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2013年10月30日水曜日

「脈絡なしの中で」




フレデリック・ショパン作曲、バラード第1番ト短調作品23
なんていっても実は私は何の事か分からない、が今毎日この曲を聴いて入眠手続きをする。

何かいい曲がないかと思っていた時、イギリス制作のドキュメントフィルムで知った。
あらゆるジャンルの音楽を私は聴いて来た。音楽はアイデアの源泉だからだ。

ファンキーなモダンジャズの後に演歌、その後にリズムアンドブルース、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、イーグルス。
その後に童謡、その後にウエスタン、その後にプレスリー、ビートルズ、その後にサーマン・マンソンの気狂いロック、その後に石原裕次郎、高倉健、その後にシャンソン、その後に小林旭、美空ひばり、藤圭子、その後にディキシーランド・ジャズ、その後に村田英雄の人生劇場、三橋美智也の哀愁列車、鳥羽一郎の兄弟船、その後にハワイアン、その後に学校唱歌、その後に大好きなトム・ウェイツやジョニー・キャッシュやライ・クーダー、カルロス・サンタナのギターやニニ・ロッソのトランペット等々脈絡なく一日中聴きまくって来た。

中学時代音楽は2であった。
何故1でないかというと、未だ26歳だった女の先生と仲良しだったからだろう。

さてショパンの曲は1835年に作曲された。
ショパンはその時20代半ばだったという。ショパンは7歳にして作曲をしたというから9歳で作曲したモーツァルトより天才だった。

 1930年代祖国ポーランドは分割されていた。オーストリア、ハンガリー帝国、ロシア帝国、プロセイン王国によって。ショパンは逆境にある祖国への熱い思いを抱きこの曲を生んだのだという。39歳でパリで亡くなるまで作曲、演奏活動をした。

バラード第1番ト短調が東日本大震災のあの津波の映像に合わせ、イギリスのピアニスト、スティーブン・ハフの超絶的演奏とシンクロナイズした時、私は目にいっぱいの涙が浮かんだ。わずか9分間の中に戦いと平和、絶望と希望、格闘と静寂、諦念と熱情。
そして十本の指でバンと終わる。

今、心が疲れている、病んでいる、愛に飢えている、孤独に耐えている。
生とは、死とはを考えている。そんな人に是非この曲をおすすめしたい。
泣いて、泣いて、涙をふいてグラスの中を見つめると、生きる勇気が沸いて来る。

鉛色の海、鉛色の空、鉛色の風、無彩色の東北の海に流れるショパンのバラード第1番ト短調、今年最大の収穫の曲であった。人間の感情が全て音符になるなんて。
音符が全て涙のしずくになるなんて。

午前四時七分二十八秒、私はもう一度聴き始めた。
少し濃い目のウイスキーオンザロックを手にしている。東北に行かねばならない。
 3.11を風化させてはならない。私にはやり残している宿題がある。

2013年10月29日火曜日

「まさか」




戦後を生き抜いて来た老婆はどこまでも執念深い。
特に食べ物には。

味覚の秋の脇役といえば銀杏(ぎんなん)だ。
茶碗蒸し、土瓶蒸しという「蒸し社会」の両巨頭に欠かせない。
本物の茶碗蒸しか、真実の土瓶蒸しかはその中に銀杏が入っているかで決まるといっても過言ではない。

老婆は八十歳位であった。
息子夫婦とおぼしき五十代、孫とおぼしき二十代の女性と辻堂駅西口のお寿司屋さんのカウンターに座っていた。人気のちらし寿司には茶碗蒸しが付いている。
1200円+消費税、その家族はきっと何かいい事があったのだろう、松茸土瓶蒸しをアラカルトでオーダーしていた。800円+消費税、私と友人は小上りの座敷で冷酒を一本ずつ飲みながら、ちらし寿司を待っていた。店内は人気なので満杯だ。

「あのおばあちゃん大丈夫かな、あんな高いカウンターの椅子に座って」と言った。
友人が「足がちゃんと着いてないから危ないなと」言った。
「でも、かなりこの店に慣れているみたいだから大丈夫じゃない」と私が言った。
私と友人はとりとめのない話をしていた。

