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2014年2月14日金曜日

「あなたならどうする」




巨大なコロシアムの中で野獣が檻から放たれる。
大観衆はその野獣と戦わされる剣闘士がそれに食いちぎられる姿を見て大喚声をあげて叫ぶ。闘牛場では牛を殺しそこねた剣闘士が、角で刺され飛ばされ踏みにじられる姿を見て大観衆は熱狂する。

四角いリングの上で何百発もパンチを浴びた血染めのボクサーがいる、決して倒れないそのボクサーに対し、観衆は倒せ、倒せと大合唱する。

観衆は自分に何ら被害がないと確信した時、加害者の一員となる。
他人言だからだ。

人間はアフリカの大地で誕生してから食料を求めて長い旅へと出た。
欧米人になった人間、中東人になった人間、極東人になった人間、その中に日本人はいる。ルーツは皆同じなのだ。
旅の果てに人間の肌の色は変わり、言葉も変わり、国境が生まれ、生活習慣も変わっていた。食料を求めて人間と人間は争いを繰り返して来た。
他者の痛みは自分の痛みでなく、他者の飢えは自分の飢えではない。

山田洋次監督の「フーテンの寅」シリーズの中に、こんな寅さんの言葉がある。
隣で小さな工場を営み、資金繰りに苦労するタコ社長に向かってこう言う。
「オイ、タコ、お前のケツからオレのオナラが出るかい」と(逆かも?)。

山田洋次監督はこのひと言に「他者」とは何か、隣人愛とは何か、人間と人間の関係とは何かを問い正したのだろうと思う。競争社会は格差を生み出した。
お前の貧乏はお前のせい、俺の富は俺の物。
それを分け与える様な人間は奇異な人と見られてしまう。


自分は満たされていない、自分は不幸だと思っている人間は、自分より不幸な人間を目の前にした時、心の何処かでその人間の不幸を手を叩いて喜ぶ。

ナザレのイエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかけられた時、民衆は罵倒を浴びせ、石を投げつけ、傷だらけの流血の体に向かって、異教徒、ペテン師、魔術師、偽りの王、疫病神と言ってその刑死を望んだ。

♪〜あなたならどうする、あなたならどうする…石田あゆみにそんな歌があったと思う。
さて、あなたならどうする。一人ひとりは良き人も、ひとたび付和雷同する群衆となった時、凶悪な者に変わる。
吊るせ、磔よ、嬲り殺せとなる(男と男の間に女を挟んだ文字)。

「嬲る」は見ただけでオドロシイ。
きっと群衆の姿からか、あるいは男と女の三角関係から生まれた文字なのだろうか。

このところ頭の中がコチン、カチンになったので、西部劇やフランスのギャング物や、イタリアの風刺物、キリスト物やシェークスピア劇を題材にした時代劇、西鶴一代女や近松門左衛門などをずーっと観た。 
10日深夜から建国記念日の二日間で約23時間(私の大事な頭の体操)。
そこには全て人間という観客の業があった。

すっかりスタミナを失ったので、湘南工科大学前のとんかつの「大関」に家族みんなで行った。気合を入れて「ロースカツ定食」を頼んだ。
ここのとんかつは大関より横綱だ。長い長い付き合いの店だ。親父さんは大のお相撲好き、久々に相撲談義をした。
「遠藤」はきっと三年後に横綱になっているはずだ。
その時は観客の一人となって応援に行きたい。

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