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2021年6月19日土曜日

つれづれ雑草「人類の災典」

雨にも負けて、風にも負けて、権力にも脅しのすごさにも負けて、丈夫でない心を持ち、欲も出し、そっと怒り、いつも自分たちのことだけを考え、一日四合の酒を飲み、たくさんの肉と魚を食べ、あらゆることを自分の勘定に入れ、よく見極めて、そして忘れる。みんなからデクノボォと呼ばれ、ほめられずもせず、見向きもされない。そういうヒトに私はなりたい(分科会一員?)。人類の祭典オリンピックは人類の災典となった。政府の選んだ人が雁首を揃えた分科会:会長の尾身茂会長の提言は、予想した通り玉虫色だった。妥協の産物を生む、調整能力に優れた尾身茂会長は、オリンピックは中止すべきと断言できなかった。返り血を浴びることを怖れた。東に文句を言う委員がいれば行って麻雀をし、西に一言居士がいれば行って麻雀をしつつ説得をしたのだろうか(?)。否現在麻雀はポンだチーだと声を発するので、禁止かも知れない。ともあれ雁首たちの意見は研究の成果として少しは役にたったのだろう。人と人が会えば、ワクチン打った(?)があいさつ代わりとなった。えっ、打ってないの、ヤバイよあの人はと、同調圧力がかかる。この国の民は付和雷同する強い傾向がある。ワクチンではない、ワクチン風の薬の副反応が今後いろんな形で出るはずだ。老人たちの多くがそれを知る頃は、この世から旅立っている。幸い私はホタテアレルギーなのでワクチンもどきを打つことは許されない。会社もやっていけない、店もやっていけない。その一人ひとりの命と、オリンピックの選手一人ひとりの命の重さは同じだ。アスリートはずっとこの日のために、血の出るような練習してきたからカワイソー。そう言うが、我々弱小企業も、レストランのオーナーも、中華店のご夫婦も、クラブやバーのママさんも、テレワークで仕事をするパパさんも、みんな、みんな職業の数だけ、血の出るような過酷な日々を送って来た。アスリート達と等しくカワイソーなのだ。カワイソーでないのは、莫大な利権のおこぼれを手にした悪い奴等なのだ。より速く。より高く。より強く。がオリンピックの目標だった。初めは未だ人類が未熟だったからだ。そもそもアマチュアが参加する祭典だった。徹底的にバカヤローな組織が生まれ、より多く賄賂を。より高価なプレゼント。より強情に(要求)。五輪貴族たちのための災典となった。話は代わって、国土計画に就職した「A」さん。90年代前半に国土計画からJOCに出向して国土計画を辞職後、そのまま再雇用されて経理を担当していた。その「A」さんは長野オリンピック(大赤字)の時、T氏から金庫番を命じられていた。以来ずっとオリンピックの金庫の中の動きを知っていたらしい。その「A」さんが、先日突然列車に飛び込んで死んだ。それを目撃したという人がいるというが、その人は出て来ない。遺書もない。ごくフツーに出社して行ったと家の人たちは言う。Why何故(?)なんだかサスペンス映画みたいだ。昨日深夜「南山の部長たち/KCA」を見た。韓国映画はここまでリアルに権力と対峙するのかと感心した。今ブタ箱に入っている朴槿恵元大統領の父朴正煕元大統領が、最側近に食事中に暗殺された大事件をイ・ビョンホン主演で映画化した。日本も韓国もアメリカに全て支配されている(同盟国という子分)オセロのイアーゴは誰だ、という言葉が出る。2020東京オリンピックが、無事に終り(ありえないが)万才! 乾杯! ヤッホー、ブラボー、となることはない。イアーゴ(密告者)だらけの大会なのだ。あの店は酒を出しているぞ、あいつはワクチンを打っていないぞなんてことになる。オリンピックの時には、毎回ん十万個のゴム用品が用意されるというが、今回はいくつだろう。濃厚接触は禁止だけど。アドレナリンが多く出る選手は、男女問わず、ハケ口を求める。私たち市井の民はアドレナリンなどもう出ない。ハケ口も求めない。南無無辺行菩薩……南無安立行菩薩。雨ニモマケズ 風ニモマケズの最後は経文で終る。宮澤賢治先生の黒レザーの手帳には、南無妙法蓮華経の文字が、ページの中央にひときわ大きく書いてあった。今回のオリンピックに、仏様は味方しない。(文中敬称略)





