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2016年10月18日火曜日

「ピート小林氏」




白くて厚いボール紙を封筒代わりに仕立て、白いガムテープを厳重に貼り付けた手応えのある郵便物が届いた。文字を見てすぐ分かった。
本名小林直道、通称(ペンネーム)ピート小林氏からであった。

中には展覧会の案内状。
10月21日(金)~30日(日)~写真家ピート小林とお米マイスター五つ星小池理雄の出会い~。ピート小林氏は多芸である。

青山学院大を卒業した後、ブルックスブラザーズへ、その後アメリカに渡りバーテンダーを七年間位したと聞いた。ピートはその頃に付けられた愛称だ。
帰国後、外資系広告代理店マッキャンエリクソン博報堂でコピーライターとして活躍、その後大手広告代理店電通に入社、クリエイティブディレクターと営業を経験し、フリーランスとなる。

故ジョージ伊藤さん(凄いシズルアート&スタイリスト)とコンビで作ったサントリー・カクテルブックは後世に残る大仕事であった。
2000種近いオリジナルカクテルをピート小林がシェーカーで生み、カクテルグラスはすべて違うグラスであった(レシピはピート小林)。
コピーライターであり、バーテンダー、それと甲子園大会写真家。
日本中アチコチの桜の写真も撮り続けた。

近年は案山子を追って日本中の畑を回って撮り続けている。
10月21日(金)NHK BSプレミアム「新日本風土記」九時~九時五十九分で、初日取材されるのが放映予定と米粒みたいな小さな文字で書いてあった。
Space WAISE(渋谷区渋谷2-8-4佐野ビル2F)、地下鉄表参道駅B3出口より徒歩10分のところにある。お時間のある方は是非立ち寄ってあげてください。

ピート小林氏はワンコイン英語レッスンもやっている。
とてもいい所と、とてもトホホが同居している身長185センチ位の立派なヒゲの大男。
私には大きな仕事をずっとさせてもらった大恩がある。父君は協会の牧師さんであった。生活に窮したときは、UR機構の訳あり物件に住み転々としていた。

若い頃、朝日広告賞のグランプリを受賞した。
Macのシリーズ広告、ジャガーのシリーズ広告は歴史に残る名作である。
アートディレクター&デザインは名人高橋稔さんであった。カメラは確か秋元茂さん。
トホホのない広告人であったならきっとその名は高名を極め、財を極めたであろう。
多種多芸が広告人だけであることを可能にしなかった(今のままがいちばんだ)。

原型を留めなくなるほど使い古した時刻表を友にし、列車を乗り継ぎ案山子を撮ったものが写真集「カカシバイブル」(東京書籍)として売り出し中。
実に明るく、楽しく、人間臭く、オシャレでキュートでチャーミングな案山子たちだ。

先日恵比寿の山小屋というかわいい画廊で見た坂田みつ豆さんの“チビ豆”ちゃんの写真展もユーモアセンスにあふれていて良かった。
一枚の写真を見て生きる力をもらうことがある。
ユーモアのない今の世の中はとてもキュークツで、嫌な気分なのだ。

「案山子写真家とお米屋さん展」きっと行くからな。
住所がずっと変わっていない、定住の地を得たようだ。一途な男にひとまず乾杯!だ。

2016年10月17日月曜日

「クリームシチューと肉まん」




解散風をビュービュー吹かせていたのは自民党本部だが、官邸筋は慎重論の風を吹かせ始めた。新潟知事選で野党統一候補の米山隆一氏が大逆転勝利をした。
告示前は無投票に近い情況だったが、野党3党が結集して反原発の米山隆一氏を立てた。日々支持が広がり七万票近い差をつけた。
これにより野党が結集すると40議席近くを失うのではと考えたのが官邸筋だ。

経済情況は低空飛行のまま、ズルイ、汚いの代表国ロシアのプーチン大統領はシリア問題で手一杯。日本のことは経済協力をしてもらうこと以外に興味なし、あの手この手で四島返還に対しては、玉虫色の答えしか出さないだろう。
天皇の生前譲位に対して、報復人事を行い天皇の最側近を外してしまった。
稲田朋美防衛大臣の国会答弁に至っては戦争を衝突という仕来。
新潟で負けたのは反原発だけでなく、反TPPでもあった。

