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2018年6月5日火曜日

「だるま亭の前には、コロッケパン」

仕事を頼みに来てくれていた三人の内、一人は12時30分東京駅発の最終バスでつくば市に帰ると言う。あと二人は地下鉄の終電に間に合うからお気づかいなくと先を急ぐ。5時間近く仕事を手伝ってくれていたアートディレクターは、一杯だけ飲んで帰るかと言えば、飲んだら明日までにやらねば間に合わないので帰りますと言った。私が乗る終電にはもう間に合わない。ガッサゴソになった、仕事場のテーブルの上をいい加減に整理してアートディレクターと、鍵を閉めてビルの外に出た。朝から何も食べてなかったのだが、ある時間を過ぎると空腹感はなくなっていた。それじゃあオツカレさん、今日は本当にアリガトウ、明日もよろしくなと言って、仕事場の前で別れた。いい歳してこんな事やっていたら死ぬぞとか、死にますよとか、死ぬわよと言われても、こうとしか生きようもない自分がいる。役者は舞台の上で死ぬなら本望だと言う。人間生きている内は、間違いなく死んでない。これがモットーであり、「あしたのジョー」のように、白い灰になるまで戦うのが自分の人生だと思っている。そんな私より何倍も熱心な人が(私よりほんの少し年下の人)仕事に取り組んでいる。つくづく頭が下がる。つくば市まで終バスで帰る人は、モダンジャズを大学でやっていた。テナーサックスの話になるとふっくらとやさしくて、かわいい顔がほころぶ。学校で音楽の先生をしていたら、きっと似合っていた人だ。いい人過ぎる人に、育ちのよさを感じる。もう一人は、学歴不詳だ。別に仕事に学歴は関係はない。45・6歳ではじめはどうなっているのと思っていたが、10ヶ月近くまい日同じ釜の飯を食っているような関係を続けているうちに、確実に仕事ができるようになって行く。日々逞しくなって行く。実はこんな事が何より嬉しい。きっとこの仕事でスキルを上げるだろう。後輩のアートディレクターが実に頼りになっている姿を見るのが嬉しい。私が独立をすすめたのは正解だった。仕事は人を育ててくれる。仕方ない一人で一杯やって行こうと、中国人が午前2時頃までやっている、「だるま亭」いわゆるフツーの中華店へ。だけどその味は私の好きな「菊鳳」と甲乙つけがたい。いつもは会社員の人や夜の仕事の人で、一階、二階も混んでいるのに、お客さんは太った中国人の男と細っそりとした女性の二人だけ。ビーフンを食べビールを飲んでいた。タンメンを食べたいと思ったが、それの弟分みたいなメンを抜いたタンだけの野菜スープを頼んだ。一合の冷や酒。壁の上のテレビには中居正広が出ていた。いいんだなこの旅芸人的気分、流れ者みたいなかんじ。店終えた女を待っているような、ヒモみたいな時間。この店のニラレバ炒めは抜群なのだ。カニ玉、エビ玉は泣けるし、タンメンは極上だ。今度はそれらを食べようと、メニューに語りかけた。私がこの仕事で組んでいるもう一人のアートディレクターは、腰痛がもう我慢できず今年の一月についに手術した。タイガーウッズが手術したものと同じものだ。幅広い腹巻きみたいなコルセットと、週に1度何故か手のくるぶしのところにカルシウムを注射しているのだとか。もの凄く優秀な女性のスタッフが5人いる。まだ完治していない体で次々と仕事をこなしている。私と違い一流のプロはどんな時も穏やかで冷静で優秀なのだ。オマチーサンシター、頼んだスープが湯気を立てて運ばれてきた。「だるま亭」のすぐ前には、コッペパン&マーガリン&ソースたっぷりコロッケの歴史的食べ物を売っている。有名な「チョーシ屋」だ。もとは精肉屋、若い女性に人気で昼は行列に近い。現在6月5日午前4時24分12秒。少し眠くなってきた
残してやるぞ、誰もやらなかった仕事を。(文中敬称略)

