ページ

2015年5月20日水曜日

「シーサンプチュン」




独裁的な「橋下徹」維新の会代表の後釜に、ズル平といわれた祖父「松野鶴平」、寝業師といわれた父「松野頼三」の息子「松野頼久」がアタフタと大騒ぎしながら選出された。

さてこの男が使えるかといえば、全く使えないだろう。
トッポイ兄ちゃんでしかない。
Yシャツのボタンを二つ三つ開け、ピンストライプのスーツに身を包み高級外車を転がす。
祖父と父親のDNAが染み込んでいるからあっちこっちとフラフラ、フラフラと揺れ動いて来た。軟派な不良みたいでとてもじゃないが天下国家など論じ得ない。
独裁者が生んだ政党からその独裁者がいなくなったら、カツのないカツ丼であり、天ぷらのない天丼、牛肉がトンズラした牛丼だ。

民主党は党首岡田克也がテレビに映し出されると、もうそれだけでどーんと暗くなってしまう。戦闘意欲が全く見えないのだ。政治家とは演説だ!といわれるが力ない言葉にこりゃ駄目だとなる(私の主観です)。

麻雀をやった人ならこんな言葉を知っているだろう。“シーサンプチュン”という。
はじめに13牌を手にするのだがその手の内がバラバラということ、こうなったらもう一度ガラガラとかき混ぜやり直せる。牌が2枚揃うとトーイツ、3枚揃うとアンコというのだが、今の野党はトーイツもアンコもない。
国家が戦争法案に突き進み、沖縄では普天間反対のうねりが起きているのに。
ウチの党に維新の会から何人来るかな、などと指を折っているのだろう。

勉強の出来る人間が頭がいいという決まりはない。
勉強の出来る人間同士が言い争っているのを見ると、本当に頭が悪いなと思う。
みんな自分が一番だと思っているからだ。一歩身を退いて大局を見る器量がない。
「着眼大局、着手小局」という。物ごとを広く大きく見て、打つ手は小さなところにまで目をこらせという意味だ。

永田町村に長く住み続けると、世の中の大局が見えないこととなる。
たまには外海に出て荒海に揉まれないと本当の景色が見えない。

競輪をやったことがある人ならこの言葉を知っているはずだ。
“バックを踏む”という言葉だ。それは自分がこいつについていけば(マークという)と思った奴がゴチャゴチャの中に入ってしまった。
まずいシマッタとペダルをバックにして止めて一番後まで退りそこからもう一度仕掛けて行く(まくりともいう、競輪の自転車にはブレーキがない、バックを踏むと止まる)こういう選手はやるじゃんとなり、いよいよ競輪場にラストを告げる鐘がジャンジャン鳴る。
逆に強い選手にべったりマークして二着、三着を狙う選手は小判鮫だと嫌われる。

チンチロリンというサイコロバクチをやったことがある人なら知っているだろう“ションベン”という言葉を、三つのサイコロを丼ぶりに入れて転がし目を出す、五回振り落とすことが出来るのだが、興奮して手に汗をかき出すとサイコロが指にからみつき丼ぶりの外に出てしまう。こぼすとか垂れ落ちるから、あっションベンだ総付けだとなる。
相手にしている全員に支払いとなる。

さて、松野頼久さんは乱を起こし、シーサンプチュンのようなバラバラの手を揃えて行けるでしょうか。ゴチャゴチャから一度退きまくることが出来るでしょうか、手に汗をかいて丼ぶりの外にこぼさないように。ズルと寝業はいけません。

独裁的官邸に少しずつほころびが出て来たようです。
実力をつけたNo.2とか軍師は歴史的に皆権力者に放逐されました。
蟻の一穴がどんどん大きくなって行くでしょう。
観相学的に見ると、別離の相でしょうか。権力者の目にNo.2への不満が見え、No.2にはイライラが目立ちます。

