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2021年11月6日土曜日

つれづれ雑草「重たい日」

友、遠方より来たる。と言う言葉があるが、友、映画に現わるを見た。石井裕也監督といえば、「舟を編む」とか「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」などでベストワンを生んだすばらしい才能だ。まだ30代というから注目をつづけている。その監督の作品に、「生きちゃった」というのがあることを知り、本日明け方まで見た。うすめのコーヒーと、バウムクーヘンの小袋入りを用意した。朝からシンドイ話の電話で、いささか重たい日であった。で、私の場合は映画を見るのが何よりの癒しとなる。「生きちゃった」という映画のタイトルからどんな内容かと思ったが、実に不思議な気分で、今どきの若い夫婦の一面を見た。おそらくはじめてというシーンが、物語のスタートにある。30歳の主人公の男(仲野太賀)が、その日体調が悪く会社を早退する。家に帰ると娘を幼稚園に行かせている妻が、(大島優子)見知らぬ男と激しくSEXをしている。夫である男はそれを見て、ただボー然として見る。フツーなら夫は逆上して、殴ったり、蹴ったり、包丁で斬ったり、刺したりする。ところがこの映画では何もしない、何も言わない。むしろ大島優子演じる妻の方が、攻撃的でありつづける。私はあなたから愛情を感じなかったので苦しかったのよと、開き直る。このシーンに石井裕也監督の斬新さを見た。無感情の感情表現だ。結婚前の夫にはかつて好意を持っていた女性がいた。開き直った女性ほど恐い者はない。娘は私が育ってるからと言い今はお金がないから、このままこの家に住むと言う。夫婦はとりあえず何ごともなかったように生活をつづける。怒声のない時間、見る側にボールを投げつけられたのは、あなたならどうするみたいなクセ球だ。妻はスーパーで働いているのだが、そこの店主と話すシーンがある。おだやかな丸い顔。こんもりとした体つき、オッヨヨと思ってそのシーンを止めた。どこかで見た顔、見た姿ではないか。で、プレイバック、プレイバック。やっぱりそうだっと、しばらく会っていない友人の名を口にした。映画のラストのクレジットを見るとやはりそうであった。制作に協力もしていた。次の日電話をすると、えっ、見てくれたの、うれしいと言った。見たよ、見た見た、さすが石井裕也監督作品だけあって、妻が不倫している生々しい姿を見て、何の感情も現わさないという、はじめての体感をしたよと言った。そうでしょ、凄いヒトですよ、シナリオは三日三晩で書いた作品なんだとか。いやいや思わぬところで友人に会えた。いい映画なのでぜひ見てほしい。何故「生きちゃった」というタイトルをつけたのかが不明のままだから、もう一度見る。清き一票を投じた選挙が終った。戦いに敗れた者、勝利を手にした者、いつもながら天国と地獄のような、生々しい姿が議員会館にある。白い蘭の花を持つ列があり当選を祝う。ダンボール箱をトラックに入れ込む敗戦の列がある。戦いつづける者に敗者はいないという賢人の言葉がある。何より大切なのはだ。それを貫くために、何をすべきかをしっかりと見直さなければならない。戦いをやめた者、それを敗者という。さああればすぐに行動開始だ。これからは熱量の時代、何をやっているか真実の時代となって行くだろう。長引くコロナ禍でシンドク、キビシイと入る電話に、オレだってとは言えない。決して泣きは入れないとずっと生きて来た。人間界とは、六道の一つである苦界だと感じる。コロナ禍はマスクばかりだから、笑い声がない。笑顔もない。仕方ないので尊愛する坂田利夫師匠が出演している嘘八百という映画の第二弾を見た。偽物作りのメンバーの一人が師匠だ。二束三文の骨董品を、嘘八百で、ん百万、ん千万円で売るグループ「なんでも鑑定団」という人気番組のパロディだ。坂田利夫さんはヴェルサーチみたいな派手派手の姿で出て来て、何でもペロペロとなめまくる。コロナ前なら抱腹絶倒なのだが、私自身笑いを忘れていて、ただ無言で手を叩いただけだった。銀座中央通りにあった、テイラーメイドの超名店「英国屋」が三丁目に移転していた。昇進御祝にネクタイ一本をと思って行ったらなかった。四丁目の「鹿乃子」2階で、きしめんでもと思って行ったら、2階はやっていなかった。コロナ禍はこれからどうなるのか、誰も明確にしてはくれない。今夜はなんとしても笑いたいと思っている。余りに気が重いからだ。佐賀の超人「江頭2:50」のビデオを選んでいるのだ。日本で唯一、全裸で街中走り回れる(?)。違法人なのだ。無理にでも笑っちゃったとなりたいのだ。それにしても大島優子の演技はすばらしかった。
                               (文中敬称略)