2021年6月12日土曜日

つれづれ雑草「石に感動」

THE STONE/石の仏、神の獣。西村裕介写真展」を六本木21_21DESIGN SIGHTギャラリー3に友人と行く。六月七日(月)である。アートディレクションは、巨匠井上嗣也氏、デザインは稲垣純氏である。全国を訪ね訪ねて撮影した、10数万点に及ぶ写真の中から、選び抜かれた30余点が見事にディスプレイされていた。午後四時頃に行きますと伝えていたので、井上氏、稲垣氏、そして西村さんが会場に来てくれていた。一ミリでなく、一ミクロンにもこだわる井上さん、稲垣さんのグラフィックデザインの最高峰のセンスが、西村さんが撮った、石仏、羅𣿮像、馬、犬、猿、蛇、羊、亀、蛸、猪、獅子、鯰、虎、などなどの石像写真と対決する。感性と感性ががっぷり四つとなり、誰が彫ったか分からない石像たちが、熱い息を発する。久々に興奮する展覧会であった。意志を持ち無言の言語となっている。すばらしい写真集が、リトルモア刊で発売されている。(8000円)会場を出る時に写真界の巨匠と会った。ウワァ~、〇〇さん久しぶりとなった。この写真家を使いこなすアートディレクターは、日本国で二、三人しかいない。猿がウォークマンをつけて、湖のほとりに立っている名作で有名だ。六月九日(水)観ておかねばなら吉永小百合さん主演の「いのちの停車場」を二時十五分から観た。レディースデーで館内は、女性客でいっぱいだった。金沢で訪問看護をする女医さんが主人公。東京の大学病院で救急医をしていたが、ある事で辞めて父親がやっているまほろば診療所に帰って来る。さまざまな苦難の病と共に生きる人たちを診て回る。あ~嫌だ嫌だ、なんて人間は汚いんだ、と思っている人は、吉永小百合さんの映画を観ると。あ~なんて人間はいい人なんだと心が洗われる。一年365日看病をしつづける人々は、私から見ると神の領域にいる。年老いた父や母、生まれながらの難病奇病、あるいは不慮の事故により、不自由になった夫や妻や、兄弟姉妹、そして愛する我が子。日本国中屋根の下で生きる家族の数だけ、何かしらの病がある。若くして事業に成功したのに、全身麻痺になってしまった男が言う(映画の中で)金はいくらでも出すからと。人は運を買うことはできない。人生とは不公平なりという。好事魔多しともいう。悪い奴ほどよく眠るとも言う。ネバー・ギブアップだ。希望は人間だけが持てるものだから。今月中に来日すると言ったIOCのぼったくり男バッハ会長が訪日中止、七月に来日をすると延期した。そんな折来年の冬季五輪開催を目指したが途中で立候補を降りた、ノルウェーのオスロが、IOCのバカヤローこんなことやってられるか、という内容がどこからともなく流出した。とにかくゆすりにたかりである。空港は特別にしろ、滑走路で式典風に迎えろ、開会式には国王と面会させろ、その後にカクテルパーティを、その費用は王室かオスロ五輪委が出せ、車移動には専用道路を作れ、ホテルでは支配人が、季節の果実とケーキを持ってあいさつに来い。ホテルのバーは委員用に深夜も営業しろ、ミニバーには必らずコークを、競技スタジアムにはワインとビールを。当然ホテルは一泊ん百万円のツイン、ワインはあれこれ、シャンパンはあれこれと細かい銘柄、きっと毎晩美人とか美男子をと、秘密用語であったはずだ。五輪貴族はうす汚い者共なのだ。ひょっとしたら小池百合子都知事は、五輪返上を宣言するかも知れない。今のままでは、都議選は大敗北(都民ファーストの会)となる。中止を宣言してコロナと闘うと言えば、年を取ったジャンヌ・ダルクになれるはずだ。もっともジャンヌ・ダルクは処刑されるのだが。熱中症で救急搬送される人が増えて来た。救急医療の現場に、吉永小百合さんみたいな医師はいない。コロナで手一杯なのだから。飲食店のオーナーや店主、おかみさんたちの怒りは、頂点に達している。何をチンタラチンタラやってんだよ、早く給付金を振込めよ、何をスットコドッコイの事言ってんだよ。こんな中でオリンピックなんて、できる訳はないだろう。子どもにだって分かるだろう。バカも休み休み言え、こちとらはずっと休んでんだからヨオ。小池百合子はジッと状況を見ているはずだ。親分の二階幹事長も次があるか分からない。二人が組んでコロナ最優先、給付金援助最優先に、とやったら一気に拍手だ。オリンピックはやれないと思ったら、スパッとやめると言った言葉を思い出す。それにしても日本の政治ジャーナリストは、田崎史郎しかいないのか、顔が見たくないから、スイッチを変えるとそこにもいる。又、変えるとそこにいる。局をハシゴしている。収録を重ねている。展覧会で見た犬の石像には、哲理とか、真理を感じたが、政権の犬には、ヌメヌメしたナメクジのような気配しかない。目覚めよ大マスコミよ。奮い立てジャーナリストよ。何んのために政治家になったのか、思い出せよ。青雲の志を。昨日深夜「なぜ君は総理大臣になれないのか」という、ドキュメンタリー映画を見た。東大→官僚→さまよう野党の議員、17年間に及ぶ作品だ。国会議員になるということはとにかく大変だ。一家一族、全員、お願いします清き一票をの、積み重ねだのだ。選挙は近い。一言一句が当落に影響する。韓国では36歳の若者が、議員経験なしで韓国最大野党の党首となった。時代は動いている、若手准教授の著作、「人新世の『資本論』」がベストセラーなっている。(抜群にオモシロイ)絶望は愚か者の結論なりその教えを噛みしめている。(文中敬称略)



2021年6月4日金曜日

つれづれ雑草「婉という女」

オッ、オヨヨ。コロナ対策の医療チーム分科会の会長尾身茂が、現在の状況では普通はオリンピックなんてできないと言った。(フツーというところがミソ)やるとすれば徹底的な対策が必要と言った。(やるとすればがミソ)尾身さんやるじゃん、と見直しの言葉がドドッと出た。伝聞だったか、何かで読んだか記憶が定かでないが、この人は無類の麻雀好きで、ポン、チーをしながらの調整力に優れているらしい。医学的見識や専門的知識は、さほど持ち合わせてない(?)。政府が選んだ人間だから、政府のためにならないことは決してやらない。アメリカ資本の圧力で、何が何んでもオリンピックをやらねばならない日本国政府は、戦時中体制の如く開戦じゃない、開催に向かう。国民の命なんか知ったことはないと邁進する。尾身茂たち分科会にとっては、何かしら面目を保つことを言い残さねばならない。でもって政府と尾身茂たち分科会は、しっかりと役柄を決めて芝居を打っているのではないかと思う。分科会以外の医師会などは、ちゃんとした専門知識があるので、オリンピックなんかできるはずはないと、次々に発言する。七月、八月、日本は猛暑の中、熱中症などで夥しい数の救急車が出動する。しかしコロナ禍の中でオリンピックをすると、救急患者はさてどうなるか。囲碁や将棋の世界で、カタチをつくるという言葉がある。名人、達人たちは打ち続けていると、もう敗けたと分かる。が、観戦記者やファンは終わるまでを知りたがる。テレビ放送などがあれば、敗けと分かっていても手を進める。このようなことをカタチをつくると言う。つまり尾身茂たちはカタチをつくってやるだけやったとなる。碁の言葉に征(しちょう)というのがある。強い人と弱い人が勝負をしている時、弱い者が自分の陣地を広げたり、守ったりするために、必死に手を打ち続けるが、どこまで進めてもその手は征、つまり死んでいて、バシッと手を打たれて、ゴソッと陣地を取らてれ敗ける。今の政府はその征に見える。将棋なら詰んでいる。囲碁なら死んでいる、ということになる。日本国軍歌の中に、世は一局の碁なりけりとかいうフレーズがある。政局とは囲碁からきているのかも知れない。狭い部屋の中で、ゴッツイニシキヘビを三匹も飼っていたペットマニアに、蛇が大嫌いな私は、檻の中で三匹の蛇と一生暮らせばと言いたい。嫌いな訳は、少年時代伝書鳩を飼っている時、蛇のヤローに小鳩を何羽も殺されたからだ。中国では象の親子が街中に出現した。かわいそうに、食べ物がなくて出て来たのだ。ミナミジサイチョウなる巨大鳥が出現した。ペットショップが飼っていたらしい。かわいそうに長いくちばしの先きが切られている。それ故食べ物をつっつけないので、かなり不自由で怒っている(そう見える)。ドサクサにまみれて高齢者の医療費が1割負担から、2割負担になる法案が成立した。日本語というのは実に情緒がある。雨を表現するだけでも、400500程あるという。通り雨、夜来の雨、遣らずの雨、六月四日現在、だらしない雨がシトシト降っている。 通り雨にはすがれない いっそ明日が来ないでほしい すがるこいさん涙にぬれて……。森進一の歌った曲を口ずさむ。銀座、赤坂、六本木、すすき野や中洲、キタの新地やミナミの女性たちが、お客さんが来なくて泣いている。行ってやりたいが、行くに行けない。禁酒法下の中にいる。すっかり甘党になって、深夜から朝まで映画を見ながら、頂き物のチョコや、甘納豆を楽しんでしまう。カラシの効いたところ天で気分転換をする。ステイホームの見本のような苛烈な映画がある。巨匠今井正監督、岩下志麻主演の「婉という女」だ。野間文芸賞を受賞した。高知県出身の女流作家大原富枝原作。(大正生れの作家で記念館がある)土佐藩の家老であった婉の亡き父は学識があり、先見の明が大であった。藩政を立て直すために、あらゆる手を打った。また学問の大事さを身をもって実践した思想家でもあった。政治の世界はできすぎる人間、やりすぎる人間をそのままにはしない。政敵は、婉の父が世を去ると、その優れた血筋を恐れ、四歳であった婉をはじめ、兄弟姉妹、老母たち一族を山の中に幽閉する。外出は一切禁止、外との交流も禁止、竹矢来の柵外には番をする者が見張る。やがて、三人の兄と一人の弟は狂死、病死する。男系の血がなくなり血筋が断たれた時、婉はやっと放免される。幽閉されること四十年、外に出た時は四十四歳となっていた。婉にとってただ一つの救いは、父の門下生であった、一人の学問の徒との文通であった。その一行、一行の中に男を知らぬ身は、男を感じた。二十六歳の時からそれは始まった。美しい婉は外界に出ると藩中の噂さとなったが、六十五歳でこの世を去るまで処女であり続けた。お歯黒もせず女であり続けた。掟が厳しいステイホーム四十年だったのだ。原作は文庫本三篇の中の一作166ページ、講談社から出ている。日本語を勉強するにはこの上なき名作である。(先日再読した)土佐には婉の父が遺した幾多の事業の足跡が今も生き続けている。人々はその上で生活をしている。(文中敬称略)



