ういろう」か「煮込みうどん」を買うかと思ったが、やめた。列車は時刻通り入線した。指定席の空きを目指して、一両、二両と車内を歩いた。オッ一つ空いている。右三人、左二人、その一つ。多分時間に間に合わなかったのだろう。オッ三人の方を見ると、キップ売り場にいた、太った男とスッピンの美人。すでに目を閉じていた。太った男を相手にして疲れたのだろうと、よからぬ想像をした。女性がいちばんセクシーなのは、スッピンである。
2018年10月5日金曜日
「アラマ出てきた」
昨夜 DVD のデッキが怒って機能停止した。途中まで見ていた映画のその先を見ようと、手にしたボタンを押したら、 DVDが出たり入ったりする。このバカアホとボタンを押したら、入ったまま出てこなくなっちゃった。ヤバイ、レンタルしてきているのを返却するのが今日なのだ。何度もボタンを押して、悪かった、ゴメンと言いながら、黒いデッキをゴツン、ゴツンと叩いた。このデッキはメカオンチの私には、これ以上カンタンなのはないという、超安価なものであった。思えば随分と長い間お世話になっていた。もっと大切に付き合うべきだった。東京発21時30分の湘南ライナーに乗って22時25分頃辻堂駅に着いた。タクシーで帰ろうとちゃんと並んだら、ちゃんと並ばない奴がいたので、ああ若い頃ならテメエちゃんと並べと言ったはずだが、朝早くから動きまくっていたので、心身共にチカレタベェ〜になっていた。心の中に歳を感じる自分がいた。家に帰ってアレコレ片付けて映画を見なければと思った。で 、ボタンを押した。どうするべえと思ったのは午前1時過ぎ、超旧式の FAX が動いた音がした。なんだろうと思ったら、あっそうか親愛なる兄弟分に頼んでいた和文英訳が送られてきたのだ。で、届いたよアリガトサンと電話した。この人はロサンゼルスにやたら強くて、いい人に頼んでくれる。今日は面白かったぜ、Vシネの王様みたいな人の誕生パーティーに行った話を聞かせてくれた。 Vシネも売れない時代になっていると言った。話のついでに今デッキの中に DVD が入ったまま出てこないんだよと言ったら、さすが兄弟分、それはオレも経験したよ、ガチャガチャやると相手は精密機器、記憶しているデータが狂ってしまったんだよ、一度電源のコンセントを外して、リセットしてみたらと言った。あっそうやってみるよと、2本を抜いて、2本を入れ直したら、アラマとDVDが出てきた。すぐに電話をしてアリガトサンと言った。そんじゃ10日知人の出版パーティーで会おうぜとなった。現在午前1時47分38秒。映画の続きを見始めた。映画を見ながら夕刊を読む。日経の夕刊一面に「トヨタ・ソフトバンク提携」の大見出しが踊っていた。両社の有利子負債を合わせると、30兆円位になる。日本の国家予算の3分の1位だ。時代は激しく動いている。超大会社も生き残りをかけて。いわんや我々小会社はどうする(?)。「現状維持は、後退だ。」 こんなキャッチフレーズの、全面広告を思い出した。
2018年10月3日水曜日
「大ファンに」
昨夜帰宅途中の列車の中で新聞を広げて、ウワァ〜、間違えたと脂汗をかいた。沖縄知事選で勝利した、玉城デニーさんを、デニー玉城さんと書いてしまった。思い込みすぎていて、家に着くとすぐに訂正をお願いした。改めて、玉城デニーさん当選おめでとうございます。 翁長さんの遺志を継いでください。午前1時12分8秒 NHK では、新しい大臣たちの記者会見が流れていた。 官僚の書いた原稿を棒読みするオドオドした新大臣、時間はわずか、質問者もわずか、ハイそれでは終わります、ハイ次と進む。この前にノーベル医学生理学賞を受賞した、本庶佑京都大学特別教授(76)の鮮烈な記者会見を見ていたので、その差に愕然とした。国に対して毅然と物申す姿に久々に感動した。聞けば日経に載った早刷りの記事を、遅刷りでカットされたとか。あまりの了見の狭さにも愕然とした。教授は賞金を後進のために使うと言った。目先のことばかり追うのではなく、もっと基礎に国は予算を使えと言った。発見は思いもよらないところにあるのだからと。典型的な亭主関白、大の阪神ファン、大のゴルフ好き。その佇まいは、男のダンディズムに満ちていた。背筋をピンとしてキッと正面を見据えていた。新大臣たちは下ばかり見ていた。 原稿を読み違えないために。目はキョトキョトと泳いでいた。大の阪神ファンの教授に、どうしたら阪神は強くなるでしょうかと言う記者の質問に、ピシャッとひと言、指揮官を変えなきゃダメ、もうひと言、もっと藤浪を使わないとダメと言った。藤浪とは投手の藤浪晋太郎選手のこと、150キロ台の球で相手の打者にぶつけることが多い。恐怖の投手なのだ。教授はそんなところが好きなのかもしれない。指揮官を変えろは、国に対して言ったのかもしれない。私は教授の大ファンとなった。