農家を敵に回すとマズイ、ヤバイ事に気づき、多分衆議院選挙は先延ばしになるだろう。
待機児童問題はスルーしてママたちは怒り、年金カットは老人を怒らせる。
三分の二を失ってまでやる必然性がない。
最後の最後に民進党代表蓮舫氏は新潟に入った。勝てそうだから。

都議会自民党は小池百合子氏に全面降伏した。
天丼、牛丼、カツ丼、親子丼、そして内田丼の命脈は尽き始め、マダム百合子、渡り鳥小池百合子氏に手も足も出ない。声すら失った。
就任時一人二人であいさつに来た小池百合子氏をあしらったが、二ヶ月後は部屋いっぱいの議員が満面の笑みで迎えた。ずっと満月は続くと思っていた。
現在の一強独裁がボロボロと崩れ、二度選挙をすれば再び政権交代があるのではと予感する。橋下徹氏がどう動くかで戦況は変わる。

先日書いたSASUKE君が昨日最終回(七回裏)ツーアウトから代打に出て、逆転サヨナラ勝利をもたらした。右中間を真っ二つに割ったとか。みんな号泣をしたと聞いた。
相模原の奥、遠いところでの公式試合だった。たった11人のチームでも力を合わせれば戦って行けるのだ。私は保育園の運動会会場にいた(小学校の体育館で)。
私はSASUKE君を見習って行く、すべてはファアザチームで。

強大に見える権力も実は「砂上の楼閣」であって、大きな波が押し寄せたらひとたまりもなく流されて消える。ついこの間まで小池百合子氏は忘れられた存在だった。
いよいよ森丼の命脈も尽きるだろう。
先を急ぐ小池百合子氏にはどんな落とし穴が待っているのだろうか。それは…秘密丼だ。
がんばれ私の期待の人よ。天下を取るべき戦略を。

冬近しを知らせる北海道クリームシチューのCMが始まった。
年賀状承り、おせち料理予約も始まった。アツアツの井村屋の肉まんをマスタードとソースをつけて食べながら競馬中継を見た。
元横浜ベイスターズの大魔神こと佐々木主浩氏の持ち馬が“秋華賞”というG1レースで勝った。ガッポリ入った賞金を「きふ、人から」プロジェクトによろしくと思うが、大金持ちはみんなケチンボなのだ。否、ケチンボが大金持ちになるのだ。
弱者に目を向ける者は少ない。

2016年10月14日金曜日

「ボブ・ディランと村上春樹」



午後十一時五十八分、世田谷区用賀インターから第三京浜へ、そして辻堂に向かってクルマは走っていた。午後十二時NHKラジオの時報が流れた時、私は一歳年をとった。

ニュースでタイの国王が死去したのを告げたあと、今年のノーベル文学賞をボブ・ディランが受賞した事を告げた。村上春樹が予想では第二位だったが、今年も受賞をしなかったと。何故村上春樹がノーベル賞をと思われるのがよく分からない。
ボブ・ディランはそのオリジナル性が選ばれた理由だとニュースは教えた。

村上春樹の文学にはアメリカ文学の下敷きが色濃くあるのがオリジナル性に欠けていると判断されたのだろうか(?)フランツ・カフカにも影響を受けているというか、発想の方向がほとんどカフカ的である。
それにサリンジャー、フィッツジェラルド的世界観を加え、植草甚一、常盤新平、片岡義男的ブランドスパイスを効かせ、レイモンド・チャンドラー的トーンを盛り込むと、村上春樹的ワールドは生まれる。
私は村上文学は自らへのコンプレックス文学と思っている。
もし彼が身長180センチ、見るからにイケメン、スポーツ力に優れて陽灼けが似合い、ブルージーンズに白いTシャツが筋肉と共に日々の制服となっていたら、決して今の村上文学は存在しなかっただろう。私はそう思っている。