2021年10月30日土曜日

つれづれ雑草「杉並で、清き一票を」

1028日、理由があって仕事仲間と共に、東京都杉並区阿佐ヶ谷に行った。私は、幼、小、高、十代を荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺、中野で忘れ得ぬ日々を送った。中でも荻窪、阿佐ヶ谷では人生の根っこを憶えた。151617と私の人生暗かったと歌ったのは、故藤圭子だったが、私の141516は思い切りオモシロかった。野球少年であったが、故鈴木清順監督の名作「けんかえれじい」でもあった。先輩から酒の味も教わった。いざという時逃げる男、絶対逃げない男。喧嘩三昧で本当の友情を知った。怪我をすると阿佐ヶ谷の河北病院に行った。日本三大七夕祭りといえば、平塚、阿佐ヶ谷、仙台である。一番街は高円寺までつながっていて、大、中、小の飲食店がビッシリとあった。夜になると赤い灯、青い灯をつけて、花火大会のように盛り上がった。七夕祭りをやるアーケードは、一番街とふたまたのソケットみたいに分かれる右側だった。171819となっていた頃は、故大島渚監督の名作「青春残酷物語」的な文学的要素があった。女性を知り、出会い、別れ、故ジャック・レモンが主演した名作「酒とバラの日々」のように、酒とバラバラの日々だった。石原慎太郎原作、篠田正浩監督のヌーベルバーグ的名作「乾いた花」(この映画は私のベストテン入り)のように、日々博打であった。石原慎太郎の作品に「刃鋼」という上、下巻がある。この本は私のバイブルだ。今は映画指向の孫が読んでいる。乾いた花の中で、故池部良と、新人加賀まりこが花札で勝負するシーンを目に刻んだ。それまでの日本映画にないシーンだった。乾いた花とはドライフラワー、それは生きる目的と、生気と時間を失った虚無的な男と女の、ニヒリズムの世界であった。一番街の中程に一軒の店があった。一階は飲み屋で、二階は広間だった。私はそこで乾いた花状態になっていた。もうすぐ二十代になってしまう。もう、酒も博打も、喧嘩もやり尽くし、飽き飽きとしていた。夕方になると流しのお兄さんたちが広間に集まって、二人一組で出て、明け方になると、ゾロゾロと帰って来た。それぞれ売り上げを出し合い、リーダーが手際よく分配した。その広間の片隅に一人の男がいて、絵を描いたり、字を描き、キャバレーの看板や、パチンコ屋の看板、Barやスナックのメニューや、マッチのデザイン、JAZZ喫茶のポスターデザインとか飾りつけなどをしていた。当時若者の憧れだった、トライアンフというスポーツカーに乗っていた。後年その男はファッションモデルを乗せてドライブ中、大事故を起こした。女性は顔面を全面整形した。その男に会ってはじめてデザイナーという言葉を知った。流しのリーダーは上原げんと音楽教室に通っていた。新幹線が開通した時、そのテーマ曲を歌う機会を得た。私たちはモノクロテレビの画面の中、白いスーツで歌う晴れ姿を、あしたのジョーを見るように、中華料理店(だったと思う)のテレビで見た。九州出身だと言っていた男は、流しのリーダーをやめて消えた。そして、私も夜の世界から消える覚悟を決めた。ポスターをデザインしたり、言葉を書く方が楽しくなっていた。先輩や後輩たちは、何やってんのという感じだった。ウルセイ! オレは行く道を行くと、阿佐ヶ谷を卒業した。荻窪も、卒業式を迎えた。1031日は投票日だ。私は阿佐ヶ谷を大切にする人を選んでほしいと願う。久々に中杉通りから荻窪に向いながらそう思った。杉並区はインテリジェンスも高いところ、赤ちゃんから、ご老人まで、一人ひとりによりそってくれる政治家に、清き一票を投じてほしい。コロナ禍は何故か激減している。このままの状態で収束するのだろうか。日本全体が、すっかり乾いた花になってしまった。政治家の人には、生き返る水を与えてほしい。酒とバラの日々の主人公はアルコール中毒症だった。義父母は苦しみ、ウイスキーの瓶を家の庭にあった、ビニールハウスのバラの中に隠した。ジャック・レモンが演じる男は、やさしいが、意志が弱くアルコールが止められない。政治家に求めたいのは、ブレない強い意志だ。昨夜一本の映画を見た。「12年の長い夜」ウルグアイの軍事クーデターで、捕われた3人の政治家は、12年間暗黒の世界で人間性を奪われながら耐え抜く。その中の一人が、過日亡くなった。「世界一貧しい大統領」という映画の主人公、ムヒカ大統領だった。やっと面会できた母は言った。戦っていることをやめた者を敗者という”“人間は戦っている限り敗者にならない。ちなみにあと一人は防衛大臣となり、あと一人は詩人となった。人生は映画より、シネマティックだ。(文中敬称略)



2021年10月23日土曜日

つれづれ雑草「キスしたら」

私自身は不正直者でも、体は正直でいま頃になると、必らず鼻炎アレルギーが出る。鼻水ボタボタ、くしゃみ&くしゃみ。きっと口を開けて寝たのだろう、起きると口の中はカラカラになる。一日中目がショボショボ、大きなくしゃみ、鼻がつまって頭がボーとする。食べる物ではホタテ貝アレルギーがあるのだが、いま頃のアレルギーの原因は分からない。いつもなら、点鼻薬をシュッシュッと鼻の中に入れると治まるのだが、昨夜からヒドイ。コンタックにアレルギー用があるのだが、医師からその成分が、日常服用している薬と相性が悪いらしく、一度急性薬物性肝炎になったことがある。もっともその時は、水の替わりにウイスキーのオンザロック数杯で飲んだ。それ以来コンタックを服用していないのだが、余りに酷いので愚妻に買いに行ってもらった。今のままでは外に出るとコロナではと思われるし、人も会ってくれないし、会えない。どうしても行かなければならないことがあるので、コンタックを服用する(一日二錠です)。スウェーデンという国は寛容な国で移民を多く受け入れている。が、今、奇病が発生している。それは「あきらめ症候群」と名付けられた。七、八歳の子どもから、十二、三歳の子が突然眠ったまま起きなくなる。体が完全に脱力状態となり、こんこんと眠りつづける。それは何ヵ月もつづく。バチカン半島や旧ソ連南部出身、あるいはどこかの少数民族の出身が多い。兄妹三人の内、兄だけが眠りつづけたり、少女が八ヵ月眠りつづけて突然目が覚めたりする。原因は子どもたちの親が、不安や心配ごとを抱えているのだ。それは移民者に対して反対する者たちによる、いやがらせや暴力、集団レイプ。それと入国の許可がもらえないために、親たちが不安な日々を送る。子どもの中で感受性の強い子が発症するという。突然眠りはじめたりするので、仮病だと思われていた。親たちが強制送還される、国に返されたらどうしようという恐怖感を、子が感じるのだ。なんとか入国の許可がおりると、子どもは何があったのと目を覚ます。現在200人位がオーストラリアの収容所で、眠りつづけている。その子の親たちは入国の許可を待ちつづけている。私たちはまい日のように信じられない事件を知るが、子どもたちのトラウマは、信じられないように現われる。この「あきらめ症候群」は、ドキュメンタリー映画で見れる。題名は「眠りに生きる子供たち」スウェーデン特有の風土も原因の一つではと言われている。このドキュメンタリーに学ぶのは、夫婦ゲンカとか、家族の心配ごとを、子どもの前でやったり、口にしすぎたりしてはイケナイという事だ。トラウマは三つ子の魂百までというから、幼い頃のトラウマが大きくなった時に、異形のカタチで出てくるのだ。それは殺人者になったり、児童性愛者になったり、SMマニアや幼児プレイ愛好者とか、変態者となったりする。同じ犯ちを繰り返す性癖や、盗癖は、決して治らない病いというが、幼い頃のトラウマが影響しているらしい。幼い子がいる前で、イチャイチャ、ベタベタしてはイケナイ。風呂上りハダカでウロウロしてはイケナイ、夫婦ゲンカは家の外でやるべし、子どもに聞かせたくない話は、故森田芳光監督の名作「家族ゲーム」のように家の外のクルマの中でやるべしだ。日本人は欧米人に比べて圧倒的にコロナ感染が少ないのは、島国だから外国人の入国を水際でシャットアウトできる、それと単一民族なので治療方法や予防が一定化できるからだ。やがて外国人の入国が緩和されると、オリンピックの時のように再び拡大するはずだ。それと衆議院選挙に悪影響がでないように、いろいろ策を練っているのだろう。(検査数が少ないのが気になる)又、欧米人が感染するのが多いのは、キスとハグをするのが習慣だからだ。映画を見れば分かる。欧米人は会えば一人ひとりのホッペにキス、オデコにキス、手の甲にキス、口びるにキス、そしてハグハグハグをする。これは日本人と決定的に違う行為だ。日本人だったら即セクハラとなってしまう。アメリカではアイラブユーを連発し、キスとハグをしていないと、離婚訴訟でガッポリ女性にお金を支払うことになる。フリスクという口臭防止の商品はこのためによく買われている。(ビジネスマンの必携品)何を食べたか分かんない男が、ベタベタキスするのを欧米の女性は受け入れる。つまり日本人は世界でも類を見ない清潔な国民なのだ。家を出る時、家に帰った時、奥さんにキスして見てチョーダイ。何すんのバカ! と言われ、きっとヤメテと平手打ちされるはずだ。「心に太陽を持て……くちびるに歌を持て……」と小学校の教科書に書いてあった。(山本有三かな)コロナ禍で家に居る時間が増えている。幼い子の前では夫婦ゲンカをしないでください。そして、口びるにキスも気をつけて。








