目的は東京藝大の卒業展を観る為だ。
歳は凄く離れているが私がその才能の将来に夢を持つ建築科の女学生が主席で卒業するというので作品を観たかったのだ。又、絵画、彫刻、書道も観たかった。
若々しい才能と出会うことは凄い刺激になる。可能性という缶詰は特上のキャビアより旨い。今はその名を伏すが彼女の作品は圧倒的に素晴らしかった。
建築には全く疎い私にもその才能の花の行方が見えた。間違いなく日本の建築界の、あるいは世界のスターとなるだろうと確信する。
将来美しい天才的女性建築家がキラキラと登場したら注目して欲しい。私は不器用で工作は大の苦手であった。息子が幼稚園の時お父さんと工作で何でもいいから一緒に作るという参観日があった。他のお父さん達は上手に恐竜や電車や船を作る。私は飛行機を作ろうと思ったが中々上手くいかなく四苦八苦して飛行機らしき物を作ったが極めて不細工であった。ちなみにこの飛行機は愚妻が今でも残してくれてある記念すべき作品である。
ノコギリ、ヤスリ、ボンド、セメダイン、カナヅチ、クギ、キリと工具の道具は個性的だ。つくづく人間は創意と工夫に満ちている。
真っ黒い雷雲が空を覆い、バリバリバリと大木に稲妻が落ちてバァ〜と発火した。ほぼ類人猿の人間の祖先はウアァ〜、キァ〜、スゲェ〜と飛び散りファイアーと叫んだかもしれない。火を知った祖先はそれ以来色んな工夫をして火を起こす事に挑戦した。そして何だい簡単じゃねぇか、木と木を思い切りコスッてフーフーと空気を入れればいいじゃんかとなったのだ。全ては偶然の産物であったのだろう。
穴が空いていればそこに身を隠していた祖先はやがて建築に目覚めて行く。それは一度点けた種火を何とかして守りたいと思ったのではないかと私は推測する。大事な火を守る為に囲いが必要となった。祖先の頭の中にクリエティビティあふれた建築の概念が猛烈に芽生えた。共通の目的を達成するためにはアーとかウーと言っている場合ではなく、オイとかアレとかソレとかの言葉が生まれやがてハヤクシロとかモタモタスンナとかサボッテンジャネエとかに発展したのだろう。
話を藝大の若者たちに戻すと、絵画、彫刻、書道共みんなシンミリ、マッタリ、ヒッソリ、アタリマエ的であった。「破」がなく「爆発」がなく「狂気」がなく野心や野望が見えない。ルールばかりを追っている。デジャヴ、みんなどこかで何かで観たような作品ばかりでガックリした。お前ら親のスネかじって人がやった様な事するんじゃないと思った。過日、横浜の藝大で映像科の作品を観た時も同じであった。スペースの無駄使いが多かった。岡本太郎先生の言葉を思い出せ。「藝術は爆発だ」なのだ。
主席卒業の彼女の作品はその発想力、構築力、建築に対するロマンに満ちていた。今すぐにでも採用出来る作品であり、一メートル以上もあるその模型は見事であり、隅々まで重層的かつ精緻であった。米粒みたいな人間が空間の中にイキイキと配置されていた。私は常々コンテストは頭から一番か後から一番、つまり一番しか意味なしと思っている。
作品に関して私は一切お世辞は言わない。最高にいいか、最低に好きかである。個性が無い物を作品とは言えない。人生も又、工作の様な物であるかも知れない。苦しみ、喜び、出会い、別れ、希望、絶望、欲望、挫折、成功、失敗様々な部品をノコギリやナイフで切り、ノリやセメダインでくっつけ、クギをカナヅチで殴りキリでキリキリと穴を空けるのだ。失敗しない者に成功は決してない。
この文章を書きながらマイケルジャクソンのTHIS IS ITのDVDを観ている。毎度も観ている、スリラー、ビートイット、ビリージーンのシーンになると手を休める。泣ける、マイケルジャクソンという一人の天才の囲りを世界中から選抜された超一流の才能(タレント)達が踊り、歌い、演奏する。死ぬほどリハーサルを重ね、そしてマイケルは死んだ。
マイケルジャクソンのコンサートも又、才能を積み重ねる一つの建築物であった。生きている内にもう一度自分自身をボロボロにしてやる、そう思った。そしてもう一度立ち上がるそれが駄目ならそこまでだと決意した。一流は沢山いるが超一流は数少ない。天才は神からの授かり者だ。私は歴史に残る最低の一番を目指すのだ。
神からは何にも授かっていない過酷な運命以外は。
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