ページ

2015年3月11日水曜日

「豆の入っていない枝豆」




昨日、日本のグラフィックデザイン界の巨匠二人と、パルコの伝説の広告の全てをプロデュースしていた友人と会った。

浅葉克己さんとは午後一時半から二時四十分まで。
相変わらず圧倒的な仕事を大好きな卓球と共に続々と制作していた。
若い頃からボクは二兎を追うものは一兎をも得ずといわれていたが、十兎を追うものは三兎ぐらいは得られると思っていた。という文章を読ませてもらって大いに共感した。
まるで千手観音のような多彩な仕事もその考えから生まれているのだ。
青山の浅葉克己デザイン事務所はデザインの博物館となっている。

午後五時から六時三十分まで神宮前の増田屋というおそば屋さんにいた。
巨匠井上嗣也さんは友人のお墓をデザインしたことを話し出した。
相変わらずポケットの中に文庫本を二冊入れていたようだ。他には何もなし、才能だけはあふれるほど持って座っていた。

もう一人は對馬寿雄(ツシマヒサオ)さんだ。
パルコ誕生時代から定年まで日本の超一流クリエイターをプロデュースした人だ。
青森県出身、武蔵野美術大学卒、何より「ねぷた祭」を愛する。
万事控え目でありながら大胆で細心、斬新な発想の人だ。
この人に仕事を頼まれて断った人はまずいないだろう。

井上さんはビール一杯、焼酎一杯、板わさ+カツオのタタキ、シメに「たぬきそば」を食した。對馬さんはビール一杯とカツオのタタキ、シメに「ざるそば」を食した。
私はウーロン茶だけで応対した。話は濃密に弾んだ。デザインや映画や本の話は楽しい。

体重30kg位、バストなし、ヒップなし、全身板みたいなメガネをかけた女店員さんがいいキャラクターだった。
まるで豆の入っていない枝豆がメガネをかけているみたいだった。
むかしを語り、今を語り、夢を語った。

今日は嵐になるかもしれないから早く帰ろうとなり、六時四十分頃に別れた。
お金を払う時、枝豆みたいな女店員がシャーペンを使って何か書こうとした。
芯が出てるか確認する時、指に鋭く触れた。
姿カタチには全く似合わない声で。痛え、痛え、やっちまったといった。
やっぱりいいキャラクターだった。
ふとこの枝豆女性を起用した短編映画が頭に浮かんだ。

2015年3月10日火曜日

「ドドンパな雨、ビビンバな夜」




LGBT6兆円市場!なんてニュースを見た時、LED以上の新しい電球が出来たか(?)と思ったLPG以上の新しいエネルギーが生まれたか(?)と思った。

実は全然の大違いで正直ビックリした。
L→レズビアン、G→ゲイ、B→バイセクシュアル、T→なんだったかな〜、確か何とかいっていた性同一性障害だったかと思う。その頭文字がTであった。

調査によると日本人の20人に1人がこの「LGBT」なんだと。
欧米ではもう当たり前の産業なんだと。東京渋谷区で近々パートナー証明が認められるとかでその道の人たちは大注目している。
女性同士(同志かも(?))の結婚とか、男性同士の結婚とかが認められると全ての産業は活性化する。
その市場規模が6兆円近いと見てすでに信じられない様々ビジネスが働き始めている。
信じられないセミナーが満杯、乾杯、性一杯となっている。

何だかよく分かんない。 
20人に1人とは人口の5%の人々、この人たちは高収入、高学歴、共働きなんだという。
先進8カ国(G8)の中で「LGBT」を認めない国は、日本だけ。

次のニュースには笑ってしまった。
韓国で今大流行の事、「甲の横暴」「乙の逆襲」。
「甲」とは大企業とか、社長とか、上司とか、地位の高い人たち。
この「甲」の横暴を、そうでない人たち「乙」が逆襲する。

「乙」が「甲」を徹底的にバカにし、コケにした歌詞をカラオケ教室で唄いまくる。
教室内はまるで万華鏡の中のように極彩色の衣装の老若男女たちだ。
手品師のような服を着たカラオケの先生の指導で唄いまくるのだ。
♪〜あのバカ、あのアホ、あのマヌケ、まるで私の事を唄っているのだ。

これはきっと日本にも上陸して来るかもしれない。心から楽しそうだ。
韓国料理のビビンバとは「かき混ぜる」のことだ。
かつてドドンパとか、ルンバとかが大流行した。
“甲ヒールンバ”とか、久々に大ヒットしそうではないか。