2021年10月16日土曜日

つれづれ雑草「無の価値」

アメリカの作曲家、ジョン・ケージ〈4分33秒〉は、ステージにでてきた演奏家が、一定時間、音を発しない。何も発さないという指示が書いてある。この作曲家は現代の音楽やアートに大きな影響を与え続けている。例えていうなら、一冊の本を読んでいたら、突然何も書いていない白いページが続く。一本の映画を見ていたら、突然画面が白くなりそれが続く。気短いヒトならすぐに出版社に電話をして、オラー、なんて本を売ってるんだよ、バーロ、何も書いていないページがあるんだよと怒る。又はオリヤーと映写室に行き、何やってんだよ、映画が切れちゃったじゃないか、俺の大好きな女優がちょん切れるなんて許せない、と涙声となる。芸術は奥深い、ジョン・ケージは、突然音をなくすことによって、「無」が生む「有」を表現したのだろう。(と私は思う)無はざわめき、ときめき、予期し予言する。人生という旅をやっていると、この無の状態がある。ざわめかず、ときめかず、予期も予言も出てこない。オーケストラの演奏者が、突然何も演奏しなくなったシーンを想像してほしい。ジョン・ケージの楽譜はアートの作品でもある。人間が一人生まれると、基本的にその日は誕生日となる。私が尊敬していた義兄は一月一日元旦に生れて、元旦にこの世を去った。私たち夫婦の仲人をしてくれた恩師も同じで、一月一日元旦が、誕生日で命日である。私は、人間の死を次の人間へ生まれ変わるまでの、無の状態と思えばいいと思っている。ジョン・ケージの曲のように。亡き私の母は今は誰かになって生まれ変わっているかも知れない。父も、兄も姉も、大恩人、大親友も桜のように散った恋人も、きっと誰かに生まれ変わっているのだと思うことにしている。奇蹟的に生まれた生命は、奇蹟的であるはずなのだ。その日私は大船駅に停車している列車の中から、愚妻に電話を入れた。その日は一年に一度だけある私の生まれた日だった。愚妻はジンギスカン、ジンギスカンが来ているわよ、と言った。息子たち孫たちも待っているわよとコーフンしていた。何! ジンギスカンが来た、蒙古襲来ではないか。弘安の役、文永の役ではないか。時は鎌倉時代であった。歴史的には元寇という。日本人にとってジンギスカンといえば、札幌のビール園でのビールとジンギスカンか、元寇である。落ち着けと愚妻に言って家に帰った。とそこに大きな箱が二つ、重いかなり重い。伝票にジンギスカンとか、鉄鍋と書いてある。貧しき家族一同、その箱を開けると、ジャーン、バァーン、ガァーンとビックリ、札幌のビール園がそのまま入っているではないか。たくさんのマトン、マトンといろいろ、そして立派な鉄鍋セット、小樽北一硝子の美しい切子のグラスセットまで。かなり遅く帰ったが、ジンギスカン大会の火は切って落とされた。そして2回に分けることにした。一回目のマトンの香りが家中にただよっている。今日は土曜日二回目を開催する。時ならぬ、弘安の役、文永の役である。フビライ・ハーンが日本に襲来した時は、神風が吹いたと歴史にある。私のような人間のために気をつかってくれた、北の家族に神風が吹くことを願って、バクバク食べる。このところやたら人を刺したり、火をつけたり、なんとなく人を殺したかったから、などと言うブッソウな事件が連発している。栄養学的には、カルシウム不足なのだ。小さな魚を小さい頃から食べさせないさせなくなった。ニボシ、チリメンジャコ、シラス、コウナゴなどだ。カルシウム不足は気が短くなるらしい。最もいちばんの原因は、を楽しまなくなった。一日中ネットとつながっている。起きている間、ずっとネットと関係を持っている。ボ~とする貴重な時間を持っていない。「失意の人は、同類を救う」という言葉がある。ネット上でつながり、言葉はエスカレートする。「愛の中にはつねに狂気が潜んでいる。その狂気の中には、いつも理性が潜んでいる」と、かのニーチェは言っている。理性は私には途方もなく縁遠いが、この頃は、ムッとしても、グッと我慢することができるようになった。赤坂に塩野という和菓子屋がある。ここの紅白の大饅頭は、縁起が良く御祝いの品として名高い。一昨日ある方の御祝いに予約しておいた品を取りに行った。長椅子にマスクをして座っていたら、ケータイに電話が入った。で、ついマスクを外して話をつづけていたら、オトコのお客が、スミマセンマスクをして話すか、外に出て話しをと言った。むかしだと、何んだと言ってたはずだが、コロナは私をオトナにした。オオ、_ゴメンゴメンと言って店の外に出た。三十六、七歳の長身の男が買い物を終えて外に出て来た。私がオッと手をあげると、チョコンと頭を下げた。血を見なければ治まらない時代の中で、衆議員選挙が始まる。子どもにはカルシウムを、選挙には清き一票をだ。私は今、の境地を探している。数字の「0」ゼロを発見したインド人は偉大だ。ゼロは全てを無にしてくれる。あらゆる数字、忌しい数字もゼロに掛ければ「0」ゼロ即ち無となる。現代人に今、大切なのは「無の価値」だと思っている。インドは数学の大国でもある。10000000000×0=0