2021年5月28日金曜日

つれづれ雑草「情けない」

「コラ、ババア、電話出らんかい。ババア、死ね、コラアー」と昨年末から今年5月かけて、40代の男性と60代の女性に、電話をかけ続けていた、四天王寺大学准教授(48)が五月二十四日脅迫の疑いで逮捕された。元外務官僚である。昨年11月被害者の男性は、勤務する職場近くの牛丼店で食事をしていた。会社役員をしていたその男性に、電話が入った。男性はマスクを外した状態で、「食事中なので折り返します」と話をした。マスクの着脱、そのことに准教授は立腹した。その場ではトラブルにならなかったが、准教授は男性の後をつけ、職場を突き止め、脅迫電話をかけた。その日以降、無言電話や脅迫電話が数十回続いた。脅しはやがて、息子さんやお母さんに向けられた。その内容は、留守電にしっかり録音されていた。1997年早大卒、2000年コロンビア大学で修士を取得、富士通に就職後、ユニセフのパキスタン事務所で児童保護官を務め、国連の国際労働機関のタイ事務所で児童労働専門官、そして外務省へ。さらにJICA国際協力機構に所属、帰国後広島大、羽衣国際大へ。パクられた時は四天王寺大の専任講師(准教授(?))だった。大阪維新の会の橋下徹氏に共感して、政治塾で受講していた。世の中的に言えばエリートなのだろう。あるいは友人たちが、いつかきっとと言われていた阿呆なのだろう。とにかくしつこい男であったようだ。数ヶ月ババア、ババアの連発だったようだ。被害者家族は相当にマイッテ、警察に相談した。「間違いありません」と容疑を認めているとか。(5/27日刊ゲンダイ抜粋)マスクを外すか、外さないかでトラブルが生じている。マスクの着脱には十分注意しなければならないと、この記事を読んで思った。FACTAという会員誌・今月号に「食べログ」で、★の数や評価点を減らされて、そうでなくてもコロナでお客さんが減っているのに、大迷惑だ! とお店のオーナーたち、という記事があった。(自由競争経済秩序を侵害しているから独禁法違反に当たる)東京地裁へ公正取引委員会事務総局審査局長が意見書を提出した。この問題はコロナ禍の中で大きく広がって行くと思われる。(とても気がかりなのだ)知っていた店が、次々と閉店や廃業している。昨日深夜、溝口健二監督の「山椒大夫」を久々に見た。森鴎外原作である。平安末期、世は乱れ人が人として生きてられない時代であった。現在と同じ格差社会だ。一昨日日本人が海外で持っている資産が、350兆円近くもあると記事で知った。国内での預貯金は1000兆円を超すともいう。ケチ、守銭奴、ゼニゲバたちは金が金を生んでいるのだ。使い切れずに死んで行く。さて、「山椒大夫」だが右大臣家から広大な荘園を預かるボスである山椒大夫は、貧乏人たちを安く買い漁り、コキ使って銭を稼ぐ、そして貴族たちに貢ぎ物をする。人としての正しさを、妻や息子厨子王、娘安寿に教えた父は死ぬ。母は佐渡へ送られ遊女にされる。厨子王と安寿は山椒大夫に買われて、生かさず、殺さずコキ使われる。いつの世も同じである。兄を逃がすために入水自殺する妹。やがて月日は経ち、山椒大夫は厨子王によって退治される。そして厨子王は佐渡へと渡り、老女となった母と会い抱き合い、安寿の死を知り母は泣き崩れる。私はこの手の映画に弱いので、涙を流していた。白黒の佐渡の海は美しかった。映画の中で安寿が織り物をするシーンがあった。買われて来た少女たちに織り方を教えるのだ。ふと、ユニクロの事を思った。より安い原材料を使い、より安い賃金でより安い商品をつくる。アメリカではユニクロの一部商品を、人権問題にあたるとして、輸入不可にした。(そういうアメリカもかつて、綿栽培は奴隷の仕事であった)ユニクロは女工哀史で成長をした企業であることは言うまでもない。中国やベトナムなどアジア諸国で、そこの賃金が上がるとバングラデシュなどへ。そのバングラデシュでは、ユニクロの商品は、「血の糸」(娘たちの安い賃金)で織られていると言われている。売り上げ高世界一へとエラソーに言っても、ユニクロはユニクロ、GUはGUでしかない。これから企業はエシカル(倫理的)が求められる。倫理性に欠けていたら、そのブランドは認められない。山椒大夫と同じなのだ。売れ残ったユニクロ商品が燃やされ、焼却された時に出す二酸化炭素が空気を汚す。女工たちの祟りがきっとあるだろう。それにしても、溝口健二の世界はすべてにおいてすばらしい。その後、新藤兼人監督の「悪党」を見た。谷崎潤一郎原作「顔世」をベースに作られている。この映画については後日。今、ある作品づくりの資料を読み進めている。母は強し、されど女は……。コラッ! 阿呆官僚たち、ババアなんて言ってんじゃネエぞ。コラッ!IOCのバッハ会長オリンピックでひと儲けして、バッハハハハと笑うんじゃないぞ。IOCのコーツ調整委員長、コイツは悪想の極みだ。(人のことは言えないが)子どもたちの運動会が中止になっているのに、オリンピックはできないだろうと、ハッキリ物言う議員が出たら、次のリーダー候補になるだろう。近所の市会議員たちが、ワクチンのために全く働いていない。オッとババア、じゃない、奥さま方が声高に叫んでいる。次は絶対投票しないと。飛行機の中で、CAの女性のおしりをワシづかみしてパクられた男がいる。ホトホト情けない国になっているのだ。