楽天の田中将大選手には神が乗り移ったようだな、東北の大震災で亡くなった多くの方々の魂が田中選手に乗り移ったのだろう、ただ好事魔多しと言う。
このまま勝ち続けると、世界プロ野球史上空前絶後の記録の後に、「もしか」とか「やっぱり」とか、◯☓とか、□△とかを話していると、私たちの側に老婆がいつの間にかいるではないかい。

あたしの銀杏が見つからないの、と言う。
何でも茶碗蒸しの中の銀杏をお箸でつかもうとしてスルッと落ちてしまったのだと言う。何処へ行ったんでしょうねと言って、アッチコッチを探すではないか。
おばあちゃんいいじゃないと息子とおぼしき声、私の銀杏を食べてと嫁とおぼしき声、おばあちゃん私が探すからと孫とおぼしき娘の声、店内二十人近くが銀杏一個に集中したのだ。「オカシイワネ、イッタイドコへイッタノカシラ、クヤシイワネ、ギンナン」と、ブツブツ言って執念深く探したのだ。

私が店の若い衆に、丸いものは「もしか」とかにあるんだぜ、「やっぱり」とか「まさか」の処にあるんだよと言った。ヘイ、わかりやしたと探したが見つからないのであった。歴史はすべからく謎の中にあるものなのだ。

すこぶる食欲旺盛の老婆は出たものはしっかり食べた、しかも銀杏を諦めきれなかったのか、息子とおぼしき男の人がレジで勘定している間も店の下の方をずっと見ていた。

アレこんな処に銀杏がと言ったのは私たちの隣でランチをしていた会社員風四人組、その中の一人の靴の中に銀杏が入っていたのだ。
高いカウンターの処から落ちてバウンドをしてすっかり入ってしまったのだろうと友人が言った。まさか、きっと老婆が立ち上がった時、衣類の何処かについていた銀杏がポトンと落ちたのだろうか。

なあーんだびっくりしたなあと店主の声。その時、老婆は既に退店していた。
今度来たら握って出してあげなよと洒落たひと言を四人組の中の一人が言った。
十月二十八日(月)の午後の出来事だった。
松茸土瓶蒸しの方の銀杏は、ちゃんと口から食道を経て転々としながら老婆の胃袋に入った様だ。

田中将大選手の事は、私の「老婆心」で終わってくれる事を祈るのみだ。
神は時に残酷で、時に移り気だから。

2013年10月28日月曜日

「塩からとんぼ」



塩おからとんぼ


「王将」という歌をヒットさせた歌手といえば故村田英雄だ。
決して餃子の王将の歌ではない。将棋指しの坂田三吉をモデルにした歌だ。

♪〜生まれ長屋の八百八橋というフレーズがある。
村田英雄はこれをヤオヤバシと歌ったというエピソードがある。
これはある作曲家が語った愛嬌だ。

ウソ八百という位だから世の中はずっとウソだらけだったのだろう。
船場吉兆がウソにウソを重ねて廃業した頃すでに阪急・阪神ホテルはウソ八百を始めていた。阪急の祖、小林翁があの世でこれを知ったら怒り八百を持ってこの世に戻って来るだろう。

ある年、ある坊さんがその年の一文字を「偽」と書いた。
既に忘れられたが北海道のミートボール屋さんとか、東横インとか、姉歯建築事務所などがやり玉にされて連日賑やかであった。

誰かが密告(チクリ)したのだろう、偽装は内部告発から世にさらされると決まっている。謝って済むなら警察はいらねえんだよ、という警察も偽装だらけ。
東京電力なんか未だにウソ八百を垂れ流し、汚染水も垂れ流し続けている。

安倍晋三総理などは、完全にブロックされているというが「完全」の二文字を官僚の作成したウソ八百を使い分けている。何にも決められない民主党から何でも決めちゃう自民党となっている。