党の代表が「石原慎太郎」と「松野頼久」じゃ役貫と千点位の大きな差があります(麻雀に例えてスミマセン)。
お金に例えれば10,000円と100円位の差といえばお分かりでしょうか。
アレッ!ニュースを見ると新代表の手がすでに汗ばんで震えている。(文中敬称略)

2015年5月19日火曜日

「㊙と男とは」




⑤⑦⑱この番号の順に競走馬がゴール板を通過した。
私はテレビで競馬を見るのが好きだが馬券は買わない。
サラブレッドは血で走るという、そのロマンが好きなのだ。

十七日(日)JRA東京競馬場で行われたメインレース「ヴィクトリアマイルカップ」(芝コース1600メートル)であった。この三連単の配当金がG1史上最高馬券となった。
100円玉が20,705,810円になったのだ。

このレースは牝馬(メスウマ)だけ18頭出走した。⑱は最低人気であった。
馬の名は「ミナレット」という。的中は196票だった。
一人一票なら196人が100円を2千万以上にしたということだ。

私がへぇ〜と思ったのはこの「ミナレット」という馬がJRA競馬史上最高額の馬券であった1284日の新潟の新馬戦で出走17頭のレースで14番人気だったが一着でゴールを駆け抜けた。配当金は29,832,950円であった。
何とも不思議な運を持つ馬ではないかと思った。
未だ5才の牝馬だからきっといいお婿さんがプロポーズして来るだろう。
人気がないのはエリートの血筋でないからだと思うが。

人生と同じで一生懸命走っていれば人気は最低でもきっといいことがあることを教えてくれた訳だ。当たり馬券を手にした人は直ぐに換金した人もいれば、金を貸してくれとか、寄付してくれとか、貸した金を返せとか、飲ませろ食わせろといわれたらたまんね〜と、しばしシラバックレていようと思っているはずだ。
汗水たらして稼いだ金でないと身につかないというから十分に気をつけるべしだな。
愛読している夕刊紙にこんな調査&ランキングが載っていた。
人間の心理をよく物語っている。

私は宝くじは買ったことがない(シャレでプレゼントに買ったことが一度ある。相手がお金持ちだったから、もっとお金持ちになればと)。
最新の「宝くじ長者白書」によると1000万円以上の高額当選者の行動パターンを分析すると、当たったことを知ってから「換金までの期間」が、当日が8.6%、翌日が11.9%、27日が31.7%、一週間位が25.5%、1ヶ月位が15.1%であった。
ドリームジャンボ7億円を含めたその使い道は、1位が「貯蓄」、2位が「土地・住宅」、3位が「借金返済」一部でも「寄付」したが2.1%、無回答が7.2%であった。

私の知人の公認会計士のところに、3億円が一人、1億円が一人当選してその使い道の相談に来た。
二人共この金をもっと増やす方法がないかであったという。
公認会計士がどんなアドバイスをしたかは当然㊙であった。

ガキの頃の先輩が、バクチで賭けた金は、バクチ場で使い切るんだ、それが男だからなといっていた、間違っても貯金なんかするんじゃないぞと。
貯金をして褒められるのは相撲取りだけだからなと。 
15日間終わって勝ちが負けより多いのを貯金という。
人生87敗、一つ勝ち越しが私の想いだ。あードスコイ、ドスコイ。

2015年5月18日月曜日

「オダブツ」





「あいうえお かきくけこ さしすせそ たちつてと なにぬねの はひふへほ まみむめも やゆよ らりるれろ わ。」

私が利用している国語辞典は一つしかない。
昭和三十五年九月十日第一版。編者「宇野哲人」、発行者「陶山巌」、発行所「㈱集英社」である。新修広辞典・新版である。半世紀以上この小さな細長い「共同印刷㈱」が刷ってくれたのを利用している。五十音索引には、四十四音しかない。カタカナは載っていない。
何故こんなことを書くかというと、日本と米国が中国の台頭と覇権主義に対抗するというために戦後七十年守り続けて来た平和憲法を改正するその大きな一歩を、国会の審議もせずに閣議の名で決めた。私は親中でも親米でもない、嫌中でも嫌米でもない。反戦争なのだ。