2018年6月4日月曜日

「ノートマージャン 」

ゆでがえるの時代となっている。いくら我々が一生懸命働いても国の借金は1100兆円近くなっている。 オギャーと産まれた赤ちゃんからお年寄りまで一人アタマ 約850万(以上)。その現金を目の前にしたら、ア然、ボー然として、ジョーダンじゃないというだろう。 ぬるま湯にのんびりつかっていた「ゆでがえるがだんだんと湯の温度が上がり、やがて熱湯となった時、すでに飛び出る力はなく、オジャンとなる。」少子化はさらに進み高齢化は加速する。晩婚化はもう止めることができない。お医者さん代は上がり、年金は下がる。現在の子どもたちが、年金をもらうことは、ほぼ無くなる。税金はアレコレ上がりつづける。ノートマージャンに例えると(やったことがない人はスミマセン)その日は負けても月末給料日精算方式(勝ち負けはノートにつけておく)それゆえいくら負けていても精算日までは、忘れている。で給料日に精算係が来てハイ3万、 ハイ 5万、ハイ12万なんて言われて、エッウソー、そんなに負けてねえよ、となり、その日その負けを返すべきと思い、またポンだ、リーチだ、ロンだとつづける。そしてハコテン(点棒が箱にない状態)となる。バクチは結局胴元が勝つと決まっている。オレは新聞を読まねえんだという財務大臣が今、国の胴元となっている。街のマージャン屋(一人でもお気軽にって看板がある)に八百長はつきものだ。(店の主や店員もグルになってサイン送ったりする。これを通しと言う)ちょっと時間があるからと、すでにいた三人とジャラ、ジャラやりはじめると、とんでもないことになる。現在この国はこの状態にある。ゆでがえるとなっている国民は精算日にエッまた税金が上がっているとびっくりするがすでに怒る気力もない。現在日本の成長(?)企業の大株主は日本銀行だ。国民に配当はない。昨日はいい天気で気持ちいい風が吹いていた。海岸を歩いていたら、ふとゆでがえるのことを考えてしまった。チクショウと思ったら砂の中に足がズボッと入ってしまった。"やせ蛙 まけるな一茶 これにあり” さて、一茶は誰か。

国民一人あたり、これくらいの借金を抱えている。


2018年6月1日金曜日

「ジュークボックス」

栃ノ心が大関に昇進した。大相撲14日目 を 観戦に両国国技館に行った。デザイン界の名人とそのお弟子さん夫妻と。 午前中は運動会の応援だった。知人の市会議員が来賓として二人来ていた。地方議会選挙が近いから市会議員もあっちこっちに顔を出す。大相撲のチケットは簡単には手に入らない。これ以上義理固い人はいないのではと日頃思っている代理店のオーナーがプラチナチケットをプレゼントしてくれた。感謝感激で御礼 の言葉 もない。14日目栃ノ心は豪快に勝った。大怪我をして幕下まで番付を落としながらの復活を心からよろこび、敬意を表すのだ。その逆にす ぐ に横綱にと言われていた元大関が大怪我と持病により、 来 場所は幕下に落ちる。ガンバレ照ノ富士と応援する。私の古い友人で土佐出身の男がいる(デザイナー)。相当に相撲好きで「タニマチ」なんて言う本まで出した。自分自身のタニマチ人生の本であった。土佐出身の元関脇豊ノ島は幕下で勝ち越していた。スバラシイ! 大怪我をしながら引退をせずに関取を目指す姿に感涙する。裸一貫の勝負の世界は厳しい世界だ。我が街茅ヶ崎出身の序二段(ずっと)「足立」が 4勝3敗 と勝ち越した。ヤッタァーである。もう一人が切ない。「服部桜」が全敗であった。番付け最下位で通算 1 勝107敗である。立ち会った瞬間にスベって手をついて敗ける姿を、知人がユーチューブというので見せてくれた。相手に触れずに敗けるという珍敗であった。決まり手はお手つきかもしれない。が、余程相撲が好きなのだろう。なんとか2勝目をあげてほしいと願う。私は決してメゲずに一途な人間、特に怪我とか病気とかと闘いながら我が道を行く人に憧れる。