昨夜はアタマの上をドドンパのような雨が降っていた。
アタマの中はビビンバクッパ状態になってしまった。
白い梅の花が雨、風と共に去って行く夜は、マツコ・デラックスが一層巨大増大であり「LBTG」の時代の象徴に見えた。余りに存在感があり過ぎたので恐くなってテレビを切った。

2015年3月9日月曜日

「序曲」




歴史はつくった者によって滅ぼされる。
この教えは全て当たっている。歴史上、王朝、帝国、王政、帝政と呼ばれたもので滅びなかったものはない。

ローマ帝国、ブルボン、ロマノフ王朝、ナポレオン帝国、モンゴル、トルコ、インカ、大日本帝国。近くはチャウシェスク、フセイン、カダフィ。

人間の歴史は興亡の歴史でもある。この日本国が争いのない時代だったのは縄文、弥生時代でしかない。世界中で争いがなかったのは有史以来ない。
違った言語と習俗の民族と、違った宗教を持つ民族が仲良しになることはありえない。

56歳の女性未亡人代議士と40代の既婚の代議士が仲良しになる、そんなことは帝王にとってどうってことはない。

ロシアの野党のリーダーが恋人と一緒のところで暗殺された。
圧政者にとってはちょいと射的でもして来いなのだろう。

韓国に駐在する大使が80針も縫う斬り傷を負った。
あの国の権力者から見れば浅手の傷位にしか思っていないだろう。

三島由紀夫が市ヶ谷のバルコニーの上で、君たち自衛隊が決起する時が来たんだ、と絶叫した時、隊員たちの殆どは冷静であり、共感せず、何をエラソーなことをいっているんだ上から降りて来いと怒鳴った。

だがしかし今、三島由紀夫が同じことをやったら、現在の自衛隊員はなんというのだろうか。文民統制より制服統制に共感してしまうのでは、と強く思う。

織田信長は自分がいる安土城の天守閣の下に、時の天皇を呼ぼうとした。
つまり自分の方が神に近いのだと位置づけるために。
歴史のことなので作り話か真実かは定かではない。

人間という生き物は対称形である。両目、両耳、両足、両手(不自由な方は別として)。つまり絶えず善と悪、嘘と真実、黒と白などをしっかりと他人の話を聞き分別しなさいとなっている。

独裁者が滅ぶ時は片方ばかりしか機能しない。
そしていちばん近くの者からの告げ口と決まっている。
“側近”という生き物は手柄を欲しがり、嫉妬に狂う生き物を言う。
ユダはすぐ側にいる。
オセロは、イアーゴーのひと言で破滅した。

いま日本国はシェークスピア劇場の中にいる。
我々は滅びの笛を聞きはじめたのかもしれない。
数奇な運命の序曲として。

珈琲店で新聞を読んでいたら、就活中らしき若者がこういった。
オレ絶対自衛隊に入るわ。本物の銃バンバン撃てるしカッコイイじゃんと。
(文中敬称略)

2015年3月6日金曜日

「便利過ぎ」






銀座には美しいトイレの店が多い。
和光とか、ティファニーとか、資生堂パーラーとか、

但し便利すぎて便意、尿意が、えっ、おっ、と立ち止まる。
ドアを開けた瞬間に頼みもしないのに便器のフタがニューと上に上がる。
イヤダネーこういう過剰のシステムは、さらにゆったりのんびり思索しながら少しばかり腰を上げると、いきなりジャーと流れてしまう。
大事な行為の途中に水を差す大変迷惑なシステムだ。

健康を調べるには、その日の便の色、便の量、便の様子などをしかと見て判断する。
あら、それなのにほんの少し腰を浮かしただけでその貴重な姿を一気に流してしまう。
早い話無駄なことなのだ。二度流すのだから。
それにやたら押しボタンの表示が多い。

オバアちゃんはそれがよくわからなく、突然トイレから出て来た。

ちょっとすみません流したいんだけど、どのボタンを押せばいいのよ。大きな字で「流す」と書いてくれてあればいいのに。

マッタクオバアちゃんは正しい。

便利はいいが便利過ぎは、不便ということにもなるのだ。ウォシュレットの水のいきおいが強すぎて服を濡らしてしまったレディ&ジェントルマンを何人も知っている。
とにかく気安く腰を浮かさないことが重要なのだ。

その日、ある店で買い物をしてカードにサインをしていたら、オバアチャンがブツブツいいながら私の前に座ったのです。

2015年3月5日木曜日

「天気は晴朗なれど」




「ホンジツテンキセイローナレドナミタカシ コウコクノコウハイコノイッセンニアリ カクジイッソウ フンレイ ドリョクセヨ」
こんな一本の電信から日本海海戦ははじまったとか。

