2020年1月9日、400字のリングのゴングが鳴った。今年一年、何が起きるかは“神”も“仏”もわからない。皆々様に幸多からんことを願う。400字のリングを書きはじめ、400字詰原稿用紙で、推定8000枚になる。今年は一話ごとに、ある品や、ある物や、ある現象を「主人公」にして、一話読み切りの一作を書く。出来不出来はお赦しを願う。不快なものあれば、さらにお赦しを。森羅万象、草川一木、万物一物、そしてヒトの中に潜む。“心”の明暗を書く。
2020年1月9日木曜日
2019年12月20日金曜日
2019年12月19日木曜日
「一握の砂」
昨日午後、新装になった日比谷東京會舘で行われる、パーティへのポスターパネルを届けた後、数寄屋橋から銀座四丁目へ向かって、テクテク、トボトボ、キョロキョロしながら歩いた。キョロキョロしたのは数寄屋橋公園であった。年末恒例の10億円が当たる、宝くじの行列の長さにであった。TVCMで鶴瓶師匠が、買わないという選択肢はないやろ! と言う。その影響が大きかったのか、それとも宝くじマニアか、一度当たるまで買い続けるイズムの人々か、そこに行列があるから並んでみっか的な人か、年末恒例の行事を大切にしている人々派であったのだろう。長い長い行列であった。人々は静かに列を作る。日本人はルールを守る。会話などを交わす人はいない。この列は何かに近いと思った。キリストを題材にした映画の中で見るシーンだ。“信じるものは救われる”、そう教える主キリストの後に生み出された人々の行列である。あるいは聖パウロの後に続く行列。誰か知っている人がいるかもと、キョロキョロとしたが、いたからといって、なんと声をかけるのか、と思いキョロキョロをやめて、歩く速度を速めた。主よ行列の中から10億円を与え給えと念じた。昨日寒風なく、冷気もなく、冬でもない、オーバーコートは着ていない。変てこな12月の陽気だ。今の世は、変てこだらけでこの先を知ろうとすれば、キョロキョロと鋭くなければならないのだが、どうもそうはいかない。52歳で現旭化成の社長となり、会長となり、82歳でこの世を去るまで30年間経営をして、中興の祖となった宮崎輝が、“夢を持たない会社はイケマセン、進歩も成長もない。庭の盆栽みたいになって枯れてしまう”。こんな言葉を何かで読んだ記憶がある(確かでない)。ダボハゼ経営という、変てこな方法論であった。韓国の現代自動車が遂に世界ラリー選手権でトヨタを負かした。日本人学生の読解力は中国にまったく及ばない。女性の進出率は世界で121位という、まるで封建時代以下。国の借金は第二次世界大戦時を凌ぐ数字だ。みんな懸命に働いているのに、「わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」。日々貧しく借金魔といわれた石川啄木と同じ状態が、国全体となっている。それなのに大企業は税金を払わず、4百50兆円以上貯め込んでいる。日本をアメリカ的にするんだと、竹中平蔵という学者の教えに従い、完全に変てこになってしまった。日本人にビジネスライクは合わない。アメリカンドリームは移民の国であったからだ。単一民族国家でずっと来た島国日本には、ささやかな夢を一つひとつ、みんなで叶えるのが向いている。 “みんなで”、私はこの単純な四文字がこれからのキーワードになると思う。石川啄木は亡き父の座右の書であった。アホな私も詩集「一握の砂」は大切にしている。
(文中敬称略)
2019年12月17日火曜日
「ナポリの隣人」