土俵に生死を賭けている男を尊敬する。かの哲人「ニーチェ」は言った。「自分の道を行け」と。人間はもがき、苦しみ、憎悪と嫌悪の中に生き、不信、不満、不平、不安の中から光明を見い出す。若い頃の苦労は買ってでもしろという先達の教えはここにある。仕事に生死を賭けろと言うと、近頃ではブラック企業となるが、その気構えを持てと言う事だから一度相撲部屋の朝稽古を見ることをすすめる。それはそれは半端ではない。冷暖房の効いた仕事場で一席をぶっている我が身を恥じる。若い人が育つことほどうれしい事はない。だから私は徹底的に嫌な奴である。きっとわら人形に五寸釘を打たれているだろう。日々胸が痛いのはそのせいかもしれない。ある大先輩から日本で初めてアイドルという言葉で呼ばれた、御年98才の女性舞踊家の企画話を受けた。この大先輩は大 健 筆家で、86才(多分)になっても、バンバン小説を書いている。近々著作が電子化されると昨日電話でおっしゃっていた。近々練馬区石神井公園三宝 寺 池近くのご自宅に伺う。時代小説を書いているせいか、剣豪のような人である。前夜親愛なる兄弟分と話をした。人間好かれるようになったら終わりだなと。あらゆる業界で名を成した人は、狂人、変人、詐欺師、ヒモ。奇人、変態、酒乱、借金魔、自殺マニア、色情狂などばかりであった。そしてみんな悩んで我が道で名を成した。「最善の敵は善」であると言う。妥協からは斬新は生まれない。直感を養うためには、坂口安吾ではないが、堕落するしかない。そしてこそ自らの明日が見える。「壺中に天あり」。今日一日がんばって、いい週末にしたいと思っている。「服部桜」に会いたいと思っている。日曜日には久々に海岸を歩いて砂と語るつもりだ。映画も五本見る。フランスの名優ジャンギャバンの作品と、名優ルイ・ジューベの名作「北ホテル」。ジャンヌモローの「死刑台のエレベーター」ピエトロジェルミの「刑事」ルイマル監督の「甘い生活」ジャンギャバンは「現金に手を出すな」主題曲、グリスビーブルースは最高だ。パリの店ジュークボックスから流れる。

2018年5月31日木曜日

「ある達成感」

三日振りに帰宅した。現在5月31日午前3時47分08秒。都心から約1時間とある街のとある会社のとある物件の撮影をしてきた。プロフェッショナルの見本ような高潔なカメラマン。信頼するアートディレクター。目を輝かせてがんばってくれた期待の新人。冷静にしてセンスあふれるスタイリスト。初日はベテラン、二日目は新人のメイクアップアーティスト。やはり持つべきものは兄弟分と、そのスタッフ外人男女と飛び切り美しい11歳の外人少女をキャスティングしてくれてよかった。そしてあと一人、少女の付き人。久々に出会った天才的相手がとある会社の担当部長。早朝から夜11時まで撮って、撮って、撮りまくった。昨日は昼にこの次の日本を背負って立つのはこの人と、思う人のパーティーがあり途中中抜けして東京のホテルへ。そしてすぐに撮影地に戻った。私のような何の学歴もない者にとって、出来ることといえば、人の二倍も、三倍も、何倍も一生懸命働くことしかない。仕事を出してくれた人に全力で期待に応えるしかない。プロはプロの仕事をして当たり前。それ以上の仕事を目指してやり遂げる。私たち芸人は、お客さんに喜んでもらってこそ生きる糧を得ることができる。どんな世界でも同じで、生死を賭けてこそ成果が出る。あ〜めんどくせえとか、あ〜やってられねえとか、ブータレてる人間は芸を売ることはできない。学校を終えて付き人と共に東京から撮影地に来てくれた11歳の外人少女モデルはプロ意識に溢れていた。疲れているはずであったが、実に毅然としていて誇り高く、堂々と約束の2時間半を演じてくれた。その姿勢に学ぶこと大であった。11時14分の最終電車に乗るために私と兄弟分、期待の新人三人で雨の中駅に向かった。無線でタクシーを呼んだが、車がありませんという事だった。他の人達は後始末、掃除を済まして車で帰る。それではオツカレさんアリガトウ、ホントにアリガトウと言って雨に濡れた。何か達成感があり雨が気持ちよかった。私の右手には数キロはあるであろう、ゴッソリと資料の入ったパンパンのトートバッグが雨に濡れてさらに重くなっていた。 首も肩も、腰も足もパンパンになっていたが、これは一生懸命働いた証だ。朝から三枚の卵サンドのみ。何故かやたらに焼肉が食べたくなっていた。そして午前一時頃やっとこさ赤坂の焼肉店へ。お客さんは私たち三人のみ、店内のテレビには韓国のドラマが放映されていた。人生とは新しいことを求めてビビンバ(かきまぜる)なのだ。成功はその先にある。キムチが腹にキムチよかった。で、午前2時赤坂を後にした。