私といえば、ホンジツテンキセイローナレドアタマイタシ キモチワルシ  カゼトカフンが合体となって私に攻撃を仕掛けている。

太田胃酸いい〜クスリですを飲む、昨日美味しいものを食べ過ぎたようである。
あまりにも楽しき夜を過ごしたせいかもしれない。
クシャミとグシャミの連発で鼻がパンパンとなりイテエなのだ。

フンレイドリョクするには何をすべきかと思い、布団の中で「辰巳芳子」さんの著作、「食に生きて」を読む。

この本をご恵送して下さったのが、私の大尊敬する稀代の名文家、「佐藤隆介」先生だ。構成とあったが文章はまぎれもなく佐藤先生のものだ。
本年で九十歳となる料理家辰巳芳子さんから聞き取ったものであろう。

池波正太郎氏の高弟第一、その名文は例えていうなら、奥入瀬を流れる清流であろうか、一言一句に無駄はない、修飾語は一切なし、ただ漢字とひらがなとカタカナが絶妙の句読点によってその流れを見事にする。新潮社から販売中、ぜひ読んでいただきたいと思うのです。私も書く字奮励努力の体制にその身を起すとする。

2015年3月4日水曜日

「闘魚『ランブルフィッシュ』」




日本中に夜の街がある。
この街の中で浮き沈む「マチ」がいる。
「タニマチ」という人たちだ。

有名人、著名人、芸能人やスポーツ界の人々にお金をつぎ込んで沈んで行ってしまう人々だ。自分を大きく見せたい、自分を価値ある人間として見せつけたい。
バブル全盛期の頃、私はタニマチをゴマンと見て来た。
膨らんだ風船は必ずパンと破れる。

昨日までのタニマチはタチマチ借金の追い込みにかけられる。
夜の街ではそんなことを飛んだとか、沈んだとか、溶けたという。
金の切れ目が縁の切れ目で、金のないタニマチは街に存在できない。
人は自分のどこについて来ているのか判断しなければ深手を追う。
自分の金について来ているのでは(?)と正しく疑うことが何より大切なのだ。
♪〜今日もこうして飲めるのはみんな◯☓さんのおかげです 今夜も◯☓さんありがとう…。ヨ~オ、あんたが社長、あんたが会長、あんたが大将なんて持ち上げられてついつい気分が良くなってしまう。

その夜、私は友人とある会員制のBARで飲んでいた。
夜十二時近い、閉店まであと少し、十一時半で1女性は帰ってしまう。
この頃お客さんもケチンボでタクシー代のチップもくれない。
だから電車に間に合う時間に帰る。一人、二人、三人と帰って行った。

と、そこに大相撲の元横綱がタニマチ三人に連れられて入って来た。
かなり酔っていた。ウィー、ヒクッ、ヒクッ、ウィーとでっかい体をピクピクさせた。
なんだおりゃ〜女はいねえのか、これから飲み直しだ、呼び返せ、これから店は貸し切りだと大声を出した。

タニマチは私のことをよく知っていたので、目と手でスマン、スマン、スンマセンとシグナルを送った。
元横綱は飛び切り酒癖が悪いというのを知っていた。
また、タニマチが借金の追い込みにあっているのも知っていた。
レジャー施設のオーナーと、不動産業の社長、保険会社の役員であった。
元横綱はふんぞり返り、でっかい体に着ていたでっかい背広を脱いでウィスキーをがぶ飲みし、でっかい声で騒いでいた。

残っていたのは私と友人、なじみの客のお医者さんの三人だった。
でっかい“スモウトリ”に静かにしろと友人は言った。
大きな声でなく、小さくでもなかった。バーテンダーとママさんがオロオロ、オロロンとした。元横綱がバカヤロー白鵬なんかオレとやったらイチコロだグアファファと笑った。勿論、当然元横綱の方が強いとタニマチがいった。
友人がウルセイからカラオケを唄うといった。
元横綱は静かになりもの凄いイビキをかき始めた。

昼間は水の抜けたプールのような街は、夜ネオンに灯がつき始めると、水を得た魚のように活き活きと動き出す。赤、青、黄色のドレスの女性たちはメールを送り、携帯をかけながら速足で歩く、高価な着物を来た女性が素足でベンツやBMWを運転し駐車場に消える(プロの女性は酒は飲んだフリ)。夜の街は極彩色の熱帯魚が泳ぐプールとなる。一夜の内に何人ものタニマチがこのプールの中で溺れて沈む。
♪〜夜がまた来る 思い出連れて 
俺を泣かせに 足音もなく…私はこの歌が好きである。闘う魚を、あるアジアの国では「ランブルフィッシュ」という。F・フォードコッポラ監督の映画の題名でその名を知った。主演は若かりし頃の“美しいミッキーローク”だった。最高にいい映画だ。週末にぜひおすすめです。