2021年10月9日土曜日

つれづれ雑草「さらば友よ」

 この男以上の人間は広告代理店のクリエイターの中にいなかった。その男があの世に旅立つ。今日十時~十一時が告別式だ。悲しいことに家族葬で参列ができない。四十年近く前初めて出会い、いろんな仕事を一緒にした。天才、奇才、一流といわれる人たちも多くいたが、仕事への嗅覚に優れ、企画立案力、判断と決断力。その展開力、交渉力、提案力、表現力、プレゼンテーション力、一つひとつの仕事への熱力が凄かった。長期ロケ、過酷なロケでの統率力、忍耐力、その全てが天才の上を行っていた。私は広告代理店のクリエイターと数多く仕事をさせていただいたが、ついにこの男以上の人間はいなかった。人にやさしく、ロマンチストで、フェミニストであった。声がよく声優もこなしていた。男は顔じゃない。女にモテ過ぎるほどモテたので、私は歩くモーテルと言った。逆に私を歩く迷惑と言った。なかば決っていたものを私がよく引っくり返したからだ。最高のライバルであり、最高のコンビだった。そして最高の友人だった。今、私の体には脱力の風が吹き抜けている。つい先日に大尊敬していた、師匠が八十余年の生涯を閉じた。稀代の名文家であり、博覧強記の食通だった。この十日間の間に二人のかけがえのない存在を私は失った。実姉、義兄、義兄、師匠、恩人、友人、今年去った人たちの葬儀はない。全て家族葬だ。~夜がまた来る 思い出つれて おれを泣かせに 足音もなく なにをいまさら つらくはないが……。深夜、小林旭のさすらいをしみじみ聞いた。超天才のその男はみんなに愛された。はじめて会った時、私のキーワードは少年と風だと言った。少し太目の体、細い目をゆるませ、やさしい声で、いいネ、いいネと言った。そして二年後、某大手飲料会社の大プレゼンテーションを決めた。当時六本木に竜雷太の経営する竜の子という店があった。夜、みんなで乾杯! 乾杯!と叫んだ。みんな若かった。その男が信頼したすばらしい上司、私たちはお殿様と言っているが、お殿様はベラボーに予算がオーバーしても、笑って許してくれた。男のダンディズムの見本だった。やっぱり二案出しますかと言うと、どんな大きなプレゼンでも、いいよ、一案でと言ってくれた。BOSSは私たちコンビを信頼してくれていた。私は今そんな日々を思い出している。さらば友よ、私は死ぬまでクリエイティブに生きる。あの世から大磯の大親友と見守ってくれ。それからお殿様も頼む。骨と灰をもらいに自宅に行くからな。体に力が入らない。心に力が入らないのだ。合掌         (文中敬称略)




2021年10月3日日曜日

つれづれ雑草「気合いだぁ……」

「ベニスに死す」というルキノ・ヴィスコンティの映画がある。名作中の名作だ。原作は故「トーマス・マン」の私小説みたいな映画だ。ヨーロッパでは当時コレラが流行っていた。私はこの作品を「ペニスに死す」と解釈して何度か見た。の違いだ。トーマス・マンは同性愛者であったようだ。現在ではなんてことはないが、当時はまだ影の世界だった。映画は一人の老作曲家とおぼしき人間が、とある海岸に旅人としてホテルに宿泊する。コレラを避けて来たのか、それとも人生という旅路の終りを見届けにきたのかと思わせる。老作家は富も名声も手に入れていたが、心の中に沈殿している重い心は、老いて行く我が身と、同性への愛の喪失感だった。老作家は海岸で、若さを満喫する少年たちを見る。その中に一人の美少年を見つける。すでに死んでいたような愛への感情が、老作家の心に火をつける。若かれし頃のヒリヒリするような、美少年への想いが燃える。老作家は老いた顔に化粧をし、身を整え美少年の姿を追う。月日とは残酷なもので若さは日々失って行くものである。かつて社交界で踊り明かし、酒を飲み交わし、薬にまみれ、異性も同性の区別もなく、放出したエネルギーは無い。あるのはただ鏡に映る老いたる姿である。そして老作家は一人コレラにて死す。美少年は何も知らず海岸で遊びつづける。一昨夜から昨夜まで(何しろ遅読だ)かけて、「カール・ラガーフェルド」モードと生きて「皇帝」の素顔という本を読んだ。ラファエル・バケ作、山本知子・金丸啓子訳/早川書房刊ちょこらファッション史を調べたいと思うことがあり、アマゾンで入手してもらった。カール・ラガーフェルドは、シャネル亡きあと、モード界の教皇、帝王、そして皇帝(カイザー)と呼ばれている。パリのファッション界は、権力と金、薬とSEX、メディアとモードの交差、そして同性愛であった。世界中の著名人がパリに集った。中でもアンディ・ウォーホルは狂乱していた。ラガーフェルドは自己演出に優れ、ドイツ生まれでユダヤ系であることを隠しつづけた。そのために英語とフランス語を操った。常に美男子を側にはべらさせていた。その中の一人の美男子をライバルであった、イヴ・サンローランと取り合う。勿論日本人の有名なデザイナーも登場する。画家や写真家、作家、詩人、芸術家とは狂った人間である。名声、嫉妬、金、虚栄心、嘘と堕落。イヴ・サンローランは狂って破滅する。およそ美とは程遠い醜悪の世界が、ファッション界、芸術界である。誰が言ったか忘れたが「美は乱調にあり」と言った。「藤沢周」の新刊「世阿弥 最後の花」を読むと、室町時代から戦国大名へ将軍や大名たちが、いかに美少年を我が者にするかに狂っていたかが分かる。足利三代将軍義満に気に入られた十二歳の天才美少年が、政争に巻き込まれ七十二歳で、佐渡島に流される。政争の裏にはもう一人の美少年の存在がある。世阿弥は人間の持つ業の世界を能楽として今日に残している。秘すれば花である。正しい人間、何よりも美しい人間、本当の人間というのは、決して存在しない。人間の長所は欠点があることだ、という名言もある。人生とは能や狂言を演じているのだろう。私は落語の主人公みたいに生きて終りたいと願って来た。バカだねぇと言われたい。フーテンの寅さんが、初代おじちゃん(森川信さん)に言われたように。銀座を歩くとスーパーブランドのウィンドディスプレイを見るのが楽しみだが、今は全く元気がない。ファッションに目が行くようなヒトも見かけない。大好きなサザンオールスターズの桑田佳祐さんや、人気タレントの綾瀬はるかさんが、ユニクロのCMに出ているのを見ると、とてもつらくなる。かつてジーニストという言葉があったが、今はない。ラングラージーンズの広告や、ビッグジョンの名作を思い出す。男には帰りたくても、帰れない街がある。銀座はそんな街になってしまった。夜の銀座はもうペニスに死すなんていう粋な男はいないのだろう。男の人生を狂乱させてしまう、ファッショナブルな女性もまたいなくなった。ただ人がいて、ただヒトが動いている。これではイケマセン。人間はこの地球上の生き物の中で、唯一夢を追うことができるのだ。文を書き、書や絵も描き、想いを言葉にできる。明日に向ってコロナ禍から突き抜けよう。永田町の政争も予想通りに終った。ジャン・ポール・ベルモンドの大ファンだったが、勝手にしやがれとあの世に旅立った。今夜は気狂いピエロを見ようと思っている。歴史は一人の熱狂から生まれると言う。さあ、熱くなれ、とズキズキ痛む足腰に気合を入れている。(文中敬称略)