アイディアとは何のためにあるか、それはただ一つ、出すためにある。直感と直感を徹底的にかき混ぜることにある。納豆は右回りで50回、左回りで50回かき混ぜると、絶好の味になるという。ネバーギブアップだ。

2018年5月28日月曜日

「パターソンはいい男だ」

2017年度キネマ旬報ベストテンの内、3本見てない外国映画の一本を昨日深夜に見た。No.1が「わたしはダニエルブレイク」で、No.2が「パターソン」。その「パターソン」を見た。 アメリカ映画は時々、ハリウッド離れしたかのような上質な短編映画のようないい作品を生む。「パリテキサス」とか「 バクダットカフェ」とか「ランブルフィッシュ」とか「 ストレンジャー・ザ・パラダイス」などであり、私は大好きである。パーシー・アドロン、ムベンダース・ジム・ジャームッシュ監督だ。F・コッポラは大作もいいが 、小作品はとてもgoodだ。さて「パターソン」だがいかにもジム・ジャームッシュである。主なる登場人物は、アメリカのとある小さな町(パターソン)に住むパターソンという名のバスの運転手(35歳位)その恋人(あるいは妻)インテリアデザイナーを家で営んでいる。それと名演技のブルドッグ。仕事から帰った後、犬を散歩させる途中一杯のビールをジョッキで飲む、カウンターバーのマスター(黒人)その店に来るお客さん。勤務する会社の男一人。10歳くらいの双子の女の子(詩を書く)。月曜日の朝6時10分から次の曜日の朝までの一週間の出来事。と言っても毎日同じような日が静かに続く。小さな家。小さなベッドに男と女。それを見守るブルドッグ。朝食はミルクとコーンフレーク(みたい)昼食はサンドウィッチ、作ってくれたものを小さなブリキの工具箱のような弁当箱に入れて出勤する。朝6時10分腕時計を見て起きる。眠っている女性にそっとキスをしてベッド離れる。まい日同じだ。傾いた郵便ポストはモスグリーン。家の中の壁の色はプルシャンブルー。電気スタンドからこぼれる赤い灯。粒子が見えるような映像、うす暗いバー。 赤い服、ピンクの服の女性。ジャジーな音楽。ジム・ジャームッシュのフォトグラフィックの映像が実にいい。毎日同じようだが一つ違いというか、習慣がある。 それはバスの運転手の主人公が、詩を書くことだ。運転台で休んでいる時、家に帰って小さな机で。恋人あるいは妻は、いい詩だからコピーをとって出版社に持って行けばと言う。白地に黒いドット柄のカーテンを作る女。サンドウィッチと、大きなチーズケーキを焼く。映画は本をめくるように進む。今は僕は気に入ったマッチ箱がある。 小さなブルーの箱。イヤホンのように書かれた文字、、ブルーマッチの中にはマッチ棒、僕が煙草なら彼女はマッチの火。 あるいはその逆かも知れない。そんな詩をまい日書くのである。詩を書く少女はノオトにこう書いていた。宙(そら)から水が落ちてくる。長い髪のように少女の肩に落ちてくる。それを雨と呼ぶことにした。そんなを運転手の男に読んであげる。 いい詩だねという男。 映画は月曜日の朝を迎えて静かに終わる。静かなジャズのような映画であった。ピアノは似合わない。トランペットもギターも、ドラムはいらない。そう、クラリネットか、アルトサックスのソロだけがいい。だが映画はそれさえも拒否するように、ステキな音楽が静かにうすく、うすく流れていた。 イライラ、ムカムカ、ガタガタのまい日を送っている身に、何より安定剤となった。パターソンはいいだ。