2015年3月3日火曜日

「冷たいんだからぁ〜」




会社を数兆円に育てようと大人げない小人物がいる。
イトーヨーカドーやセブン-イレブン、大手百貨店(名誉のため、あえて名を伏す)や世界的某有名ブランド(名誉のため、あえて名を伏す)など傘下にしているセブン&アイホールディングスの総帥「鈴木敏文」氏だ。

「選択」3月号の記事によると、ローソンの会長からサントリーホールディングスの社長に就任した「新浪剛史」氏があいさつ回りに行ったところそれを拒み、ヒンシュクを買った。いくらライバルのローソン会長だったからといってそりゃーねえだろうという訳だ。

結局サントリーホールディングスの佐治信忠会長が出向いたとか。
更にセブンからサントリーの商品を減らしているとか。
「尊敬されないリーディングカンパニー」(セブン関係者)唯我独尊のドンに、これは私の想像だが、心ある社員はこう思っているだろう。

人望、人徳なし、だから経済界でもツマハジキ、元々コンプレックスの塊なので自分の気に入らないことには聞く耳も、見る目も持たない。
そう遠くないうちにあの世に行けば歴史に名を残すことは全くないだろう。
ただ大人げない人間がいたことは語り継がれるだろうよと。
あまりに子供じみている(鈴木会長)と写真のキャプションにあった。

妖怪伊藤英俊氏(イトーヨーカドー創業者)と鈴木敏文氏がいなくなったら、ここぞとばかりお家騒動が起き崩壊して行くだろうと私は確信する。
「いや〜新浪さん、この度は就任おめでとうございます、といって頭を深々と下げる器量があったら」と私には関係のないことですが、ふと思うのです。

今流行の“クマムシ”の唄う、♪〜だってあったかいんだから〜ではないのです。
♪〜寒い日に社長就任の挨拶に行ったらすねて出て来ない、子供みたいで冷たいんだからぁ〜…なのです。

2015年3月2日月曜日

「離婚と転校」




幼い子どもにとっていちばん嬉しい風景は、お父さんとお母さんが仲良いこと。
逆に嫌いなことは、お父さんがお母さんに対しガミガミ怒ったり、イライラして八つ当たりする、お母さんがお父さんに対しクドクド問いつめたり、イライラして八つ当たりばかりすること。

子どもが不良になるには大きく分けて二通りある。
一つは何不自由ないお金持ち、でも本当の愛がない家で育ったこと。
心が満たされない悲しい子。
一つは貧乏で何も買ってもらえず空腹なこと。
一つは金ばかりモノばかりの思い出しかない。
一つは勿論その逆だ。

三つ子の魂百までという。離婚すると一番に傷つくのは「幼い子ども」だ。
私は父を早くに亡くした。片親だからとずい分嫌な思いをした。
が、私には愛情あふれる母親がいた。朝から夜遅くまで働きづくめだったが、明るく優しい、いつも笑顔の母親がいた。それ故マットウ(?)になれた。

親から愛はもらえず金ばかり持っている子と、親が離婚したり死別して金を持たない子は、必然的に引き合い近づき始める。そして群れをつくり出す。
お金持ちの子は根性がない分お金を持って来て仲間の関心を得る。
群れの中でいつしか役割分担が決まっていく。喧嘩を担当してモメごとを収める子、その力に従う子、アレコレ情報を持って来る子。
みんな家にいるより仲間といることを再優先とする。

十歳以上にもなると考えもしっかりして来て、お父さんとお母さんの関係悪化も理解することができる。十歳以下のお子さんがいる人にはお願いしたい(特に五歳以下)。
どんなに辛く、悔しく、悲しく、淋しくとも離婚は思いとどまってください。
離婚と転校は子どもにとって不良への一歩となります。

“ニーチェ”曰く「夫婦生活とは長い会話である」長い夫婦生活の中で子どもが不良になっても決して愛を失わないで下さい。夫婦が話し合い愛情があれば、きっとマットウになります。不良少年の一人ひとりは実に素直でかわいいものです(キ印→アタマがイカレた奴以外は)。愛情に飢えているのです。決してハレものに触れるようにしないで下さい。