2021年9月25日土曜日

つれづれ雑草「茶碗蒸し」

ヒトの命以外何んでも金さえあれば買える世の中で、何よりのものは手作りの料理だ。電子レンジでチンすれば、ソコソコの味が何んでも食べられる。ある企画をカタチにするために、2122日と北海道に行って来た。ドキュメンタリーの作品作りは長い旅と同じ、その一歩を進めた。コンピュータの達人と、写真家の達人と一緒であった。あるご家族の家に取材に行った。そしてデパートの食品売り場に売っていない、最高の味に感激した。お料理が上手な奥さんを選んだご主人は幸せ者である。又、そのお子さんもベリーハッピーである。私は手作りの茶碗蒸しを奥さんに作っていただき、久しぶりに手作りの味を食した。奥さんの作品は本格的であった。特にうれしかったのは、ギンナンの替わりに、大好きなクリが入っていたことだ。茶碗蒸しはやわらかすぎてもダメ、固すぎてもダメ、丁度いい味を作るには、上から下へ段々やわらかにする。絶妙の時間を必要とする。シャケのムニエル、シシャモのオスとメス。メスは卵を腹いっぱいにふくらまし、その味は野性的であり、オスはスレンダーで繊細な味であった。茅ヶ崎のスーパーに出ているシシャモは、細々としてメザシみたいだ。きっと韓国産か中国産だろう。他にもいろいろごちそうになった。デザートとして手作りの、チーズケーキをいただいた。私はこのところチーズケーキ大好きなのでサイコーだった。中秋の名月から一日ズレていたが、帰りの飛行機の窓の横に、10円玉位の大きさの名月が、きれいに輝いていた。人間はあの月に行ったのかと思った。奇蹟は起こすためにあるのだ。家に帰って二日分の新聞を読んだ。9月21日東京新聞一面の大見出し(夕刊)「少年院 保護犬と更生歩む」読むと、千葉県八街市(ヤチマタ)にある八街少年院では、保護犬の訓練を取り入れ、非行少年たちに、保護された犬が家庭で生活できるように教える。ある公益財団が実施している。全国で初の試みとか。犬は人を肩書きで判断しない。大人や社会に不信感を持つ少年でも心のよろいを剥がせると八街少年院の人は言う。非行少年たちは、保護犬を自分の犬と呼び、なんとかしてあげたいと思うようになる。それが更生に結びつけられたらと願う。飼い主から捨てられた犬、社会から捨てられたと思ったりしている少年たち。それを癒してやれるのは、「愛情」でしかない。コロナ、コロナで言葉をマスクで失った今の乾いた社会、動物たちが人間を励ましてくれている。落花生で有名な八街市にいい事をよくやってくれたとお礼を言いたい。人生は何度落下しても生きていれば夢が追える。9月2223日、日経新聞社会面の4分の1を使った記事の見出しに、目を奪われた。22日、『寝不足日本が失う15兆円』睡眠時間OECD最下位「寝ないと渡り合えない」と中見出しがあった。要するに日本人の平均睡眠時間は7時間22分、加盟国30ヵ国でビリケツ。全体平均は8時間24分、一時間も少ないのだ。寝不足は、集中力を欠き、思考力も記憶力も低下、いいアイディアや、いいヒラメキを妨げるのだ。ちなみにアメリカは45兆円、ドイツ6.5兆円、イギリス5.4兆円の損失と試算されている。不眠症の私は平均4時間位で、大損失していたのだ。23日、大見出し『スリープテックで質磨く』中見出し「1.5万人の分析 寝返り・いびきに家電連動」「できる社員 寝付き良く」とあった。寝具大手メーカーと、家電大手メーカーが、コラボレーションして、いかに健康的でいい睡眠を得るかを開発している。老舗のデータと先進のIoT技術を結びつけて、睡眠環境を最適にする。コロナ禍で寝具にお金をかける、そのことに本格的に目覚めたのだ。元来日本人は寝具は畳んでおし入れに入れてかくすものと思っていた。海外では寝室も生活の一部として見せるのも珍しくない。日本人の多くは、リビングやキッチンにはお金をかけるが、寝具はニトリとか、通販ものとか、テレビショッピングでいいと思っている。それはまい日ダニとかカビとか、ハウスダストを吸って寝てるのと同じだ。東洋羽毛工業株式会社の高級羽毛ふとんをおススメする。直販はしていないので、「oluha(オルハ)」で検索してほしい。安物買いの銭失いと言う。高級な眠りの追求は、世界的な潮流なのだ。9月24日午後三時四十八分、左腕にブスッと二度目のワクチンの針が刺された。信頼しているドクターが刺してくれた。副反応は分からない。現在約8時間経過中。自民党の総裁選は、何やら学級委員会選びみたいになっている。このままだと、二階派の40数票が決選投票の決め手になりそうだ。百戦錬磨の老人が、キングメーカーとなる。三歳の子を熱湯で殺したバカヤローが捕った。この国に隣人愛は無くなっている。知っていながら知らないそぶりなのだ。バカヤローは、釜ゆでにして殺してやりたい。摂津市役所は本当に役立たずの死役所だ。誰れが総理大臣になっても、来年の夏までの命だろう。恩義も義理も友情もない。永田町はこれからが盛夏だ。連合の会長に初めて女性が選出されたとか、時代は確実に「女の時代」だ。これはずっと昔の西武百貨店のキャッチコピーだった。銀座ggg(スリージー)で、敬愛する葛西薫さんの展覧会を開催している。すばらしい作品ばかりだ。いよいよベン・シャーンを超えたねと電話をした。北海道生の大天才だ。ぜひ行って薫風に出会ってほしい。戦には足し算と足し算は、引き算という格言がある。河野太郎プラス小泉進次郎に石破茂がプラスされて、「小石河連合」となった。これで反石破茂が引き算となった。承久の乱とか応仁の乱、戦国時代に学んでいない。さて戦略と戦術にすぐれた陣立を組んでいるのは……。アメリカの望む者は、菅総理はそれを聞いて帰って来るのだろう。これから知性を持ったサイコ女性の恐ろしさを描いた秀作「ゴーン・ガール」を久々に見る。(結婚して夫に殺意を持つ妻と、その妻を嫌悪する不貞の夫。)朝になったら副反応が楽しめるはずだ。
                               (文中敬称略)