昨日深夜見た映画は、貧しさに負けた悲しき物語だった。♪ ~ 雨降りしきる夜 空っぽの手が あなたを探す でも どこを探せばいいのか わからない ♪ かつて あなたは愛してくれた 今はただ雨が降る かつて あなたは話してくれた 今は沈黙があるだけ 声は凍てつき 泣くすべもなく あなたが去ってから 胸裂く思いが数知れず 灯る …… やがて朝が訪れ それも去ってゆく …… イタリア人女性歌手が、切なく、悲しげに歌う。ジャンニ・アメリオ監督の「ナポリの隣人」という映画は、イントロの歌でもう十分に泣ける私好みの映画だ。愛の歌はフランス語、イタリア語、そして韓国語がいい。ナポリという街の名を知ったのは、十代の頃であった。オールナ ルナ ナッポリ ターナで始まる“月影のナポリ”という歌であった。その頃の洋楽は日本語に訳され、ジャズやシャンソン歌手、ポップスシンガーが、日本語と外国語とビビンバ(混ぜこぜ)にして歌っていた。私が一番好きだったのは、「刑事」という映画の主題歌であった。♪ ~ アモーレ アモーレ アモレミィーオ。主人公の老刑事が名優ピエトロ・ジェルミ、犯人の恋人役がクラウディア・カルディナーレであった。この映画を観終わったときから、私は映画中毒者に完全になった。「ナポリの隣人」の主人公は、街になじまない無器用な34歳の男と貧しき親子、そして老弁護士であった。“汝 隣人を愛せ”を守っている。初めてナポリに行ったとき、レストランで、スパゲッティナポリタンをオーダーしたら、チンとプンとカンがセットになった顔をされた。同行していたコーディネーターが、そんなのはアリマセーン! パスタ・トマトソースとオーダーねと言われた。それ以来私はパスタと言えば、ほぼメイドインジャパンのスパゲッティナポリタンになった。短編で映画も作った。イタリア映画はマフィアを題材にしたのがいいが、断然いいのが貧しい市井の民を題材にした作品だ。「自転車泥棒」を見たときは、ボロボロ泣いた。荻窪の小さな映画館だった。工事現場で働く、真面目で無器用な「ナポリの隣人」は、貧乏な父が、息子のために中古のおもちゃの消防車を、買ってあげようと思う。売っている男は200ユーロだと言う。しかし金がない。でも買ってやりたい。男は自分を追い込んでいく。老弁護士は貧しきナポリ隣人のために苦悩する。幸せは行く先ではなく、帰るところだと終わる。老弁護士の隣に引っ越してきた若い夫婦と二人のかわいい子は、無理心中をしてあの世へと帰る。7、8歳の男の子と女の子が、父親に梨のジュースが飲みたいと、せがむシーンが切ない。若い妻は美しい、いつかきっと誰かにとられてしまうのでは(?) と男は悩み苦しんだのだろう。今の幸せ(?) を守りたい。四人がいた。
2019年12月16日月曜日
「赤穂浪士討入りの夜に」
♪ ~ 君には君の 夢がある 僕には僕の 夢がある ふたりの夢を よせあえば ♪ こんな歌詞の青春歌があった。確か「北原謙二」という歌手が歌った。大ヒットした。今年の日本の状況に置き換えると、総理には総理の嘘があり、官邸には官邸の嘘がある。二つの嘘を寄せ合えば、嘘は“八百+八百で一千六百”という計算になる。まるで息を吐くように嘘をつくと言われている人間に、国家をまかせるべく選挙に勝たせたのは、国民の清き一票だから、民主主義国家としては、その存在を認めざるをえない。次の総理大臣はとの世論調査の第一位は、安倍晋三がこの男だけには絶対させたくないと言っている石破茂なので、年が明けると一気に政界は動く。すでに心ある政治家(意志のある人間)以外は、国会議員は就職活動の場と化している。高い給料と特別な特権付、さらに安い宿舎付だ。国会議員は三日やったらやめられネェなんて、酒が入るとつい本音を言う(?) 小泉進次郎という人気者もいるが、この若者は政治家的資質に欠けている。演説が上手いというが、すでにネタは尽きた。その手法もワンパターン化した。強い意志がないということは、ビジョンを持っていないのに等しい。父が変人だとしたら、この息子は無人だ。苦労をしていないので言葉が身についていない。これから一年、一年、メッキがバリバリと音を立てて、はがれて行くだろう。三権分立の国家であるはずの現在の日本は、司法も立法も、行政も総理官邸に、その権限を奪われてしまった。