TPP問題なんかはどんどんウヤムヤになって来た。
農家の減反保障の廃止とか、老人医療負担一割増しとか。
次々と公約破りだ。

かつて稀代の悪法といわれた治安維持法を特定秘密保護法案と名を変えて立法化しようとしている。
この法律は例えばファミレスで二、三人で世間話をしていても、オイ、何を企んでいるんだとしょっぴく事も可能になる。
話している相手が中国人、ロシア人、韓国人、インド人、パキスタン人、イラン人、イラク人、トルコ人、アフガニスタン人となれば更にその確率は高くなる。
外国人は治外法権があるので見逃すとしても日本人は疑われたらずっと追跡される事となる。

外国語を達者に使う人間はスパイではとチェックリストに載せられるだろう。
外国語学校や英会話教室などは元々スパイが多いと疑われてきたからこれから更に目を付けてられる事となる。

ジャーナリストが夢だった、憧れだったという「みのもんた」が自身の言葉を巧みに操って「みのもんた」による「みのもんた」の禊ショーを行った。

 先ず最初に謝罪するのは被害者であり、自分が出演していた局であり、番組を提供していたスポンサーだろうと思う。息子に向かって何かひと言といわれ、「バカヤロー」と言った。それはきっと自分を追い込んだジャーナリズムに対しての気持ちでもあったのだろう(とりわけ自分が身を置いている芸能ジャーナリズムに)。勿論自分に対してでもある。

私なりに考えると息子が起訴されそうな事を察知して行動を起こしたのだと思う。
財布を盗んだ相手に示談にしてもらうためにが本筋だろう。
ラジオなんかで突っ張っているとマズイ事になりますよと当局からアドバイスがあった筈だ。

息子よ、お前の人生はまだ長いこれからだ。俺の身にかけてお前を更生させたい。
父は全てを失うが、お前への愛情は失わない。それだけで十分だった。
「子は育てた様に育つ」というから、私もこの機会に我が身を振り返るのだ。

台風で順延になっていた孫の運動会が十月二十七日(日)快晴の中で行われた。
小学生たちにウソ八百はない。一人ひとり一生懸命全力だ。
親は勿論、応援する親族一同、ご近所一同この日ばかりはみんな仲良しだ。

大人もはじめは子どもだった。指切りげんまんウソついたら針千本飲ますと誓い合った。秋風に揺れる万国旗の下、リレーの選手となった孫が全力で走り友達にバトンを渡す姿を見て、あ〜俺にもあんな真っ白い時があったなーと思った。
毎日運動会だったらいいのにな〜。秋になると必ずこの思いをする。

トンビが数羽空から弁当を狙っていた。トンビもまた、子を育てて居るのだろう。鉄棒のところに塩からとんぼが止まっていた。秋は一気に深まって行く。ガンバレ、ガンバレ大人よだ。

2013年10月25日金曜日

「カキフライ」


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人間の値打ちはその人が何をしているかを見れば分かる。
最も値打ちが高いのは弱者のため、行き場のない人、困った人のために生きている人だろう。

広島県のとある町に一人の老婆がいる。
そこには少年院を出た少年、家出をした少女、不良少年、少女たちが食を求めて来る。

老婆は言う、非行に走る原因は飢えなんですよ、子どもたちは空腹に耐えられない、帰る家もない。帰る家があっても帰りたくない。親に見放されている少年少女はこの老婆の作るあたたかいごはんに失ったものを味わうのだ。
子どもは腹がへると万引きをする、恐喝や売春もするんだ、親が子どもに対して無関心となった時、子どもはすでに非行列車に乗っているのだ。

ある日その老婆を訪ねて十六歳の少女が来た。
あどけなさが残る顔で茶髪をしきりに指でなでながら、お腹空いたご飯食べさせてと老婆に甘える。あーいいよ、いいよと熱々のご飯を出してあげる。
贅沢なおかずは無くとも少女にとっては何ものにも代え難いご馳走だ。
少女はおいしい、うまいよと言って笑う。

親に対しては子どもの方が無関心だ。
結婚したいな、いい人見つけてさ、老婆は優しい顔でそれをじっと聞いている。
老婆はずっとずっとそうして少年少女を見守って来たのだ。