2021年9月18日土曜日

つれづれ雑草「ハンタン」

久々、久々、ホントにおひさしぶりに中華料理店「菊凰」に行った。午後一時十八分頃であった。昼の定食はもうすぐ終る。私は同僚と二人。お客さんが入って来るが、座るところがない。スイマセンお相席をと言っている。私たちは四人席に二人であった。ずっと昔は若かった女性が二人。厨房に二人、出前が一人。最強の陣容は変わっていない。アタマの中は五目中華だったが、メニューを見て気が変った。同僚は中華丼を頼んだ。この人は玉子が大好きなので、カニ玉を分け合うことにする。焼売が旨いので五個頼む。何かスープ系をと思いハンタンを一つと言った。同僚がハンタンって何(?)と言う顔をしたので、ワンタンのハンブン、つまりハンタンなのと言った。コロナ禍で体重が増えているので、メンやライスはなし。これが実に旨かった。四人掛けが三つ、二人掛けが一つ、六人掛けが一つである。私たちの横に三十歳位の女性が座っている。黒いブラウスに白いカーディガン、白いレース柄のスカートに、黒のローファーシューズ。髪は長く肩ほどまである。残念ながら美人とは言えない。おねがいします、ラーメンと半チャーハンセットをと頼んだ。菊凰のチャーハンは、半分でもよその一人前位の量がある。女性は盛んにメールを打っている。シューズから両足を抜いてリラックスだ。菊凰は安くて旨い。そして早い。私たちは、カニ玉、ハンタンを取り分けていた。女性はまずラーメンから攻め出した。体が熱くなってきたのか、薄手のカーディガンを脱いだ。かなり、丈夫そうな二の腕である。レンゲではなくスプーンを使って、チャーハンへの攻撃に移った。時々お通しみたいなザーサイを食べる。その間メールを打つ。チャーハン、ラーメン、ザーサイ、メールの順を規則正しく繰り返す。一人きりのランチは、さみしそうであり、気楽でいいじゃん、みたいでもある。定食という二文字は実にいいなと思った。決められたものから選べばいいので、悩まないで済む。定食なのでほぼ同類だから、平等な気分になる。北京ダックをくれとか、鯉のカラ揚げ五目がけも、なんて奴はいない。マーボ定食、カニ玉定食、五目ヤキソバ定食、ホイコーロー定食などだ。私はハンチクな人間なので、ハンマ、ハンタン、ハンヤキ、ハンブタとか半分ものを頼む、量は半分でも料金は全部と同じなので、お店に迷惑をかけないのだが、他のお客さんは、こいつ何を頼んでるのかという顔をする。(している気がする)マァ~いいじゃないの、菊凰とは長い付き合いなのだ。女性はチャーハンがノドにつまったのか、ヒクッ、ヒクッしながら水を飲んでいる。それでもテーブルの上に置いたスマホでメールを打っている。一度、タンタンとしたタンタンメンをと頼んだ時、よく理解できなかったのか、厨房からご主人が出て来た。私がタンタンメンとタンメンの中間位のやつと言ったら、実にいい味、丁度いいカラミの美しいメンが出て来た。スープは怪しいピンク色だった。私はフツーじゃないメニューを、楽しめる店を好む。メンハンビーフもいい。メン半分、ビーフン半分。シューザは、シューマイとギョーザ半々だ。さて腹ごしらえした後、同僚と仕事場に一度戻り、銀座まで買い物に行った。街はしんなりとして元気がない。午後三時頃松屋のところを歩いていたら、オヨヨ、あのラーメン、半チャーハンの女性が同僚らしき男性と女性の三人で、何やら楽しげに(マスクしていたのでよく分からないが)京橋の方向に歩いて行った。何故分かったかと言えばキラキラのビーズ玉のついたケータイ入れが特徴的だったからだ。やっぱり東京に出ると人間観察がオモシロイ。銀座はやはりいいと思いつつ人形町に向った。「美味礼賛」という本にあなたが何を食べているか教えてくれたら、あなたが分かる。みたいなことが書いてあった。私は美味とは縁がないが、定食系には縁が深い。勿論アレンジをしたりする。道ゆく人を見て、その人に定食のイメージをする。サバ味ソ定食だなとか、ミックスフライごはん大盛りとか、ちらし寿しお吸い物つき、ミニモリ+ミニカツ丼だ。オッきっとチャーシューワンタンメン+メンマそれを脂っぽく。(甥っ子が好きなんです)昭和通りのハンバーグ専門店はトリプルハンバーグに、トリプルエッグ、ごはん大盛り+ポテトサラダもペロリと食べる若いOLさんに、人気の店だ。久々に銀座を一歩ずつゆっくり歩いた。コロナ、コロナで運動不足、足がやけに固くて重い。アジの開きみたいなメガネ男とすれ違った。最近美味なるアジの開きを食べていない。江の島駅のそばに一軒、いいアジを売っていた店があったが今はない。私は開き物大好き、アジ、サンマ、カマス、金目、それら一品に、白いごはんに黄色いタクアン、黒々とした海苔、赤い梅干し一個あれば、どんなフルコースよりウレシイ。美人は三日で飽きるというが、高価な美食も三日で飽きる。それにしてもお隣りの半島を、半分に分けているが、なんか仲良くならないのかな。喧嘩の仲裁には時の氏神をという。誰か指の半分も詰めて、これで何とかまとめてくれと一人で行けば、手打ちに向うかもと思う。で、ハンビンハンレーだ。(ビビンバ半分に半分のレーメン)真露JINRO)で乾杯、乾杯だ。そして半島にピースを。