最も手紙も満足に書けない私の村上春樹へのコンプレックスかもしれない。
私はむしろ村上龍の方がよりノーベル賞的だと思っている。
何しろオリジナル性があり、現代文明に対して鋭く斬り込み、暗示性に富んでいるからだ。村上ファンのハルキストの人たち、勝手を書いてゴメンナサイ。
来年はきっと受賞するはずです。


♪~いったいどれだけの道を歩めば 人として受け入れられるのだろう いったいどれだけの海を渡れば 白いハトは休息できるのだろう どれだけの銃弾を打ち合えば 弾はそこをつくのだろう 答えは友よ風の中にある 答えは風の中にある…。
Blowin' In The Wind(風に吹かれて)をボブ・ディランはベトナム戦争真っ只中、ベトナム戦地のアメリカ兵の前で唄った。ジョーン・バエズと共に反戦の歌手であった。
フォークとロックとブルースの要素が入った歌を独特の音階としゃがれた声で唄う。
ボブ・ディランの歌い方はクルーナー唱法といわれ、囁くような優しい唄い方だ。

あらゆるミュージシャンはボブ・ディランを追った。ビートルズも。
文学的、宗教的、哲学的、反戦のメッセージ・ソングがすっかり聴けなくなった。映画「ビリー・ザ・キッド」の主題歌「天国への扉」は私をしびれさせた。
ビリー・ザ・キッドはご存知西部劇の無法者である。

イーグルスの名曲「ホテル・カルフォルニア」、レッドツェッペリンの名曲「天国への階段」は私のベストソングであった。
無法者を 戦争好き国家アメリカに置き換えると、アメリカがいかに病んであの世へ向かっているかが分かるはずだ。
ヒラリー・クリントンとトランプとの虚しい姿を見るとその答えが風の中に舞っている事を知る。

♪~またひとつずるくなった 当分照れ笑いが続く。
ボブ・ディランに憧れた泉谷しげるの歌が聴こえてくる。
私は一つ歳をとって、またひとつずるくなった。
そしてまた一歩、天国か地獄に近づいた。(文中敬称略)

2016年10月13日木曜日

「停電の原因考」




西村寿行の「滅びの笛」という本と開高健の「パニック」は同じテーマであった。
関東の山中で熊笹が異常発生し、それを食べるネズミが異常に大繁殖する。
そのネズミたちが黒い大津波のように食べ物を求め東京へ向かう。
ネズミの繁殖力は天文学的数を生む。田畑を食い尽くしながら村を町を滅ぼす。
道路や線路を占領しつつ東京に向かう。

ある年ねネズミの集団自決が東京湾であった。実話であるという。
東京湾はネズミの死体であふれ漁師の魚網はネズミの大漁となった。
人々はパニックを起こした。ネズミは地下に押し寄せ配線を食べていく。
電線はショートしやがて火災を起こし、街の機能を失わせてしまう。
歴史的には100年に一度そんな異常事態が起きていたという。

小学生時代の天才的少女だった友に今の日本は滅びの笛、パニックに近いというような手紙を書いて今日ポストに入れる。すでに封筒はガムテープで止めてあった。
13日にする意味が私なりにあった。

昨日私は四時過ぎ区立練馬美術館に向かっていた。
五時に友人二人と待ち合わせをしていた。
池袋までタクシーを飛ばし西武池袋線で中村橋に向かうつもりであったが、停電で池袋線は止まり、佃煮ができるほど人、人、人であった。
仕方なくまたタクシーに乗ったが渋滞が凄い、携帯を持っていないのでタクシーの運転手さんに借りて友人に電話した(五百円払った)。
友人たちも同じ状況であった。
夜、家に帰るまで50万世帯以上が停電とか、映画館、劇場も停電になった事を知らなかった。

区立練馬美術館の館長は、日本最大手の酒飲料メーカーの宣伝部長をされていた有名な人、美術に関することで知らない事はないのではと思う程、正真正銘博覧強記の人。
日本のルオー、日本のピカソ、否、ルオー、ピカソ以上にもの凄い画家「朝井閑右衛門展 空想の饗宴」を観て、その後館長と友人二人と共に割り勘(いつもそうなのです)で一杯飲み、館長より美術についてご教授を願う。
五時半までに着かないと美術館は終わってしまう。