2018年5月25日金曜日

「大船軒が大船駅ホームから消えていた」

時間がある時は、わざわざ列車から降りて隣のホームに渡った。大船駅ホームの階段下にあった立食いそば「大船軒」に行くために。私はアチコチ旅先のホームで立食いそばをすするのが好きだった。その中で大船軒のかき揚げそばはNO.1であった。スープの味が絶妙であった。カツオ節のだしとしょうゆの濃さが、愛し合う男女のように合体していてひと口すするともう離れられなくなる。かき揚げがいい味で、それがスープに合体しはじめるとさらに離れがたき関係となる。立食いそばの平均すすり時間は約3分位というが、私は10分くらいかけていた。昨夜その大船軒が閉店していたことを知った。この頃行ってなかったからだ。サッパリしょうゆ味のラーメンも旨かった。チャーシュウ一枚に太めのシナチクがちりちりのメンと実に素朴に出会っていた。少年と少女の淡い恋のように。小皿に小さなおいなりさんも旨かった。列車に急いで乗り込む前に一気に食べている人を見るのが楽しかった。一気にすすってアチアチと目から涙を流す男、かき揚げに生玉子とコロッケをのせて、箸でそれをガツガツに崩してメンと混合させ、左手においなりさんを持ちながら、あっという間に食べ切って、水をガバッと飲んで列車に向かって乗り遅れた男。カレーうどんをあわててすすってアチ、カレ、ヤバッとうどんを椀の中に落として白いTシャツに黄色いカレーが飛びついた男。白いTシャツにスマイルマークみたいになっていた。立食いそばに会話はない。時間もない。がルールがある。どんなに混んでいても決して割り込むことはない。日本人はちゃんと並ぶ国民である。大船軒から「軒」を抜いたら「大船」だけになってしまった。大船と言えば「小鯛の押し寿司弁当」と「鯵の押し寿司弁当」が有名であり、駅弁通の故渡辺文雄(東大出の俳優さん)は、この二種の弁当を全国一か、二か、三だと何かに書いていた。この駅弁を売っているのがやはり大船軒という名の駅弁ショップである。私は小田原駅で買う、東華軒の「デラックスこゆるぎ」という釜メシ風、竹の輪の中に入ったのが大好きであり、岡山駅の「下津井弁当」がNO.1に近いと思っている。岡山の駅弁は種類の多さと内容の多さにおいて日本一だと思っている。ロンドンオリンピックの年に突然ホタテ貝アレルギーになって以来、横浜名物崎陽軒のシウマイ弁当が遠い関係となった。何故ならば崎陽軒のシュウマイの売りはホタテがしっかり入っているのがポイントだからだ。冷たく小さなシュウマイに楊枝を刺し、小さな袋に入ったカラシをつけて、ヒョウタン形の小さな入れ物に入ったしょうゆをつけて食す。これだけでザ・横浜気分となる。NO.1という人も多い。あったものがなくなるのは淋しい。食べれたものが食べれなくなるのは、つらくて悲しい。ほんの3分の停車時間にかつてそこにあった大船軒の過去を思い出した。列車はガタンと動き出した。人は過去という名の駅から降りて来る。そんなフレーズの歌を思い出した。確か奥村チヨが唄っていた。その奥村チヨも先日引退を表明した。男と女の間をさまよっていたピーターが、これからは池畑慎之介で生きていくと表明した。そんなことを思い出した。列車は藤沢駅に着いた。ガンバレ人生。たった一度しかない。まい日板にへばりついたカマボコのように机にへばりつき、パソコンにへばりついていないだろうか。休む時は休んで駅弁を食べる旅に出よう。休みはよく働いた人にのみ楽しむことができる。だから私も働く。現在午前一時三十分四十六秒。テレビでは「世紀の凡戦ゲーム実況」という番組をやっている。