アンパンマンの生みの親が亡くなった。
そんな時にあんぱんで有名な銀座木村屋が身内同士、一族同士、骨肉の争いをしているという。なまじっか財産をたらふく遺すと醜悪なる姿をさらけ出す。
甘いあんこのあんぱんを真っ二つに割るとドロドロした黒い血の塊がツブツブ、ブツブツと入っているのだ。

私は時々木村屋の二階で人と待合わせをする。
先日そこで人と会った、店長とおぼしき人間にオイ、相変わらずお家騒動続きだなと言うと、苦笑いしながら「何しろ木村屋ですからね」と意味深なことを言った。

私はあんぱんを食べる事はない、銀座を行き交う人間観察にはいいロケーションなのだ。それと携帯を持っていないので、和光の上の喫茶室とかその隣の木村屋なら間違いない。

木村屋一族に広島の老婆の生きる姿を見せてやりたいものだ。
あんぱんをどんどん送る位の事をしてもいいんだよ。
銀座のあんぽんたん。従業員は一個のあんぱん売るのに一生懸命なんだよ。

何!木村屋から追い出された人間が行き場、立場がなくて困っているだと、何をいうかあんぽんたん、売り場に出てお客さんに頭下げてあんぱんを売れっていうんだよ、一から出直せだ。売り場は商人の原点なんだから。

さて、今夜はカキフライ、いよいよ広島の季節じゃけんのぉー。

2013年10月24日木曜日

「YOSHINOYA」




東京駅発熱海行。私の最も苦手な東海道線なのです。
人は熱海へと思った瞬間から既に旅行モードに入ります。

男三人組、五十代とおぼしき二人と二十代後半の男。
で当然の様に買い出しは若い男。
発車まであと十数分、第一便まずは缶ビールロング缶3缶、一番搾り2缶とサントリーモルツ1缶。歌舞伎揚げ一袋とサキイカ、サラミ、柿ピー、笹かまぼこ各一袋ずつ。
第二便タカラ缶チューハイ3缶、おーいお茶のペットボトル3つ。
第三便「牛肉どまん中」「北海海鮮丼」「崎陽軒シュウマイ弁当」駅弁各1個ずつ。「まい泉かつサンド」2個。
で第四便、週刊ポスト、週刊現代各一冊、日刊ゲンダイ、夕刊フジ各一紙。
若者はこれだけの買い出しを十数分でアッチコッチソッチとめまぐるしく動き、座席に運んで来た。席をヒックリ返し向かい合わせにしていた。

私はその横にいた。あーついてねえやっぱり次の列車にするべきだったと悔やんだ。
だが私は先に座っており、全体的にまったりと席に馴染んでいた。
新聞を読み始めていた。何しろガヤガヤと入ってきて、オイ買って来てくれの合図で後はフィルムの早回しの様に若い男が運んで来たのだから仕方なしだ。
他に空いている席もない。

プシュ!プシュ!プシュ!と缶ビールが開けられた。
髪の薄い五十代は一気に飲干しプハァーとやった。発車のベルが鳴っている間に。
灰色の髪の五十代が歌舞伎揚げの袋を左右に引っ張りブホッと開けた。
独特の油っこい臭いがプーンと私の鼻の中に入った。

嫌いだ、嫌いだ。
列車の中の歌舞伎揚げは、左手に缶ビール、右手で一枚バリバリ食べだした。
食べた欠片が黒いズボンの上にパラパラ落ちる。
列車は動き出していた、有楽町の駅を通過した、次は新橋だ、またいろんな会社員が乗って来るなと思った。

あの三人が座っている席には一人分空いている、グリーン車代払った人間、誰が座るだろうか、座る、座らないを賭けていた。
三人は新橋ですっかり旅人モード、どうやら翌日熱海で研修会があるようだ。
黒いズボンの上にはサキイカの粉も落ちている。
歌舞伎揚げは三枚目になっていた。

臭い、いっそ新橋で降りて次のにするかと思ったが何で降りなきゃなんねえだと考え、降りる必要性を見い出せなかった。
と、その時すいませんそこ空いてます?と三十代後半の女性が根性決めて言った。

