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2016年1月13日水曜日

「期待外れのスタート」



三谷幸喜という人とはまったく付き合いがない。相当な才人であったと思う。

過去形で書くのは、現在その才を持て余したのか使い切ったのか、もともとこんなもんだったのかと思うほど飛び切りのドタバタばかりを作っている。

名も無く、貧しく、美しくの頃は低予算の作品を作っていた。
ドラマや舞台しかり、映画しかり「ラヂオの時間」という映画を観た時に、三谷幸喜という脚本、監督に大拍手を送った。
低予算を逆手に取りアイデアで勝負していた。
言葉がイキイキとしていた。
人間貧乏な時ほどアイデアは出る。

この国は一本ヒットを飛ばすと一気に仕事は増える、ドッバーと来る。
貧乏の頃いつか見ていろと思いながら、決して陽の目を見ない脚本を書き続ける。
売れっ子でないから時間はある。つまり学ぶ時間がある。
人を見る、商店街を見る。海に行き、山に行き、河に行く。
少ない稼ぎを見る、聞く、触るに注ぎ込む、安酒を飲み、青臭い映画、演劇論を語り、音楽のことや歴史を夜が明けるまで語り合う。
実に贅沢なのである。

が、どーんと売れると、次々続々と仕事が押し寄せる。
二度と貧乏は嫌だ、低予算は嫌だと思い、次々続々と仕事を受ける。
インプットよりアウトプットが多くなる。
贅沢な時間を失い、頭の中は出がらしのお茶のようになる。
色味は薄れてやがて色を失う。

一月十日NHKの大河ドラマはずる賢い戦略家の父真田昌幸と、その息子でアイデアのある戦術家の真田幸村の話なので久々に期待をしていた。
だが、三谷幸喜の脚本は全然つまらない。
演出が全然下手くそ、まるでお正月のかくし芸大会を見ているようであった。
歴史物をバラエティ化すると酷いことになる。
「清須会議」という作品も酷かった。

ワガママは全て通り、予算が山ほどあるので使いたい役者や義理のある役者、恩義のある役者やその一族郎党を好きなように起用できる。
脚本はバラバラとなり主題が不明となる。
演出家は三谷幸喜の脚本に忠実たらんとしてザ・コメディ歴史物の共犯者となる。
ドラマの途中にやたらと地図などの説明CGが入るから、社会科の授業みたいである。

大河ドラマからドラマをを引くと、大河だけ。
その大河にすっかり才を失った名ばかりの花が流れて行く。
今後オンタイムで見ることは殆どないだろう。先が見えている。ドタバタの劇が。

それにしても時代考証、美術、衣裳、殺陣は泣きたくなるほど酷い。
撮影、照明も酷い。全て現代劇風である。人間やっぱり貧乏がいちばんだと思った。
ある人が言った。離婚した小林聡美は良きアドバイザーだった、その人を失った三谷幸喜の脚本は輝きを失った。

楽しみにしていた真田幸村は、ヒョーキンな半沢直樹になっていた。
バーロー、三谷幸喜脚本を見なおせだ。文句あったらぜひご連絡をだ。
最後にこの国は、こいつはもう終わったとされると、これでもかというほど見放される。「真田丸」第一話の視聴率は19.9%これからずっと低下すると私は思っている。
(文中敬称略)

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