2021年9月11日土曜日

つれづれ雑草「行間の愛」

「顔じゃない」これは大相撲の世界で使われる言葉だ。上の者が下の者に対して言う。お前は未だ俺と五分じゃないんだよ、顔を洗って出直せ、みたいなかんじに使われている。ヤクザ者の世界では、十年早いとか、貫目が足らない、そんなことを表わす。もっと命がけで自分を磨け、そしたら座布団の位置を変えてやる。子分が親分に独立して一家を持ちたいと話を持って行くと、こんなやりとりがあるらしい。最も今では子分を使って(忖度させて)コトを起こすと、親分の体で償いをさせられる。(死刑もある)でもって親分になりたがらないかも知れない。白い巨塔だろうが、黒社会だろうが、ピンクの社会でも、アタマ(トップ)を奪い合う時は、実に多彩な日本語が使われる。カラ揚げや串揚げより、一時は人気があった、叩き上げの菅義偉総理、総裁がずい分と脆く、わずか一年でやっとこ登りついた山を下りることになった。ギブアップ宣言である。やはり野に置けレンゲ草であった。コワモテであったが、逃げ足は速かった。七年半ウソ八百をつき通した人間とは、その執念とか、遺伝子が違った。役者が違ったのだ。(別にホメている訳ではない)第100代総理大臣は誰か、初代伊藤博文は、病的と言っていいほどの女性好きであったようだ。つまりよく遊ぶだ。若い頃からそうであった。(英雄色を好むとも言う)岸田文雄、高市早苗、河野太郎が九月十日時点で出馬表明した。キモチ悪い目つきの石破茂は、20人が集まらない。いつもの能書きで終わる。石破派は事実上消失だ。野田聖子はダンナが会津小鉄会系昌山組の人間だったと、認定されていたらしいので、論外だ。(スツ堅気になっていても、黒い過去は引きずる)いざ鎌倉! となった時に、どう動くかで人間の器量がわかる。岸田文雄、高石早苗は、余り身近でないが、河野太郎は私たちの選挙区選出である。(私は一票を投じてないが)親分麻生太郎に何度も協力を求めるその姿はイジマシイ。このまま行くと、麻生派少し、二階派少し、石破派少し、菅一派少し、それに小泉進次郎、まるでピカソのゲルニカのような顔になってしまう。もともと麻生派内では、アイツは離れに住んでいる奴(本当の住人じゃない)と言われていた。あ~嫌だ嫌だ。さて、アメリカは次は誰にしろと命じるのだろう。岸田文雄は親中的であった。高市早苗だと中国は国交断絶するとオドスだろう。脱原発の河野太郎は論外。自民党幕府は事実上終ったに等しい。大局観を持った人間が求められる。100代目もすぐ辞める。(来年の参議院選挙で負ける)101代目こそ重要な人間の出番となる。それが与党か、野党からかは国民の清き一票、マスコミの正しい報道から生まれる。小選挙区をやめて、中選挙区にしたほうが人物がでる、それを考える時が来るだろう。かつの「三角大福中」三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘。それなりに「顔」であった。小選挙区しか知らない虚弱な若い議員は、顔を求めて右往左往する。議員会館は広くて美しい。まるで一流ホテルだ。落ちればダンボール箱を持ってすぐに出て行かねばならない。最も敗けて学ぶの格言もある。国家100年の計を持った人が出て欲しいと思う。その意志、岩の如くだ。「ロマンスドール」という映画を見た。画家のためのヌードモデルのアルバイトをしている女性が恋した男は、ダッチワイフを作る会社に勤めるアート職人だった。より本物の女性に近いものを作るために、男はその女性を必要とする。顔より肉体である。女性役を蒼井優、男の役を高橋一生が演じる。本物の女性とダッチワイフ。そのピュアな愛の結末は。「愛を読むひと」を久々に見た。1995年初老の法律家が惰性の生活の中で少年の頃を思い出す。15歳の少年だった時、あるキッカケで市電の車掌の女性と出会う。歳はずっと違う。が二人は強く求め合う。初体験の少年と、愛を知り尽くした女性、文盲で本を読まない女性は、少年に本を朗読してもらう。ホメーロスのオデュッセイア”“ チャタレイ夫人の恋人いろいろな本に女性は反応する。小説家は一行一行の間に、本当に書きたいことを書く。つまり読者にイメージを広げてもらうために、本当に書きたいことは書き残さない。行間の愛だ、それはある日女性が住んでいた、裏街の安アパートメントから消えることで終わる。そして月日が経ち、再会したのはナチスドイツの戦犯を裁く法廷だった。1922年生まれ43歳であることを知った女性は、被告席に立っていた。女性はアウシュビッツの収容所で、命じられるがままに、殺されゆく人々を選別していた。女性は収容所の中で、若い男を選び本を読ませていた。死の行進の前まで。大学生になっていた男は、勉強のために裁判の見学に来ていたのだった。そして……。スティーブン・ソダーバーグの、名作「セックスと嘘とビデオテープ」を久々に見た。人間は単純にして、実に狡猾に造られている。悪魔はいつも微笑みながらやって来る。ニュース画面では河野太郎が嘘を隠して不気味に微笑している。無期懲役となった女性のところに、本を朗読したテープが差し入れられ続ける。ずっと、ずっと、ず~と。女性は老いて行きながら、文字を学んでゆく、そして……。初老になった男は、毎晩のようにマイクに向かって朗読しテープをつくる。初体験の女性のために。(文中敬称略)