 950円払ってんのに立って行くなんて冗談じゃないとその女性の顔に書いてあった。
えっ、あ、おっ、ど、どうぞと三人はドギマギする。
空いていた席に置いてあった飲料及び食料をナンダナンダノッテキタノカと大移動、すっかり宴会気分はトーンダウン。
何だいこの女ズケズケしやがって、よくまあ男三人のところに座りやがんなと顔に出ていた。

シラー、シラー、シラーとしながら列車は品川に向かった。
バーバリーチェックの短パンに黒のレギンス、丸首の白い長袖に、襟の大きなジーンズジャケット、それをスカーフ替りにして今はやり出したファッションにしていた。
耳にはイヤホン、手には当然スマートフォン。

オッサンたちイケてないよ、歌舞伎揚げいい加減にしてよ、みたいな目線をバチバチっと放った。あんまし美人じゃないけど中々出来ない事をやる女性に拍手を送った。

品川を通過し、川崎を通過した時には三人はすでに駅弁以外をあらかた飲み且つ食べ終えていた。髪の薄い男が「牛肉どまん中」を食べ始めた。
私は臭いに耐えていた(列車以外で食べる歌舞伎揚げは大好きです)。

あの女性は相当仕事が出来るなと思った。
足を組んだヒョウ柄のハイヒールの裏にGINZA YOSHINOYAの文字、銀座の名店皇族が好んで選ぶ靴屋さんだと聞いた事がある。
松屋斜め前、決して吉野家ではない。それ故牛丼は売っていない。

2013年10月23日水曜日

「キンイロヨルマタ」



♪〜ゴールドフィンガー、金色の靴、金色の冷蔵庫、金色のスカート、金色の洗濯機、金色のスマートフォン、金のパスタ、金のパン、金のハンバーグステーキ、納豆金のつぶ、金の麺、金麦のビール、世の中「金」だらけ。
「金」まみれ、何かにつけて金をつければ売れ筋となっている。 

2008年のリーマンショック前の好況期に金色がはやった事がある。
三遊亭金馬などお座敷からの呼び声が多くなったという話は聞いていないが、きっと年末にかけてお座敷が増える筈だ。金太郎飴、金平糖なんかも俄然人気になるやもしれない。

金髪、金の爪、金のアイメークなども勿論はやるだろう。
金のバッグ、金の財布(例え中に金が入ってなくても)、金のシャツに金のネクタイ、金のスラックスに金のスカーフや金のマフラー、金の手袋に金の靴下、金のピアスに金のネックレス。早い話が金箔のプールにドボンと飛び込んで上がってきたら流行の先端となるのだ。

「金色夜叉」などという「尾崎紅葉」の本も売れ始めるかもしれない。
熱海の海岸で貫一に、恋人お宮が金持ちのところに嫁に行くと告げると、貫一は激怒しお宮を突き放す。貫一の足にお宮はすがりつく、貫一は言う、金に目がくらんだかと(正しくはダイヤモンドだと記憶している)。そして貫一は金貸しになって行く。
お宮が嫁いだ先は事業はかばかしくなく没落する。

♪〜熱海の海岸を散歩する、貫一お宮の二人連れ、共に歩むも今日限り、共に語るも今日限りとなり熱海の名所「お宮の松」は生まれた。
あ〜嫌だ嫌だ、金、金、金色の世界なんて。

茅ヶ崎に「鉄砲通り」という名の一直線の道がある。
軍国日本の頃、兵隊が鉄砲担いで行進したらしい。
近所に「兵金山」というのもあるからして藤沢、辻堂、茅ヶ崎近辺は兵隊が集結していたらしい。

その鉄砲通りに夫婦二人で不動産を営んでいる知人がいた。
ある年ポスターを作ろうとなりデザインし、キャッチフレーズをつけた。
「どんなお金持ちのウンコも金色ではない」出来上がりを持って行くと二人は苦笑い、私の顔がゴツイせいか二人はそのまま沈黙してしまった。
まあーいいや一度だけでも貼ってよ、費用はタダでいいからねと言ってその場はサヨウナラ、何日か経った時、自転車でフラリと寄ったら額に入れたポスターは貼ってなく、後向きにしてあった。私を見ると奥さんはカウンター越しに隠れてしまった。
ダンナといえば60歳から始めたサーフィンですっかり金色になっていた。