2021年5月21日金曜日

つれづれ雑草「エスカルゴ」

粘着テープをシュレッダーして、暗い空から落とし続けるような嫌な雨が降る。心も体もベトベトする。人類すべてがマスクをしている。(アマゾンの原住民もアフリカの民族も(?))ふと、ある映画のシーンを思い出す。確か大岡昇平原作の映画か、火野葦平の映画だった。敗戦間近の南方戦線のジャングルの中、飢餓地獄の日本軍兵士たちが、動く物なら何でも食べると食物を探す。一年中雨のような熱帯雨林の中で育った、かたつむりは大きい。フランス料理のエスカルゴも、日本兵士たちには、悲惨なかたつむりでしかない。(でんでん虫ともいう)連合国には空から陸から食料が次々と補給される。戦争の勝敗は、兵站(食料弾薬、武器)の差で決る。日本軍の作戦命令は、現地調達せよであった。つまり現地で略奪しろという事であった。太平洋戦争の戦死者の60%以上が餓死であった。木の皮、木の根を、サラミか、ビーフジャーキーのように思い、待っている人のために生きようとしたのだ。飢えた日本兵は、ハンニバル・レクター博士のようになっていた。敗戦から76年目、世界大戦の中にいる。新型コロナウイルスが、世界共通の敵となっている。戦争は武器商人たちにとって、これ以上ないビックビジネスである。世界各国の財閥は戦争によって生まれた。当然日本の財閥も戦争成金である。2021年現在日本国民はかたつむりの代わりに、ワクチンを必死に求めている。このワクチンは正しくは、ワクチンではなく、新薬だと世界の科学者は言う。治験も経ていない新薬(ワクチンと称しているだけ)を求めて、配給米を支給されるが如く列をつくる。人間は一度必ず死ぬが、ずっと生き続けたいと思う生き物である。過度に発達したIT社会の中で、日本がIT後進国であった事を知る。(私は全くITオンチ)ワクチン注射の予約がとれない、つながらないと今、後期高齢者たちは怒る。この国はホントダメ、菅政権はサイテー。黒岩サイテー(神奈川県知事)と、ご近所は大合唱する。悪夢のような民主党政権時代と、安倍首相はよく言ったが、今や悪夢の上を行くのが菅政権だとの声が、鳴門海峡の渦より大きく広がっている。今ではワクチン敗戦国の大見出しが夕刊紙に、週刊誌に踊る。すべてはオリンピック開催のための作戦も、かつての日本軍司令部の机上の空論のように、あてが外れまくる。織田信長だったらどうするか、豊臣秀吉や徳川家康だったら、西郷隆盛や大久保利通、江藤新平だったら。大村益次郎や秋山好古、真之兄弟だったら。児玉源太郎や後藤新平だったらを研究していない。私が最も尊敬する吉本興業のアホの坂田さんにお願いするしかない局面になっている。坂田利夫さんは、本当は凄いインテリ(?)なのだ。このままだと、米一揆ではなくワクチン一揆だ。世界を仕切る新薬マフィアの高笑いが聞こえる。バチカン銀行の口座には、上納金がしこたま振込まれるはずだ。悪魔はいつも微笑している。名画モナリザの微笑は、レオナルド・ダ・ヴィンチが、女装した自分を描いたのではと私は思っている。ダ・ヴィンチはジョークが好きだったとか。ミサイルなどの武器や弾薬にも使用期限があるらしい。で、在庫一掃セールのように、イスラエルとパレスチナなどが、ドンパチして新兵器を買う。武器マフィアの売り上げは上々となり、バチカン銀行に上納金が入る仕組みなのだろう。コロナワクチンという新薬は、ずっと先きの先きまで日本国民みんなの腕には注射されない。(二度打てというオマケつきだ)今はガチンコ勝負だが、かつて大相撲の世界では、八百長をすることを注射を打つと言った。どの国の誰がウイルス菌を創り、大儲けを企んだか、八百長を仕組んだ胴元が、いつの日か分かるだろう。「五輪一大感染イベント」に米の権威、延期を促す(ニューヨーク=共同)米国感染研究の権威の一人、バンダービルト大のウィリアム・シャフナー教授は、CNNのニュースで東京五輪延期を語った。バイデン大統領は、科学的に安全・安心が証明されない限り、と言っていた。五輪中止を勇気を持って決断したら、菅義偉総理は歴史上の大人物として後世に語り継がれるだろう。さもないと敗戦のA級戦犯、東條英機となる。私の好きな、河竹黙阿弥の言葉(花街模様薊色縫~十六夜清心)。「一人殺すも千人殺すも、取られる首はたった一つ」。ある戦史家が、同じ武器を持たせ、同じ人数で戦ったら、日本人が世界で一番強いと言った。みんなでゆずり合ってコロナと戦って行こう。最高司令長官は、アホの坂田こと、坂田利夫元帥だ。作戦名はエスカルゴ。あせらず争わず前へ。梅雨の季節は、天才中野裕之監督のピースな映画作品を見よう。日本全国雨は降っていない。(文中敬称略)