嘘八百の始まりはここにある。あの“加藤の乱”に加わっていた、菅義偉がアッチ、コッチとマークする人間を変えて、いつしか影の総理となった。官邸が官僚の人事権を握り、警察官僚を官邸以内に入れ、あらゆる情報やスキャンダルを手にした。もちろんその中には自分自身のもあるだろう。麻生太郎という上からしか物が言えない、へらず口の男は、腹の中では安倍晋三の血族、何するものぞと思っているはずだ。オレはヨォ~皇族ともつながってんだぞと。無礼が背広を着て歩いている。マンガのギャングみたいな帽子をのせて肩で風を切るが、本当のところは体中にガタが来ていて、マッサージなしではやってられないはずだ(?) 大企業にやさしく、中・小零細には厳しい。アベノミクス大成功なんて言っているが、大失敗なので数兆円以上の補正予算を組んで、ヨッタヨタ。同志社大学教授の「浜矩子」さんの言った、アホノミクスが大正解だった。消費税を上げたのに、税収が減ってしまったという現実を国民には直視させない。黒田東彦という、おそらく日銀総裁史上、最低度No1の男がへらへらと笑って許される。黒も黒、真っ黒の政治家、ヤバイときは眠れないから入院したと嘘をつく、甘利明が税制会長と言うから、アマリにもうイケマセンなのだ。天敵である東京新聞の望月衣塑子記者との質問のやりとりで、気色ばむ影の総理菅義偉は使い古された。「桜」という字は、聞きたくもない。見たくもないと言って苦笑した。その顔は実に正直でチャーミングだった。私も実のところ、あの三白眼の軍事オタク石破茂は大嫌いだ。100%総理大臣にはなれない。負け犬の遠吠えみたいに、正面切って戦いを挑まない男に、天下は取れない。政界はぐれ鳥になるだろう。7月の東京都知事選に橋下徹は出るか出ないか。山本太郎が出るか出ないか、他の人間ではシタタカな小池百合子の敵ではないだろう。我々零細企業は何を頼りにしたらいいのだろうか。何を、誰を信じたらいいのだろうか。救世主よ! なのだ。激変するIT社会にふり落とされまいと、必死なのだ。昭和のビジネスモデルなどは、時代遅れとなっている。家族経営とか終身雇用制度。人生100年時代なんて言うから、世の中は大波動を起こす。若者たちは夢も希望も持たず、“今”イズム=今さえよければいいのだとなる。少子高齢化はさらに進み、ヒト対ヒトのお店は消えていく。街はさらにシャッター通りとなる。60歳以上がハローワークに行くと、(一)介護(二)掃除(三)管理人(四)警備員と言う。有名一流会社出身や特別なスキルを持たない高学歴者は、就職先がない。2020年のオリンピック以降は、誰も予想できない国になっているのだろう。嘘つき国家の行き先は、誰に聞いたらいいのだろう。平気で法を破る人間たちが、法を作る資格はないと、某有名私立大学の学長さんが、新聞に書いていた。深く静かに潜航している人の中に、きっと救世主はいるのだろう。新しき年も、二階俊博(80)という大実力者が鍵を握る。何しろ人生100年時代、まだあと20年もある。これを喜ぶべきか、悲しむべきか、神のみぞ知る。が、神はいつも沈黙する。12月14日赤穂浪士討入りの日にこれを書いている。実はこの討入りも、あとから生まれた物語だ。かつて三州吉良に言ったとき、吉良上野介の悪口を言ったら、ヒドイ目にあった。私の人生劇場(尾崎士郎著)の憧れの人は、侠客「吉良常」である。中学生のとき、生活指導の教師に、将来何になりたいとの問いに、吉良常だと言ったら、母親が呼び出された。たくさんの恩人に不義理のまま、年の瀬は迫って来ている。♪ ~ こんな私に誰がした ♪ 菊池章子の歌が浮かぶのだ。(文中敬称略)
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2019年12月13日金曜日
「あなたはまだ、帰ってこない」