トホホ、トホホな顔であった。
その後、その夫婦と私の関係がどうなったかは想像にお任せする。
ちなみに中学生の頃「金色夜叉」をキンイロヨルマタと読んだ。




2013年10月22日火曜日

「九人の野球少年」


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平成二十五年五月二十七日(月)、神奈川県にある茅ケ崎一中で、ある野球の試合があった。対戦は一中野球部OBと後輩の一中野球部員であった。 
 OBたちは中学時代のレプリカのユニホームで挑んだ。

このOB の中に私が日頃お世話になっている大野俊幸(大野クリニック)先生がいた。
先生はセンター、ライトが宮治淳一さん、ファーストが大久保義雄さん、キャッチャーが小林茶舗(茶山)、ショートが帝国ホテルの倉本さん、サードが山口無線、レフトが本田材木、セカンドが荻園ふとん屋の鳥居さん、そして背番号1をつけたピッチャーは桑田佳祐であった。

その日私は大野クリニックに薬を処方してもらいに行った。十月十八日の朝である。
私は六番目だったので待合室で新聞を読んでいた。
市の老人検診中なのかお年寄りが多く来ていた。
私が年寄りである事を忘れるほどの人生の先輩たちばかりであった。

これ先生からです読んでいて下さいといって看護師さんが二枚の紙を渡してくれた。
そこには「ロックンロール・スーパーマン〜桑田佳祐の思い出〜」とタイトルがあった。
書き手は大野俊幸先生だ。
茅ケ崎医師協会報第九十六号に掲載された原稿用紙六—七枚分はあるエッセイだった。

五月二十七日、後輩たちには桑田佳祐が来るとは伝えなかったと聞いた。
もしそれを伝えていたらその話題が続々と伝わり茅ケ崎一中に一万人、いや二万人近く観客が押し寄せただろうと先生は言った。

桑田佳祐は中学時代からエースであり、かなり凄い球を放っていて相手はなかなか打ち込めなかったそうだ。先述した名前の表記は先生が書いてあった通りで、きっと先生は親しみを込めて苗字や名前のすべてを書かなかったのだろう。


エッセイが実に同級生への想いを込めたものに仕上がっているのはその名の紹介の仕方にあふれていた。
宮治淳一さんは「サザンオールスターズ」の名付け親とか、市民栄誉賞を贈る尽力をしたのが大久保義雄さんであったと書かれていた。
帝国ホテルの倉本さんはパテシェとして有名な人だ。

 診察室に入った私に先生は記念写真を見せてくれた。
奥様が水中カメラで撮った写真は見事であった。先生の趣味が水中写真と初めて知った。桑田佳祐を前列中央にOBたち、その後ろに後輩たちが五十人程、それと野球部関係者たちが楽しそうに写っていた。ちなみに試合は57で後輩の勝ちであった。
五回で終わりと決めた試合、桑田佳祐は完投をした。

先生と私の会話は検診に来ているお年寄りを待たせてしまう程弾んだ。
また来年やろうと言って別れたと聞いた。

この数カ月後桑田佳祐は茅ケ崎市営球場で帰ってきましたコンサートを五年ぶりに行った。茅ケ崎はサザン一色になり、絶叫と興奮は深夜にまで及んだ。
桑田佳祐は人に愛されるために生まれた稀な人間といえるだろう。
他には長嶋茂雄と石原裕次郎しか私は知らない。

マネージャーだけのガードで試合が行われたのは奇跡といえるだろう。
後輩たちはユニホームで来た桑田佳祐がサザンオールスターズの桑田佳祐だとずっと気が付かなかったという。冗談は本気でやると面白過ぎる事となる。