2021年5月14日金曜日

つれづれ雑草「無用の用」

孫子はその兵法の中で、ドンパチやり合うほど愚かな戦さはない。戦わずして勝つべしと教える。即ち人の心の中を読む。人はその立場によって、心が揺れ動く。高い立場にいれば、さらにその上を目指す。あるいはその立場を守らんとする。孫子はその心を知略調略によって摘めよと教える。昨夜「その住人たち」というスペイン映画を見た。主人公の男は広告会社の重役であった。CM制作担当である。(クリエイター)家族の幸せ感や、人間の幸せ感を表現した作品をつくり、業界で名を成していた。高級レジデンスに住み、窓から外界を見下ろしていた。妻と娘がいる。こんなシーンから映画は始まる。とある大手広告会社で自身の作品を見せながら就職活動をしている。つまり失業中なのだ。面接をする相手は、その名をよく知っているが、あなたはもう古いのですよ、そんな対応をされる。一社、二社、どこでもそう言われて職につけない。主人公は、今の生活を維持して生きたい。妻との間にはスキ間風が吹いている。かつてアルコール依存症だった。失業が続く中引っ越しをする。安い住まいでの生活の中で、一人の男と出会う。そこは断酒会の場であった。男がどこに住んでいるかを調べる。そこには国内で二番目の大手運送会社の夫婦が一人娘といた。広大な庭園では庭師が日々手入れをしている。大きなプール付き。主人公は、一つの考えを持つ。この家族をそっくり手に入れてしまえばいいのだと。つまり邸宅の夫婦の間もうまくいっていない。出会った男は妻の父親の会社にいるので、ストレスが多くアルコール依存症になっている。暴力をふるったりして妻を傷つける。主人公は戦わずしてこの家族を手に入れるべき、調略をめぐらす。自分たち夫婦の関係を解消させ、狙った相手夫婦も解消させる。その妻の再婚相手は自分だ。この映画はシナリオが実に良い。役者の名は知らないが、いかにも策略家の味を出す。遠くから見ると幸せの見本みたいで憧れの家族も、ひと皮めくれば憎悪の館、殺意の館なのだ。変態の庭師はそれを知っている。もの凄く後味が悪く面白い映画だ。シェイクスピアの「オセロ」は、イアーゴのたったひと言の告げ口で、嫉妬の炎を燃やし亡びてしまう。人間とは業の深い生き物である。シェイクスピアの変わらぬ主題だ。現代社会では、ネットという告げ口が主流だ。姿が見えない分、イアーゴよりタチが悪い。「ブロークン・シティ/インフェルノ」という映画も見た。NYの市長選がらみの夫婦憎悪劇だ。アメリカ社会は全て、カネ、カネ、カネ、ワシントン・ポスト紙がIOCの連中のことも、そう書いていた。又、ニューヨークタイムズ紙、シカゴの有力紙も、日本のオリンピックは、非科学的なので、もう中止せよと書いている。私はすでに中止した場合、ぼったくりのIOCや、スポーツマフィア、ユダヤ系資本家たちと、落とし前の金額交渉を進めているのではと推測する。孫子の兵法を読んでいる知略家が政府にいるだろうか。コロナ禍の中で「ところ天」をすする機会が増えた。私はところ天という存在に声をかける。君はそばでもなく、しらたきでもなく、くずきりや、はるさめでもない。主義思想や、実存の哲学を感じることもない。君がいなくても世の中に影響はない。栄養もなく見栄えもよくない。きざみのりをまぶし、酢にひたし、黄色いカラシをそえる。ところ天にヌルヌル感を持ちながら、箸でかき混ぜて、ズルズルとすする。カラシが鼻にツーンとして、目に涙がたまる。効きすぎだ。君は実に知略に富んでいる。自己を捨てて、自己を活かす。相手に合わせて、相手を拒否する。“無用の用”のような存在の価値創造をする。私はところ天に大いに学んでいる。深夜映画を見ながら、ズルズルとした世の先きを知る。大リーグで大谷選手が、大活躍をしている。すばらしいが、必らず大怪我をする。何か見世物にされているようで私はツライ。才能が有りすぎる不幸がある。元横浜ベイスターズの筒香選手が大リーグで活躍できず、横浜ベイスターズに帰ってくるとか。うれしいようでツライ。日本で最多安打を打っていた、秋山選手も活躍が全くできない。やはり大リーグの壁は厚く高い。日本のプロ野球は元大リーガーとかドミニカなどの外人選手だらけになってしまった。一昨日の夜、横浜ベイスターズが5対3で勝っていた。九回ツーアウトだった。辻堂駅に降り家に着いたら、エ~5対5の同点で終わっていた。筒香選手が必要なのだ。野球はアタマでするスポーツともいう。横浜ベイスターズの監督のアタマはリーゼント。オールバック、何か関係あるのだろうか。進めない成績に。絵に描いたような幸せな夫婦は、この地球上に一つもない。何かモメたら、ドンマイ、ドンマイだ。コロナ禍は拡大の一途だ。オリンピックは“ガマンピック”だったと忘れよう。選手たちにはツライ。親愛なるアカギ君、横浜ベイスターズは、これから大前進だ(?)。「1922」というアメリカ映画を見ると、夫婦憎悪の極限を知る。スティーヴン・キング原作だ。ネズミ年生まれの人には、オススメだ。(文中敬称略)



