金メダルって何だろうか。
オリンピックを見る度思ってきた。
一番強い(?)一番速い(?)一番高い(?)一番遠い(?)一番失点が少ない(?)一番得点が多い(?)一番技術が凄い(?)一番正確(?)一番強靭(?)、うーん何もかもそのとおりだが、何もかも(?)(?)(?)だなと思う。
金メダルという競争のために余りに多くのものを失っているからだ。
栄光の影に泣いた者、栄光の影で消えた者、栄光の影で全てを奪われた者。
期待に応えられず、すみませんと涙を流す十七歳の少女を見て残酷だなと思った。
少女がジャンプするその体に重い雪の固まりの様な、国民の期待というか重圧がずっしり乗っていた。
金メダルを逸した少女にやさしい言葉を書き残した文章も、期待をかけすぎた反省の言葉も殆ど無きに等しい。今はその名すら口にしない。
愛する母親を失い、傷つき傷んだ心で鬱々とした日々を過ごした、二十三歳の女性スケーターに金メダルという強引な期待をかけた。
その結果ショートプログラム16位であった。
人々はその日、その失敗をあらん限りの言葉で攻め立てた。
そして、もうフリーは期待出来ないと。
次の日、失うものを無くしたと開き直った二十三歳のスケーターは、解き放たれた鳥の様に自由自在に氷の上を飛び自己最高点をあげた。こみ上げる涙と共に歯を食いしばった。口を真一文字にした顔には鬼気が迫っていた。
その日、その次の日、国民は手のひら返す。
そして今、金メダル以上の感動だ。
世界も泣いたと、あらん限りの称賛の言葉をこれでもかという程洪水させている
気がつけば私もその一員であった様で恥じ入る次第だ。
勝負は結果が全てというが本当にそうであろうか。
あーやっとこれで自由になれると思ったスケーターは次のオリンピックに向かう事になるのだろうか。ステキな男性と氷も溶ける様な熱い恋をして、これからひと儲けを企んでいる者共に別れを告げて欲しいと願う。
一人の金メダリストを生むためには邪悪な心を持つ人間が存在する。
オリンピックは人間という生き物がいかに素晴らしく、メダルの色というものがいかに残酷かを教えてくれる。
オリンピック中、何紙もの記事を読んだ。
ニュースで何人もの人間や、キャスターやスポーツ関係者のコメントを聞いた。
残念ながら一人も感動的、教訓的な言葉を残したものに出会えなかった。
誰も彼も、何処もかしこもワンパターンであった。
栄光の持つ残酷さ、非常な影について語る者はいなかった。
パラリンピックが始まる、ハンディキャップと戦う選手たちも、メダルの色をつける日が続く。スポーツを出来る様になったその姿はみんな金メダルなのだ。
二月二十四日午前十二時四十九分五十一秒、少し濃い目のスイスキーハイボールをグラスの中に作る。クールダウンだ。そして私なりの反省をする。