ハーイ◯◯さんと看護師さんの声、オバアサン身長を測りますよと試合ならぬ診察は始まり、先生はハイ息を大きく吸って、吐いてといつものやさしさでお年寄りの健康を守るのであった。先生は野球と同じ様にきっと守りが好きなのだろう、センターは守備力が一番の選手が守るポジションだから。
気持ち良いエッセイを読んでいたら刺し込む腹痛が治まった様だ。

2013年10月21日月曜日

「B4+B4」





「一寸先は光」この言葉を遺してアンパンマンの生みの親「やなせたかし」さんがこの世から旅立った、九十四歳であった。

アンパンマンは空腹の人にその顔を食べさせてあげた。
ご自身の悲惨な戦争体験から飢えがいかに人間を豹変させるか、その地獄絵を見て来たからなのだろう。バイキンマンは軍国日本の象徴であったのだろう。
ほぼ半世紀にわたり子どもたちの成長はアンパンマンと共にあった。

日本という国の主たちは、「漫画家」という職業に対して正当な芸術としてその評価をして来なかったといえる。
画家、書家、建築家、彫刻家、伝統芸術家、小説家たちに比べると、たかがマンガだろうと思っている。アニメというと何故だかマンガより上と評価するのだ。

私は思う、現在小説家が漫画家に比べてどれほど影響を与えているだろうか、低迷する出版界を支えているのは漫画家が放つ超絶の発想力といっても過言ではない。
ヒットする映画の原案は殆どマンガ、劇画からである。テレビも然りだ。

かつては文学青年とか文学少女なる言葉もあったが今や無い。
マンガ青年、マンガ少女なのだ。
ライフスタイルからファッション、音楽に至るまで色濃く影響を受けている。

出版社は下手な私小説なんか売れねえんだ、何かいいマンガを見つけて来いと檄を飛ばし続けている。私小説作家などは娘がそそのかされ結婚する、などと言ったら親は勿論、親族一同から猛反対された無類な職業だった。エロ、グロ、ジゴロと言われた。
文学に興味ありそうな女性に接近し、接触、接合し、タカリ、セビリ、ナカセてはそれを私小説などと語り世に出した。

いつからかそれは純文学などという分野を出版社が作り幾多の文学賞が生まれた。
漫画家の様な大胆な着想力や発想力、展開力が無いので日々のヒモ暮らし、怠惰な生活を安酒をチビチビ飲みながらシコシコ書いては(実はその姿に女性は弱かった。私が支えてあげると)何卒ご拝続をと出版社に持参したり送り続けたのだ。
その純文学もそれなりの影響力を持ったが今やその面影は無いに等しい。

人は誰でも純文学が書ける筈だ、少しばかりの文才があれば。
私は純文学になり得る題材がいくらでもあったのだが、少しばかりの文才を持ち得なかった。

ある年のある日、人気絶頂の漫画家「ジョージ秋山」さんの仕事場を訪ねる機会があった。某大手ビールメーカーの仕事を依頼するためだ。
ジョージ秋山さんの小さな仕事場にはスタッフが二人居た。
机と椅子の数は数人分あった。片隅の三角形の処にぽつんと後姿があった。

とに角狭い個所であった。
先生は「オレナニスンノ」みたいな事を言った。
で「コンナフウニ」とお願いした。「ナニニカクノ」というから、「カミニ」と言った。「オオキサワ」というから「B3デオネガイシマス」と言った。
「ソンナオオキイカミナイヨ、マンガワB4デカイテルカラ、ドッカイッテカッテキテ」と言った。

そして先生はB3B4B4をセロテープでくっつければいいじゃないのと言った。
私は原画に継ぎ目が出てしまうのでB3で描いて下さいとお願いした。
「ソンナノシュウセイデキンジャナイノ」と言った。
デキマセンと言ったら、今夜銀座に飲みに行こうよと言った。
それは正にジョージ秋山の生んだ名作「浮浪雲」の主人公そのものであった。
風まかせ雲の様に生きる達人だった。

私は絶対この人にはかなわないと思った。そして自分を恥じた。
何しろ欲というものがまるで無い人なのだから隙だらけ、無防備で無欲な人は最強といえる。

「やなせたかし」さんの訃報に接し、ジョージ秋山さんを思い出した。
その夜は「永谷園のそれいけアンパンマンのふりかけ」をごはんにふりかけた。
「さけ」「やさい」「おかか」の三種であった。

