ドン!ゴロゴロ!ピカッ!バリバリと天は割れた。
ザァーと雨が落ちてきた。
5月10日午後二時頃であった。
私は浦安に敬愛している友人、原田徹宅に居た。原田さんはCM界の伝説の演出家だ。
日本中は勿論、世界中の広告賞のグランプリを文字通り総ナメした。
その生み出す映像の世界は、時に美を極め、時には詩情に満ち、又時には壮大なスケールで歴史のロマンを造り出した。
受賞の数は三百を優に超え、未だ誰の追従も許さないでいる。
私はこの大演出家と三十余年あらゆる作品をご一緒させていただいた。
特にキリンビールのラベルに描かれている伝説の聖獣麒麟のロマンを追った作品はその名の通り伝説の作品として語り継がれている。ビール発祥の地エジプトからトルコ、タイ、中国、ネパールの山の中、そして日本へ。
シルクロードを舞台にCMではおよそ考えられない作品であった。
足かけ7年このシリーズは続いた。
私は当時第1企画のスーパープロデューサー&プランナー立花守満氏(抜群の人)とコンビを組んで、企画とコピーを参加させていただいた。数ある作品の中でもひと際愛着のある作品であった。
勿論あらゆる国内外の広告賞のグランプリを受賞した。
コンピューターグラフィックのない時代、全て実写であった。
原田徹はトレードマークの日本陸軍の軍帽を被りヨーイスタート、ハイカットを繰り返した。
一分一秒に命をかけたその人が、今一分一秒も止まぬ激痛と闘っている。
六十歳から七十歳になった十年は正に病魔とのデスマッチであった。
パーキンソン病他、これでもか、これでもかという病が津波の如く原田徹を襲った。
一日18種33錠を毎日服用しているという。パーキンソン病で全く文字を書けなくなった時、リハビリのメニューにぬり絵があった。もともと金沢美大で油絵を学びその絵は見事であった。
先生やトレーナーたちが少しずつリハビリをしてくれた。
一ヶ月に一度か二度はどうですか?と電話を入れていた。そして私は原田徹にいった。
「原田さん、個展をやりましょう。私がキチンとプロデュースして実現しますから、それを目標に絵を描いて下さい」と。はじめは気乗りが薄かったが段々と絵描きの本性が現れて来た。
そして一枚、又一枚、ぬり絵、線画、水彩、そして油絵とすすんだ。
百人一首はなんとその長さ21メートル、源氏物語、平家物語は圧巻である。
なんと120号の油絵まで生まれていた。浦安の市民ホールのギャラリーを借りて実行する。
ガラゴロピカピカ光る空の下、原田邸で奥さん立ち合いの上打合せする。もうお互いに涙の物語だ。
「やりましたね」といえば、「やっとここまで来ました、絵を描く事でこんなにリハビリが出来るなんて」と奥さんはいう、「絵を描く様になったら一日一日本当に元気になりました」と。
杖をつきながら市民ホールへ一緒に行き、奥さんと、一緒に同行してくれたデスクの女性と会場の申込をしてもらった。
後は広い空間にどうディスプレイするかだ。空間デザイナーの友人に協力をお願いする。
浦安のホールから帰るため車に乗ると杖をついた原田さんと奥さんがずっと、ずっと手を振ってくれた。
豆粒みたいになるまで。
この凄絶なリハビリの歴史は原田さんのご家族、とりわけ奥さんの支える心、そして根気よく励まし導いてくれたお医者さん、看護師さん、精神面を支えてくれたカウンセラー、リハビリのトレーナーの方々の伝説だと思った。
やっぱり原田徹は凄かった。
麒麟伝説の第一弾、ナイル河篇のナレーションコピーは亡き杉浦直樹さんが読んでくれた。
ブースの中で杉浦直樹さんは泣いていた。
ナレーションコピーは次の様な言葉であった
「遥か昔闘いに明け暮れた男たちは母なる河に永遠の優しさを求めた。それは明日への願いだった。角を持ち獅子のたて髪をなびかせ炎の翼を広げ伝説の麒麟は天を駆けた。一枚のラベルにもロマンがある。キリンビール」
皆さんビールの美味しい季節です、一番美味しいビールはキリンビールです。一杯いっぱい飲んで下さい。