2018年5月24日木曜日

「雨音を聞きながら」

大、大的に宣伝をした「孤狼の血」が不入りだと言うので、先日それを確かめに丸の内東映に観に行った。午後一時三十分の回であった。現在ピカイチの活躍をしている「白石和彌」監督の作品だからだ。「狂悪」「牝猫」「彼女がまだ名前を知らない鳥たち」いずれも意欲的であり、強烈な個性を発揮していた。「孤狼の血」は深作欣二監督の名作「仁義なき戦い」を意識したのか、あるいはしすぎたのか。デンゼルワシントン主役でアカデミー賞を受賞した「トレーニングデー」の影響がありすぎていた。又、故今村昌平監督の上映時ナンバーワンになった名作「豚と軍艦」の影響もありすぎていた。ダイワハウスのCMで人工知能AIは、愛だとウエスタン調にハミングしていた名優役所広司がいくら気張っても、目がやさしすぎて超ワル刑事に見えない。(本人がいい人すぎるからだろう)CMでビールを飲んで、ウマイ!なんて言っている江口洋介がいくらスゴンでもヤクザ者の目にはなれない。あなたは本当は狭いところが好き。なんて言うハウジングの CM に出ている、竹野内豊が思い切りスゴンでもヤクザ者の目になれない。二人とも対立する組の若頭役だがミスキャストと言っていいだろう。石橋蓮司の親分役はいつもの芝居の域を出ていない。広島弁が「仁義なき戦い」のように、イキイキとしてない。タドタドシイのだ。CMのイメージはやはり強い。

「仁義なき戦い」のリアリティはやはり脚本がいい。 主役からセリフのない若い衆まで一人一人が深作欣二監督のとてつもないしつこい演出で躍動する。人間の持つズルさを徹底的に追求した。そして人間の持つ弱さを表現した。残念ながら、「孤狼の血」には主題が見えなかった。何かみんなマネッコしていた。「トレーニングデー」のデンゼルワシントンと新入りの刑事の間には、哲学的、文学的言葉が激しく飛んでいた。超ワルの上を行くウルトラ超ワルの恐怖があった。で、私は「トレーニングデー」をレンタルして来て見直した。白石和彌監督の次作に期待する。俳優さんたちには心からおつかれさまでしたと言う。本物のヤクザは CM に出まくっていてはまず演じられない。大スター小林旭は「仁義なき戦い」で最高の存在感だった。千葉真一が特筆もの。二人は 当時CM に出ていなかった。昨日朝早く神田のあるエージェントに入って版権の難問に取り組み、次につくばエクスプレスに乗って、ロケハンを五時から八時過ぎまで、カメラマン、アートディレクター、スタイリストのヒトたちと。腹ペコになったが外人さんのオーディションをするために恵比寿へ。長髪がシンボルのスタイリストとモデルさんの寸法を計る。フランス人の男性と女性。雨がシトシト降っていた。十一時頃の恵比寿は酔客でいっぱいだった。電車に乗るとトイメン(目の前)の男が夕刊紙を広げていた。そこには「哀しみのコンチェルト」秋元順子、五月九日発売。「別れの港」佐々木新一、五月二十三日発売。「ぼたん雪」西方裕之、五月二十三日発売。「日豊本線」池田輝郎、五月二十三日発売。「よされ恋唄」なでしこ姉妹、五月二十三日発売。こんな広告ががあった。売れたらいいなと思った。レコードの裏面表記もあったが、省略する。午前一時少し前辻堂は雨が激しくなっていた。哀しみのコンチェルトな気分となっていた。このブログを書き終わったのは午前二時四十二分十一秒。 NHK テレビでは"あの日、あのとき、あの番組"という番組をやっていた。「孤狼の血」の関係者にご無礼があったらお許しを願いたい。どこまでも私見である。最高におもしろかったという人も多くいることを加筆する。未だ観てない人はぜひ観てください。そして映画談義をしましょう。酒代は私が持ちます。(文中敬称略)

