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2011年1月28日金曜日

湘南の嵐便り 「そもそも論」


「そもそも」という言葉は謙虚かつ育ちのよさそうな言葉である。

「そもそも」スイカは夏の物であり、「そもそも」キュウリは曲がっている又、「そもそも」人間は等しく欲深くして又、傲慢かつ嫉妬深く、ハウス栽培でつくられた同じ形をした「イチゴ」の如くでない。
悪い噂を流し、人の足を引っ張り、人の不幸を肴に酒を楽しみ、人の死すら歓迎する。

ここに「そもそも」という知的言語が乗っかると何か全てが許せるものとなってしまう。
そうだよな「そもそも」人間なんてそんなもんなんだよ。

石川啄木

「そもそも」人間に人間性を求める事自体が無理なんだよ。
石川啄木なんて借金魔だったし、泉鏡花なんて女郎狂いだし、太宰治に至っては自死狂みたいだったんだからな。あの人然り、あの方然り、あの女性然り、あの御仁然りなんだよな。

泉鏡花

だから文学は生まれ、いい絵画は生まれ、いい芸術や伝統芸やとんでもない経済人や政治家が生まれたんじゃないのかな。なんて友人と一杯飲みながら「そもそも」論を交わす。
太宰治

「そもそも」と云う言語は全てを解決してくれる魔法の様な言葉なのだ。
自らが悩み苦しんだ時にこの「そもそも」を持ち出すと気が軽くなる。又、勇気が湧いて来るものだ。

「そもそも人間なんだから」、時に強く、時に弱く、時にズル賢く、時には慈悲に溢れる。
「そもそも」なんで頭は一つか、目は二つか、耳は二つか、鼻は一つで穴は二つか、口は一つで歯は32本か、手は二本で足も二本、性器は一つか、頭に毛は生え、脇の下と胸と陰毛だけあるのか(時々乳首にも23本毛が生えるが)、胸は二つで、お尻の穴は一つ、全てがなんでなんでの事なのだ。

なんでなんで?


三つでなく二つか一つが多いのがかなり気になるのだが「そもそも」人間なんだから説明出来ないよなんてエライ学者さんやお医者に言われるとそうですねと言うしかない。

つまり何をいわんかというと「そもそも」我々は何の科学的かつ物理的にも証明できない得体の知れない生き物なのだという事だ。


例えばかなりの悪事を働いた者にオメェーなんて事しやがったんだと怒っても「そもそも」人間ですからと開き直られるとさてどうするかという事になる。裁く方も「そもそも」人間だから悩み、苦しみや変態性を持っている。有名な警視庁のSPが女性の風呂を覗いてパクられた。
お風呂を覗いたらいけません

「そもそも」人間なんだからで片付けられるか。
かつて足利尊氏の側近、高師直が塩冶判官高貞の奥方に想いを寄せ風呂を覗いたという有名な話が残っている。これも又、「そもそも」人間なんだからなのだろうか。


近頃少なくなったが銭湯の番台の二代目は見放題であり女性もまるで意識していない。
これは「そもそも」許されるのである。

「なんでだろう、なんでだろう」と一時期流行したテツ&トモを思い出すのだ。

1 件のコメント:

こし さんのコメント...

ブログ更新ありがとうございます。

わたし、「そもそも」という言葉は
これまであまり使ってきませんでした。

「そもそも」謙虚さと育ちの良さとは
無縁だったからなぁ。

これから意識して使っていきます。