江古田、練馬駅近辺も渋滞、運転手さんが携帯を見て「なんか停電しているみたいですね」と言う。車が動かないので薬局まで歩いて行って、目薬とグリーンエバー(フリスクが売ってなかった)を買った。
で、五時二十三分受付に。あ~間に合った。

朝井閑右衛門については後日にするとして、停電の原因はネズミではないかと思った。
東京の地下にしこたま太ったネズミが数億、数十億といるやもしれない。
ネズミ算的に増えるから食べ物がなくなると何でも食べる。
漏電防止のテープなどグルグルに巻いても食べてしまうだろう。
一カ所火がつけば燎原の火の如く広がって行く。

丁度友人にネズミの話を書いたのですっかりそう思ってしまった。
朝井閑右衛門は電線だけを難点も描いていた。
たっぷり厚塗りの絵はただの電線をこれ以上なく肉感的に描いていた。

エレベーターは停止したのだろうか。
今日はエレベーターの保守管理をする会社の社長さんと会うので詳しく聞いてみることにする。館長が案内してくれた日本料理「味三昧」の料理は朝井閑右衛門に匹敵するほど凄いものであった。総料理長は新橋「京味」で修行した人だと紹介された。

2016年10月12日水曜日

「焼き海苔」



♪~アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい 夜が明ける 日がのぼる 朝の光りのその中で 冷たくなった私を見つけて あのひとは 涙を流して くれるでしょうか…。


現在の大学生たちは知らないだろうが、その昔大学には全共闘の時代があった。
西田佐知子が切々と唄うこの歌は戦いに敗れた全共闘世代に圧倒的支持を受けた。
“冷たくなった私”は抵抗に屈した自分たちの姿に思えたのだ。

現在65~68才位の大人たちは、中核、革マル、ブンド、民青等々、それ以外はノンポリと言われた。全学連は一つのファッションでもあった。
今や定年となりかなり無気力、無重力化した65~68才世代はやがてプチブルジョア(プチブル)化していく。
実は国家権力者側に内通して情報料をしこたま手に入れたり、権力者側に踊らされていた。
全共闘時代を経て日本国の警察組織は捜査一課第一主義から“公安”にその力関係は変わって行く。

全共闘は鬱屈した学生たちにとって格好のはけ口となった。
フリーSEXがまかり通った。処女であることは権力者側にいることと同義語であった。
“暴力は最後の理性だ”なんて空気を入れる学者たちがいた。
全共闘たちに思想的影響を与えた学者たちが真っ先に権力者側に転向したのは言うまでもない。

私が最も影響を受けた、ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督が九日死去したということをニュースと記事で知った。九十歳であった。
歩行補助具を使いながら遺作(Afterimage)を今年のトロント映画祭に出品したと記事にあった。
五十年代の抵抗運動(レジスタンス)三部作「世代」「灰とダイヤモンド」「地下水道」は珠玉の名作であり、全共闘世代の若者の心を捉えた。

私の好きなシーンがある。
「灰とダイヤモンド」の中で若いテロリストが、白い洗濯物がズラーッと干してある下を逃げるシーンだ。カメラワークが抜群であった。
モノクロームの映画であったがまばゆいばかりの映像美であった。
白と黒の対比が抵抗運動の明と暗を表していた。
黒澤明監督に影響を受けたとアンジェイ・ワイダは後に語った。

私の拙作であるピンク・レディーのMIEが唄った灰とダイヤモンドの題名はこの映画からいただいた。革命はガレキと灰の中からしか生まれないと言った。
当時レジスタンスという言葉は流行り言葉となった。
暴力革命は全否定するが、抵抗しない社会はファシズムを生む。
ペンは銃よりも強いはずだが、現代のペンは暴露でしかない。