さて、何故五十音かというと、日本人は中国人が生んだ五万字ともいわれる漢字の一部を使っている。日本国政府が反中を徹底するというなら政府の公文書は漢字を使用すべきではないだろう。
そうでないと中国とは五分と五分で話せない。ひらがなと、カタカナのみで書くべきなのだ。
日本の文化は中国思想、中国文化から多くを学んで来た。仏教も然りである。

日本経済も米国経済もいまや中国無しでは有り得ない。米国はとことん日本を利用して全てを巻き上げる、そのために憲法改正を命令する。TPPも命令する。最も重大なISDS条項も命令する。
米国は訴訟国家であるから自分たちに不利益とみれば日本企業を相手に何でも訴訟を起こすはずだ。米より、肉より、自動車より、この条項がいちばん日本を食い物にする。
このことが分かっていても大新聞や主要なテレビでは詳しく報道しない。上からの命令だからだ。

“経熱政冷”が現在の日中関係だ。
日本人と中国人が銀座で殴り合ったという話は聞いたことが無い。
主なデパートには中国語の館内放送が流れる。英語と中国語のインフォメーションが当たり前だ。
中国人に道をたずねられたら日本人は皆親切に教える。
中国人は謝々、謝々(シェイシェイ、シェイシェイ)とお礼の言葉をいうのだ。
確かに銀座にはうんざるするほど中国人観光客がいる、その一方で爆買いで銀座は熱気にあふれている。

再び五十音に戻る。私の辞典には「ん」が載っていない。何故か?無学な私に分からない。
五十音なのに四十四音なのもわからない。
ただハッキリしていることは、日本も米国も中国を本気で敵に回したら「ん」の尽きということだ。

一法案一国会といわれるのに、十一の法案を一つにしてわずか数カ月で採決する、(当然強行採決だ)自民党のある派閥の長が土曜日のTBS報道特集でこういった。
「本来なら十一年かかるでしょう」と。

あなたが中国を嫌いなら明日から、ひらがなとカタカナ、あるいは英語や仏語など外国語で生きて下さい、それが筋というものです。
勿論、仏教もです。このままではニッポンワ、オダブツです。

2015年5月15日金曜日

「幸せなら」




●我慢に我慢をしていたオシッコを無事済ませた時
●玄関で靴を脱いだ時、腕時計を外した時
●靴下を脱いだ時
●洗面所で手を洗い顔を洗い石鹸の臭いを感じた時
●腰痛バンドを外した時
●ブラジャーを外した時
●パンストを脱いだ時
●パンツを脱いだ時
●冷たい水をコップ一杯飲んだ時
●シャワーを浴びた時、風呂にザボンと入った時
●風呂上がりにキンキンに冷えたビールを一気に飲んだ時
●おならを一発二発と出した時
●首飾、耳飾り、指輪を外した時
●犬がトコトコ迎えに出てくれた時
●猫を抱いて肉球に触った時
●つけまつ毛を外した時
●カツラを外した時
●ネクタイを外した時
●重いジーンズを脱いだ時
●パチンパチンのスパッツを脱いだ時

等々、などなど、ナドナド、人はそれぞれ仕事に疲れた我と我が身に、あ〜帰って来たぞ、あ〜やっとこさ帰って来たわを実感することがある。


本人から聞いた話と想像上の話である。
私もこの中の一つで実感をする。

ある芸能人が髪を束ねていた物を外し、シャワーを浴び、厚化粧を全部洗い流し、スッポンポンになった自分を見ると、あらアタシ男だったんだと確認する。
その後、そのままソファーに座り足を大きく開いてバカヤローといってワンカップ大関を一気に飲み干す。
この瞬間がたまんねんだよなとひとり言をいうらしい、と昨夜知人に教えてもらった。