それを食しながら思った。
手塚治虫、長谷川町子、藤子・F・不二雄、赤塚不二夫、やなせたかしさんたちほど幼児から老若男女まで生活のど真ん中の食卓で国民を明るく元気にしてくれた芸術家は一人でもいるだろうか。

答えは簡単、一人もいないと断言出来る。
やなせたかしさん、二歳半の孫がアンパンマン、アンパンマンと連呼しております。本当に有難うございました。「一寸先は光」のあの世に向かって、それいけアンパンマン!です。

2013年10月18日金曜日

「雑巾がけ」


蒲田行進曲




女性が下着になる映画は数多くあるが、この映画がベストワンだと私は思っている。

ある人気役者がいる。人気役者には大部屋の役者が子分の様にいつもへばりついている。少し落ち目の人気役者、女につれなくなって行く。

子分たちは人気役者を励ますが気落ちは治まらない。
ライバルの役者が気になる。撮影所を二分する勢力が火花を散らす。

ある日人気役者は子分にこの女はお前にやると言って押し付ける。
女も人気女優、子分はずっと憧れていた雲の上の女優だ。
悲しみにくれる女はある日人気役者の部屋に行く。別れの覚悟を持って。

部屋は散らばり放題になっていた。
女は掃除を始める。そして床や廊下を雑巾がけする。
女はそれをしやすい様に黒い下着だけになる。必死で雑巾がけをする。
カメラはその姿を追う。

看板女優であった「松坂慶子」がここまでOKを出したかというアングルを許す。
カメラはカットをせず長回しだ。雑巾がけを終え、汗まみれになった松坂慶子はシャワー室に入る。

こんな女が男にとって最高なんだが。

その頃当代一の人気女優があのシーンを許したのは監督の「深作欣二」と愛人関係であったからだという。いかなる大女優も自分が愛している監督のためならその身をカメラの前に捧げるのだろう。
大島渚と小山朋子、岡田茉莉子と吉田喜重、篠田正浩と岩下志麻。
監督と女優は戦友同士として名作を生み続けた。

映画の題名は「蒲田行進曲」人気役者の「銀ちゃん」には「風間杜夫」、子分の「安」には「平田満」。何度でも見たい、格別にいい女の映画だ。

2013年10月17日木曜日

「ドライフラワー」


乾いた花




トライアンフのオープンカーに乗って猛スピードで走る若い女。
人を殺し刑務所から出て来た中年の男。

人混みの中でつぶやく。
こんなに人がたくさんいやがる、その中の一人位を殺したからってどうって事はねえじゃないかと。

ある街外れ、そこでは博打が行われている。
薄暗い灯り、白い盆茣蓙、中盆の声が低く静かに場に流れる。
さぁ〜どっちも、どっちもと。

その場にトライアンフに乗ってきた若い女がいる。
女は大きく賭ける。そこへ中年の男が現れる。
ヤクザ者たちは一札をする。兄貴、いつ出て来たんですか。
その場を開いている親分が言う、おー出て来たのか。

中年のヤクザと若い女は目と目を合わす。
それ以来二人は博打場で会う。ある夜二人は男の部屋で花札を引く。
女が男に聞く、人を殺したんでしょ、人を殺すってどんな感じ、と。
男は応える、別にどうってこたあないが刺した事、ああー俺は俺とつながってるな、そんな気がするんだと。

この映画は原作が石原慎太郎、監督が篠田正浩だ。
日本にも押し寄せたヌーベルバーグの斬新な幕開けだった。
若い女の役は「加賀まりこ」六本木族から女優に、その第一作であった。

謎に満ちた小悪魔の様な魅力が今でも目に焼き付いている。
中年のヤクザが池部良であった。兄貴と言ったヤクザが杉浦直樹、賭博場にいつも無言でいたのが藤木孝。私の選ぶベストスリーの一つだ。

題名は「乾いた花」。
生きる目的を失った花は、水を必要としないドライフラワーなのだ。