2021年9月4日土曜日

つれづれ雑草「勝南桜」

日本を代表する大マスコミが、菅義偉総理退任を読んでなかった。週刊文春のみが前々週号の大見出しで、九月九日首相解任と報じた。知人の週刊誌遊軍記者が、文春の編集長はこの記事に首をかけていると言った。もし外れていたら、首相官邸から徹底的に追い込まれるはずだから。九月九日ではなかったが九月三日退任した。本人はヤル気十分だったが、すでに外堀はすべて埋められていた。策士は策に溺れるの教え通りに。「安心――それが人間の最も身近にいる敵である。」(シェイクスピア)菅義偉総理のいちばんの敵は、自分自身だったのだ。又、ユダの存在に気づいていなかったのだろう。きっとユダの動きを週刊文春はしっかりと追っていたのだ。朝日、読売、毎日、産経、日経、NHK、NTV、TBSなど記者クラブの主役たちは、全くの間抜けであった。政治部の部長は全員辞任すべき大失態である。麻生太郎風に言えば、オイ、岸田よ、菅はもう持たねえぞ、オマエの親分古賀誠を切れや、それでよ、俺とアベでよ菅のあとを継がせっからよ、それと二階のジイちゃんを終りにする策を突きつける。幹事長と財務大臣は、アベと腹合わせするからな。何、河野だ、高市だなんて、推薦人の20人集めるのがやっとことだよ。流れをつくれや流れを。菅の地元横浜じゃよ、藤木のドンと、市長選で負けた小此木一派が反目に回っているから、総裁どころか菅自身の選挙が危ないんだからヨオ。がんばれよ、岸田。酒だけ強いのじゃなくて、戦に強くだぜ。なんて私は想像したりする。ちょんの間の権力者の末路は哀れなものである。いつの時代も同じだ。安倍政権は俺で持っていたんだという錯覚が、自分で自分の影を大きくしてしまった。桜を見る会の問題により、検察を抑え切れなかった時点で、安倍晋三は怒ったはずだ。モリ、カケの火種もある。つまるところ国民とか、コロナ禍なんてどーでもいいのだ。自分たちの権力さえ守れるならば。恐い恐い世界の話だ。今頃週刊文春は乾杯(ノンアルコールで)しているだろう。これはこれとして、私にとってこの力士が土俵を去るのが残念だ。私の地元出身の「勝南桜」(旧服部桜)がついに引退して、今月七日に断髪式を行なっていた。二十三歳であった。序ノ口で104連敗中であった。七月の名古屋場所限りで腹を決めたようだ。2015年初土俵を踏んだ。19年初場所の6番相撲から白星がなく、異例の大型連敗で話題を呼んだ。通算成績は3勝238負1休であった。一日一日頑張っていた。この努力を第二の人生につなげてほしいと、式秀親方は語ったようだ。元勝南桜さんすばらしいではないか、私はあなたにぜひ会いたいと願っている。ふんどしにサインしてチョーダイ。(きっと勝運がある)どんなにつらく苦しくても、夢を追っている人に敬意を持つ。新聞で見た横綱照ノ富士の土俵入り写真に、私は深く一礼をした。身も心もボロボロになってから復活した。政界は一寸先は闇という。妖怪二階俊博がこのまま終るとは思えない。菅義偉総理が持つ、膨大な秘密資料はさてどうなるか。恐い恐い世界だから。ある賢人曰く「歴史は大詰めを欠いたドラマだ。結末はすべて、いつの間にか同じ筋書きの繰り返しをたどっている。」つまり歴史は繰り返されるのだ。結局勝ち残るのは、霞ヶ関の官僚たちであって、今まで人事、人事で脅かされて来た者から、しばし解放される。首筋にすでに秋風が吹いていた官僚たちの、万歳の声が聞こえる。ヨイショ、ヨイショの記事ばかり書いていた、大マスコミの記者たちは、苦虫をかみつぶしているだろう。菅義偉総理の天敵、東京新聞社会部の「望月衣塑子」記者は、してやったりだろう。「新聞記者」という映画に、勇気を持って出演した、松坂桃李(官邸から情報リークをする役)は、今どんな気持ちだろうか、この作品が与えた社会的インパクトは大きい。映画はベストワンとなったのだから。エグゼクティヴ・プロデューサー:河村光庸さん、岡本東郎さん、プロデューサー:高石明彦さん。すごい気骨の人だ。週刊文春にはすでに、河野太郎のパワハラ的怒鳴り声が手に入っている。(今週号)ネット社会では秘密は守れない。小泉進次郎が、水と油を混ぜると、美味しいドレッシングが出来ると言ったとか、水と油が混ざる訳はないだろうと、さわがれたらしい。本当にネット社会は恐ろしいと思う。もし、河野太郎が総理大臣になったら、かつて原発ゼロと声高にメッセージを送っていたのが、命取りとなるだろう。言うことがコロコロと変わる変人による、変てこな国へと向う。石破茂は自民党が下野した時に、党を出て行った。能書きだけの人間である。浮気をして家を出た人間が、再び家に戻って来ても、マアヨカッタワとはならない。なんだかやけに寒いではないか、豚しゃぶにしようと決めて、シャブ、シャブした。安いバラ肉がいちばん旨い。レタスを入れるとgoodだ。「火口のふたり」という映画を見る。男と女、むかしの仲が再び会って、五日間火口のように燃えたぎるのだ。すこぶる秀作だ。荒井晴彦監督が男と女の業を、叙情文学的に描き出す。オススメ。それにしても脅迫の限りをつくして十年近く永田町を仕切っていた人間の最後の相談相手が、今ではおバカさん大臣としてその名も高い、息子のような歳の小泉進次郎だけだったとは。会社が潰れる時は、馬鹿が仲良くしているか、利口が喧嘩している時だ。天皇と言われた、ある大物銀行家の言葉を思い出す。日本の政治評論家は、ハマグリのような田崎史郎と、ホームレスのような伊藤惇夫しかいないのか。永田町のパラサイト二人にうんざりだ。取り巻きは、この冬エリ巻きにもならない。(文中敬称略)