午前二時八分〇五秒、いつものグラスにお酒を注いだ。つまみは焼き海苔。

2016年10月11日火曜日

「佐助君(?)」




その少年は昨日も試合に出られなかった。

午前十一時二十三分プレイボール。
神奈川県少年硬式野球大会のシニアの部、第三回戦であった。勝てばベスト8だ。
平塚市にある河川敷の球場には、二宮から秦野から、そして中2の孫たちの相手横浜都筑から、そこに集結していた。

私は十時三十分頃に着いた。
前の試合の最終回(七回まで)を両軍戦っていた。
どういう訳か茅ヶ崎の少年たちは小さいのだ。それに人数が毎年少ない。
今年は新人が二人しか入らなかったとか。
シニアは中1と中2まで、相手はまるで高校生のようにでかい。
私は175センチだがそれに近い子が多い。

茅ヶ崎といえば165センチ位の子が二人、あとは150センチから158センチ前後で子ども、子どもしている。
相手はすでに大人びていてバットを振ると、ビュンビュンと風を切る強い音がしまくるのだ。相手チームは25人、こちらは11人であった。
試合は残念ながら一方的に打たれて0対8か9で負けた。
最後はランナーがまとめてホームベースに入って来たので0対9かもしれない。

試合の結果は仕方ないとして、私がここ何試合か応援に行って気になったことがあった。背中にSASUKEと縫い込まれたチームでいちばん長身の子が試合に出してもらえない。
大きな声を出し、ボールを拾い集め、その汚れを取る。
試合に出ている選手のヘルメットを並べ、バットなどをきれいにふいて並べる。
守備に入っている時は二人しか残っていない。攻撃の時はベースコーチに入る。

とにかくSASUKE君は忙しいのだ。私はこういう子に飛び切り愛情がわくのだ。
何で試合に出してもらえないのかをある人に聞いたら、打てない守れない出たら勝てないからという。勝つことだけが少年野球の目的だろうか、それもたった11人しかいないのに。せめて代打とか代走とかでも出してあげてもらえないだろうか。
私が監督なら等しく機会を与えてスポーツの楽しさを教えてあげるのだが。

がんばれSASUKE君、一生懸命練習すれば野球はきっと上達する。
きっと監督は見てくれている。勝つだけを教えるのが少年野球ではない。
フレーフレーSASUKE。本名は佐助かも。

2016年10月7日金曜日

「ロックよ静かに流れよ」




ある地方の里山に行っていた。
山の上から峡谷、黄金色に染まる米畑、今は詳しく書けないが地方創生へのお手伝いをさせていただいている。驚いたことに一人も子どもに出会うことがなかった。

若者もいない、カタカタとカートを押す老女二人と、杖をつく初老の女性一人。
背中が45度に曲がった古老が一人。
農家は兼業、若者は街へ都会へ仕事を求めて出て行ってしまっていた。
学校はすべて廃校であった。
「そして誰もいなくなった」という映画の題名を思い出した。
♪~兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川…を想った。
この国は本当に滅びると感じた。否この地球が滅びの笛の中にいる。

昨夜後楽園ホールで友人のボクシングジム会長のところのボクサーの王者決定戦を友人二人と観た。新チャンピオン誕生に声援を送り、見事勝ったのを見届けて一緒に観た友人と銀座の仕事場に戻った。
小さなテレビをつけると、サッカーの試合が1対1、相手は世界ランク128位のイラク、ちなみに日本は56位。勝負の世界は何が起きるかわからないが、ランクはランクだ。
そんな格下に6分間のロスタイムの中でやっとこさ2点目を入れるまでWカップに優勝したような大騒ぎをしていた。

この国のスポーツジャーナリズムはある時からピタッと停止した。
鋭く、怖ろしく、時に母親のようにやさしく選手を批評することを忘れた。
私が知るところ一人しかいない。勝って当たり前なのだから。
何やってんだ格下相手に何億円も報酬をもらっているのに、しっかりしろと言われないから進歩をしないのだ。釜本茂やセルジオ越後のようでなく。