さて、あなたはどんな時に自分の帰って来たぞの開放感を感じますか。
何!家に帰りたくないだと、玄関に女房が出て来て顔を合わせた時、ゴハン食べて来たでしょと言われ、どっと疲れが出てしまう、寝ていてくれればと願っていたのに。
何!いつも定時に帰って来ている亭主がニタッと笑っている、手にはフライパンかなんか持っていて遅かったね、ゴハン作ってんだと嫌味ぽいのにもう我慢が出来ない。
あ〜嫌だ嫌だと。

♪〜幸せなら手を叩こう 幸せなら手を叩こう 幸せならみんなで叩こうよ ほらみんなで手を叩こう…こんな歌を口ずさんでしっかり手を叩いて下さい。
間違っても顔を叩かないで下さい。

2015年5月14日木曜日

「デカの目」




メロンパンはおいしい?と私はいった。
八十歳を過ぎたであろう老人は、ん、おいしいよといった。


五月十日(日)の午後浜昼顔が咲いている辻堂海岸の側のベンチに私は座った。
先に座っていた老人は大きなメロンパンを食べていた。口の周りに白い砂糖がついていた。

四人くらい座れる木のベンチには私と老人だけが座っていた。
後にはサイクリングロードを走る人、歩く人が次々と通過する。
その後にはバーベキューをする場所があり若者たちがジュージューと肉を焼き、ソーセージを焼き、野菜を焼いたり焼きそばをつくっている。当然ビールやウィスキーや焼酎や日本酒やワインを飲んでいる。上半身ハダカの若者が多い。

若い女の子がキャーキャーと騒いでいる。
夏になるともっともっとバーベキュー大会となる。老人がぽつんと言葉を発した。
お兄さんとはずい分むかしに会ったことがあるねえと。
私もすでに老人だがジーンズにアロハシャツだから“町の兄ちゃん”に見えたのだろう。

えっ、どこで会ったっけと私はいった。
辻堂駅前の横浜銀行のところでと老人はいった。全然おぼえていないな、よくおぼえているね、どんな風に会ったっけといった。あの頃駅前の違反自転車を見張っていた。

お兄さんが自転車を停めて階段を登っていった時、ダメダヨここに停めて置いていってはと注意したら、お兄さんはおじさん元刑事か警察官だろといったんだよ、目がデカの目だと。

へぇーそんなことあったっけ、あの頃は四、五人で見張っていたもんね、何回か自転車の墓場みたいなところに運ばれていった自転車を探しに行ったもんなと私はいった。
お兄さんはあの時もアロハシャツだったからよくおぼえているんだ、それに警察官を辞めたあとで確かに目がデカみたいな感じだったからな、といって老人はオホ、オホ、オホホと笑った。左手に持っていたメロンパンを右手で千切って口の中に入れた。
おじいさんは今やさしいいい目をしているよ、元気でねといって私は自転車に乗り江ノ島の方に向かった。

2015年5月13日水曜日

「ダルマになった記者」



前々回のブログで朝日新聞のエース記者「深代惇郎」のことを書いた。
となると読売新聞のエース記者の「本田靖春」のことを書かねばならない。

二人が互いに認め合う記者であり、衆目一致した二大エース記者だったからだ。
龍と虎であり、大鵬と柏戸であり、長嶋と王の様であった。

本田靖春は深代惇郎より四歳下であった。
その凄絶な最後は今も新聞記者の間で語り継がれている。

本田靖春は社会部記者として遺したものに「黄色い血」追放キャンペーンがある。
それは日本の献血制度確立に多大な貢献をした。
また「疵—花形敬とその時代」で愚連隊安藤組全盛時代の大スターの生涯を書いた。
先輩記者、立松和博の挫折を描いた「不当逮捕」、更に「誘拐」「村が消えた」など多くの名著を遺した。「我、拗ね者として生涯を閉ず」は580頁の分厚い本である。