2018年5月21日月曜日

「滅亡と必死」

先日名古屋に行った。現在手掛けているプロジェクトの建築現場を見に行くことと、 大きな屋外広告を制作したので、それが掲出されている金山駅へ見に行った。 ウェブデザイナーのパートナーと共に。"名古屋は独立国" と言うが、行くたびに本当にそうだなと思う。街は活気があり若者たちが多い。東京の若者たちと違って、皆大きな声で話し合い、大声で笑う。街行く人々は上を向いて歩いている。スマホばかり見ている東京では見かけない元気な姿がある。建築家黒川紀章氏(故人)の弟さんが設計したと言う、モード学園の巨大なネジのような変形体 のビルも違和感がない。人口230万人以上の大都会の繁栄を支えているのは、トヨタである。何しろトヨタ一社で売上高29兆円以上を越す。国家予算の三分の一近くを、トヨタは売上げる。一円でも円高になると繁華街のお客は減ると言う。名古屋では、地場産業と一族経営の会社が多い。東京の一族経営と違って結束力が抜群に強く、代々家訓を守り続ける。


何が会社を繁栄させ、何が滅ぼすかを徹底的に学んで来た。100年200年、300年、400年と。京都もある意味、”特別国”である。何しろ御所があり、天皇家の歴史がある。日々"カイゼン"をしないでいると、代々続く老舗も、大なる会社も、小なる会社も必然的に滅亡する。ダイエー、西武、シャープ、サンヨー、ソニー、PARCO、日産、三菱自動車などいくらでもあり、気がつけば外資系になっている。「一人一国」の気構えがあれば他人に占拠されることはない。学べ、学べ、学べと私は言う。酒に学び、女性に学び、芸術に学び、食に学ぶ。その上で、人間に学ぶ。そして遊べ、遊べと言う。

名古屋で私は今たくさん学ばしてもらっている。信長、秀吉、家康を生んだ必然が見えてくる。中国の教えに、「成功の下に久しく居るべからず」というのがある。一度成功したのがずっと続くことはないぞ、だから常に危機感を持って次に備えねばならない。29兆円のトヨタの社長会見に笑顔はなく、これから更に「カイゼン」を進めなければならないと言った。むかし銭湯で飲む定番のコーヒー牛乳は、「名糖牛乳」であった。そうです名古屋だったのです。一生に一度しかない人生を切り拓くために。四苦八苦して行くことがあることほど有り難いことはない。必死に生きるとは、必ず死ぬから悔いを残すなということだと私は思っている。売り上げ29兆円の会社も、売り上げ10万円の会社も社長は一人だ。