イラクは戦争をしている中で練習をしている国だ。
相手に敬意を表すならせめて3対1とかでなければならない。
この国はいつからか、甘、甘の国になり、テレビの中継をし、コマーシャル収入や種々の利権を追うことが主体となった。辛口を言うとスポイルされてしまうのだ。
ボクシング日本タイトルマッチ、何百発も殴られながらやっと掴んだチャンピオンベルト。しかしギャラは雀の涙だ。

10Rを終わり共に強かったと言葉を交わし、それぞれ相手のコーナーに行ってありがとうございましたとお辞儀をする、負けた金髪の選手はリングの上で土下座して声援を送ってくれたファンにお詫びをしていた。
仕事場の隣にあるセブン-イレブンに行って、ウィンナー巻き、ちくわぶ、昆布、大根、がんもどきを買って食べ仕事を始めた。

400字のリングの一週間ぶりのスタートは、本物のゴングと共に始まった。
ボクサーはリングに上がったら殺すか殺されるかの気持ちで挑む。私もまた、生き残るためのリングに上がる。アリスの名曲のボクサーのように。
♪~立たないで もうそれで充分だ おお神よ 彼を救いたまえ。
私は白い灰になるまで地獄道、修羅道を行く。勝負は最後に勝った者が勝ちだ。
若い才能が育ち花咲く日を求めて。

長いお付き合いをさせてもらっている知人の息子さんから感動的な結婚報告の手紙をもらった。この一通は私の宝物として大切にする。
「ロックよ静かに流れよ」私の大好きな映画のことが書いてあった。

2016年9月29日木曜日

「一週間の休筆」

400字のリングはスケジュールの都合で十月六日まで休筆いたします。
暑さ、暑さも彼岸過ぎです。
体調に十分お気をつけ下さい。

年賀状とかお歳暮とか、おせち料理の文字が否応なく心をせかします。
休筆前、日本ハムファイターズの歓喜のビールかけを見ながらいつものグラスにお酒を少し、つま味はハムでなく、昨夜の残りのおでんです。
かなりクッタクタです。午後十二時五十五分〇八秒。
外は少し雨です。

2016年9月28日水曜日

「プールとおでん」




朝、裸になりシャワーを浴びる。
その前に体重計に乗るのを日課としている。
別にダイエットをしている訳ではない。
太ると腹が出っ張ってシャツのボタンがきつくなったり、Tシャツやアロハが着られなくなったりする。そうでなくても見た目がダメなのに、輪をかけてダメとなる。
現在ダメ進行中だ。

食べたいものをたらふく食べてしっかり太っている人を見ると、実にウラヤマシイと思い尊敬する。私は中途半端者なのだ。オッ、な、なんだこれはと思う朝がある。
なんでだついに体重計は壊れたかと思う。
位置が悪いのかと足で体重計を動かして再び乗るが1980円で買った体重計は古くても正しい。あっそうかと思うのは決まって夜のおかずが“おでん”の時だ。

おでんは大、大、大好きなのでつい食べ過ぎる。
商店街からおでんの種屋さんが消えてなくなったので、袋に何個も入ったおでん種を大きな鍋でつくってある。
こんなに誰が食べんだよと言えば、息子たちが来るからと、だが来るはずが来ないこともある。こんにゃく、糸こんにゃく、スジ、つみれ、巾着、ゴボウ巻き、ウィンナー巻き、里芋、ゆで玉子、ロールキャベツ、イカ巻き、厚揚げ豆腐、竹輪、ちくわぶたち。ハンペンなんかパーンと破裂しそうに膨れ上がっている。
もったいない、食べねばとなる。

小腹が空くとまた食べる。
夜食として午前二時、三時頃にまた食べる。
いつものグラスでお酒をチビチビ飲みながらちょいとおつまみ感覚で食べてしまう。
夜中お酒飲んで火を使わないでよの言葉などはなんのそので、鍋に火を通す。


時間が経つほど味が染み込んでおでんはその才能を増す。
白いちくわぶなんかかなりだらしなくなっているが、黄色いからしをつけると俄然異才を放つ。
こんにゃくはツルンツルンしているのでからしをちょっとつけただけで、目にツーンと来て涙が出る。泣きながらふくれっ面になっているハンペンにからしをつける。
三角形の真ん中あたりにからしをつけ、それを広げる。美しいではないか。