2021年5月10日月曜日

つれづれ雑草「運砂利」

 「お流にする」。表ではない社会の人間が使う言葉だ。おりゅうにすると言う。この話は水に流して無かった事にしようとか、いままでの関係は無かった事にしようとかの場面で使われる。水に流すという意味だ。オリンピックはお流にしよう。国民の70%近くが中止又は延期を望んでいる。17日に来日予定のIOC会長バッハが来日延期となった。米国の有力紙は、バッハ会長をぼったくり男爵と評した。やらずぼったくりの人間だと。IOCなどは今ではスポーツマフィアである。世界中のネットワークや、マスコミはユダヤ資本が殆ど仕切っている。外交力が著しく不足している日本国は、何から何までやらずぼったくられて来た。優秀な外交官を育てて来なかったからだ。国際的歴史観も、語学力も無い。外交術を持っていない。それ故ダフネゴシューターがいない。江戸時代の幕閣の人間の方がはるかに優れている。外国人は相手が弱腰だと見ると、怒鳴り、机の上を拳で叩き、顔面を紅潮させる。タフでないと、ブルッテしまう。相手はそれを見逃さない。で、次々とやらずぼったくりの要件を突きつける。私は外人相手は得意中の得意だった。外人が怒ったら、こっちは日本語でさらり、さらりと話をする。そして腹を切るポーズをしてニタッと笑う。外人はこれで静かになる。長引くコロナ禍の中で運動不足解消にと、毎日シャドーボクシングをやっていたら、足腰がパンパンになり筋肉を痛めてしまった。体は正直でありバカな行為を許さなかった。でもってスパーリングはお流にした。過日(10日位前)新聞に次の総理大臣は、菅総理でいいじゃないのと、安倍晋三前総理が語ったとかの記事があった。総選挙で勝ったらの条件がついていたようだが、コロナ禍という火中の栗を拾う人間は誰か。クリント・イーストウッドの映画「運び屋」では、引退した老人が麻薬の運び屋をやる。河野太郎ワクチン担当大臣は、それを見たのか、下手なジョークで、自らを運び屋と言った。語学が達者な政治家らしいが、人間力が達者ではない。発言が日々コロンコロン変わる。変節漢である。次の総理大臣の人気NO1とか。絶句である。シタタカなワクチンマフィアは、日本の足元を見て値をつり上げる。相手が求めれば、小出しに売るという、商人の定法通りでやりたい放題にされている。国内ワクチンの開発費を大幅にカットしたために、日本でワクチンは開発できなくなっている。(安倍政権下でカット)日本の科学者は優秀なのに才能が発揮できない。ウイルスはこれからも続々と現われる。すぐにでも手を打つべしだ。「学のある馬鹿は、無学の馬鹿よりお馬鹿さんである(モリエール)」。目が死んでいるリーダーの軍には、勝機は来ない。どこで覚えたのか、やたらエビデンス、エビデンスと我が国のリーダーは言うが、目が死んでいる。眼光が無い。ここで一発目を光らせて、オリンピックはお流にします。責任は私が取ると言えば男一代、名は末代となる。ワクチンが入手できても打つ手がいない、なんて話を聞いていたよからぬ人間たちが、打つ手なんて、なんぼでもおるわい、シャブ中はみんな注射を上手に打つけんのオ、なんて言っているやも知れない。夜うめき声がした、何んだこりゃと思ったら、洗濯機が古くなって労働に耐えられなくなっていた。冷蔵庫も一日中むせび泣いている。やはり古くなっているからだ。テレビを見ていると突然画面が無になる。どうやらアンテナが塩害でやられているようだ。友人たちの個展が多く中止になっている。ギャラリーがどうしても開催してくれと言われて開催しても、観に来てくれる人は少ない。人流なんて言葉があったのを知らなかった。人の流れと言ってほしい。小泉信三さんと言う高名な人の言葉を大切にしている。「人生において、万巻の書を読むより、すぐれた人物に一人でも多く会うほうが、どれだけ勉強になるか」。学校や学問、読書が苦手な私にはこのお言葉が支えであった。しかし大切な人とお流にした人生である。今、奇蹟の命を守り、支え、愛し続ける。海よりも深い親子愛の物語を読んでいる。15年余に及ぶ日記のようなものだ。沖縄にいる友人と、ドキュメンタリーの映画にしたいと思っている。いずれ有志をとお願いする。「愛」このフツーの一文字が、実は人間社会において、いちばん形にできないのだ。オリンピックは、人類愛を求めている。ならば今、お流にすべきだろう。開催すればコロナ禍は拡大の一途となるだろう。オリンピックの選手に変な意見を突きつけてはならない。選手も国民の一人に過ぎないのだから。うんざりという言葉を漢字で書くとどうなるのだろうか。運砂利はどうだろう。運は一握の砂の如くであり、利は得られない。小さな努力を積み重ねよう。(文中敬称略)



2021年4月24日土曜日

つれづれ雑草「赤いタオル」

何やってんだ! 立つな! 寝てろ! 倒れてろ! ボクシングの世界では、タフ過ぎるという選手は、セコンド泣かせだ。強烈なパンチを一発浴びて、ズドーンと倒れて、テンカウントをリング上で寝たままで、あるいは両ヒザをついたまま聞いて、(聞こえない場合も多い)ノックアウト負けをレフリーから告げられる。この場合選手のダメージは余程のメガトンパンチでない限り、試合後の選手の回復は早いケースが多い。ボクサーはリング上で闘っている時は孤独だ。頼れるのは自分しかいない。だが信じられるのがセコンドだ。セコンドは回を終えてかえって来る選手を、励まし、1分間(インターバル)の間に、ワセリンでの傷の手当てや、体をもみほぐしたり、水をふくませては出させる。(飲んだらダメ)その間アレやコレや作戦を選手にアドバイスする。タフなボクサーは殴られても、殴られても倒れずに相手に向っていく。ダウンするも立つ。立っては殴られ続ける。そして再びダウン(1R3回ダウンで負けのルールもある)。顔は変形し、両目は殴られてふさがり、鼻血で息もできない。そこに強烈なパンチがアゴに当たりダウン。セコンドはもう駄目だと白いタオルをリングに投入する(これをされると終り)TKO負けとなる。ボクサーは後ろに倒れたり、横向きに倒れている時は、立つ可能性があるが、前へ倒れるとまず立てない。TKOとはテクニカルノックアウト。タオル投入はボクサーにとって屈辱なのだ。超タフなボクサーは差別語的言葉で表現される。殴られ過ぎて引退した後にパンチドランカー、即ち廃人同様になってしまうからだ。セコンドは選手の命を守る役目と言ってもいい。ファンはあの選手は凄いね、いくら殴られても倒れないと賞賛する。リング上で倒れたボクサーは、失神していない限りセコンドの方を見る。それは救けを求める目であり、もっと闘えるという目でもある。さて、コロナ禍で長引く社会をボクシングに例えると、私たちはコロナウイルスという見えない相手と闘うボクサーである。ボクシングの世界タイトルマッチは12回戦だが、私たちは12ヶ月以上リング上で闘っている。セコンド役は、政府であり、県知事や市町村の首長であり、傷の手当をしてくれるのは、お医者さんや看護師さん、医療従事者のみなさんだ。現在セコンド役の総理大臣、西村新型コロナ対策担当大臣、河野ワクチン担当大臣、田村厚生労働大臣、加藤官房レフリーらの指示は、バラ、バラ、テキトー、ソノバシノギ、ウソ、ホラ、シカト続きである。各首長たちも私たち選手同様、セコンドの指示のバラバラに、ソノバシノギをする。私たち選手はもうダウン寸前、(ダウンしたのも多いが、ウソの統計で誤魔化す)試合を中継するNHKなどは、前田某という元バンカー(ゴルフの砂ではなく銀行家)が、中継アナウンサーに脅しをかけて、政府ベッタリの中継をする。心あるアナウンサーは前田某に飛ばされてしまう。私たちボクサーは殴られ放しで、一人10万円位の涙金で試合を続行となる。バカヤロー税金をがっぽり取られているのにと歯ぎしりをする。中・小・私たち零細企業や、フリーランスはもうタオルをいつ投入されてもOK状態なのだ。(KOではない、TKOだ)。これ以上立ち続けていると、みんなパンチドランカーのように、廃人同様となってしまう。バカヤローな親がいるという新聞記事を読んだ。このコロナ禍の中で、金持ちたちは株投資や持ち株上昇で、使い切れないほどの金を持っていて、都心の億ションを子どもたちに一つ二つと買っているという。又、家の近所にあるフェラーリの店には、バカ親とバカ息子たちが来て、飴玉を買うみたいに、フェラーリを一台二台と買うというではないか。バカバカに殴ってやりたい(リング上で)と思う。コロナ収束まで数年はかかるといわれている中で、ツケヤキバ的対応策しか出せないセコンド陣を退陣させて、キャリア豊富な人材を集めなければならない。あらゆる分野の人材を必要とする。国家百年の計を建てねばならない。私たち市井の民は廃人同様にされてはならない。「アリス」の名曲「チャンピオン」では、 立たないで もうそれで充分だ おお神よ……。と歌う。が、私たちは十分ではない。アリスには悪いが、私たちは不十分なのだ。神も仏もいないのだ。アメリカまで行って、国際電話(?)をしてワクチンを頼んだなどという、セコンドのリーダーに呆然とする。小泉進次郎という環境問題のリーダーが、昨夜あるインタビュアーに、なんで2030年の温室効果ガスの削減目標が46%という数字なんですか(?)と聞かれると、パッとひらめいたんですと応えた。大丈夫かいこのアンチャンはと思った。否、大丈夫じゃない、国家全体がグロッキーになっているのに(最大の借金国家)スットコドッコイのセコンドばかりだ。ボクシングの聖地後楽園ホールへ行ってセコンドとは何かを学んで来いと言いたい。私のチンに、ジョーに、テンプルに、ボディに、キドニー(ボクサーが攻める急所)にパンチが当って来る。チクショー、チクショーと立っているのだ。私はあしたのジョーではなく、今日のジョーなのだ。リングに立ち続けるのは、男の意地なのだ。負けてたまるかだ。皆コロナ禍の中でもがんばろう。白いタオルを殴られた血で赤いタオルにしてもだ。(文中敬称略)