遂に入ったぞ、「Netflix」に、これで「アイリッシュマン」が見れる。村西とおる監督の「全裸監督」も見れる。ヤッホーなのだ。山田孝之が全裸監督を演じ、絶賛されている。ナイスですね、ナイスですねと言いながら、女性の裸体と男性の裸体の“くんずほぐれず”を撮り続けた村西とおるは、自称公称50億の借金を抱えた。だがしかし、この男はこの世に男と女がいる限り、人間の動物的欲望が絶えることはないと、撮って、撮って撮りまくった。借金取りは金を回収しないうちは決して命はとらない(たっぷり保険金などがある場合は別だが)、生かさず殺さず、高い利子をとり続ければいい。これまた、ナイスです、ナイスですなのだ。山田孝之という役者は、生き様も演技力も凄い。「闇金のウシジマくん」なんて山田孝之のためにあったような映画だ(原作は劇画マンガ)。まい日オムライスにたっぷり赤いケチャップをのせながら、借金の取り立てを命じる。女性とは不思議な生き物で、どんなに頑迷な女優も、監督から芸術のため、芸術のため、君の裸のシーン、“くんずほぐれず”のシーンが必要なんだ、君しか演じられないんだよ、と三日三晩言われると、99.9%は落ちる(裸になりますと決意する)と言う。女優と監督が恋に落ち、愛に落ちるのは“芸術のため”という言葉にある。「アイリッシュマン」は私の大好きな監督マーティン・スコセッシの近作だ。3時間半ぐらいの長さで、ハリウッドも余りに予算がかかると、手を出さなかったのを、「Netflix」が資金を出し制作した。アイルランド系マフィア、そのマフィアよりも力があると言われた、全米トラック協会(組合)のボス、ホッファーの話がある。ホッファーはある日こつ然と姿を消した。ある映画では、ホッファーはウィンナーソーセージにされてしまった。ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、大好きな俳優ばかりだ。出張先の仙台から帰る列車の中で、「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット・オハラはなぜレット・バトラーに捨てられたか、それについてのことを読んだ。スカーレット・オハラは好きだった男にもフラレた。美しいのに、呈しいのに、知的で行動力があるのに。読むとレット・バトラーは、その全部が気に入らず、プライドの高さも気に入らない。この女と一緒になんてやってられねえと、去って行ってしまった。ということであった。風と共に去ったのは、レット・バトラーか、それともスカーレット・オハラにとって他に違う何かがあったのか。解説はそれを示していない。「明日があるわ」。アメリカの男は強い女性を好む。しかし朝から晩までアイ・ラブ・ユーを言わねばならない。まい日朝のキッスをしないと、裁判で離婚訴訟に負けると言う。よこしまな私は列車の中で考えた。村西とおる監督がスカーレット・オハラに挑んだら、どうなったであろうかと。ナイスですね、ナイスですね、ゲージュツです、ゲイジュツですと。と、バアーンと散弾銃の音、村西とおるが、スカーレット・オハラに撃たれて、ボロボロになって床に転がっている。夥しい血の中で、ナイスでしたと言って笑う。この頃著しい不眠症のせいで、レンドルミンといいちこが、私の脳内をクリエイティブする(?) 私自身は全然ナイスではないのだが、映画があれば安定剤の役目をしてくれる。現在午前三時四十四分十三秒。女流作家の自伝映画を見終わった。1945年ドイツ降伏、パリ解放、愛する男はずっと待っても帰って来ない。ヒトラーが自殺したと聞きながら小説を書く。続々と収容所から人が帰ってくる。愛する男は帰って来ない。スパイだったのか、密告者だったのかは分からない。あるいは収容所のガス室で死んだのか。全編文学的言葉が続く(2時間)。実に見応えがあった。一人の女流文学者の、愛する男に込める強い愛が尊い。題名は「あなたはまだ帰ってこない」。作家は20世紀最大の女流作家と言われた“マルグリッド・デュラス”、「愛人/ラマン」が有名だ。愛とは何か(?) と悩んでいる人にはぜひ見てほしい。すばらしい文学作品だ。今の日本にはできない。すでに文学作品は絶滅的だからだ。文学者も生原稿で書くことがなく、PCで打つようになり(または口述)、劣化している。全然ナイスではないのだ。全裸になれ芸術のために。我が身をさらし出せ。純文学はそこから生まれる。