このブログを書くにあたり調べた所、私は2005年、53日に読了とあった。
深代惇郎が深遠なる静的知性なら、本田靖春は永遠なる動的知性といえる。
二人の共通点は「超一流のプロの記者魂」である。

本田靖春は糖尿病がもたらす壊疽でまず右足を切断、その半年後に左足を。
足なんかかまわない、文章を書くには頭と手さえあれば文句ないといった。
その間に大量下血、大腸癌の切除手術をする。
幻覚と幻聴に襲われる中、更に肝癌、右眼失明、更に心筋梗塞、脳梗塞を起こした。

足切断の手術に耐えれるかという中で手術は行われた。
全身麻酔が途中で切れてしまうという麻酔医のミスがあった。
本田靖春は激痛の中で「それでもプロか、俺の命なんかどうでもいい、こんなことをしていたら毎日のように事故が起きるぞ」と苦悶しながら叫んだという。

それから三年後大腸癌再発、右手指四本が壊疽に襲われる。
本田靖春の肝癌はドヤ街に取材に入り、自ら売血の現場で注射針の使い回しを体験したからといわれている。人間の体がダルマのようになってこの世を去った(享年七十一歳)。

通夜・葬儀は一切行わず、戒名も位牌もなし。
遺骨は冨士霊園の「文學者の墓」に納められた。個有の墓はない。
文学者の名が連なる墓碑の一隅に「本田靖春・不当逮捕」と刻まれているだけである。
本田靖春が信じていたものは、人間の「善意と無限の可能性」である。

本田靖春に怒鳴られ、叱られ、批判され、反省を迫られながら若き記者たちは育てられたのだろう。「我、拗ね者として生涯を閉ず」電報文でいえば「ワレスネモノトシテショウガイヲトズ」20052月講談社から緊急出版された。
プロフェッショナルとは仕事に命を懸ける者のことをいう。
本田靖春なら昨今の大学病院における医療ミスの数々を何と書くだろうか。

2015年5月12日火曜日

「しみじみ、しじみ」




仕事柄一日の始まりは、まず朝刊の死亡欄を見る。
お世話になった方や、恩人や知人の不幸な知らせを確認する。
嫌な習慣なのだが万が一にも義理を欠く事は許されないからだ。

と同時に、えっあの人がとか、えっしばらく見なかったが、いい建築家だったとか、いい画家だったとか、いい陶芸家だったなとかを知る。
死亡欄には人の歴史、社会の歴史が見えて来る。
私も歳をたらふく食って来たので同年輩の人にはその都度お疲れさんでしたと声をかける。

五月十日(日)の朝刊に二人の死亡を知らせる記事があった。
一人は「滝田裕介」さん八十四歳であった。
もう一人は「柳生真吾」さん四十七歳であった。

滝田裕介さんというとテレビの人気番組の「事件記者」と「ベン・ケーシー」の吹き替えの声を思い出す。俳優座出身のいい役者さんであった。
柳生真吾さんは清里の自然をこよなく愛する役者さん「柳生博」さんの息子さんだ。
ずっと以前に、一度仕事をご一緒させてもらった。とても爽やかな人であった。
息子さんの柳生真吾さんは園芸家で有り、かつてNHK「趣味の園芸」の司会をしていた。未だ四十七歳、柳生博さんの無念さが伝わって来る。
清里の森、清里の生き物、清里の人々も泣いて、泣いて、泣いているだろう。

新聞記者は私の憧れの職業だった。
松本清張原作の松竹映画「風の視線」という映画がある。
その中に若き日の滝田裕介さんが報道写真家として出演していた。岩下志麻が眩しく美しい。佐田啓二が渋くてイイ、この人ほどアスコットタイの似合う役者はいない。
この映画に故松本清張が特別出演している。ある人に聞いた話だが、かつて銀座に何軒かあった文壇BARで、いちばんモテたのが「故吉行淳之介」、いちばんモテなかったのが松本清張だったと、札束をテーブルにバンと置いて、これで今夜“ヤラセロ”というのが定番だったとか。「風の視線」には青森の十三潟(十三湖)が出て来る。