「チン」はアゴの先、「ジョー」は、アゴ、ボディは腹(水月➡︎みぞうち周辺)、キドニーは、両方の横腹周辺。





2021年4月18日日曜日

つれづれ雑草「ノマド」

 「無能無芸の私にできる事は二つ、二つしかない。」自分の足で歩くこと、自分の句を作ること。私は流浪する外ない。私は今、過去のすべてを清算しなければならないのである。昭和5年頃一人の男が、行乞(おもらい)の旅に出た。「分け入っても分け入っても青い山」など1200余りの句を作り、昭和151011日酒に酔ったまま愛媛県松山の小さな草庵でぽっくり往生した。(享年43歳)男の名は「種田山頭火」山口県西佐波令村(現在の防府市)に生まれる。生家は大地主であった。しかし父親があちこちに女性を囲っていた。本名は種田正一、9歳の時に母親が井戸に身投げする。正一はその姿を見る。やがて上京して東京専門学校高等予科(現在の早稲田大学の文学部)に入学するも、退学して帰京する。生家は酒造会社を経営するが、正一33歳の時に破産する。大学を退学した原因は、うつ病であった。母の死を目の前にしたのが大きなトラウマとなっていたのだろう。又、弟も自死した。再び上京して図書館などに勤務するも、うつ病で退職する。ある年泥酔して路面電車の前に立ち、急停車させる事件を起こす。その電車の乗客の中に一人の人物がいて、正一をある寺に預ける。出家得度し座禅修行をする。「燃えあがる火山」という意味の俳号「山頭火」は、関東大震災にも遭遇し命の無常さを知る。種田山頭火の句は、五・七・五の決まりのない、自由な句であった。行乞の旅の目的は松尾芭蕉のように日本中を歩くことであり、理想的終りは旅先でぽっくり死ぬことであった、と思われる。それは清算したくて出来ない過去を、背負ってのものだったのだろう。「行乞の旅」とは働かずに人から食べ物や、いくばくかの金銭を恵んでもらいながら放浪する旅である。時代が行き詰まり、人間の心が行き場を失った時、山頭火が静かなブームとなり、書店でその句集が売れ始めると言う。今、私たち人類は長引くコロナ禍、終りの見えないコロナ禍の中で、人類とは何か、人間とは何か、会社とは、街とは、市とは、村とは、家族とは、親子とは、夫婦とは……。など答えのない方程式の中にいる。あるノーベル賞受賞者は、人類の究極の敵は、ウイルスであると言う。コロナウイルスがインフルエンザ化しない限り、コロナ戦争に終りはないのだろう。故小松左京さんが書いた「日本沈没」を基にした映画のラストシーンは、日本列島を失い生き残った日本国民が、ある国の大地の中を走る貨物列車の中にいた。それはかつて戦争で敗れた故国日本に、引き揚げて帰って来て、故郷に帰る日本兵を乗せた、ギューギューの列車に似ていた。私たちの国、日本は過去からの清算が出来ない国なのだ。過日、本年度アカデミー賞の有力候補作「ノマドランド」を観た。コロナ禍の中でも、日比谷シャンテの大きな映画館に8割位の観客がいた。ノマドとは、放浪の民という意味だ。喫茶店や公園や、どこかの空き場所などで、パソコンを使いながら仕事をしている人々をノマドと言う。アメリカ映画のノマドの主人公は、会社をリストラされても呈しく生きて行く中年女性だ。監督は中国出身の女性、クロエ・ジャオ。古ぼけたキャンピングカーに暮らしながら放浪する人々には皆、清算できない過去があり、過酷な現実がある。(中にはあえてノマドを選ぶ人々もいる。)深い悲しみや喪失感、孤独との戦い、世の不条理や理不尽が、広大な荒野の中にある。本来は青い空、白い雲、爽やかな空気が流れているはずの、アメリカ西部にそれらは全くない。灰色の空、重そうな雲、どんよりした空気。徹底的に青色と緑色を表現しない映画は、世界中の現代人(金持ち以外)の心の風景だ。バケツで用を足す女性は、そんなものには決して負けないぞと、日銭を稼ぐための仕事を探して旅をする。時々ありついたインターネットのamazonの倉庫の中で黙々と荷物を処理する女性の姿に、資本主義社会のその先を見る。そこには、青い空はなく、緑の樹木はなく、美しい花々もない。石川啄木が「雲は天才だ」と言った。白い雲もない。あるのは、ただ荒廃だ。日本の総理大臣が、アメリカのバイデン大統領に、初めて会ってもらった、国のリーダーだとして、大喜びだったが、ランチミーティングに出ていた食事メニューは、好物のパンケーキではなく、ハンバーガーのみだった。これはアメリカにとって、君は好きな人物ではないよの意思表示だった。アメリカ人は食事と使う食器で、メッセージをする。ハンバーガーのお返しは、きっと高額なメニューだ。私は、仕事という生きる糧を求めてノマドを続けるのだ。但し山頭火のような句才はない。             (文中敬称略)3/28 日経新聞別刷りより一部引用有り