2019年12月12日木曜日
「消えた牛タン」
私は天邪鬼であり、大のラグビーファンでもある。今の心境は、だからニッポンはダメなんだよとなる。今年行われたラグビーW杯でニッポンのチームは、ベスト8になった。暗くて嫌な話ばかりの世の中で、久々に日本中が沸きに沸いた。ニッポンは強くなった。外国の選手をたくさんチームに入れて。外国人選手の中には、日本人より日本人的になり、チームを引っ張ってくれた。テレビの視聴率も50%を超える試合があった。チームの標語(ワン・チーム)は流行語大賞になった。だがしかし私は“まてよ”といいたい。優勝した訳でもなく準優勝でもない。強力な外国人助っ人に入ってもらっても、“ベスト8”である。明るい話には違いないが、スポーツの世界はNo1になってこそ価値がある。E・ヘミングウェイが言った「勝者には何もやるな」はすでに勝利というものを手にしたのだからとなる。0.001秒差で銀メダルになっても、金メダルの選手とは、天と地ほどの差となる(私は1秒にこだわる)。何故なら歴史という記録の中では、その価値が歴然とする。ニッポンは勝者ではない。アイデア不足で、すっかりマンネリ化したテレビのバラエティには、同じメンバーばかりが出て、バカ騒ぎする。ラガーマンたちが連日連夜、朝昼晩三食のごはんのように出ては、そのバカ騒ぎの相手をする。君たちはベスト8に残っただけだ、未だ世界のトップとは大人と子どもぐらいの差があるんだ。もし外国人の力を借りていなかったら、100対0で負けていたかも知れない(ニッポン人だけならありえる)。だからもっと、もっと体力をつけ、技術をつけ、走力、キック力を上げねばならない。テレビのバラエティに呼ばれなかった、スクラムを組む男たち(一人は笑わない男と言われ呼ばれた)は、なんだよアイツらばかり、チヤホヤされて思っただろう。つまり、ワン・チームではなくなっている。そして、昨日あろうことかベスト8の成績でパレードを行って観衆に手を振った(みんなで)。テレビマンたちはしてやったりと思っただろう。私は苦笑しながらニュースを見ていた。サッカーも同じだった。ベスト16の成績でチヤホヤされて、すっかりその気にさせてしまった。結局それ以降パットせず、個性的な選手は育っていない。プロ野球にいたっては、外国人助っ人の天国となっている。大リーグではすっかりの選手たちが、日本のプロ野球では、バカスカ打つか、大金を手にして遊び回り、スッカスカの成績で帰国して行く。狭い球場、飛ぶボール、飛ぶバットであっても、遊び過ぎた体には力が入らない。私は天邪鬼であるから何事も斜めに見る。日本人は「空気」によって大騒ぎとなり、潮が引くように忘れる。ベスト8はどこまでいっても“ベスト8”であって、“ベスト1”でない。団体競技は、数人だけがチヤホヤされてはいけないスポーツなのだ。真の「ONE TEAM」でないことに残念さを感じた。改めてテレビの力は恐い。出張していた仙台駅の待合室のテレビを見ながらそう思った。仙台駅は牛タン、牛タン、牛タンのみやげ店ばかりが目立つ。牛タンのお土産を買って、大きな袋に入れて待合室のベンチに置いて、トイレに行って戻ったら、アッレー! 袋がなくなっていた。私の勘違いだろうか、ウロウロと袋を探した。
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2019年12月9日月曜日
