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2014年5月16日金曜日

「無力こそ」




老人たちは祈り続ける、神様お願いします、お願いします。
土に頭をつけてどうかクジラが来ます様に。

インドネシアの小さな島にある小さな集落。
そこには4050人ほどしか住んでいない。木製の船が海岸の直ぐ側に10隻ほどある。
遠い昔の生活がそのままある。

漁師を父親に持つ11歳の少年は、銛を刺す名人の父親に憧れている。
この島では物々交換だ。漁師が獲って来た魚や、漁師の妻たちが作る塩と、山の民が作る野菜や果物やトウモロコシや米と交換する。

船には10数人の漁師が乗る。
マグロ、マンタ、シャチなどを手漕ぎで追い、一本の長い木の先につけた銛で体ごと飛び込み突き刺すのだ。

彼等にとって何よりの獲物はクジラだ。
一頭のクジラで集落のみんなが長い間生きていけるのだ。
かつては一年に数十頭近く獲れた年もあるというが、近頃は二、三頭なのだという。
クジラは捨てるところは一切ない。一番いい部位ははじめにクジラを見つけた者に、次には銛の射手に、後はそれぞれ公平に分配されていく。

少年には二人の妹、一人の弟がいる。
父の様になりたいと海に浮かべた丸太を目がけ、岩の上から自分で作った銛を体ごと刺す練習をする。海が荒れ漁が出来ない日が続くと、妻はずっと大切にとっておいたクジラの乾かした肉を小分けにして山の民の村に向かい、食料のバナナやトウモロコシと交換する。

全てが原始的なのだが現代社会が失ってしまった大切な文化がある。
公平、平等、質素、夫婦の役割に対する尊敬、それと平和だ。
時に何袋もの塩を両手に持ち頭の上に乗せ何時間も歩き市場に行く。

少年は運動靴が欲しいと母親にいうが、今日は妹の靴だけよと言われる。
少年は朝早く起きて学校に行く。父親から漁網の作り方を教わる。
妹たちは母親から塩の作り方を教わる。現代人が失った底抜けに明るい笑顔が並ぶ。

神様に祈ってもクジラはずっと、ずっと現れない。
男たちは黙々と船を修繕し、銛を研ぎ、クジラを待つ。

私はこんな人たちに憧れるのだが、私は何も出来ない。
全く何も出来ないのだ。能書きだけで生きて来た男なので、ターザンとかロビンソン・クルーソーとか、小野田寛郎さん、植村直己さんみたいな人には心底敬意を表すのです。海の民、山の民、畑の民、縄文人と弥生人は仲良かったのです。

先夜あるドキュメンタリーフィルムを、いつものグラスに氷を入れ、ジンビーム+ウィルキンソンでハイボールを作り、ゴクリと飲みながら観たのです。
そして大好きな縄文人に思いを馳せたのです。
何でも有るより、何も無い方が人間らしいのです。
「無力」という極意です。

忘れてならないのがグアム島で生き続けた日本兵、横井庄一さん。
帰還後に「耐乏評論家」という仕事を生み出しました。今こそ横井さんの生きる知恵が必要なのです。耐乏論が“待望”されるはずです。




1 件のコメント:

しきろ庵 さんのコメント...

はるか昔(40年ほど前)小生修業中の岐阜の
とある駅で 生前の横井さんをお見かけしたことがあります。講演か何かで奥様と一緒に来られたのでしょう。私のひげ面を見て 驚いた感じの表情を覚えております。