2021年4月11日日曜日

つれづれ雑草「ヨイショな報道」

その奇異なシーンを朝見ると、嫌な気分になる。羽鳥慎一モーニングショーのラストに、MCの羽鳥慎一以下コメンテーターたちが、今日も見てくれてありがとうございましたと、深々と頭を下げる。こんなシーンは他のニュース・バラエティ番組でも見られるが、深々さの姿は羽鳥慎一がいちばんだ。最も腹の中で舌を出しているやも知れない。奇異なのは本来時の政権の批判勢力であるはずの、朝日や毎日がトゲ抜き地蔵さんに、全てのトゲを抜かれてしまったのかのように、腰の抜けた記事ばかりなのである。両紙共に部数が激減し経営状態も赤字だ。そのためリストラを加速している。しかし経営状態と批判精神は同列にはできない。貧すれば鈍するでは、せっかくの有能な記者(?)たちのペンも、宝の持ち腐れとなってしまう。朝日、毎日が大スクープなどという話は、とんと聞かない。安倍政権以来新聞、テレビ等マスコミの言論のチェックを厳しくして、気に入らないMCやコメンテーター、学者の首を取って来た。久米宏(朝日系)故岸井成格(毎日系)田勢康弘(日経系)後藤謙次(共同通信系)星浩(朝日系)国谷裕子(フリー)古舘伊知郎(朝日系)御厨貴(学者)大越健介(NHK)などたくさんいる。最近では有馬嘉男(NHK)が「ニュースウオッチ9」のMCから外された。この国の報道の自由度は、北朝鮮に接近している。講談社系の夕刊紙「日刊ゲンダイ」が徹底的に反政権の姿を貫いている。週刊文春と赤旗がスクープをとばす。“夜討ち朝がけ”の新聞記者なんざぁ、最近いねえじゃねえかと麻生太郎に言われる始末だ。オリンピックをやらねばならない政権を援護するように、福島原発の“汚染水”を“処理水”と言い換えて海に流し出す。その決定を後押しするかのように、安全です、安全ですと記事は書く。漁師たちは、風評被害で食べて行けなくなると大反対する。いつの間にか総務省の接客問題はウヤムヤになった。私たちの業界を代表するトップクリエーターの新社長(東北新社)は、さらし者の役だけをやらされた。私たちの業界はナメられているのだ。たかだか映像業界じゃないかと。国会で深々と頭を下げる姿と、羽鳥慎一がダブって見えた。銀座四丁目の和光の隣りにある“キムラヤのパン”の三階に、古くからのレストランがある。人を待ち合わせするのには、丁度いいのでよく行く。午後二時四十五分に着席、窓側の二人席。ジンジャエールを頼んで人を待つ。窓からは銀座の人の流れが見える。ここで何かを食すと、いろんな種類のパンが食べ放題だ(無料)。大きなバスケットにパンを入れたのをウェイトレスが、パンはいかがですかと何度も席に来る。ある強者は、シーザーサラダのみオーダーして、パンを20個近く食べたとか。人はパンのみにて生きるを実践したのだろう。MOTOKIと「田屋という銀座の顔のような洋品店が、コロナに負けず並んでがんばっている。かつて銀座のMOTOKIや「田屋」で買うのが夢だった時代があった。五十年以上銀座を庭にして来たので、マスク、マスク姿のファッションのない銀座は、つまんない街となっている。午後三時半頃、待ち人来たる。18歳の若者である。映画の道に進むので、その専門校に3年通う。映画・制作科。スーツを一着持っていたほうがいいとプレゼンする。かつて社歌をプロデュース(作詞阿久悠さん作曲小林亜星さん)したり、社長とイタリアにロケに一緒に行ったりして、お世話になったAOKIさんに行った。京橋店の店長さんがとても親切に対応してくれて、二着で半額セールをすすめてくれた。映画界は最も食べていけない世界だが、ガンバレよと応援する。東京駅でそれじゃと別れてホームに行くと、やけに人で混んでいる。丁度会社帰りの時間だから20分以上列車が遅れると。ホームの上はマスクをつけた人で密集する。こりゃヤバイ、座れないと思いグリーン券を買いに戻る。スイカというのを持っていないと、ホームの上では買えない。で、戻ると未だ列車は来ていなかった。やっと来た小田原行きに乗るとグリーン車も座れない。仕方ないと座っている人の横に立つ。腰はパンパン、両足はジンジンしびれていた。臭いな、なんだこの嫌な匂いは。ウルセイ、な、なんだこの音はと、座っている男を見ると、年の頃は36、7歳、チャコールグレーのスーツに、茶色の革靴、足もとに黒い鞄、メガネをかけていて、ヒゲが濃いような顔。臭いとウルサイ原因は、“じゃがりこ”のLサイズだ。これをポリポリ、カリカリと、いつ終わるともなく音高く食べる。ウイスキーのハイボール缶を左手に持ちながら。それにしても何本入っているのだろうか。ポリカリ、ポリカリと横浜に着いた。どどっと人が出て行った。男の横、窓側に座っていた人が降りた。つまり空席ができた。よかった座れると思うと、男が足もとの鞄を取って両手で抱きかかえ、(じゃがりことハイボールを窓のところに置き)私にどうぞ空きましたよと言い、男はズルズルと窓側に移動した。なんだ臭くてウルセイけど、いい奴じゃないのと思い私は座った。余程声をかけて、君じゃがりこ何本食べたのとか、何本入ってんのとか聞きたかった。男の顔をよく見ると、いわゆるおちょぼ口であって、一本一本食べる時に、バリバリ食べれずカリカリ、ポリポリと口の動きが多いのだろう。男は戸塚でスミマセン降りますので、と言って降りた。私は降りやすいようにと立ってやった。ビニール袋の中にキチンと飲み干したハイボールのロング缶と、食べ尽くしたじゃがりこが入っていた。男はそれを持って降りて行った。スミマセン、アリガトウゴザイマスと言って。さて、日刊ゲンダイを読むかと夕刊紙を出した。“五輪強行、人殺し”みたいなでっかい見出しが踊っていた。(文中敬称略)