今は亡き親友とその十三湖でとれる有名な「大和しじみ」のことを調べに行く機会があった。そのために十三湖がらみの映画や映像を集めた。
「風の視線」は松本清張の好きな題材、不義、不倫、殺意と愛情が交差する人間ドラマだ。人間とは欠点だらけなのだ、松本清張はそれをいいたかったのだろう。
特にブルジョワは秘密ばかりなのだと。話がすっかり横に逸れてしまった。

「滝田裕介」さんと「柳生真吾」さんに合掌する。
亡き友と行った青森の十三湖はまるで日本海のようであった。
風が強く吹き、波が荒立ち、しじみを売る出店の旗が千切れんばかりにバタバタと音を立てて震えていた。

2015年5月11日月曜日

「連休は善い人ばかり」



♪空が泣いたら雨になる 山が泣いたら水が出る 俺が泣いても何にも出ない…泣いてたまるか、泣いてたまるかヨォ〜を…

 

渥美清の歌声で始まるテレビドラマは「泣いてたまるか」一話45分である。

40話を見ると1800分だ。

一枚のDVD2話入っている、TSUTAYAにそれがズラリと並んでいた。ヨシ連休中全部見てやろうと決め五枚ずつ借りて時間のある限り見た。

結局十二枚24話を見たところで連休は終わった。

 

と、同時に小津安二郎の「彼岸花」「麦秋」「東京物語」も見た。

勉強のために何度か見ている。何故「泣いてたまるか」と小津作品を見たかといえば、善人に会いたかったからだ。渥美清の「泣いてたまるか」は徹底的に貧乏であり落語の世界のようである。

後年巨匠になっていく監督や脚本家やカメラマンが活き活きとして貧乏を演じる渥美清を自由奔放に描き出す。

タクシーの運転手、飯場の土方、ラッパ吹き、おもちゃ屋の社長、野球の審判、将棋好きの刑事などなど市井の中に生きる善人たちをカメラは上から下から、左から右から、斜めから好き勝手に撮る。

 

今は亡き左幸子と、東野英治郎、藤山寛美、笠置シヅ子、左ト全、バーブ佐竹、殿山泰司、西村晃などが一話ずつ共演する。ヤキトリ20円、串カツ50円、魚フライ50円、オムレツ70円、ラーメン40円、山かけ60円の時代だ。

一人として悪人や嫌な奴は出ない。若き日の市原悦子、緑魔子、栗原小巻、三原葉子たちが好ましい。タクシー初乗り(大型)100円の頃は人間が人間らしく生きていた。

 

大巨匠小津安二郎の作品にも悪人は決して出ない。善い人間ばかりだ。

但しこちらはみんなお金持ちばかり、美人ばかり、原節子、山本富士子、有馬稲子、田中絹代、桑野みゆき(大ファンであったがカレーと肉まんの中村屋の若旦那と結婚して芸能界からすっぱり引退した)など当時のスターが小津安二郎の言われる通りに芝居をする。今は亡き佐分利信、中村伸郎、佐田啓二、高橋貞二、笠智衆など小津作品の常連がみんなまるでロボットのような芝居をする。

小津作品といえばカメラは動かずローアングルと決まっている。

特徴的なのは玄関の扉、ガラス戸、襖、障子がいちばん芝居をする。

モンドリアンの構図のように。そして全て一点透視画法(パースペクティブ)である。

都会はビュフェの絵のようだ。お金持ちだが善い人、いい奴ばかりなのだ。

 

「泣いてたまるか」と共通しているのはドラマの主軸に茶の間があることだ。

一方は狭く、一方は立派で広い。

茶の間に家族は集まり、茶の間に会話があり、家族に秘密らしきものはない。

子どもは茶の間を通って親にきちんとあいさつをする。

 