2018年5月18日金曜日

「新しいヒロイン像」

大事件が起きると警察にまず最初に疑われるのが、第一発見者。次に身内や親類縁者、その次が出入りの人たち。宅急便や郵便配達の人。その次が隣人、周辺の人。その次が元警察官やガードマンさんたち。これは知人だった元刑事に聞いた嫌な話。刑事たちは猟犬のように追い回す。連休中に見た映画、「エルELLE」を昨日思い出した。新潟で起きたあまりに酷い事件の犯人逮捕をニュースで知ってからだ。その映画の主人公はゲーム会社の女社長。日々スタッフと超エログロなゲームソフトを開発している。つくり出すアニメーションは異常なレイプものが多い。
過激なシーンが生み出されると、スタッフ一同が歓声をあげて、拍手また拍手、ヤッホーとばかりパーティで盛り上がる。この女社長を演じるのが、フランスの名女優イザベル・ユベール。映画は官能的サイコスリラーとしてカテゴライズされている。アラフォーになっているであろうこの女社長が、仕事を終えて、夜帰宅すると、突然窓を破って侵入して来た黒い覆面の男に殴られまくってレイプされる。自分の会社で開発したゲームソフトのように。女社長は一人住まい、別居中(?)の男がいる。友人たちと会食しながらレイプされたと言う。が決して警察には訴えない。自分の手でレイプ魔を捕まえたいからだ。そして又、レイプされる夜が来る。犯人は殴りまくらないと欲情しない。バチンバチンのボッコボコ。服や下着は破られる。顔面からは赤い血が、それでも警察には訴えず、平然と出社して、さらに異常なレイプゲームを開発しつづける。そして又、黒い覆面の男が現れる。さあ~どうぞ好き勝手にという態度を見せると、犯人の男は殴らないと犯せないと言う。とその時女社長は猛然と犯人に襲いかかる。たじろぐ犯人の男が分かる。それは、目の前に住むよくパーティなどで出会う、三十代位の男だった。監督は「氷の微笑」のポール・ヴァーホーヴェン。このエグい表現をする監督は、フランスのブルジョワ的スノビズムと背徳性や偽善を洗練されたタッチで表現する。犯人以上に異常な驚くべきゲーム会社の女社長。悪女映画の歴史を塗りかえるヒロイン像である。
何度も言うが、男は絶対に女性にはかなわない。


2018年5月17日木曜日

「チャップリンは」

「マヒ」している。と言っても和田弘とマヒナスターズの歌を聴いている訳ではない。漢字で書くと「麻痺」である。近所の子を殺す。自分の妹の子を殺す。当たり前のように他人を殺す。七十一歳の菅主が女性問題でいわば破門にされる。日大のフットボールでは、信じられない殺人タックル。世界各国ではテロリストによる殺人の連鎖。トランプ大統領によるイスラエル大使館移転問題は、政治的、地政学的殺人行為。混乱と殺人は終わらない。我が日本国は、野党が死にもの狂いでない。つまり必死でない。嘘八百の人間を追い込むには、決定的証拠が絶対要素だ。将棋的には、完全に「王」は詰んでいるのに。ホンボシ(真犯人)を追う刑事のような執念がなければならない。でかいオデキを治すには、膿だけ出してもダメ。オデキの芯を出さねばならない。さてその芯とは(?)。

現代人は、人が死のうが生きようが、どんな殺され方をしようが、テレビを見ながらパソコンやアイフォンやアイパッドなどを見ながら、ハンバーガーを食べ、ラーメンをすすり込み、コーヒーにケーキを楽しみ、とんかつやアジフライを食べている。ゲーム世代に育った人間たちにとっては、現実に起きている事なんか「へ」みたいなものである。グレープフルーツハイやワインやビールを飲みながら、もっと絶対的な悪を求め絶対的な悪やエロを求め続ける。ゲームを開発する天才プログラマーたちは、人間の想像を超える。
マヒにマヒを重ね、さらにマヒやマヒを抱えた“ヒマ”人は、すでに病的人間であり、それらがどっと世の中にいる。ネットカフェや漫画喫茶で生活する人間たちは、自己表現することができなく、書き込みなどという行為で炎上を楽しむという。

そういう私もおぞましい事件を見ながら、読みながら食事をしている。やはり和田弘とマヒナスターズの歌などを聴くしかない。いや待てよ、“マヒ”と言えば。“ヒマ”がコインの裏表、五月みどりの“おひまなら来てよね わたしさびしいの お願い・・・!”で一週間に十日来いとなる。現代社会は一週間に十日分以上のオドロオドロシイ事が起きている。国家のトップがルールを持たないと、国民全体も当然ルールなどを持たない。“ジコアイとセツナテキ”生き方となる。恩だ義理は死語となる。♪好きだった 好きだった 嘘じゃなかった 好きだった ほんのひとことあの時に言えばよかったあ…。チャップリンの名画に「殺人狂時代」というのがある。天才はずっとむかしに現代社会を予言していた。「独裁者」というのもある。人は人を愛することで救い、救われるしかない。