高級おでん種の牛スジやネギマグロやバクダンやイイダコなどは入っていない。うちは“やす幸”や“お多幸”じゃないと言うに決まっている。
戦後生まれのもったない世代なので次の日もあれば食べる。


少年の頃の夏休み、プールに行くと好きな女の子が水着で泳いでいる(当たり前だが)。杉並区関根町にあったプールの横に公園があってそこにおでん屋台が出ていた。
友だちとおでんを食べながら公園の滑り台のうえからプールを見る、オイ、飛び込んだぞなどと言いながら串に刺さったこんにゃくを食べる、何を食べても一つ10円だった。
野球部員はプールは厳禁だった。嫌な先輩が見張りに来るのだ。
おでんが好きになったのは、プールのせいかもしれない。

今夜はおでんである。
現在午前一時六分四十一秒、小腹が空いて来た。
テレビからブラタモリの再放送「広島」が流れている。

2016年9月27日火曜日

「ハヤシもアルデヨォー」




カレーライスとハヤシライスといえば、かつては王と長嶋、大鵬と柏戸、力道山とルー・テーズみたいな最強のライバルだった。
読書などとは縁遠い私だが、ハヤシライスを食べに東京丸善まで行った事がある。

ハヤシライスの考案者といわれているのが早矢仕有的(ハヤシユウテキ)である。
早矢仕有的は幕末に江戸で医院を開業し、維新後は書店「丸善」を創業した。
医師と実業家の二足のわらじで活躍していた。
横浜にいたころ友人に滋養をつけさせたいと思い、牛肉と野菜を煮たものを振る舞ったのが、ハヤシライスの起源という。


カレーライスといえば横須賀の海軍バルチックカレーが有名だが、カレーライスも乗務員(勿論軍人たちも)の健康を守るために考案されたという。
軍人たちの敵は脚気であった。
人間離れしているイチロー選手は毎朝カレーライスを食べていると何かで知った。

私が少年の頃カレーといえば、オリエンタルカレーとか、キンケイカレーであった。
貧しい家庭で兄姉六人、家に変えるとプーンとカレーの香りがして、やったぁ今日はカレーだと思えば、鍋の中には兄姉が食べたあとのカレーが底にへばりついていた。
チキショウと思っていると優しい母は別の小さな鍋の中にカレーをとっておいてくれた。お母ちゃんは兄姉平等の女性であった。
ハヤシライスが食事に出た記憶はない。カレーよりハイカラだったのだ。

カレーライスには赤い福神漬けがいわば法律であった。
白いご飯に淫らな赤い汁を出す福神漬が染み込む、それをカレーと共にスプーンで口に運び入れる。口の中でカレーとライスと福神漬を染み込ませたライスが混然一体となってフハァー、フハァーとなる。
食べている最中に水を飲んではいけない、これもいわば法律である。
すべてを食べ終わったあとに、冷たい水を一気に飲み干す、コップには冷たさが生んだ水滴がにじみ出ている。カレーライスには色んな決め事があり、フハァーカレーという声が出るが、ハヤシライスにはそれがない。辛くなく甘いからだ。
庶民的というより、ブルジョワ的であった。

最強のライバルはいつしかカレーライスの一人勝ちとなった。
脱線トリオの南利明がテレビCMで“ハヤシもアルデヨォー”と名古屋訛りでハヤシを盛り上げた。早矢仕有的は岐阜出身という。

日本橋高島屋側にカリーライスのみで経営していた超人気の古いcafeがあった。
メニューは普通盛りか、大盛りのみ。
二人に一つ冷え冷えの氷が入ったアルミのヤカンが置かれる。
ゴロン、ゴツンとした大きなジャガイモが二個、ライスに激辛カリーがかけられて出て来る。途中で水を飲むのは初心者だ。
店から出ると汗びっしょり、口の中にカリーと冷たい水との会話が始まる。
カリー店に赤い福神漬けはない。
アイビーがからむcafé、いつからか消えてなくなっていた。
昼時は人があふれ出て行列だったのに。