私は小津安二郎の作品は実は苦手なのだ。監督の言うとおりの芝居、脚本に忠実なカメラワークが大人の学芸会みたいで気恥ずかしくなるのだ。どの作品も美男美女ばかりが気に入らない。お金持ちの善人を作り過ぎ、リアリティを感じない。

きっと大人の寓話なのだろう。小津安二郎は悪人が嫌いなのだ。

脚本の名コンビ野田高梧も。

 

貧乏人たちがてんでんバラバラに逞しく生きる方が私は幸せを感じる。

ともあれ連休中は悪い人には一人も会わなかった。

 日本国憲法が悪い人たちの悪知恵で、悪い方向に進んでいる。

 

連休中に「天人」というノンフィクションを読んだ。

昭和4850年代、朝日新聞の天声人語を書いた新聞界史上最高のコラムニストで名文家といわれた「深代惇郎」のことを「後藤正治」が敬愛を持って一冊の本にした。

深代惇郎は私の最も憧れつづけているジャーナリストだ。もう一人は本田靖春。

深代惇郎は四十六才の時、急性骨髄性白血病であっという間に死んでしまった。

 

今の天声人語は深代惇郎に比べたらただの「へ」みたいなものだ。

この国からジャーナリストは消えてしまった。「そして誰もいなくなった」そんな映画があったはずだ。この国から気骨ある人間が消えてしまった。

「現在を見誤るのは、過去に無知だから」という、無知の人がハシャギ回るこの国の明日を亡き深代惇郎はあの世でどう書いているだろうか。(文中敬称略)

2015年4月27日月曜日

「少年と風」



茅ヶ崎リトルリーグのグラウンドは、寒川神社に近い広い広い畑の中にある。
孫(13)たちは朝5時半に家を出る。自転車で5060分かかる。
試合開始は午前9時だ。

私も朝起きてといってもずっと起きていた。
熱いシャワーを浴び朝刊に目を通して球場に向かう。
鮭のおにぎり二つとウィンナーソーセージと共に。

リトルリーグは軟式と違って硬式なので少年たちはユニホームの下心臓の部分にプロテクターをつけている。球場にはまさかの時のためにAEDが用意されている

13歳は未だ上のクラスのシニアではない。
鯉のぼりが気持よく泳いでいる家もある。
グラウンドのセンター方面の外では大きい凧が4つ空に舞い上がっている。
絶好の野球日和だ。

聞けば相手のチームは東京の昭島市からはるばる遠征をして来ていた。
ダブルヘッダーであった。第一戦は45で敗け、孫は二塁を守り九番であった。
小学校では二番か三番であったがさすがにリトルはレベルが高い好選手が揃っている。

結局ライト線二塁打、シュート強襲安打、四球、三打数二安打打点一、得点一、前日の試合で久々に安打が打てて気を良くしていた。第二試合は719で敗け、コールドゲームはなしであった。試合時間は一試合一時間半と決まっている。
本来ならコールドゲームなのだが監督同士が練習試合なので時間までやりましょうとなった。
投手は球数が70球までと決まっている。肩や肘を壊さないために。


孫は第一打席安打、次はエラーで出塁、三打席目は四球であった。
ボールは五つ飛んで来たがしっかり守った。少年たちは声を掛け合い、励まし合い。
投げ、打ち、走り、守った。相手の投手四人は凄い速い球を投げていた。
一枚も二枚も上手の強いチームだった。少年たちはキラキラと輝いていた。
何しろ礼儀正しい。監督やコーチから厳しく礼儀を教え込まれていた。
監督たちも実に礼儀正しく気持ちよかった。

私もかつては野球少年だったが、14歳の秋から野球よりこっちの方が面白いやと横道を進み始めていた。あのまま野球少年であったらどうなっていただろうかと思った。
おにぎりは格別に旨かった。ノザキのコンビーフも持ってくればよかったなと思った。

午後二時半ごろグラウンドを後にした。ドッドットネムクなった。
少年たちはそのまま練習、練習だ。熱心に指導する監督やコーチの人たちにはつくづく感心する。心底少年と野球が好きなのだろう。