「イザヤ・ベンダサンを思い出す」
NHKスペシャル/首都直下地震ウィークと題して、ここ30年のうちに70%の確率で起きると言う首都直下地震について、いろんな角度からシュミレーションをしたり、各分野の専門家の意見や研究の先にあることを解説した。首都崩壊のコンピューターグラフィックは衝撃的であった。ドラマ仕立てでさらに臨場感を演出した。私は今、ある人の出版をプロデュースしている。その人の考えと私の考えが、必ずしも一致するものではないが、まったく原稿もなく、メモもなく、私が依頼したフリーのライターの方への4回にわたるロングインタビューの記憶力に驚嘆した。基本的な考えの一つに、世界はユダヤ資本によって支配が始まり、現在もそれが進行形であり、世界中そして日本も支配されている。週末インタビューの概要を読み直した。「ユダヤ人」と「安全と水」という言葉に初めて接したのは、イザヤ・ベンダサン(架空の名)という名で出版された「日本人とユダヤ人」という一冊の本だった。ハードカバー200数ページのこの本は、空前のブームを呼んだ。1970年5月からのことであった。単なる文明論でなく、文学としても絶賛された。故開高健をして“こりゃ凄い本やで”と言わしめた。イザヤ・ベンダサンとは誰か探しが始まり、行き着くところ山本書店という小さな出版社の主である「山本七平氏」ではとなり、さもありなん、となった。ここで山本七平氏については書かない。とんでもない人であるから調べるといい。NHKスペシャルとイザヤ・ベンダサンこと山本七平氏をつないだのは、「日本人とユダヤ人」の著書のはじまりにあった「日本人は水と安全は無料だと思っている」。この言葉のインパクトだった。出版されたとき、この本を読んだがすでに手元にはない。で、本棚にあった「山本七平の思想」東谷暁著/講談社現代新書刊を見つけて読み直した。祖国を持たない民であったユダヤ人にとって、世界中どこにいても安心安全の保証はない。一方災害大国である日本は、水道の蛇口をひねれば、ただで飲める水のように、安全も安心もただだと思って過ごして来た。そこに登場したのが「日本人とユダヤ人」だった。第2回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこの本にある、「日本人は安全と水はただ」と思っているが、今で言えば流行語大賞的になった。が日本人という民族は、島国であり国境もない。単一民族国家であったから、アタマの中も単一的で、すぐに忘れるという特技を持っていた。大事が起きたときに、大騒ぎするが、自分たちが当事者でないと、すっかり忘れてしまうのだ。また、大事が起きると、すぐに人の責任、ご近所の責任、町内会やマンションの管理人やメーカーの責任、そして当然行政にと、責任論は広がる。日頃の備えをまったくしていないのに“安全と水はただ”と思っていたとなる。NHKスペシャルで衝撃を受けても、一週間後にはほぼ話題にならないだろう。山本七平氏から見ると、日本人とは“空気”によって動き、動かされる。日本教の信者だと言うことになる。ともあれ防災の気運の動きを止めるなと言いたい。安全と水にはお金が掛かると思うことを、徹底して追求しなければならない。
2019年12月6日金曜日
「田中珍彦(ウズヒコ)」さん「お別れの会」
本日午後2時から4時。渋谷東急文化村内において、元東急文化村社長、田中珍彦さんの「お別れの会」があった。私にとって、小学校の頃は野球の上手いお兄さんでありずっとかわいがってもらった。中学校では野球部の大先輩であった。長じては、その素晴らしい男としての器量に、最大限の敬意を持ち、憧れ敬愛した。そしてずっと付き合って来た。今、渋谷は再開発が進んで街が変わって行く。が、世界の文化と交流する「村」を都会に生んだ、故五島昇さんという希有な経営者がいた。そして田中珍彦という一人の男のロマンと、世界の文化を日本に呼んだ、行動力を忘れないでほしいと願う。