何故イエス・キリストの名は「イエス」 なのか、 ずっと疑問に思っている。1月も20日となるのに、今年の言葉が見つからない。誰かが言葉を探すなら「聖書」をめくるといくらでもある。古今小説家や劇作家、映画人など、みんなその題材を聖書に求めた。当然言葉も満腹になるほど、いただきまくった。私もパラパラと日めくりのように、めくっているが、キリスト教徒ではないので深入りはしない。もしイエスが「ノー」であったらどうであろうか。「ノー・キリスト」となる。聖書にはヤコブ、ヨハネ、ペトロとか、ステファノ、ユダとか、マタイ、モーセ、などユダヤ(イスラエル)人の名が出てくる。何故イエスだけが英語圏的な名前なのだろうか、それも肯定語の筆頭である「YES・イエス」である。 ノーセや、ノタイ、ノコブでなかったのか。名は体を表すと言うから、イエスと名付けた大工の親の真意を知りたいと思っていた。主はすべてをゆるす、これは主はすベてにイエスとなる。なんだかあまりに劇的なのだ。イスラエルはもちろん、いまだかつて中東アジア、エジプトなどで、いろんな名が出てくるが、“イエス” と名乗っているものはいない。キリストも然りである。日本でもその名が多い、田中、佐藤、鈴木さんの名を、例えば田中信長、佐藤秀吉、鈴木家康と書くと、歴史的にどうもしまりがよくない。イエス・キリストは何故イエス・キリストの名を持ったのか教えて欲しいと願うのだ。もし、ノー・キリストだったら、キリスト教はこれほど世界に広がらなかったのではと思うのだ。粉末状のほうれん草のスープ、海老味のスープ、コーンスープ、外に出て人にインフルエンザをうつしたらマズイ(二日間は何とか出て仕事をしたが)ので、一日中厚着をして映画を見続けていた。やっぱり宗教的、哲学的、詩的、文学的作品の多い、イラン、ギリシャ、カザフスタン、イタリア、フランス、ノルウェー、ロシア、ドイツ、イギリス、アイルランドなどの名作はドンパチ殺しあわなくていい。死そのものが厳粛である。タイ、ベトナムの映画もよかった。カンヌ、ベネチア、ベルリン、モスクワなどで最高賞を受賞した作品は、何度見てもいい。「マグダラのマリア」これはアメリカ映画(?)だが、いままで見たイエス・キリストがいちばんリアリティがあった。弟子たち漁師だった男たちの集団が、ボロボロの衣服で流浪しながら、ひたすら歩く。川の中での洗礼や、処刑に向かうイエスの姿もいままでいちばん、リアリティがあった。キリスト教の人たちにぜひオススメする。無理を承知で出て行って作ったプレゼンが、大好評で決まり、更に新しい仕事が生まれると、夜電話があった。努力の結果が“イエス”であった。インフルエンザが猛威をふるいついに警報レベルになった。こちらは「ノー」である。私に接近した人たちがインフルエンザにならないことを、切に願っている。イエスさま何とぞよろしく。温かいレモンティーが何よりいいようだ。
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