当時の男子マラソン |
かつて十月十日は体育の日で休日であった。
東京オリンピックを開催した記念である。
十月十日は晴れの日であり、記録上雨が降った日は極めて少ない。
あの日私は代々木の喫茶店で友人たちとモダン・ジャズを聞きながらマラソンを見ていた。デイブ・ブルーベックの「テイクファイブ」、キャノンボール・アダレイの「ワーク・ソング」、ソニー・ロリンズの「モリタート」などを聴いていた。
ゴッソリ走って出て行った選手たちも40キロ近く走って帰って来た時には一人、一人、一人だった。先頭はエチオピアのアベベ。
次が円谷幸吉、その次がイギリスのヒートリーだった。
アベベは哲学者の様な威厳に満ち息も乱さず背を真っ直ぐに伸ばして凛凛しかった。
円谷は腹痛をこらえているかの様に少し前傾であった。
またここに来るまでの苦悩を全身で表すかの様に顔を斜めにし、口を歪め息を乱していた。アベベとの差は抜き様のないほど開いていた。
店の外は人、人、人であった。つぶらや〜がんばれ〜、つぶらやがんばれ〜と声を枯らした。代々木の鉄橋の下を通り私の前を円谷幸吉は走り抜けた。
短髪、白のランニングシャツ、白の短パン、汗と水とで濡れて円谷の肌にへばり付いていた。そのわずか数十メートル後にイギリスのヒートリーが来た。
アスリートとは思えないほど太目だった。白人特有の顔が赤らめていた。
日本人に負けてたまるか、イギリスのしたたかさを持ち、底意地の悪い役人が逃げる労働者から税金をとりに向かっている様でもあった。
つぶらや〜、抜かれるな〜がんばれと叫んだ。
哲人、労働者、役人の順だった。結局円谷幸吉はトラックで遂にヒートリーに抜かれた。
そして後日「もう走れません」の言葉を遺してこの世を去った。
哲人アベベは英雄となったが足を失う身となり数奇な人生を終えた。
ヒートリーがその後どうなったかは知らない。
あの頃のオリンピックはアマチュアの代表大会だった。
次のオリンピックではゴルフまで種目となった。タイガー・ウッズが出るともいう。
オリンピックオープンという訳だ。
十月五、六日深夜、体操の世界選手権を見ていると最早サーカスの如きであった。
あの日マラソンが終わった後、新しい道へ向かう事を決意した。
デイブ・ブルーベックのテイクファイブは壊れたレコードの様に同じリズムを繰り返していた。円谷の遺書もまた、食べ物おいしゅうございましたを繰り返していた。
私もそれ以来同じ事を繰り返している。