本当の不良は自分は成るように成ると覚悟を決めています。
だから何をいっても聞く耳を持ちません、でもやはり愛情にはみんな飢えています。

私の統計ではお金持ち同士の離婚の方が圧倒的に多いのです。
それにはちゃんとした理由があるのです。
毎日の生活の中で何気ない会話の中で鋭く対立しているのです。
スパッと竹を切ったように。

2015年2月27日金曜日

「渡る世間に…」




東海道線は字と字が列車によって向かい合う。
四人掛けだ。狭い、足と足、体と体が触れ合う。

私の隣の老人は、スポーツ新聞の競輪予想面をシワクチャにして見ている(平塚か小田原競輪なのだろう)。
左斜め前の太ったオバサンは短足のせいか履いていた赤いスリッポンのカカトの部分に、脱いだ足をつま先を立ててチョコンとのせている。砂糖をパラパラと落としながら大きいメロンパンを食べている。
誰かに似ているなあーとじっと顔を見たら、橋田壽賀子さんにソックリだった(本人かもしれない)。
私の目の前(つまりトイメン)は三十代中頃のビジネスマン風、ずーっと下を見てスマホをいじっている。無我夢中だから列車が脱線しようが衝突しようが上を見ることはないだろう。 資料がごっそり入った黒いカバンは閉まらずパックリ口を開けている。

私といえばその三人をじっくりと観察させてもらっている。
列車は辻堂→藤沢→大船と進み横浜に向かって行った。
と、その時オバサンが突然スイマセンちょっとおトイレに行かせて下さいといって、半分残ったメロンパンをハンカチで包んだ。

いい感じで一定の秩序を保っていたのだがこれを機会に崩壊した。
オバサンの体は想像を超えて太く、でかく、高かった。競輪の予想面を見ていた老人は、あーあ今日はとことんついてねえや、みたいな顔をして立ち上がった。
ビジネスマン風の男が持っていたスマホを落とした。画面には将棋が写っていた。
きっと詰め将棋をやっていたのだろう。やはりずっと下を見ていた。


私といえばそんな光景を観察しながら立ち上がってオバサンが通りやすくしてあげた。
トイレから戻って来たらまた、おなじ事を繰り返すのだろう。
列車が横浜を通りすぎ川崎に向かってもオバサンは戻って来なかった。
人間は不思議だなと思った。

横浜でお客さんがたくさん降りたので、字と字に座る必然は何もなかったのだが、三人はオバサンが戻って来るのをじっと待っていた。
渡る世間に鬼はいないのを証明したかったのかもしれない。

2015年2月26日木曜日

「二人の社長」




クリント・イーストウッドの最新作「アメリカン・スナイパー」を観た。
戦争の実況中継のようであった。何しろ実弾を使っているので迫力がもの凄い。ぜひ観てほしい反戦映画だ。
イラク戦争からイスラム国(?)が生まれた。

映画の中で気になるシーンが何度もあった。
テロリストたちが使用している車がほとんどTOYOTAであることだ。
アジアからユーラシアそして中東、テロリストたちはTOYOTAの上から銃撃をする。TOYOTAはまるで日本を代表する“軍需産業”だと思った。

大手広告代理店でTOYOTAのレクサスを七年担当した友人が名古屋での勤務を終えて帰って来てこういった。TOYOTAは「鬱製造会社」だと。
豊田家以外の人間はロボット位にしか思っていない。
働かせるだけ働かせ、心身がイカレたらはい次の人。まるで経営に愛がないと。
他より給料もいい、技術も高い、が人間的でないのだと。系列から絞るだけ絞る。
乾いたタオルをまだ絞るというほど徹底して無駄な金は使わない。
系列会社を渋り上げる。二兆円以上という途方もない純利益を出しても内部保留にする。

映画を観ていてその話を思い出した。
テロリストを乗せているTOYOTAの企業姿勢とは何であろうかと思った。
確かに車の性能はいいらしい(私は免許を持っていないから分からない)。
私の娘も息子もTOYOTA車に乗っている。
TOYOTAの社長の顔は無機質で感情が見えない、まるでロボットのようだ。

その逆に感情がまる見える、野心と野望がコンプレックスで固められ、俗物の極みのような顔をした人間がいる。幻冬舎の見城徹という社長だ。
金はしこたま手に入れた。だが世のため、人のために使う器量も度量もない。
権力に擦り寄って下世話に磨きをかけている。政界や芸能界は出版界ほど甘くはない。きっと哀れな末路をたどるだろう。利用されるだけ利用される。「やしきたかじん」の罰が下る。

テロリストのブランドとなったTOYOTAにはどんな神の罰が待っているのだろう。
(文中敬称略)