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2016年2月24日水曜日

「養老乃瀧」



昨夜朝早い仕事に備えて、川口ステーションホテルに泊まった。 ビジネスホテルにしてはかなり広く、宿泊代は5500円だった。

そのホテルは川口駅の側にあり斜め前に「養老乃瀧」があった。実に懐かしい店名だ。
貧しき若者の頃酒を飲む場所の多くは養老乃瀧であった。コップに濃いウイスキー、ヤキトリにモロキュー、イカの丸焼きなどをつまみに友と飲んだ。
居酒屋チェーンのパイオニアであった。
店内には必ず社長の名が書いてあった。

社長は代々「木下藤吉郎」であった。
このウイスキーを飲み続けると目が潰れるぞなんて言われても濃いウイスキーを飲んだ。
すっかり忘れていたが店の入り口に目標支店6000店と書いてあった。赤い看板である。

日本の三大七夕祭りといえば、仙台、阿佐ヶ谷、平塚。その阿佐ヶ谷に一番街という日本でも有数の飲食街があった。当時数百店位あった。
15〜19才迄ここで酒を飲んだ。
一番街のいちばん奥、高円寺に近い所に養老乃瀧があった。

夜になるとそこにみんなが集った。
他の客は会社員、ゲイボーイ、ヤクザ者、フーテン、テンプラ学生、ホステスさん、チンドン屋さん、黒服、流し、地面師、雀ゴロ(麻雀のプロ)、パチプロ(パチンコのプロ)、ゴト師(イカサマ師)、愚連隊、右翼、大学の応援団、スケコマシ、ヒモ、花龍部屋の力士、日大相撲部の学生、的屋、職人などが毎夜集まり飲みまくる。
モメ事が起きない夜はない。
何しろみんな血走って飲んでいる。酔うために飲んでいる。酒を楽しむなんて人は来ていなかった。

半世紀以上養老乃瀧に行っていないが今はどうであろうか。きっとスマートになっているのだろう。
外からちょいとのぞいたら若い男女でいっぱいだった。
木下藤吉郎さんが今でも社長名なのかは分からなかった(社長になった人が名を継ぐのが決まりだった)。

あの頃飲んでいたウイスキーはどこのウイスキーだったのだろうか。ケンカして殴り合い、口の中が裂けた時そのウイスキーでよく消毒した。
傷口にしみる味がたまらなく心地よかった。

亡き母によく言われた。
あなたは一年中生傷が絶えないのねと、傷の一つ一つが友情の証、後輩を守る証、ケジメの証だった。一番の証は、惚れた女への証だった。
ヤスキク(気安く)自分の女に声をかけたらその男は即ジ・エンドであった、今度養老乃瀧に行ってみようと思った。

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