「バイロイトのオペラ」を呼び、「コクーン歌舞伎」を生み「ドゥマゴ文学賞」を創った。その功績は数知れない。「オイ! 男はなぁセンスだ」が私に対する言葉だった。センスとはファッションだけではない。男はケチな金の話をするな、仁義を大切にしろ、道を外すな、責任は自分で持て、美味しいものを食べて、才能ある人間とつき合え。21世紀の“坂本龍馬”であった。みなさんどうか「田中珍彦(ウズヒコ)」を忘れないでください。渋谷に行ったら、東急文化村に足を運んでください。「お別れの会」は大行列であり、なつかしい人たちと会った。大ホールは満杯で入り切れないほどであった。まるで日本中の文化人が集まっているようだった。でも、先輩はシャイな人なので、あの世で照れているはずだ。(合掌)
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2019年12月5日木曜日
「二人の作家」
高等小学校卒(現在の中学)デビューは41歳のとき、同じ年に太宰治や中島敦がいた。が、この作家が世に出たとき二人はすでに世を去っていた。生涯において残した作品は1000点以上、書いた原稿12万枚、新潮文庫だけで4千5百万部、カッパノベルス2千4百万部、出版各社を含むと、1億部以上になる。長者番付・作家部門で13回1位になる。この作家と人気を二分したのが、司馬遼太郎であった。20世紀を代表する作家番付をつけるとすると、松本清張と司馬遼太郎が横綱であった。松本清張は社会の暗部、人間の暗部を書いた。一方司馬遼太郎は英雄、勝利者、成功者を書いた。私見だが司馬遼太郎はエッセイが抜群にうまく、小説は大衆小説である。松本清張が芥川賞作家で、司馬遼太郎が直木賞作家であることでそれが分かる。私は断然松本清張支持である。人には運命と宿命がある。持って生まれたものが宿命であるとしたら、この世に生を受けた後、さまざま出会うものを運命という。人間はこの二つから逃げることはできない。幸も不幸も本人が知らないストーリー上にある。子は親を選ぶことができない。宿命に逆らい運命と格闘することを人生と言う。これ演出するのが“血”である。人にはそれぞれアナザーストーリーがある。知らないで済めば知らないほうがいい、血の歴史が脈々と流れている。松本清張はこれを徹底的に追求し、取材を重ねに重ねて古代史の研究家にまでなった。一方司馬遼太郎は膨大な資料を読み込み、取材し人気小説を書いた。今、なぜ二人の作家のことを書くのか、と言えば。それは現代社会が重大な分岐点にあるからだ。一歩間違えば戦争へと向かう。松本清張が存命ならこの国の今の暗部、人間の暗部をどう書いただろうか。祖父母はいつ我が子や、嫁や孫に殺されるか分からず。父母はいつ我が子に殺されるか分からず、我が子はいつ親に殺されるか分からない。殺意がそこいら中で呼吸している。夫はいつ妻にブスリと刺されるか分からず、妻はいつ夫に絞め殺されるか分からない。まるで中世の頃のように人間は「人心の乱の中」にいる。現代は応仁の乱の頃と同じである。司馬遼太郎は人の暗部は書かない。ヒーローが大好きであったからだ。私は心から残念に思う。松本清張がいてペンを走らせてほしいと。松本清張は“謎解き”の作家でもあった。人間とは謎でできている藁人形だ。ちょっと火をつければ、たちどころに燃える。人間は大なり、小なり日々殺意を持つ生き物なのだ。誰でも少しばかり書く気があれば、今の世の中には小説のネタは山ほどある。残念ながら松本清張に及ぶ作家は現在一人もいない。ちなみに松本清張は“山陰”の出身、司馬遼太郎は陽気な大阪出身である。今ほど社会派小説が停滞している時代はない。“事実は小説より奇なり”なのだ。(文中敬称略)
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