私のブログは今日から511日までお休みです。
みなさんゴールデンウィークは少年少女に戻って下さい。
友だちや初恋の人などを思い出して下さい。運動会や遠足や学芸会を思い出して下さい。あの頃はみんな純粋だったはずです。私もしばし少年に戻ってみたいと思っております。
幸い天気は五月晴れのようです。少年と風が吹くでしょう。

東京銀座に出る機会があったらぜひ、キラリトギンザ3階oluha(オルハ)ショップに寄って下さい。県立福島高校出身の野球少年國井修店長がお待ちしております。
そよ風のように爽やかな人です。


※訂正 前回のブログで総理大臣のワシントンでの演説を26日と書きましたが29日の誤りです。

2015年4月24日金曜日

「たった一機に」




浦賀に黒船が来てからずっと日本国はアメリカから開国を迫られている。
日本にとってアメリカ国はタチの悪いヒモみたいなものだ。

一度は別れたいと思い宣戦布告なしに真珠湾を攻撃した。
目的は資源が必要だから。アメリカに資源を断られ追い詰められた。
それから先は軍部の大暴走となり、そこいら中の国に侵略をしていった。
マトモな軍人はハナから勝てないことを知っていた。

その上あろうことかよその国に新しい国をつくってしまった。
満州国である。俗に満州サンスケといわれる三人がいた。
一人は岸信介(後の総理大臣)、一人は鮎川義介(日産自動車をつくった)、一人は松岡洋右(国際連盟を脱退宣言した)。
 この三人と軍部など(東條英機とか)がくんずほぐれつ利権を追っていった。
また里見甫という阿片王が上海の麻薬利権を一手に握っていった。

満州と上海は闇の中の闇であった。
里見は戦犯となり極東裁判で「あなたは何をしてましたか」などと質問され、阿片を取り扱ってましたと応えた。上海の麻薬は里見を抜きには動かせなかった。
上海の軍部や里見たちは情報を一元化すべく整理整頓をした。

その結果、外信は時事通信、国内は共同通信となった。
 新聞、雑誌などの宣伝広報をやれといわれて出来たのが現在の電通という代理店である。電通の大株主は、時事通信と共同通信なのはそこから生じている。
早い話三者は兄弟分なのだ。

さて、アメリカという性悪のヒモは民主主義という旗を立てて正義を語るが、インディアン等の原住民は殆ど虐殺された。
アメリカ人のいちばんの欠点は、自分たちだけがいちばん正しいと思うことだという。
第七騎兵隊気分が染み込んでいるのだ。

ペリー提督の替わりに来ていたのがフロマン通商代表だ。
民主党きってのタフネゴシエーターといわれている。
外交交渉は事務レベルで長い時間下交渉しているから、フロマンと甘利明はクサイ芝居を繰り返ししているのだ。

アメリカの上下院で演説したい総理大臣がそれが叶うということは話が出来上がったということである。TPPは何もかもアメリカのいう通りにされる。
タチの悪いヒモは、文句もいわず黙々と店に出て働き、嫌なお客の相手をしてでも稼ぎ貢ぐ女に、時にやさしく、時に泣きを入れ、時に脅し、脅迫し、また時にやさしくを繰り返す。

浦賀にペリーが来てからずっと日本の歴史は大きく変わっていない。
一度逆らって広島、長崎に原爆を落とされた。沖縄は永遠に基地として提供しますと誓ってしまった。四月二十六日総理大臣がワシントンで演説をする。
そのスピーチ原稿はすでに何度もアメリカにチェックされ朱を入れられているのだろう。

日本は資源のない国、中国に陸と海のシルクロードを押さえられたらアウトになる。
ドローン一機に官邸はアタフタしている。SPたちは上を見て警護する訓練はしていなかった。その落とし前として誰かが責任を取らされるだろう。
たった一機に夜も眠れずなのだ。(文中敬称略)