(読売新聞より)
2018年10月2日火曜日
「台風の速さ」
確か先週の水曜日だったと思う。沖縄でホテルを経営している友人に、電話をかけて、知事選はどう(?)と聞いた。友人は玉城デニーさんがリードしていたけど、佐喜真淳陣営が、ひっくり返したみたいだと言った。何しろ建設業界とかいろんな業界にものすごい締め付けを行っている、それに創価学会がフル回転しているとか、佐喜真氏が所属している日本会議も動いている。そうか、なんとか玉城デニーさんに勝ってもらって、この救いようもない悪政の流れを変えてもらいたい、そう思っていた。台風がまた近づいてきているようだから気をつけて、勝ったらきっと沖縄に行くからね、と言って電話を切った。台風24号は投票日の30日にピッタリ照準を合わせたかのように、大きく、広く、ゆっくりと沖縄を目指していた。歴史は必ずひとつの分岐点がある。命脈が尽きる時とか、悪運が尽きる時だ。政治のプロたちはそれを敏感に感じていたはずだ。この台風が吉となるか凶となるか、神風となって無党派の人々が棄権してくれるか、あるいは台風で投票率がグンと下がるか、頼む30日に沖縄に来い。佐喜眞陣営の選挙のプロたちは祈っていたはずだ。なぜなら自民党内において独自の調査をしていて、玉城デニー氏に大きくリードされている。期日前の独自の調査でもリードされている。自民の票も鉄壁の公明の票もかなり食われている。沖縄の知事選は大官房長官マターの選挙、公明もその官房長官の盟友、学会の選対を仕切る副会長のマター。ここで負けるとアメリカから見放され、学会での力を失ってしまう。客寄せパンダと化した小泉進次郎氏は、三度も沖縄で演説をして、その日和見主義を味方からも笑われる。いわゆる“逃げ恥”ばかりだ。政治家としての処世術ばかりを身につけた。(ある大物自民党政治家がテレビで語っていた。やっと政治家になって来たと。)台風24号は絶妙な早さで沖縄を通過した。30日にはほぼ去っていた。自民党内には投票率が61%を超えたらマズイと言っている者がいた。日本人は何かをやり遂げようとして、志半ばで命を落とした人に対しては、その志を支持する。いわゆる弔い合戦が強いのは、洋の内外を問わず共通だ。期日前投票に35%以上行ったのは、玉城デニー氏を支持する人々と無党派が多かった。台風が過ぎ去り、午後から投票に行けるようになり、28%くらいの人が投票した。日曜日午後9時過ぎ沖縄の友人から電話が来た。当確が出ましたよ、玉城デニー当選ですよと弾んだ声で言った。そうかそれは良かった。これで流れは間違いなく変わる。沖縄に行くからねと約束をした。今日内閣を改造するだろう。党の人事はすでにニュースに流れている。主要閣僚は留任ばかり。つまり閣外に出すと始末の悪いことになるので、ホールドしている。麻生太郎と言うカッコマンの根性なしは、閣内で飼い殺し、野党への生贄だ。後は軽量ポストばかり。テキトーに割り振って終わる。内閣は改造するたびに弱体化するという。ポストにつけなかった、大量の心待ち議員がブータレるからだ。国会議員及びマスコミ関係、ありとあらゆる情報を手にしている、官邸の茶坊主たちはそれを弄んでいる。官房長官は、大モンスターと化している。ひょっとして沖縄知事選の敗北をよろんでいるのは、安倍総理大臣かもしれない。それで少し大きな力が削げた。が、来年の参議院選挙は退陣含みとなる。私の夢見ている人にいよいよ機会が訪れる。“動かざること山の如し”動いた人間は勝てない。動かされるようになった人間が勝つ。(文中敬称略)
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